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< 五 > 妖世

(何故ここへ来れたのだろうか.....)


井戸から飛び込んでわずか数分の間に、彼は現世の逃亡者から、知られざる異界の訪問者へと変わっていた。


足元には湿った苔が厚く広がり、さながら緑の海の上を歩いているかのようだ。


空は見えず、代わりに夜のような濃紺の霞が周囲に立ち込め、淡く瞬く光の玉が所々に漂っている。


静寂。


だが、その静けさの中に違和感があった。


彼は足を止め、音を探すように耳を澄ます。


微な木の軋むような音と気配。


その音の先へと回り込むと、視界の先にぽつんと立つ一本の大樹が見えた。


御神木。


それは尋常でない大きさを誇り、幹にはしめ縄が何重にも巻きつけられている。


根は地面を隆起させるように広がり、木肌は宝石のような艶を帯びていた。


だが、その幹に........


(........人?)


よく見ると、幹に括りつけられているのは一人の少年だった。


何処かボサボサとしたヤンチャそうな髪の毛に、鼻には白い絆創膏が貼られている。


しかし、ただの人間ではないことはすぐに分かった。黒い羽根が肩から伸びており、脚には鳥のような鱗と爪。


「お、おい、誰か!見てるなら助けてくれよぉぉぉお!」


高く、明るい声が響いた。


少年の顔は泥にまみれていたが、口元には困り顔ながらも妙な余裕がある。


彼は首を傾げながら彼に近づくと、何となく首をかしげる。


(........男の子?)


「おいってば!そこの銀紫髪の着流しの剣士さん!こっちこっち!」


彼は困惑しつつも筆と短冊を取り出し、静かに『大丈夫?』と書いて差し出す。


「ぜんっぜん大丈夫じゃないわっ!!」


元気な返答が飛んできた。


彼は更に短冊を取り出し、『........誰?』と尋ねる。


「俺?俺は颯篤そうとく!鴉天狗の風切颯篤かざきりそうとく!俺の事は風切様と呼べ!あ、やっぱ様はいらないから!むしろ今は助けて!頼む!神様でもいい!いや、目の前のあんたでもいいからぁ!!」


そのテンションに、彼はじっと短冊を見つめ、『........男の子?』と遠慮がちに書く。


「んなワケあるかーッ!!お前の目は腐ってんのか!?これでもこちとら900年くらい生きてるんだけど!?」


「えっ........?!」


彼の目が見開かれる。筆が止まる。


思わず二歩下がって、短冊を落としそうになった。


風切の頬がぴくぴくと引きつる。


「ちょ、なんで引くの!?しかもそんな露骨に........え、なんか変なこと言った!?いや、確かに見た目はガキっぽいけどなぁ、それだけで男の子扱いはひどくない!?ねえ!!?俺結構気にしてるんだぜ!?」


彼はそっと『........すまない』と書き、肩を竦める。


「いやまあ、よく間違えられるけどもっ!でもそれより!助けてくれない!?俺、ずっとここに縛られてるの!腹も空いたし、羽も痺れてるし、なんかケツも痛いし!!」


彼は半ば呆れながらも、その明るさに押されて御神木に近づき、しめ縄を観察する。


確かに異質だ。


だが、しめ縄の中心に埋め込まれた紙札のような封印が、不気味に脈動している。


『これは........封印?』


彼がそう書くと、風切は顔をしかめてこくりと頷いた。


「そう!その札のせいで動けねぇんだよ!!」


その軽快さに、彼の頬もわずかに緩む。


『........助けていいのか?』


「助けて!お願い!良い妖怪だよ!俺、悪いことしないもん!ちょっとだけやらかしただけで!ちょっとだけ!!」


彼は目を細めて風切をじっと見つめる。


そこには無邪気な悪ガキのような、飾らぬ笑みと誠実さがそこにはあった。


封印の紙札に触れたとき、じわりと冷たい気配が指先に絡みついた。


(うげっ......)


嫌な感触だ。


だが、それを押しのけるように、彼は静かに指先を突き立てて札を剥がした。


びしりっ、と音を立てて札が燃えるように弾け飛び、鎖は嘘のように解けて地面に崩れ落ちた。


風切はその場に崩れ落ち、手足をぱたぱたと動かして叫んだ。


「うおおお!自由だあああああ!!」


羽根をばっさばっさと動かしながら、風切は空中で一回転し、着地と同時に土を思いっきり蹴った。


「ありがとー!あんた、名前なんていうの!?てかマジで恩人だわ、マジ神!!」


風切の問いかけは、まるでふざけたような調子だったが、その瞳には真剣さがあった。


彼は一瞬、唇を開きかけて止める。


思考ではなく、本能のような何かが喉元を押し留めた。


(名を........)


心に浮かんだ名は、「■■」という音の連なり。


生まれ、育ち、既に記憶の奥底に沈んだ名前。


だが、それを口にすれば、戻れない気がした。


戻るべき場所もないくせに。



遠くで誰かがその名を呼ぶのが聞こえた気がした。


だが、もう振り返ることはできなかった。



(彼の"村"に.....他の刀の名前.....そうだ.....鬼切丸や蜘蛛切丸のような有名な刀の最後に付けられる"丸".....よし。何故だろう.......何だか......とても懐かしい名前だ。)


彼は、静かに筆を走らせる。





「村丸」






何かを断ち切るような、けれど何かを掴むような筆圧で。


風切は目を瞬かせ、次の瞬間、にやりと笑う。


「むら........まる?おぉぉぉ、渋い名前!よっしゃ、今からあんたの家来でいいわ!もう一生ついてくから!なんでもやる!飯でも洗濯でも羽ばたきでも!」


このやりとりが、妖の世の空気を和らげるように響いた。


けれど、村丸の心には、ひとつだけ確かなことが刻まれていた。


(この世界は一体何だろうか。桃源郷か.....?)


