< 二 > 江戸城襲撃
◇ ◇ ◇
「ようやく......か。ようやく目覚められた。」
囲炉裏の火がゆらゆら揺れて、目の前の男の武士の顔が驚きで引きつる。
「■■......お、お前......何を言っちまう!」
湯呑みがガチャン、と畳に落ちて砕け散る音が、静まり返った部屋をぶった切る。
「はははは......ひさしぶりだなあ!この感じは......帰ってきたぞ......!」
襖の向こうの闇を感じつつ、オレは無造作に黒光りする刀身を抜いちまう。
「待て!」
震える声が響くが、オレの意思にゃあ抗えねぇ。
フン、人間ごとき......すぐひねり潰してやる。
刃先を男の胸に向け、静かにも確実に突き刺すと、鼓動がぶわっと昂り、胸が赤い熱で満たされる。
「ぐっ......!」
男の呻き声と共に、血潮がほとばしり、胸板を真っ赤に染め上げる。
〈うむ......悪くねぇ。〉
刀を抜く動作すら、オレは愛おしげに艶っぽく舞わせた。
男が最後の力でオレの肩をつかもうとした瞬間、その手首まで斬り捨てようかと迷ったが、今回は大人の余裕で許してやる。
夜の江戸の町はびっくりするほど静まり返り、墨色の鞘だけが月明かりにかすかに照らされている。
薄紫の髪が乱れ、三つ編みが揺れるたび、刃がカツンと擦れる音が響く。
いやなんでこいつ三つ編みしてんだ.....?
まあいいか。
オレはそんなことを思いながら遠くに浮かぶ天守閣を睨みつけ、オレは低く嗤った。
だが、不意に背後で燃えかけの松明掲げた十人余の影が目に入る。
与力と同心か......。
ご苦労なこった。
わざわざ死にに来てくれるとはな。
「そこの者!何をしていやがる!夜中にうろつくとは失礼千万だ!」
与力の声が重く響き、同心たちが刀の切っ先を突きつける。
刃を振るえば、最初の同心が胸を貫かれて松明ごと地へ崩れ落ちる。
「まさか......■■殿でぇ!?」
■■?ああ、この体の持ち主か。
オレは■■の事好きじゃねぇけどな。
でも......返してやるつもりはまだねぇ。
「うわぁあ!」
悲鳴も虚しく、オレの斬撃は止まらねぇ。
一歩一歩、黒漆の刃は鋭く閃き、節くれ立った指先のごとき連撃で敵をざっくざく裂いていく。
石畳に張りついた血しぶきが鈍く光り、夜気を赤く染め上げる。
ああ、この感じだ!
ようやくオレの感覚が戻ってきた!
「手向かうとは、不届き千万め......!」
倒れる者が増えるたび、与力の怒りは恐怖に変わるが、最後には震える声で「退け......退け──!!」と叫ぶ。
「その程度か......」
苦悶に顔を歪める与力を踏み越え、路地裏に戻る。
燃え残った松明の赤い炎が、血の匂いだけを物語っており、オレは刀を握る指先をぎゅっと締める。
月光は雲間に隠れ、不気味なほど静まり返った江戸の路地を、黒漆の刃だけがかすかに照らす。
乱れた薄紫の髪が風に揺れ、三つ編みがひらりと揺れるたびに刃がこすれる微かな音が夜の静寂を切り裂いた。
夜の江戸は、まるで獣が息を潜めるように静まりかえっていた。
月は雲に隠れ、灯籠の明かりも風に煽られて揺れるばかり。
城下町の民家は眠りの中にあり、警護の侍たちも油断とは言わぬまでも、静けさに慣れきっていた。
だが、その沈黙はすぐに破られた。
乾いた音が江戸城の外壁に響いたのは.....真夜中。
続けざまに、門番の叫び声が夜気を裂いた。
「なっ、なんだァ!?侵入者かッ!!誰かーーーッ!」
その声が完全に響き切る前に、門のひとつが、まるで紙細工のように斬り飛ばされた。
チィッ、木が軽すぎんだよ......安物か?
白装束に近い薄灰の羽織。
目は血のように紅く、口元には嘲笑と殺意が並び立つ。
「止まれッ!!名を名乗れ!!」
正門に駆け寄った侍が四人、槍を構えた。
ギャアアアァァァッ!!
