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< 七 > 妖世のお尋ね者

狂気は霧散し、再び村正の無言の冷静さが戻ってきた。


風切は震えを抑えながら、そっと村正へ駆け寄った。


「村正........大丈夫か?」


村正はただ黙って血の匂いを払うように手のひらで払った。


風切はその動作に一抹の安堵を覚えつつも、心臓の鼓動が収まらない。


(......また、か。何も覚えていない.....刀を抜刀してからの記憶が......ない......)


夜気に混じった血の匂いは、刃が刃を交えた瞬間の残滓だ。


腹の底に冷たいものが落ちるような重みを感じながら、風切は続けた。


「........傷はないか? 痛むところは?」


その言葉は静かだが、風切自身もどこか震えていた。


手のひらがほんの少しだけ汗ばみ、影が揺れる。


血の匂いだけを払おうとしたはずのその手が、不意に胸に当てられた。


衣服の隙間から感じる鼓動は、先ほどまでの凶刃を振るった者のものとは思えぬほど、静かで脆い。


『........すまない。余計な騒ぎを起こして。......村正を抜刀したから......』


そして申し訳なさそうに村丸は文字を短冊に書いた。


いつもよりも文字の大きさが小さく感じる。


「強すぎるよ。あの刀。たとえ封じられたとしても、俺はお前が本当に大丈夫なのか、不安だった。」


言葉のひとつひとつが、深い心配を滲ませる。


村正の瞳が揺れ、まるで何かを探るように風切を見る。


やがて、村正はその瞳を細め、息を漏らした。


『........ありがとう、風切』


村正の筆跡には、わずかな感謝が混じっているように見えた。


村正ようやく目を閉じ、深く息を吐く。


すると風切は肩を震わせながら、頭を抱えた。


周囲に倒れる数を数えるほどに、深い絶望が胸を締めつける。


「........やっちまった........!」


月明かりに照らされる斬られた影の群れ。


たった一人によって、彼らを一網打尽にしたのだ。


更に、風切は天狗の勘で戦いの最中に先程一人逃げる妖怪の影を見つけ、更には近くの大木の上から一人の妖怪の気配を感じ取った。


大木から高みの見物をしていた妖怪が動かない可能性は高そうであったが、奉行所の妖怪を逃がしたことにより、村正と村丸の悪名は更に轟くことになるだろう。


もはや奉行所にとっては、村丸こそ「凶刃の化身」。


どれだけ説明しても、「憑依のせい」など絶対に通用しない。


風切は息を荒げ、刃を逆手に握りしめたまま、呻くように呟く。


「村丸がやってないって?誰が信じるっていうんだ........奉行の手配書に村丸の事が書かれちまう......!!」


冷たい夜風が頬を掠め、風切の黒髪を揺らす。


(........あの時と全く同じだ。江戸で......何もしていないのに追われることになって.......)


風切の逃げ場のない恐怖と、守りたい者への焦燥に、頭を抱える手はますます強くこわばった。


「どうすりゃいいんだよ........このままじゃ、お前も俺も捕縛される........!........くそ、策を練るしかない。だが、まずはお前を........お前を守らな........あ、そうだ!これ使えばいいんだ!」


風切は片手を腰に当て、いつもの調子に戻るとたっぷりに衣嚢をまさぐる。


やがて小さな赤紐の束を取り出し、くるくると指先で振り回してみせた。


「これ?コレな、認識阻害紐ってやつよ。こいつを腕か首に結ぶと、お尋ね者ってバレなくなるんだ!俺の仲間から譲ってもらったやつなんだぜー!」


村丸は、その赤紐をまじまじと見つめ、またひと筆走らせようとしたが、風切がそれを止めた。


「細かいことはいいんだよ!」


村丸は呼吸を整えつつ、自分の長い三つ編みに視線を落とす。


そして髪をひとすくいし、三つ編みの端をそっと解いた。


(この紐は.....とっておこう。にしても髪を結ぶだけなのにこの紐の長さは少し長すぎたか.....?まあいいか。)


小さな房が生まれ、風になびいて揺れる。


(三つ編みもやめようかな.....編み込むのに時間がかかるし......)


