< 四 > 逃避行
◇ ◇ ◇
夜明け前の空を、ひときわ鋭い「号外」の太鼓とともに町内の伝令が駆け抜けた。
江戸城の門前町.....大手町から内桜田町、中之門、一之橋、二之橋、町々を結ぶ細い路地にまで、紙束を胸に抱えた若い摺り屋の者が声を張り上げる。
「号外!号外!江戸城の大異変、徳川将軍家康公に御怪我あり!犯人は『彼』との情報アリ!詳報は号外にて!」
言葉を引きずるように、摺り屋の男は太鼓を打ち鳴らしながら家々の軒先に駆け寄る。
寝ぼけ眼の町人たちが、寝間着のまま戸口を開けては、差し出された号外に手を伸ばす。
〈江戸城にて深夜、将軍徳川家康公御座所にて、妖刀『村正』を持つ者の襲撃を受け、将軍公左肩に深手を負い給う。城内番士多数討ち取られ、御内大混乱中。犯人の行方不明。取締り強化を急ぐべし。〉
号外はわら半紙に墨跡荒く摺られており、見出しは大きな隷書で「将軍公御怪我!妖刃に斃る」と躍る。町人の間でその紙が次々と手渡され、やがて路地ごとに人垣ができる。
「こりゃ一体、どういうことだ?」
「将軍様が斬られたって?夢でも見たかのような話だな」
老婆の手元に来た号外を、隣家の若者が奪うようにもぎ取る。
その隣の者はまた読み終えた紙を、別の隣家へと渡す。
「おい、清兵衛!大手町の御目見得町からまた号外が来たぜ!」
「おう!てめえ、その一枚くれ!」
やがて大通りへ出ると、朝市を準備し始めた商人や魚河岸の人足たちが口々に声をあげる。
「こら見ろよ!お殿様が怪我なさったんだとさ!」
「誰が斬ったんだろうな。彼って聞いたことねえ名だが」
「彼ってのは名刀の名らしいぞ。妖刀って呼ばれてるんだと」
どこかで「妖刀」とか「因縁」といった言葉が飛び交い、まるでこの町全体が背筋に冷たい風を感じているかのようだ。見物人の中には半袖の下に刀を差す者もいて、黙って号外の文字を指差す。
「......これはただごとじゃねえ」
その声を合図にしたかのように、町火消しや同心たちが通りに増えてくると、号外は瞬く間に情報伝達手段としての役割を果たし終え、残りは路地の角に積まれて散乱し始めた。
一旦人々の間に熱気が冷めると、情報の深刻さが改めて胸へと沈み込む。
徳川家康は江戸の基となる人物。命に別条がないとはいえ、将軍の肉体へ刃を入れるなど、決して許されぬ所業である。
「男が夜討ちに現れたってわけか」
「腕利きの浪人か何かじゃねえのか」
町の噂は次第に膨らみ、通りの井戸端会議では早くも推測が飛び交う。
一方、大手町の会所前には、同心と与力が集結していた。
そこへ城内の報告を帯びた使者が駆け込むと、与力は即座に重苦しい声を発した。
「......報告はあるか?」
「将軍様のお怪我を確認いたしました!御左肩の切り傷は浅からず、ただちに侍医が懸命の手当てを施しております」
号外を手にした町人達とは対照的に、役人や武士たちは今まさに策を練っている最中であった。
早朝の江戸は、興奮と危機感で満たされている。
「いずれにせよ......城は騒然としておる。奉行所も夜を徹して対応に当たると聞くが、まずは怪我の回復が先決だ」
「しかし、妖刀である村正を持った者が我ら奉行所の手を潜り抜けた以上、行方を追うのは難儀ですな」
「......ならば、町外れの辻々に立て札を出し、賞金と引き換えに情報を募るがよい。打ち首覚悟でもいい。早急に捕縛せねば」
やがて、朝餉の支度が始まり、商家の屋台では普段通りの掛け声が聞こえ始める。
だがその声の端々には、徳川家康の怪我を案じる調子が混じり、普段の賑わいには見られぬ緊張感が漂っている。
寝静まった町が号外の一枚で揺さぶられたように、江戸全体がまだ醒めぬ夢の中にいるかのようだった。
◇ ◇ ◇
「家康公の御傷は只事ではない」「村正を持つ者を見た者がいるらしい」「次の夜にも襲撃があるかもしれぬ」昨日までは穏やかな日常を紡いでいた彼には、今やそのすべてが遠い幻のように思えた。
朝の光がまだ街路を完全に照らし切らない早暁、彼は何の気なしに裏路地を歩いていた。
(はぁ.....父上は御乱心か.....?)
