月明かりのかげろう
皆が寝静まった頃――。
青年は友人のいびきを聞きながら、着替えをしていました。コートを着、防寒に適した帽子をかぶり、果てには首に薄いマフラーを巻きました。
そうした準備を終えてから、青年は静かにテントを出ました。その手には煌々と光をこぼすカンテラが握られています。
立ち並ぶ隊長や隊員のテントの間を縫うように進み、青年は広場を目指します。
白い息が口から吐き出されます。昼は遮られることなく陽に焼かれるため相当暑いですが、夜は遮られることなく熱が逃げていくので、砂漠にあるこの廃墟の夜はとても寒いのです。
ふと空を見上げると、手が届きそうなほど近くに、満天の星が広がっていました。大きさも明かりの強さもそれぞれでしたが、感動を覚える程綺麗な空でした。雲がないのでしばらく見ていたら流れ星も発見できそうです。
そんな星たちに囲まれて青白く光っているのは満月でした。とてもとても綺麗な形をしていて、それは静かに輝き、青年の足元に影を作ります。
彼が何故、こんな真夜中に外に出ているのかというと、それは青年がとある噂を知っていたからです。
どこかの国の誰かが流した噂です。
「あの遺跡にはね、亡霊がいるんだよ」
国民が国を捨てたときにね、一人だけ、一人だけ置いて行かれた女の子がいるんだって。
一人ぼっちになった彼女は毎日毎日、仲間が返ってくるのを待ち続けたんだって。
雨の日も風の日も、酷い砂嵐が吹き荒れる日も、たった一人で。ずっと。ずっと。
あんな環境だから、食べるものも飲むものもなくてすぐに衰弱してしまったけれど、それでも辛抱強く、帰ってくると信じて。
でも結局仲間たちは帰ってこなかったの。
その女の子はね、最期のときまでずっと寂しがっていたんだって。誰も傍にいてくれないから。
だから今も、誰かが帰ってくるまで、その寂しさが癒えるまで、女の子は遺跡の中をうろついているんだって。
という、そんな噂です。
この調査隊の中で、その噂を知っているのは青年だけでしょう。他に知ってる人がいたのなら、その誰かはきっとあちらこちらを探したはずでしょうから。
彼は幽霊の類は信じていませんが、夕方に見た少女が隊員ではないのなら、その亡霊かあるいは迷子でしょう。亡霊なら興味本位で観察するし、迷子なら連れ出さなければなりません。
広場を抜けて、青年は一人でパンを食べたところへ足を向けます。目指しているのは夕方見かけた少女が向かった先です。
カンテラのオレンジの光と月明かりだけを頼りに、青年は崩れかけた建物の間を歩きます。小さな砂粒が軋んで音をたてました。
しばらく道に沿って進むと、行き止まりが見えました。道は一軒の普通の家の前で途切れています。
他にも家はたくさん並んでいましたが、青年は迷うことなくその建物の扉に手をかけました。周りにあるのはどれもこれも似たり寄ったりの建物ですが、何故かこれだと確信していました。中から呼ばれている気がするのです。
乾いた木製の扉は、キィと音を上げて開きました。長らく動かされていなかったらしく、枠からはパラパラと砂が降ってきました。
真っ暗な室内の様子を見ようと、青年はカンテラを掲げて一歩踏み出しました。
どうやらその部屋はリビングだったらしく、大破した椅子らしきものと棚が転がっていました。舞い散る砂と埃が明かりに照らされて光ります。
その部屋には何もおかしなところはなく、青年はさらに歩を進めます。そして、その部屋につながっている扉が二つあることが分かりました。
その内の一つが僅かに開いており、中から淡い蝋燭の光をこぼしているのを見て、青年はそちらの扉に近づきました。
灯りを使っているのなら、迷子かな……。
少しがっかりしながらも、青年は扉を押し開きました。
それもやはり軋んで、ゆっくりと開きます。
そして青年は愕然としました。
青年より少し年上に見える成人男性がいました。机に向かって、せっせと手を動かしています。数本の蝋燭に照らされながら、忙しなく。
「……ちょっと、おいアンタ……誰だ。なんで……ここにいる……」
青年が声を振り絞りますが、その男性は全く反応しません。さらに数回話しかけてみますが、どれも結果は同じでした。
痺れを切らした青年が男性の肩を掴もうとしましたが、――すり抜けました。
青年の腕が、手が、指が、男性の肩をすり抜けたのです。本来そこにあるはずの皮膚を掴むことができず、男性の向こうで虚しく空を掻きました。
「うわあっ!?」
ぎょっとして数歩飛びのきます。その際にカンテラを落として盛大な音を上げましたが、今はそれどころではありません。
その時、男性が横に移動しました。何事もなかったかのように。そもそも青年の存在に気づいていないように。
男性が動いたおかげて、青年の目に机の上のモノが映りました。
そこにあったのは、人形でした。
滑らかな陶器の肌。むき出しの球体関節。精緻に作られた身体。夕暮れ時に見かけた少女と全く同じ、長い黒髪をして、大きな青い瞳をしていました。それはまるで澄んだガラス玉の様。
訳が分からずに青年は身を引きます。
何故ここに、男性がいて、何故そこに少女の人形があるのか。彼はここで何をしているのか。ここには誰もいないはずじゃなかったのか。どうして彼に触ることができないのか。
青年には何一つ分かりません。頭の中にさまざまな疑問が渦巻きますが、答えなんて見つからないのです。
と、卓上の人形と青年の目が合いました。
その瞬間、ガクン、と、青年は得体の知れない衝撃を受け、そして――そして――……。
助けて………。