村丸は少し照れくさそうに唇を引き結び、解いた髪を一握りしたまま、丁寧に赤紐を髪の左側を一房髪留めでまとめ、前に垂らした。


編み終わった瞬間、村丸はふっと視線を上げた。


「おお、天才かお前!松明も持ったし、あとは妖街へ一直線だな!」


『油断は禁物だ。』


村丸は筆談で返しながら、背負ってきた小脇の鞘に手をかける。


その横顔は、先ほどまでは見せなかったわずかな覚悟を帯びていた。


「おうとも!俺たちは奉行所になんか負けねぇよ!!」


(話聞いてるのかな.......)


二人は石段を下り、畦道を歩いた。


畦道はどこまでも細く伸び、両脇に広がる田畑は一面の緑と土の匂いをたたえている。


村丸はゆっくりと足を運びながら、手のひらで風切の肩に軽く触れた。


風切は声高らかに笑い、頭上の空を指さす。


「村丸!!あの雲、まるで龍が空を泳いでるみたいだろ?」


(まるで龍が、か。)


村丸はふと周囲を見渡した。


水田の縁には湿った土が積み上げられ、稲の根がしっかりと張っている。


江戸の周辺で見慣れたあの畑と大差ない景色だ。


彼が幼い頃に駆け回った、あの懐かしい風景と重なる。


しかし。


(ここは、江戸ではない。空気は似ているが、どこか狂おしいまでに澄んでいる。色彩が、土の匂いが、まるで微かなざわめきを宿しているようだ)


村丸は心の中でそう思った。


けれど、その思いは声に出さない。


(にしても風切は天真爛漫、だな。まるで生まれたての子供のようだ。この世の束縛を知らなさそうで......。)


風切は足元の小石を蹴り上げ、にこりと笑った。


「見ろよ!!この道、ずっと先は妖街に続いてるんだ!どんな看板が出てるのか、何が売られてるのか、ワクワクしない?」


村丸は唇を引き結び、静かに頷いた。


確かに、どんな景色が待っているのか想像もつかない。


江戸の市街地とはまったく異なる......いや、似て非なる骨格を持つ場所。


彼はその違和感を胸の奥で慈しむように抱えた。


風切はさらに饒舌になった。


「あの畑、見てみろよ!稲じゃないか?でもその隣は瓜っぽい。一面に広がる瓜畑って、珍しくね? ランダムに混ざった作物が、生き物みたいにうねってるよ!」


彼女は畑と畑の境を指さし、目を輝かせた。村丸はその言葉に微かに笑みを漏らす。


(江戸の畑なら、区画ごとに作物を分けている。だがここでは、品種が入り乱れている)


「村丸、あの角を曲がったら妖街だが......どんな灯りが見えると思う?提灯?鬼火の灯り?それとも........骨の飾り?」


(最後のはもはや灯りじゃないような......)


風切は想像の世界に飛び込み、次々に声を紡いでいく。


村丸はそんな風切の隣で静かに世界を受け止める。


村丸が畦道をゆっくりと進んでいると、右手の田んぼの畦に、鮮やかな色の鞠がひょいと転がっているのを見つけた。


水を張った田んぼの縁にぽつんと浮かぶその小さな鞠は、藁縄の縁取りに彩色された絹糸が織りなす、まるで古風な遊び道具のようだった。


(なんでこんなところに........?)