昨夜、何か大きな異変があったらしい。
人々のざわめきや、門口に残された号外の残骸がそれを告げている。
しかし彼自身、その真偽も内容もまったく知らない。
彼の胸にあるのはただ、昨夜の断片的な夢のような記憶と、不意に膨れ上がった得体の知れぬ焦燥感だけだった。
「待て!」
遠くから男の声がした。
小走りの足音。
振り返ると、町火消しの羽織を着た中年の男がいる。
彼は咄嗟に墨と筆を探したが、取り出す間もなく、羽織の男は刀を抜き放って身構えた。
「将軍様を斬った者か?」
男の声は震え、汗が頬を伝っている。
(は.....?)
彼は無言のまま首を振った。
嘘はついていないはず。
ただそこを通り過ぎたいだけだ。
だが、男はその足を止めることを許さない。
「答えろ!あんたこそ昨夜、江戸城で将軍様に斬りかかった者ではないのか!名を名乗れ!」
彼は懐に残していた小筆を取り出し、震える指で「違います」とだけ書き込んで掲げる。
しかし、男の目はその文字を捉えず、むしろ彼の服装や背に差した黒い刀を凝視していた。
「あんたが犯人だろう!将軍様は......!」
息を切らしながら男はそう叫び、刀を振りかざした。
彼は背後に広がる細い横道へ一歩踏み込むと、男を振り切るように走り出した。
石畳を蹴る度に、草履の鼻緒はギシギシと音を立てる。
(何が起きているんだ.....!)
裏路地は迷路のように絡まり、行き交う人の気配は少ない。
とはいえ、彼の走る音はすぐに伝わる。
角を曲がると、今度は町奉行所の同心たちが待ち構えていた。
「そこだ、逃がすな!」
「捕らえるのだ!」
十人ほどの同心が縦一列に隊を組み、抜刀の構えで彼を包囲する。
彼ははっと足を止め、後ろを振り返った。
人を斬った覚えはない。
しかし、同心たちの目は冷たいまま。
(やむを得ぬ......)
彼は仕方なく、懐の筆を収め、両手を上げてみせた。
しかし同心たちは無言のまま前進を続ける。
松明に揺らめく炎が、人々の顔を恐ろしいほど歪ませた。
そのとき、どこからともなく甲高い声が響いた。
「お兄さん!待って!」
声の主は、小さな花売りの娘だった。
淡い藍色の小袖に手提げ籠を下げ、走ってくる彼女の目は心底心配そうに潤んでいる。
彼の残酷な誤解を解こうとしたその瞬間、同心の一人が不意に足を踏み出し、娘は躓いて転びそうになる。
彼は咄嗟に娘をかばって腕を広げたが、その隙に同心は彼の袴をつかみ、引きずり倒そうとした。
「わっ!」
「逃がすか!」
彼は無理やり体をひねり、娘を傍らへ押しのけると、同心の手首を蹴り飛ばし、その間に立ち上がって再び走り出す。
娘は涙目で彼の背中を見送りながら、持っていた花をいくつか落としてしまった。
花びらが石畳を転がる。まるで血の雫のように淡い色を残しながら。
彼は更に迷路のような路地を縫うように走り、次は侍装束をまとった浪人風の男とすれ違った。
彼は小刀を咥え、柄を片手で握りながら追いかけてくる。
「待て、そこのお前!」
浪人の声は軽薄だが、目は必死そのものだ。
彼は返事もできず、肩越しにちらりと見ただけで、屋根の上へと駆け上がった。
瓦屋根は冷え切って滑りやすいが、彼は経験者のように身のこなしを見せる。
浪人風の男は瓦を踏み外し、大きな音を立てて転落しそうになる。
しかし再び這い上がって追い続ける。
(諦めの悪い男だな。)
瓦屋根から飛び移り、石畳へ着地する頃には背後の浪人は姿を消していた。
ただ、人を追う足音だけが路地にこだましている。
彼は深呼吸しながら、そっと息を呑んだ。
(......何なのだ、これは)
彼自身が知らぬ間に非道を働いたと噂され、命を狙われる。
この理不尽さを誰に訴えればいいのか。
震える指で帯の鞘に触れるが、そこにはただ冷たい鉄の感触しかない。
(このせいか.....?)
そのとき、背後からまたもや叫び声が上がった。
「待て! 逃がすなっ!」
その声は町奉行所の者たちだけではない。
町役人、武家の小姓、火消し、賞金稼ぎまでもが広場に集まり、彼を取り囲もうとしている。
無言のまま手を挙げ、身振りで無実を訴えかけても、彼らの目はすべて疑念と好奇心に満ちている。
(なんだ.....?何が起きた......?)
