水平線上の黒猫
水平線上の黒猫
水平線の上を、黒猫が走っていた。
最初にそれを見つけたのは、午後五時三十七分。海沿いの防波堤に座って、炭酸の抜けたサイダーを飲んで日が沈んでいく様子を眺めていた時だった。その液体はもう甘いだけで、泡の記憶すら残っていなかった。
夕焼けは一部曇っていた。薄灰色の雲が空に伏臥して、その褶曲した隙間から漏れる橙色の光だけが、海面を神々しく照らしていた。
その壇上を、黒猫が走っていた。
沈まない。溺れない。尾だけが潮の揺れに合わせて緩く弧を描きながら、まるでそこに誰かが敷いた透明な回廊があるみたいに、静かに、軽やかに踊り子のように走っていく。
「……は?」
思わず声が出た。
けれど周囲の人間は誰も騒がない。網の修理をしている漁師も、犬を引きずって散歩している老人も、イヤホンをつけた自転車の高校生も、防波堤の上を手を広げて歩いている少女も、誰一人として水平線の黒猫を見ていない。見えていないのだ。その確信だけが妙にあった。自分だけに見せられている、というよりも、自分にだけ見える何かが世界にはある、という厨二心。ずっと昔から薄々知っていたことを、今日初めて証明されたような気がした。
黒猫は途中で立ち止まった。
こちらを振り返る。
金色の目だった。虹彩の奥に細長い黒が沈んで、夕暮れの光を溜めこんでいた。夜より深く、けれど夜より澄んでいた。
胸の奥が軋んだ。呼吸がままならないほど軋んで、それから奇妙なほど楽になった。一息吸えば身体中に酸素が生き渡る、まるで新緑の中で深呼吸をしているみたいに、ずっと封印されていたものが開封されたみたいな、そういう静かさだった。
――お前は、まだそこにいるのか。
声ではなかった。音でもなかった。ただ言葉だけが、直接、頭に響いた。
◇
僕は昔、小説を書いていた。
高校2年の頃までは、本気で作家になりたいと思っていた。数万もする万年筆を自費で買ったくらいだった。友達と話しているとき、放課後の帰り道、深夜二時の自室、夢から着想を得たこともあった。言葉は无尽蔵に湧いて、世界の全部を写し取るつもりでいた。書くことは日課になっていた。やめようと思ってそう簡単にやめることはできなかった。
でも現実は、驚くほど冷たかった。
投稿サイトの閲覧数は増えない。感想も来ない。そこまではまだ良かった。自信作だと思った作品に「情景描写だけ」と書かれた時は、笑ってしまった。笑うしかなかった、というほうが正確かもしれない。
それでも書いていた。書かなければ、自分には何もないと思っていたからだ。
けれど高校3年になって、気づけば書かなくなっていた。
ある夜、投稿サイトの賞を獲った十九歳の受賞作品を読んだ。量産的なタイトルで、展開だけの軽薄な文章だった。正直どこが良いのか全く分からなかった。才能というのはアルゴリズムへの最適化なのだと理解した。僕はしばらくそれを眺めて、それからそっとブラウザを閉じた。
閉じた後、部屋はひどく静かだった。
電球がチカチカ鳴る音だけが続いていた。
◇
黒猫は再び走り出した。水平線の上を、西へ向かって。
気づけば、僕は立ち上がっていた。追いかけなければならないと思った。理由なんてない。けれど人生には、思考が追いつく前に身体が動いている瞬間がある。
防波堤を走る。息が乱れる。潮の匂いが喉の奥に貼りつく。その間ずっと胸は高揚していた。
黒猫は一定の速度で走り続ける。引き離しもせず、捕まえさせもしない。その距離感が、なぜか懐かしかった。
やがて街の灯りが減り、人の気配が消え、古びた海浜公園へ辿り着く。誰もいない。錆びた観覧車だけが、時間を巻き戻すみたいに夜の縁に引っかかっていた。
黒猫はそこで止まった。水平線の真上で、こちらを見た。
「……何なんだよ、お前」
猫は答えない。当然だ。
だが次の瞬間、不意に世界から音が退いた。波の音。風の音。遠くの車のエンジン音。まるで無響室に入ったように音がなくなって最後に残ったのは自分の血流の音だけだった。こんなに騒がしかったのか、と思った。ずっと聞こえていたはずなのに、今日まで一度も気がつかなかった。
黒猫が海から降りてくる。普通の猫のように地面を歩いて。そして僕の目の前まで来ると、猫は小さく鳴いた。
「にゃあ」
拍子抜けするくらい普通の声だった。
その余韻の中で、僕はしばらく動けなかった。
それからゆっくり、胸の奥で禁書の鎖が緩んだ。きつく縛られていたものが緩んで、ほどけて、長い時間をかけてほこりをかぶっていたものが、一斉に音を立てて開く。
奴隷堕ちした少年。神を殺す少年。地球に転移してきた異世界人。人類滅亡後の地球。
かつて書こうとして、途中で封印した物語たち。
死んでいなかった。ずっと暗い海の底で、砂に隠れたヒラメのように、待っていただけだった。
涙が出た。意味は分からない。ただ、忘れていただけなのだと俺は思った。
人間はきっと、一度本当に好きになったものからは逃げ切れない。呪いみたいに。あるいは呪いとまったく区別のつかない形の、祝福みたいに。
黒猫は満足そうに目を細めると、再び水平線へ向かった。
夕焼けは終わりかけていた。夜が来る。世界から彩度が落ちていく時間だ。なのに黒猫だけは、暗くなるほどはっきりと見えた。夜の濃度が増すたびに輪郭が際立って、まるで夜そのものに意志が宿って走っているみたいだった。
「……なあ」
僕は呼び止める。
「また会えるかな」
黒猫は振り返らなかった。ただ尾を一度だけ、ゆっくりと揺らして、そのまま水平線の向こうへ消えていった。
あとには波の音だけが戻ってくる。世界が再び動き出す。遠くで車が走り、風が木々を揺らし、誰かの話し声が聞こえる。いつも通りの世界だった。
でもポケットの中には、いつの間にか一本の万年筆が入っていた。
古いコバルトブルーの万年筆。色のせいか普通のものよりひんやり冷たく感じる。
僕はそれを握りしめる。
水平線の向こうには、もう何も見えない。ただ夜だけが広がっていた。
それでも確かに思った。
あの黒猫は今もどこかで走っている。誰かが諦めた夢の上を、誰かが閉じた物語の続きを、静かに、しなやかに。世界の終わりみたいな色をした空の下で。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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