村丸は立ち止まり、ゆるやかな足取りでその鞠まで近づいた。


やがて手が鞠に届くと、掌にそっと乗せて泥を払った。


指先に伝わるひんやりとした感触と、絹糸の柔らかな弾力に、彼の顔にかすかな笑みが浮かぶ。


(........拾った)


心の中で静かに呟き、村丸は鞠を抱えるようにして身体に寄せた。


まるで忘れられていた思い出の欠片を手に入れたかのような、そんな気持ちだった。


その様子を見ていた風切は、眉をひそめつつゆっくりと近づいてくる。


「おいおい、村丸.......そんなもん気にしなくても......」


風切は両手を腰に当て、大きく息を吐きながら続けた。


村丸は無言で頷き、鞠をぎゅっと抱きしめた。


誰かが大事にしていたものだろう。


だからこそ放っておけなかった。


それだけの理由で。


風切はその言葉を口にはしなかったが、心の中では微笑んでいる。


「まあいいよいいよ。そのまま持っていこうぜ。妖街に行けば返してやれるチャンスがあるかもしれねぇしな」


そう言うと、風切は大きく手を振り、再び前を指差した。


「さあ、行くぞ、村丸。」


村丸は静かに笑みを返し、小さく頷いた。


 ◇ ◇ ◇ 


「ひ、人じゃねぇ........あれは、あれは........妖怪だ........!」


奉行所の門が荒々しく開かれた。


血まみれの姿で駆け込んできたのは、下忍の如き身の軽さを誇っていた鎌鼬の若衆であった。


片翼がずたずたに裂け、足元からは血が滴っている。


目は見開かれ、理性という名の仮面はとうに外れていた。


「どうした!あの風切の追跡任務じゃなかったのか!? 他の者たちは......!」


詰所の奥から慌てて現れたのは、副奉行の役目を担う獏の妖怪だった。


白毛に墨を流したような模様を持つ老妖で、めったに感情を表に出さぬことで知られているが、この時ばかりはその顔に不安の色が浮かんでいた。


「全滅........っ、です........!」


喉から絞り出すように漏らされたその一言に、詰所の空気が凍りついた。


ざわめきも、息を呑む音も、誰のものか判らない声が宙に消える。


「相手は風切だけでは........なかった........あの、あの少年........いや、"刀"を持ったあの男が........!」


鎌鼬はぶるぶると震えながら、畳に膝をつき、喉を掻きむしるようにして続けた。


「風切が陰陽師によって風雷神社の御神木に封印されたという情報が入って、三十名で包囲したんだ。........けど、そこに現れたんだよ........人間の剣士が........!」


「........剣士........?」


「目の奥が........光ってやがった。そいつが一太刀振るうたびに........仲間が、仲間が........!」


鎌鼬の語る剣士......それが村丸(村正)であることは、聞いていた者たちにもすぐに伝わった。


妖刀・村正は、噂では聞いていたが、まさかこれほどとは。


詰所の中、誰もが言葉を失っていた。


「結果.......三十名中、生きて戻ったのは俺だけ........っ。いや........生きてるって言えるのか、こんなの........!」


鎌鼬は頭を抱えて震え出す。


その背を見て、与力の中でも最強の力を誇る、鬼の外道丸は深く目を伏せ、静かに言葉を落とした。


「........村正か。」


「えっ........?」


「その剣士は、確実に妖刀・村正の継承者だ。刀が人を選ぶという言い伝えが本当ならば........妖世の治安は確実に乱れるな。」


外道丸の言葉に、場の者たち全てが息を詰めた。


最初はただの風切の討伐だった。

風切を完全に捕らえるだけの任務だったはずだったのに。


「この件、上に報告せねばなるまいな。見つけ次第、証拠を集めて討伐、または処刑だ。」


「でも........討伐など、可能なのでしょうか?」


その問いに、老妖は答えなかった。


ただ、静かに口元を結び、風切の傷に目を落としたまま、深く、長く、黙していた。


奉行所に、新たなる異常事態の風が吹き込み始めていた。

<村正逸話#8>


村丸の前までの悩み(※筆談)

↪『特になし。』


村丸の今までの悩み(※筆談)

↪『妖世でも追われる事になるとは.....』


風切の昔の悩み

↪「天狗の道を破門された。まあ当たり前だけど。」


風切の今の悩み

↪「特にねぇな!!」

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