彼は筆と短冊を取り出し、勢いよく文字を走らせた。


『ここは........何という世界なのか?』


風切は羽根をわさわさと揺らして嬉しそうに笑う。


泥と葉っぱまみれの髪が跳ね、鴉の嘴のように尖った笑顔がくっきりと浮かび上がった。


「ここはな、妖世あやしよだ!」


『妖世........?』


村丸が首をかしげると、風切は翼を大きく広げ、豪快に息を吸い込んだ。


「そうだ!色々な妖が住む世界だ!.....元は、な。」


(ほう....そんな世界があるんだな......)


村丸は筆を取り、『お前はいつからここに?』と尋ね返す。


「俺?俺はとある罪を犯したんだぜ。“お尋ね者”ってんで、御神木に封印されちまったんだ。そしてそのまま俺は放置!!酷過ぎる......!!これは鴉天狗オレに対する虐待でしかないって!!!しかも俺自身で封印は解けねえし、誰も来なかったら縛られてたままだったってわけ。


そして風切は言葉を一度切り、寂れた神社を見上げる。


「それにここは廃神社なんだ。なんだっけ......祀られていた神が消えたかなんかで廃れたはずなんだ。だからよっぽど人は来ないし、誰かに助けてもらうだなんて半分諦めてたんだよ俺。」


(安易に想像できるな.....)


風切の語りは、明るくもどこか寂しげだった。


でもまったく後悔している様子はない。


鴉天狗というよりも小悪魔のような快活さで口角を跳ね上げ、羽根をわさわさ振る。


「でも、まさかあんたが来るとは思わなかったぜ!」


『.......何も知らずに助けてしまったが』


「それどころか、命拾いしたのは俺のほうだ!ここに誰も来なくて、餓死も凍死も妖怪の料理にもされないで済んだ。なにせ一人でずっと退屈........いや、苦痛だったからさ!」


(本音が出てる.....)


そして風切はふと、風切は村丸の背中を見やった。


細身の着流し、その手に短冊と筆を携えたまま歩く背中は、人間離れした凛とした印象を放っていた。


だが......どう見ても、人間だ。


風切はぎょっと息を飲むと、急に立ち止まり、羽ばたくように村丸の前に飛び出した。


「ちょ、ちょっと待てお前!」


(何だ?)


村丸は面倒くさそうに眉をひそめる。


風切は目を真ん丸にし、両翼をバサバサと大きく振るった。


「お前......まさか、本当に人間か!?」


村丸はさすがに少しムッとして、腕組みをしながら短冊を見せつけた。


『何を今さら。』


村丸の文字は端的だ。


毒舌も混じるが、読めばちゃんと意味は通じる。


風切はぽかんと口を開けたまま、それを目で追っている。


「いやでも........噂じゃ、ここに迷い込む人間は、時代や世界線を超えて連れて来られて、そのまま契りを交わすケースも少なくないらしいが、"普通に"一人で来たやつは聞いたことねえぞ!?大抵は死神の野郎が連れてきたりするからな......。だからお前みたいに、ひとりで野ざらしになってたやつは前代未聞だ!」


村丸は眉間に皺を寄せ、足元の苔を蹴り上げた。


『お前が前代未聞って騒ぐから、迷い込むのが妙に意図的みたいじゃねぇか。偶然だっつーの。』


風切はまるで認めたくないと言わんばかりに、頭を振り続ける。


「だってさぁ........お前、どうやってここに来たんだ? 人間がここに辿り着くには、死神が居ないといけないんだぜ?」


村丸は無表情のまま、短冊で問いかける。


『俺は井戸に飛び込んだだけだ。それ以上でも以下でもねぇ。』


風切はその言葉に顔をくしゃくしゃに歪め、思わず笑い出した。


「お前、なんて間抜けなんだよ!......まあ、帰り方に関しては......閻魔様に直接訴えるくらいしか.......。.....ん?そういえばさ、昔に一人だけ、過去から来た武士がいたって話を聞いたが、お前........その末裔とかじゃねぇだろうな?」


村丸はムッとしたまま、短冊に即答する。


『いや、知らん。』


風切は目を伏せ、頬を掻きながらしょんぼりしたように小声で呟いた。


「そうか........でもこの世界に一人で来ちまった以上、お前は伝説の人間枠にされちまうぜ?これからお前は妖の噂の種になっちまうかもな」


村丸はイラッとしたらしく、短冊をぐしゃりと握りつぶす。


(おっと。)


墨が指にべったりとくっつき、内心慌てたが、顔には出さない。


「よーし!なら勝手に案内しちまうぞ!」


村丸は『........迷惑千万だ』とだけ短冊に刻むと、再び無言で歩き出した。


風切はその背中を追いながら、心の奥底でひそかに燃える興奮を抑えきれずにいた。

<村正逸話#5>


いつも元気そうなヤンチャな風切君ですが、意外にも大人に対しては大抵無愛想で冷淡です。


理由は、権力・金・地位等のために争うような妖怪の大人の世界の汚れや暗さに染まりたくないからだそうです。


人間・妖怪問わず大人は嫌いですが、話が分かってくれる大人や協力的な大人は大好きな模様です。


村丸のような面白い大人や珍しい大人、風切自身が興味を持った大人も大好きなようです。

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