< 五十一 > 倒すべき者
着々と私の作品に評価がついてて嬉しい......感無量です......!!
やがて、閻魔は口を開く。
「良いだろう。条件を与える。だがそれは容易ならざる条件だ。"お主自身が倒すべき者"を倒すことができれば一度、再び生を与えよう。更にはお主を江戸に帰し、妖刀・村正の事件によって引き起こされた事件の記憶も消す。私の部下の中に記憶を操り、消す事が出来る者がいるからな。」
その宣告は、途端に部屋の温度を変えた。
蓬は目を見開く。
小野は前髪の影から瞳を大きく開き、書類を落としそうになる。
村丸はその言葉の意味を考えるように目を細める。
『"自身が倒すべき者"を........?』
閻魔は微笑して見せた。
それは慈悲にも見えるが、どこか遠い島の規則めいた冷たさを帯びている。
「そうだ。それを探す所から始まる。剣で、意志で、運で、如何なる手段でも良い。」
この言葉に、村丸の胸に小さな穴が開いた。
出来得ぬということを、言葉の奥に感じ取る。
何処かで"村丸自身が倒すべき相手"を倒す事は「夢のまた夢」という諦めの影が何故か顔を出した。本能的に感じ取ったのだ。
そう、今の所では。
決して"自身が倒すべき相手"を倒すのは至難の業と。その相手が誰とはまだ知らず。
『それは........無理に近い。だが、もし可能性があるならば、挑む。』
閻魔は首を傾げ、楽しげに振る舞う。
「実に愚かで美しい。だが愚かさと美は紙一重。それは分かっているのだな?」
村丸は無表情を保ち、その中で心の中では小さな独り言が響いた。
『一度だけ、可能性がある』。
その言葉は幾ばくかの光だ。
胸の奥で何かが冷えていくのを感じる。
『........その条件を受け入れる。だが、もし負ければ、何が起こるのか』
閻魔は淡々と答えた。
「負ければ、お主は冥界送りだろう。まともに彼奴と戦って生き残るには我でも骨が折れるくらいだからな。」
その言葉は残酷な現実を突き付け、村丸の筆が止まる。
記憶の底に沈めていた断片が表面に浮かび上がる。なのに、それでも、"本当の名前"だけは思い出せない。
それだけが未だに残り続ける謎だった。
『........一度でも、戻れるならば、挑もう。勝てる見込みが薄くとも、試みないよりはマシだ。』
閻魔は微かに笑って、だがその笑いは慰めではない。
「愚かだ。されど清い。よかろう。我はその挑戦を受け入れる。準備を整えよ。だが一つ忠告しておく。命の一度きりの重みを忘れるな。」
村丸は筆を再び手に取り、文字を紙に染める。
手が震えた。
震えはただの身体反応ではなく、魂が震えているようだった。
内心で、湖の表面だけを凍らせたかのように軽い絶望が薄く広がっていく。
「一度の生を賭ける。それは、賽を投げることだ。運命を一回だけ賭けることだ。」
村丸の心の中で、その言葉が鳴る。
井戸の冷たさ、江戸の古い町並み、遠い母の声。
帰りたいという渇望が、血となり、手足に力を与える。
同時に、死である現実が懐に収まっている。
だが、心の中に生じたのは静かな感情であった。
希望がまるで膜のように手に触れるが、指先からすぐに消え去る。
可能性がある、と言われれば熱が上がる。
だが同時に、彼にとって"未知なる相手"を倒すなどということが、いかに非現実的かを知っていた。
極めて静かな絶望が広がった。
叫びは無かった。
声にならない溜息もなかった。
ただ、冷たい断崖を見下ろすような視線が自分の胸に落ちる。
村丸はその断崖を見て、ふと笑ったように思う。
それは悲しみとも、諦観ともつかない。
(一度だけの賽だ。投げる価値はあるのか。いや、投げずに後悔するよりは.....だが、勝てるのか。勝てれば戻れる。敗北すれば永遠に.....)
