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< 三 > 半人半妖

 ◇ ◇ ◇ 


____■■。


その名を呼ぶ声はなくとも、閉ざされていた自我が唐突に呼び戻される。


刃先に吸い込まれていたむせ返る血の匂いは、いつしか無垢な夜露の香りに変わり、震える指先からは刀の重みが消え去っていた。


(ん......?)


まるで深い眠りから覚めたように、彼の身体はふわりと軽く、そして冷え切った外套の裾をまといながらも、まるで蚕の繭を脱ぎ捨てたかのように新鮮な感覚に満ちていた。


彼はゆっくりと目を開けた。


視界には白銀の月が雲間から差し込み、石畳に細かな光跡を描いている。


背中の痛みも、胸を締め付けるような因縁の重圧も、すべては消え失せているかのようだった。


「........夢か?」


囁く声は久しぶりに口から漏れた、自分自身のものだった。


片手を胸に当てると、心臓の鼓動が静かに、しかし確かな節を刻んでいる。


呼吸もまた、いつものリズムに戻っていた。


(何が起きた.....?)


彼は立ち上がり、夜風に吹かれた髪をさっと払いのけた。


薄紫の髪は肩先で柔らかく揺れ、三つ編みの端が微かにきしむ。


手の甲がさりげなく下を向き、そのまま鞘の位置へと視線を移す。


そこには、いつものように黒漆の鞘が、静かに元あった位置に収まっていた。


刀身はもちろん鞘の奥に隠れ、外界には何事もなかったかのような静謐が広がっている。


「........いや、夢ではない」


彼は自分の容姿を見つめる。


着流しにはべっとりと血がついており、髪の毛や頬にも血がついていたが、その血の意味を彼は知る由もない。


(血.....?何故?何かしたか.....?)


松明の残り火を携えた同心たちの姿も、遠くで木戸を警護する侍の影も消え失せている。


彼は首をかしげながら、短く呟いた。


「何かが、あったはずなのに........」


ふと、胸の奥に幼い頃の記憶が蘇る。


幼い彼は父親とともに、同じ石畳を歩いたことがあった。


父親が静かに短冊に書いた言葉を、彼は無言のまま受け取り、それを大切に胸にしまった。


彼はそっと腰に差した小さな筆と墨を取り出し、かすかな光に照らして懐かしい手触りを確かめる。


筆先には墨の微かな乾きが残り、何かを書きたくなる衝動にかられる。


だが、何を書けばいいのか、言葉はまだ見つからない。


「今日は........一体何日だ?」


彼は空を見上げる。


月は西に傾き、雲の隙間から星がちらほらと顔を覗かせている。


胸中に去来するのは、先ほどまでの凄惨な刃の奔流。


しかし、その記憶は朧げで、まるで他人の物語を夢で見たかのように儚い。


「........帰るか」


彼はゆっくりと足を進めた。


刀は鞘に収めたまま、帯に軽く触れる指先がそれを確かめる。


冷えた鐔に触れることなく、むしろ存在そのものを消し去るように歩を運んだ。


ゆらめく雷門の灯りが遠ざかり、通りの賑わいが再び息を吹き返す。


彼は再び歩を進め、庭の梅の香りと石灯籠の柔らかな光が迎える入口まで来ると、何事もなかったかのように門をくぐり、中庭の砂利を踏んで屋敷へ戻った。


かすかな砂利の音が、昼間とは違う凛とした空気の中で、かえって静謐を際立たせる。


襖を開けると、囲炉裏の火は消えかけ、灰だけが淡く赤く光っていた。


父親はすでに布団へ入ったのか、影も見えない。


彼は静かに畳の間まで進み、床の間にかけられた短冊立てに、ふと足を止めた。


そこにはもう、「花見は苦手」や「今日は魚が安いよ」といった穏やかな言葉はなかった。


何も書かれていない白い短冊だけが、ゆらめく障子の隙間から差し込む月光に照らされていた。


彼は目を伏せ、息を整える。


静かな夜の気配が、その場をゆっくりと満たしていく。


胸の奥で何かがざわめいたが、それが何だったのかは、まだ思い出せない。


彼はそっと短冊を取り、薄墨の筆を取り出す。


白い余白に、何を刻むべきか。


言葉はまだ定まらない。


しかし確かなのは、この静かな夜の中で、自分の身体と心は、確かに戻ってきたということだった。


彼は深呼吸をひとつして、ゆっくりと短冊に向き直った。


次に筆を走らせる言葉は、どんな意味を持つことになるのだろうか。


やがて夜が明けて、朝餉の支度が始まるその時まで、答えはまだ遠い未来の彼方にあるのだった。


彼が屋敷の門をくぐったのは、夜も更け、薫風が静かに寝静まった庭を通り抜ける頃だった。


(父上.....?)


石畳を踏むたびに、足元を低く照らす石灯籠の淡い光が揺れ、梅の木の枝先に残る淡紅色の花びらをかすかに赤らめている。


彼は帯に挟んだ鞘に手を触れ、内側で揺らめく因縁を振り解くように、長い影をすっと伸ばして廊下へと足を踏み入れた。


だが、いつもの静寂はそこにはなかった。


障子の向こうからは、普段よりも大きく息をつく音が聞こえ、畳の上で立ちすくむ父親の気配が伝わってくる。


いぶかしげに彼が襖を開けると、囲炉裏の前に腰掛けた父親の姿があった。


普段は火を絶やさぬ囲炉裏の焔は、今や消えかけ、灰だけがわずかに赤みを帯びている。


父親の影はゆらぎ、頬はこわばり、いつもの威厳ある背筋には異様な緊張が走っていた。


「........帰ったか、彼か?」


父親の声はかすれていた。


まるで喉の奥を何か固いものがつかえているかのように、言葉はぎこちなく絞り出された。


彼は何事かと眉を寄せ、懐から木札を取り出し、墨を含ませた筆で「ただいま」とだけ書き込んで差し出した。


だが、父親の目はその文字に留まらず、彼自身の目を鋭く見据えていた。


「........お前は、何者なんだ?」


父親の言葉は問いかけの形をしていたが、その口調には問いかけを越えた非難と恐怖が満ちていた。


(父上......?記憶喪失ですか......?)