彼は咄嗟に足元の小路へ飛び込み、狭い抜け道を選んだ。
藁塚をまたぎ、路地を駆け抜け、干し魚の匂いと古い樽の匂いが混じる裏通りを突っ切る。
呼び声はなおも遠くで聞こえ続ける。
彼は咄嗟に川沿いの小舟倉へと飛び込んだ。
彼は舳先の細い船に飛び乗り、罪悪感と恐怖に心を引き裂かれながらも一隻の小舟を漕ぎ出した。
水面を滑る櫂の音は静かだが、遠く岸辺では依然として松明が揺れ、追跡者たちの怒号が反響している。
(死ぬのは御免だ。)
「おい!船を止めろ!」
漁師たちが眠る中、ひとりが飛び起き、網を掴んで飛び回る。
しかし彼はそれにも構わず漕ぎ続けた。
そして暫く漕いでいると一時的に追っ手を振り切ったようだ。
(....はぁ.....どうしてこんな目に.....)
しばしの休息を求めるように、彼は小舟の底に膝を抱えたまま息を整える。
胸の奥はまだ騒ぎ続け、鼓動は速い。
真実を知る者は誰一人いない。
彼の逃避行は、まだ終わりを告げていない。
彼は荒い息を整えようともがきながら、対岸へと漕ぎ出した。
そしてその対岸に目立つ物が一つ。
それは......井戸。
朽ちかけた石壁に苔が生え、口をぽっかりと開けた井戸の縁が、暗闇の中で黒い穴のように見えた。
何故かその井戸だけが月光に照らされ、銀色に浮かび上がっている。
まるで「来い」とでも呼ぶように、静寂の中にぽつんと口を開けていた。
(......井戸か)
彼は舳先に立ち上がり、井戸の底を覗き込んだ。
下は見えず、底知れぬ闇が彼の視界を呑み込んでいる。
肺を締めつけるような恐怖が胸を打つが、同時に血の奥底で鳴る得体の知れない衝動が、その闇に惹きつけられているのを感じた。
(水は半分くらいか.....?)
言葉に出して呟きたい衝動を握りしめ、一瞬袖で額の汗を拭う。
闇はあまりに深く、そこへ飛び込むことはまるで精神の底へと墜ちるような覚悟が必要だった。
しかし、追手の足音がまた近づいてくる。
もう後戻りはできない。
勢いをつけて、彼は一気に身体をよじり、足を持ち上げた。
彼の身体は真っ逆さまに闇へと飛び込んだ。
■
どのくらい時間が経ったのだろうか。
水の冷たさは感じず、まるで空気でできたように無抵抗のまま腰のあたりまで沈み込む。
だがそこは水ではなかった。
ひんやりとした感覚のあと、もろく淡い光が周囲を漂い始める。
水面の波紋のように広がる光の輪が、彼の身体をゆっくりと包んだ。
視界は暗闇からすぐに銀白色の霞に変わり、足元には石積みの壁も見えず、代わりに苔むした木の根や、たおやかな草花が宙を漂うように浮かんでいた。
(ここは......)
彼は泳ぐように身体を伸ばし、周囲を見渡す。
そこは井戸の底ではない。
かすかな風が吹き抜け、獣の遠吠えにも似た低い響きが遠方から聞こえてきた。
地面は柔らかい苔と湿った土でできているようで、花の匂いと土の匂いが交じり合い、非現実的な心地良さを齎した。
目の前には古びた鳥居の欠片のような木の柱が一本立ち、そこに垂れ下がるしめ縄がかすかな音を立てている。
(何処だここは.....?)
震える足で一歩を踏み出すと、柔らかな地面が軽く弾んだ。
「......何が起きたのかも、分からないまま、ここへ来てしまったんだな」
彼はゆっくりと辺りを歩き出した。
背後からは追手の気配はなく、あの慌ただしさはまったく聞こえない。
先程までの彼はただの逃亡者だったが、ここでは見知らぬ旅人のような気分に包まれる。
(ここは一体、どこなんだ......)
呼吸を整え、歩き始める。
足音は苔に吸われ、水音は薄く聞こえ、ただ草のざわめきが足元から巻き上がってくる。
妖しい。でも、美しい。
そんな世界に彼は辿り着いたのだ。
<村正逸話#3>
彼が言葉を発さなくなったのは、幼い頃のある出来事がきっかけでした。
幼い彼は近所の子供たちと遊んでいたある日、何気なく笑った彼の声を聞いた一人が、からかうように「お前、男のくせに声が女みてぇに可愛いな!」と言われて彼のプライドがズタズタに引き裂かれたのが原因です。
そして彼はその日を境に、声を発するのをやめました。
彼の事を全く知らない人は初対面で彼の事を薄情だったり、失語症と言いますが、実際の所、彼を取り巻く周囲の人々は彼が筆談で話して居る事に関してはあまり気にしていないそうです。
彼の周りの人々は本当に優しい人達が多いですね。
ちなみに、彼は既に声変わりしているので昔よりも声が低くなっているのですが、勿論彼自身が気づいている様子は今の所ありません。