思考は堂々巡りをする。
だが、最後には小さな確信が浮かんだ。
(風切や寝子は人間にとっても優しい。だが、帰らなければ。居るべき場所は.....ここでは無いから。)
その決意は、希望と絶望が混ざった色をしていた。
蓬は目を真っ赤にして村丸の肩に手を置く。
小野はまだ震えながら働き、閻魔は冷たい目でその全てを見下ろす。
部屋の白色の光が村丸の決心を余計に際立たせる。
灯火が揺れ、紙が擦れる音が聞こえ始めた。
外の世界は何事もなかったように赤く揺れている。
でもここでは、一人の"死者"がもう一度生を賭けるために、運命の賽を握りしめたのであった。内心で、抗えない絶望を噛みしめながら。
閻魔の瞳がじっと村丸を見据えたまま、玉座の間の空気はさらに重く、そして冷たく沈みこむようだった。
『........闘う。戻りたい。江戸に、帰りたい。』
閻魔はその言葉を受け、ふと目を細めた。長い沈黙ののち、ゆっくりと口を開く。
「よかろう。だが"彼奴"の前に立つには弱すぎる。今のまま"彼奴"を斬ろうとするのは、夢想に近い。だからまず試すことがある。地獄の隅、忘れられた山に『大獄丸』という鬼が封じられている。そいつを討ち果たせ。それを討ち果たす事が出来れば....."彼奴"を倒す道の初めの一歩か二歩かは踏み出せるだろう。そして.....お主を蓬を通じて妖世に戻す。ただし、江戸に帰るという最終の約束は"彼奴"を打ち倒した暁にある。順序を履き違えるな。」
小野が顔色を変えて口を挟んだ。
「大獄丸ですか。あの........地獄に伝わる、古い剛獣........」
閻魔は頷き、玉座の上からさらに詳しく語り始める。
「大獄丸はもとよりこの地獄の外れに封じられた『守り』の具現だ。かつて人と鬼の争乱があった時代に、ある祈りと呪いが混ざり合い、己を守るために己が周囲を喰らうものとして誕生した。封じるために数多の符と木像が打ち、長きにわたり眠っていた。しかし世界が乱れ、火盗のような者たちが力を弄んだことで、封印の一部が緩んでいる。もし再び完全に目覚めたなら、地獄の隅々までもが喰われるだろう。」
蓬が目を輝かせて割り込む。
「えー、それ大変じゃない?完全に目覚めたら地獄が終わるってことじゃん!村丸、やるなら今しかないよ!!」
村丸は筆を走らせる。
『........大獄丸を倒せば、妖世に返る。そして"倒すべき相手"に挑むのはその後。順序は理解した。やる。』
閻魔は軽く笑ったように見せる。しかしその笑みには含みがあり、残酷なほど正確な一文が続く。
「.....覚えておけ。大獄丸は単なる怪物ではない。封印は"綻び"をつなぎ合わせて成り立っている。その綻びを閉じるには、お前の『覚悟』だけではなく、符や術、そして幾つかの試練を越えねばならぬ。覚悟はあるか?」
村丸は紙に短く、しかし深く書いた。
『ある。全部背負ってでも、江戸へ帰る。』
その文字に閻魔は一瞬だけ顎を引いた。
小野は前髪の下の瞳を細め、言葉少なに問うた。
「封印の場所は具体的にどこなのですか、閻魔様?」
閻魔は右の手を上げ、指先で広い地図のようなものを空間に描いた。
赤い線でひとつの点が示される。
廃れた山、もう誰も足を踏み入れなくなった場所だ。
「ここだ。この閻魔庁を出て、北の方角にある山だ。名を霖恐山.....冥界と地獄のほぼ境目にある山だ。一応所有権は地獄にあるのだがな。」
「うわー、なんか凄そう!!ねえねえ、村丸、衣装はそのままでいい?意外と袴で戦闘可愛いと思うんだけど!」
無邪気に言う蓬に村丸は一言。
『問題ありだ馬鹿。』
閻魔が眉を上げ、そして真剣に話を続けた。
「嗚呼、それと.....加えて言う。大獄丸討伐にはお前一人では厳しい。ゆえに補佐を得るべし。誰を連れていくかは、我が裁量ではない。自ずと道が示されるであろう。」
村丸は頷いた。
自分一人では妖世を生き抜く事はほぼ無謀そのものだと言うことを。
妖刀・村正の扱い、まだ素人同然の刀術、そして自らの小さな体の脆さ。
妖世に来ては異形から人型に近い妖怪、大小様々な妖怪等を見ているからこそ、自分の小柄さをより強調させるのだ。
だが戻りたい。
戻ることが、彼の胸の中を硬く突いて離れない。
その内心を当たり前かのように読み取る事が出来る閻魔は静かに言った。
「よかろう。ならば我が命じる。今すぐに霖恐山へ向かえ。小野、必要な書付の準備を急げ。村丸、道中で出会う者の助力を必ず得よ。」
すると名前を呼ばれていないはずの蓬は目を潤ませ、嬉しそうに拳を握った。
「わかった!任せて!私、めっちゃ応援する!村丸、超かっこよくなるから!」
閻魔は立ち上がり、陰影が彼らを覆った。
「では行け。時間は限られている。封印の綻びが完全に裂ける前に、事を為せ。そうすればお前の罪は少なからず清算されるであろう。だが忘れるな、江戸へ帰るための本当の試練はそれからだ。」
その言葉とほぼ同時に蓬が両手をばたつかせ、「よっしゃ!じゃあ今すぐ行こう!」と駆け出さんばかりに息を弾ませる。