彼は一瞬言葉を失い、再び筆を取り、短く「父上」とだけ書こうとした。


しかし、その文字が父親に届く前に、父親は立ち上がって襖を大きく引き開けた。


「........近寄るな!」


父親は彼を押しのけるようにして後ずさり、後ずさりするたびに畳に擦れる袴の裾がかすかな音を立てた。


「その刀、その黒漆の....お前が持つものは何だ!まるで生き物のように生気を吸い取り、血を喰らう妖刀ではないのか!」


父親の声は怒りと恐怖が入り混じり、まるで彼を怪物呼ばわりするかのように響いた。


彼は筆を握る手が震えるのを感じながら、薄紫の髪をかき上げて一瞬視線を逸らした。


だが、彼には答えがなかった。


答えられなかった。


「答えろ! お前は一体........その姿の下、何者の意志に操られているのだ!」


父親は荒々しく台所の方へと踏み込んだ。


(それは.....どういうことですか......?)


三和土に置かれた包丁や鍋が、一瞬揺れたような音を立てる。


彼は咄嗟に本懐の筆を懐に戻し、両手を前で組むように沈黙を貫いた。


父親はその静寂に苛立ちを募らせる。


「返事ひとつできぬとは........お前はわしの息子ではないのか!?」


父親の瞳には疑念が、頬には薄く青白い血の気が引いていく。


(父上......何故ですか.......何故なんですか......)


父親は憤ったように畳を踏み鳴らし、膝をついている彼の顔を見下ろし、奥座敷から長い木札と古びた刀の柄を取り出した。


(なんで......)


それは錆びついた脇差しだった。


「お前と口を交わす術もない。お前は化け物だ。ここには入れぬ。走って出ていけ!この屋敷から、一歩たりとも!」


父親の言葉は切迫し、叫びにも似て彼の胸に突き刺さった。


彼は急いで木札に筆を走らせようとするが、父親は脇差しの柄で制した。


「言葉などいらぬ。見りゃ分かる.......お前は人の形をした化け物。お前が持つ鞘は、命を奪い、理性を蝕む妖刀の棲家だ。その証拠に、帰って来たと思ったら屋敷は血で穢れ、城下にも禍が走ったという噂が飛び交っている!」


(......はい?それは......本当ですか......?)


父親の声には、彼の知らない「噂」が混じっていた。


ムラマサとしての一連の凶行が、城下でどれほどの恐怖を巻き起こしたか。


それを知るはずもない彼は、ただ黙って肩を落とし、震える両手を垂らした。


父親はその姿を見てなお、眉間を寄せたまま続ける。


「........私はお前を知っているつもりだった。しかし、お前が手にしたその刀は、もはやお前をお前たらしめるものを喰らい尽くしたのだろう。人ならざるものを纏い、夜の闇に徘徊し、人の血を渇望する半人半妖と化したお前に、何の縁があると言うのだ!」


父親は脇差しを振り上げ、襖を開け放った。


夜風に乗って、梅の香とともに遠く松明の明かりが揺れる。父親は迷うことなく外を指差した。


彼は胸の奥に鈍い痛みを感じた。


ただ、筆談の文字すら信じてもらえぬまま、父親の凄まじい拒絶に打ちのめされるしかなかった。


彼はかすかに俯き、抱えていた鞘をそっと撫でる。


黒漆の表面に映る月光は、まるでそこに睨みつける父親の瞳のように冷たい。


だが、彼の瞳には確かに、迷いながらもなお父親を思う暖かさが残っていた。


彼はおずおずと一歩を踏み出し、足元の下駄に力を込めた。


父親が指し示した外の闇は深く、そこへ踏み込むには余りにも不安だった。


(さようなら、父上。誤解が解ければまた会いましょう.......)


しかし、父親の「行け」という命令に逆らう手立てはなく、彼は静かに襖をくぐり抜けた。


冷たい夜風が、その頬を撫でた。


梅の花がひらりと一枚、風に乗って彼の肩に舞い落ちる。


彼は深く息を吸い込み、ゆっくりと外へと踏み出す。


(何故ですか......何故.......答えてくださいよ......)


その背中には、父親から「半人半妖」と指弾された悲しみと、父親を嫌いになれない切なさが重くのしかかっていた。


屋敷の門を背にして歩き出した彼の姿は、小さく、しかし確かな決意を含んでいた。

<村正逸話#3>


彼のお母さんはかつて流行り病で亡くなっています。


当時、物静かで控えめな女性であり、街の外れの小さな薬草園を幕府からの許可を貰って一人で切り盛りしていました。


彼と同じで口数は少なかったのですが、花や草木の名前を教える時だけは、穏やかな微笑みを浮かべていました。


彼の父親とは政略結婚だったそうですが、仲は結構良かったようです。


屋敷の庭に植えてある梅の木は彼女が植えました。


梅の花言葉は「忠実」「高潔」「忍耐」だそうですよ。

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