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< 一 > 醒

 ハンドルを握ると性格が変わる。

 刀も握ると性格が変わる。

16XX年、江戸。


(天候は良好.....か。最近はよく晴れているな。)


夕暮れの風は淡い橙色の光を運び、瓦屋根の隙間から差し込む残照が町並みに長い影を落としていた。


赤子のかすかな鳴き声が裏路地の方から聞こえ、魚売りの呼び声は通りの角を曲がると途切れ、その向こうで蕎麦屋の湯気混じりの笑い声が湧き上がる。


まるでこの街全体が、暮れゆく一日の終わりを惜しむかのように賑やかだった。


そしてそこには漂い落ちてきたかのように、一人の男が佇んでいた。


男の名は■■.......声を発さぬ青年である。


武家の家に生まれながらも、どこか朽ち果てた廃屋のようにひっそりとしており、まるで浮世離れした幽霊のようだった。


早い所、浮浪者のような存在である。


泰平の世が訪れた今、彼は武士としての一面を失いつつあった。


背筋は真直ぐに伸び、細身の体躯が着流しの裾をゆるやかに揺らす。


薄紫色の髪は肩口で切り揃えられ、だがその片側だけは小さな三つ編みとなって胸元へと垂れていた。


帯には何も差さず、ただ袴の裾を何度も翻しては歩を進める。


だがその歩みには武家の血を引く者の研ぎ澄まされた静寂があり、道端の石にも音を踏み鳴らせぬ慎ましさが宿っていた。


彼は武家の人間として生まれたにも関わらず、父親親の稽古以外で剣を振るおうとしなかった。


しかし彼の父親親は優しく、こうやってのびのびと彼が過ごせているのも父親親のおかげなのだ。


胸の懐に忍ばせた小さな木札を取り出し、そこに忍ばせた筆と墨を用いて文字を紡ぐ。


黒々とした線は、誰もが一目で意味を汲み取れる明確さを持ちながら、どこか儚げでもあった。


『平和だ』


彼が差し出す再利用された古紙で作られた短冊に書かれた文字を読むだけで魚売りの婆からは大きな笑い声が聞こえる。


「そうかい皺ひとつねえなあ」


町中に声を響かせない彼は、言葉を失った代わりに、ひと振りの筆跡が人々の心に確かな余韻を残す。


猫が足元にすり寄れば、彼は膝を折り、額にちょんと触れさせるように短冊を押し当てる。


そこには『今日は魚が安いよ』と記され、猫はくるりと尻尾を振って去っていく。


やがてその猫は、近くの露店へと飛び込み、魚屋の兄ちゃんに甘えた声で鳴き、兄ちゃんは苦笑しながら振り向いて「こいつめ」と猫を撫でる。


彼は遠巻きにその様子を見つめ、眉だけをわずかに上げて『では、お先に』と書き残し、また歩を進める。


(おっ.....素振りの練習か。武士の子か.....?)


灯りがともり始めた行灯の下では、小学生くらいの子どもたちが竹刀の素振りを練習していた。


師匠らしき年老いた男が「もっと腰を入れろ」と声を上げるが、子供達の声はまだ未熟だ。


彼は足を止め、短冊に『継続は力なり』とだけ書き、行灯の灯りに翳して子どもたちへと向けた。


子らは一瞬目を輝かせ、その文字を指さし、お互いに頷き合う。


やがて師匠がにっこりと笑って「ええ言葉じゃ」と言い、稽古の声が再び響きだした。


夕暮れが夜に変わりつつある頃、彼の行脚は終盤へと差し掛かる。


町外れの石畳を辿り、古びた屋敷の門柱が目に入る。


彼はその屋敷の中に迷わず入った。


屋敷の中庭には、桔梗とすすきがひっそりと茂り、水琴窟の水音が静かに響いている。


提灯の揺らめきがその水面に映り、まるで月が水底で揺れているかのようだ。


彼はその中庭を一瞥すると、薄紫の髪をゆるく揺らしながら玄関へと歩を進めた。


木製の門扉は古びて軋みを上げ、鉄製の錠前は何度も打ち直した跡があるが、それでも抗うように門扉は堅牢だった。


(早く修理せねば近所の子にオンボロ屋敷とまた言われてしまうな......)