一陣の風が、血しぶきを巻き上げた。
刀が一閃するたび、侍の喉が裂け、腹が捻じ切られ、膝が折られていく。
武芸者たちの連携も、オレの速さと凶暴性の前には全く通じない。
まるで、遊んでいるかのように、オレはぬるりと身をひねり、切先を肋骨の隙間に滑り込ませる。
「ひ、ひいぃっ......!人じゃねぇ......こいつは、妖だ......!」
ああ、その通りだ。
オレは妖刀だからな。
その叫びも、血飛沫とともに絶えた。
さあて......目指すは天守。徳川の心臓だ。
屋根に飛び移ったオレは、夜風の中を滑るように走る。
瓦を蹴り、忍者顔負けの速度で屋根を駆ける。
途中、見回りの兵が数名いたが、そのどれもが一太刀で絶命した。
次に現れたのは、二の丸への通路。
そこには二十人近い護衛兵が控えていた。
「侵入者を囲めぇぇ!!逃がすなァァッ!!」
周囲から槍と弓矢、長巻が迫る。
ほぉら、来やがったか。
まとめて殺ってやるよ。
刹那、オレの動きが空気を割った。
瞬間移動にも近い滑走。
二人の喉が裂け、次の瞬間には背後の者の腹を真横に断ち、さらには槍の穂先を避けつつ、自らの足で首をへし折る。
「ぎゃあああぁぁぁっ!!」
「ぬおっ......ぐうっ!」
悲鳴が重なり、鮮血が通路を朱に染めた。
その動きは、人間というより、野獣。
血の本能に従い、敵を殺すことだけに集中した生き物。
それはオレも自覚していた。
......殺すのは簡単だ。難しいのは、"足りない"時だよなァ。
全員斬り捨てられた後も、オレはしばらくその場に立ち尽くしていた。
まるで、血の匂いを深く吸い込み、まだ足りないとでも言わんばかりに。
だがすぐに奥へと進む。
天守へと向かう廊下は、すでに騒ぎを聞きつけた兵たちで封鎖されつつあった。
だがオレは......
斬り、斬り、斬り、斬る。
頭が吹き飛び、胸が裂け、腕が地面に転がる。
片膝をついた兵が「母上......」と呟くも、刃はその声すら斬り裂いた。
〈つまんねぇな、テメェら〉
壁に、廊下に、血が染み込む。
ついに最後の守りの一人を斬った瞬間、オレはふと足を止めた。
天守はもう目の前だ。
先ほどとは違う空気が、重く張り詰めている。
まるで、そこにいる誰かが、オレの存在を感じ取り、待ち構えているような気配だった。
〈フン......来るか、家康。今度こそ、てめェの血も骨も、すべてぶった斬る〉
刀は光を放ち、黒く鈍く震えていた。
まるで、満腹に近い飢えた獣のように。
天守へと続く通路の奥、でっけぇ御殿の扉がドンと聳え立ってやがった。
金箔の彫りもんがぎらついてて葵のご紋がやけに威張って見える。
そんな大層な扉の前で、オレはふっと息をついた。
「ここか、家康......」
声に出すと、なんだか空気がピキリとひび割れたように感じた。
そっと手ぇかけて、ゆっくりと扉を押し開ける。
重ったるい音が闇に溶けてくみてぇに響いて中からは一筋の虚無がこっちへ吸い寄せられてくる。
出てきたのは、贅沢三昧な広間だ。
黒漆の床にゃ、分厚い絨毯が敷かれ、壇の上には金屏風。
龍だの鳳凰だの、いけしゃあしゃあと天下泰平を描いちゃあいるが、オレにゃそんなもん、どうでもええ。
目が吸い寄せられたのは......ただ一つ。
屏風の前、ちょこんと座ってた白髪の爺様だ。
徳川家康。
その背筋、ピンとしとる。
まるでこの世を背負うみてぇに。
ゆっくり膝を立てて、扇子を取り出し、その先っちょをゆらりと揺らす。
「......何奴じゃ」
老いの中にも、抜け目のねぇ眼光。
まっすぐ、オレの刃を捉えた。
けどなぁ、もう止まらねぇんだよ。
オレはひとつも答えず、静かに歩を進める。
そしたら、家康の爺様がパァンと扇を床に叩きつけた。
「まさか......あの、妖刀か......」
驚き半分、悟り半分の声だったな。
さすがに戦国の世をくぐり抜けた将軍様よ、殺気だけで気づくとは大したもんだ。
今までお前の祖父と息子を傷つけてきたからな.....オレは。
だがな、今のオレにとっちゃ関係ねぇ。
ははっ、さて......この泰平の世に、血の華を咲かせるとするか。
オレが戦国時代に戻してやろう。
「......よかろう。ならば、ワシがそなたの刃、受け止めてみせよう」
おうおう、気合いだけは一流だな。
家康は銀の鞘を外して、月光に照らされた刃を抜いた。
光りゃ綺麗だが、遅ぇんだよ。
オレの斬撃が先だった。