村丸の瞳には決意と、それと同じくらいの不安が映っている。
蓬が無礼にも走りながら来た道を戻り、村丸は無言で閻魔に会釈してから落ち着いて蓬の後に続くようにゆっくりと歩き出した。
そんな背を向けた二人の背後で、閻魔は一つの声を落とした。
「頑張りたまえ。」
外に出れば、赤の空が彼らを迎える。
道は険しい。
だが村丸の胸には、江戸の街並みと誰かの笑顔がぎゅっと詰まっている。
それを思い出すたびに、彼は小さく拳を握った。
そうか。
今、目指すのは大獄丸の討伐だ。と。
◇ ◇ ◇
扉が閉じ、重々しい空気が退いていくと、閻魔の間には再び静謐が戻った。
蝋燭の揺らめきが影を落とし、机の上の書類だけが淡々と存在を主張している。
小野は机の前に戻り、いつものように帳簿の束を整えた。
だが、その所作には先程の震えがまだ残っているのが、閻魔の目には見えた。
閻魔は椅子に深く腰を下ろしたまま、ゆっくりと視線を落とした。
視線の先には小野。
彼女は表情を変えず、前髪の影でやや暗くなった瞳を伏せている。
その態度は何を言われるか分かっているかのようだった。
「小野。」
この声は閻魔だ。
声はいつものように平穏で冷たい。
「一つ訊こう。今しがたの振る舞いだ。お主は....."村丸がここに来てから"、『男』であると分かっていながら、全く取り乱さなかった。何故だ。それに.....何故あの時、"初めて村丸が男である事を知ったような態度を取った"のだ?」
小野は一瞬だけ肩をすくめ、それからゆっくりと顔を上げる。
前髪の隙間から覗くその瞳は、冷静そのものだ。
だがその奥に、何かくすぶる火種があることを閻魔は嗅ぎ取っていた。
「私は職務に従っただけですが.....」
小野の声は静かだ。
紙をめくるように滑らかで、音を立てない。
だが、閻魔は彼女の言葉の端に引っかかるものを感じ取る。
言葉は正しい。
正しさはときに真実の全てを語らない。
「誤魔化すな。前髪の隙間から見えた瞳が一瞬揺れた。それは喜びか、動揺か。どちらかだ。私の前で、偽りのない答えを示せ。」
小野はその言葉に微かな苦笑を漏らした。
「........私は、個人的な感情を仕事に混ぜるわけには参りません。だけど、先刻の件については、ただの『取り乱し』ではありませんでした。」
閻魔が顔を傾げると、小野は深く息を吐いた。
声を低くして、まるで誰かに囁きかけるように続ける。
「閻魔様はもう既に知っているかもしれませんが、.......江戸は広く、私はそこに在った記録の整理や遺志の読み取りなど、様々な事を職務として引き受けておりました。その折に........村丸や村正という名をしばしば........間接的に聞くことがありました。噂話や、短い断片、あるいは遺物に記された断片的な言い伝え。私は、それを心のどこかで追いかけてしまったのです。」
閻魔は柔らかな笑みを隠すでもなく、しかし冷徹に問うた。「それが、なぜお主を動かさなかったのだ」
小野の指先が書類の端をつまむ。手の甲に小さな赤みが差しているのを、閻魔は見逃さない。彼女は少しだけ、その手を握り直し、言葉を選んだ。
「私は正直驚きました。彼が目の前に居ることに。だが同時に、驚くことと動揺することは別です。私には守るべき役目があります。秘書としての体裁、閻魔様の公務の円滑さ、そして法の前にある中立性。それらが最優先です。ですから私は感情を表に出す代わりに、内側で整理をしました。」
閻魔は静かに頷いた。
「感情、か。お主はそれを敢えて表に出さなかった。だが内側で整理したと。お主は人にしては慎み深い。だが、感情は如何に整理しても、行動へと僅かな軋みを残すものだ。それによってお主の手は震えた。先刻、私がそれを感じた。」
小野は口元にかすかな笑いを浮かべた。
だがそれは決して軽やかなものではない。
「閻魔様はやはり、よく見抜きますね。私の小さな乱れもご覧になっていたのですね.......ですが......それは......私が村丸に対して.....」
小野はそこで言葉を切った。
それは、きっと本能的な物。
彼女の前髪の隙間から見える瞳が揺れている。
<村正逸話>
小野は閻魔直属の部下であるが、その顔が常に前髪で覆われている理由は単純。
(正確には両目とも隠れているが、左目の方だけは顎にかかるまで長く隠れている。)
可愛すぎるからである。
あの顔で地獄を取り仕切る閻魔様の元に仕える者としては、あまりにも"愛らしい"存在であったため、同僚たちから冗談やからかいの的にされる日々。
それに耐えかねた彼女は前髪で顔を隠す事にし、髪の毛を伸ばし始めた。
故に彼女の顔は前髪の下から見ないと表情が読み取られない為、同僚たちは恐る恐る近寄るしかない。
尚、本人曰く前髪の所為で前が見えないという事は無いらしい。
そこも彼女の不思議な一面である。
(最近になって照れ屋という説もあるが不明。)