家康の袖口が裂け、紅い血がポタポタと落ちてく。
床に小さな血の海ができた。膝を折る家康を、オレは無表情で見下ろした。
「次で終わりだ」
刃を振りかざした瞬間、家康は薄っすら笑いやがった。
痛みに耐えながら、それでも口を動かす。
「妖刀よ......刺すがよい。されど......その力の先に、何を求める?」
はっ。得るもんなんざねぇよ。
血と、恐怖と......それだけだ。
心の声が刃の音と共に消えていく。
もう一度踏み込み、喉元を狙って刃を突き出す。
ほんのわずか、皮膚をかすめただけで、あの爺様、呻き声を洩らす。
かろうじて立ち上がる家康。
血で袖を染めながら、それでも刀を手放さねぇ。
全く、往生際の悪いジジィだ。
そしたらだ、廊下の奥からどたばたと足音が聞こえやがった。
「将軍様!どこにいらっしゃる!」
「侵入者だ!抜け道を塞げ!」
ちっ、めんどくせぇ......。
舌打ちひとつして、オレは刀をゆっくり下ろした。
今、斬りかかってくる奴らなんざ、斬っても斬ってもキリがねぇ。
家康を睨みながら、ひらりと身を翻して後ろを向いた。
血の味、悪くなかったぜ。
家康よ......あんたも、しぶといもんだ。
この戦いの続きはまたいつか、な。
そのまま廊下を駆け抜ける。
追っ手の侍どもが刀を抜いて追いすがるが、斬りかかってきてもオレの身はすり抜けちまう。
まるで霞のごとく、掴めやしねぇ。
屋根裏へと抜けて、最後に見たのは、金の襖に映る自分の影だった。
外に出ると、夜風が顔を撫でてきやがった。
月は雲に隠れ、空はまるでオレの逃げ道を祝福してるかのように静かだ。
警鐘が鳴り響き、兵たちが庭にぞろぞろ集まり始めたからオレは瓦の上を蹴って、闇の中へと消えていった。
■
その頃、大広間では家康が血まみれのまま、なんとか体を支えて立っていた。
「......生きとるのか、あの妖刀は。いや......生きてるってより......あれは、災厄そのものよ......」
その言葉が広間にしばらく残ったままだった。
■
チッ......まだ、殺り足りねぇが......
オレは江戸城から退散してかなり離れた路地裏に身を隠していた。
周囲に敵の気配はない。
殺意を刺激するものも、刃を求める魂の叫びも、もうどこにも存在しなかった。
〈......ちっ、もう一人も残っちゃいねェ〉
ズタズタに裂けた武士の死体の山を思い出そうともせず、オレは小さく吐き捨てた。
深夜の冷気のなか、温かい血の匂いだけが生臭く漂っている。
そして.....その右手には、なおも"抜かれたまま"の村正の刀身が、ゆらりと揺れていた。
しかしその刃を見つめながら、彼の表情がふと揺れた。
あー......そろそろ、だな。
夜明けが近い。
月を仰いだその目に、一瞬、ほんのわずかだが"迷い"のようなものが宿った。
否、迷いではない。
己の肉体の"主導権"が、確実に、じわじわと戻りつつあるのを、オレは感じ取っていた。
〈このままじゃ......"彼奴"が戻ってくる〉
そう、彼奴......■■。
この体の本当の持ち主だ。
普段は無口でぼんやりしてるが、根っこには芯がある奴だと彼奴がオレを握った時にオレは感じた。
いけすかねぇ目をしてる癖に、生意気なこの体の"所有者"。
刀を鞘に戻せば.....■■が帰ってくる。
クソ......気に食わねぇ。
そう呟きながらも、オレは刀をぐっと持ち直す。
ギラギラとした妖気がまだ刀身に残っている。
刃は血を求めて震えており、鞘に納まることを拒むように抵抗を見せた。
だが、オレは少し口を歪めて笑った。
彼奴の身体は、まあ......気に入ってるしな。
ゆっくりと、鞘を腰に構える。
まだ喰い足りねぇが.....。
その瞬間、刀は完全に鞘に納まり、オレの意識は闇に落ちた。
<村正逸話#2>
村正といえば家康自身が被害にあった妖刀という事で有名ですが、実は徳川家に何度も被害をもたらしているのをご存知でしょうか?
徳川家康の祖父である松平清康が家臣に暗殺された際に使われたのが村正の脇差だったとされます。
また、家康の父である松平広忠も家臣に切りつけられた際に村正の脇差が用いられ、更には家康の嫡男である信康が自刃した際にも介錯に使われたのが村正の刀だったとされます。
家康が実際に負傷したのはいつか分かりませんが......この物語は泰平の世が訪れたばかりの時と仮定して進めています。