彼が足を踏み入れると、庭の砂利が「ザリザリ」と低い音を立てて下駄の木底を迎えた。


質素ながら手入れの行き届いた庭には一本の梅があり、その細い枝は風にそよぎながら淡紅色の花を静かに揺らしている。


石灯籠のやさしい影が、梅の花びらのひとひらひとひらにふわりと降り注いでいた。


そして彼は戸を開けると玄関で靴を脱ぎ、無言のまま一歩ずつ畳の廊下を進む。


そして目の前に現れた襖をひそやかに開けると、囲炉裏の赤い火がゆらめき、部屋全体を温かな橙色に包んでいた。


正面の畳の上には深い皺の刻まれた白髪交じりの父親が座り、細い湯気の立ち上る湯呑みをひとつ手にしていた。


長年にわたり剣を握りしめてきた武士の姿勢は、老いてなお真っ直ぐで、静かな威厳を放っている。


「……帰ったか」


父親の声は低く、しかし重みを帯びて響いた。


(父親上、もう少しリアクションくださいよ......可愛い息子の帰還なのに。)


彼は無言で頭を下げ、懐から小さな木札を取り出した。


そこに添えられた硯と筆を使い、短い文をさらさらと滑らせる。


『ただいま帰りました。』


墨の香りがかすかに漂い、父親の頬に柔らかな笑みが浮かぶ。


父親はその札に目を落とし、かつて母が見せてくれた優しい顔つきを思い出しているかのようだった。


「町はどうだった?」


父親はもう一度口を開いた。


彼はふたたび筆を取り、慎重に一文字ずつを綴る。


『猫に話しかけておりました』


文字を掲げると、父親はくつくつと声を漏らして笑った。


その笑いには、年月を共に歩んできた者だけが持ち得る温もかさがあった。


「お前の母も、よく猫に話しかけとったな。まるで猫が返事をするかのように話しかけるものだから、近所の者がびっくりしておったぞ」


(.....本当に血筋はバッチリ猫好きだ。母上には......会ったことないけど、猫語話せたんですね.....)


部屋にはしばし静寂が訪れ、囲炉裏の火が「パチリ」と細かな音を立ててはじける。


柔らかな火の粉が宙を舞い、閃光のように茶色い畳へと降り注いだ。


そのささやかな瞬間に、過ぎ去った日々のすべてが交差するかのように感じられた。


『父上。自分は......今後、どうすればいいのでしょうか?武家の長男とはいえ.....このまま剣術をやらないままでもいいのでしょうか.....?』


彼は少しだけ俯き加減で文字を書いた短冊を見せる。


ずっと放浪気味な自分を自嘲しているようにも見える文字の濃さだ。


「.....そうだな、お前の好きなようにやるがいい。戦の世はもう終わった。これからは武士だけではなく他の身分の者も自由に生きることが出来るような、平和で自由な世が待っているだろう。だからこそお前には血筋と考えに囚われない自由な人生を歩んで欲しい。だから.....出来る限り好きにさせているんだ。でも....いざという時の為に週三で稽古してやってるから.....武士としての誇りは捨てぬようにな。」


(成程、父上なりに考えはあったのですね......)


しかし、父親の笑みはゆっくりと消え、額に皺を寄せる。


目の奥には深い影が落ち、空気が微かにひんやりと重くなる。


「……そろそろ、話しておかねばならんことがある」


その低い声は、まるで遠雷のように彼の胸に響いた。


彼は筆を握りしめたまま、一瞬視線を伏せる。


父親の言葉の重さが、静寂の中でゆっくりと膨れ上がっていく。


「彼……その名は、今日限りで捨ててもらうかもしれん」


彼は眉をひそめる。


驚き、困惑、それとも覚悟か。


父親は立ち上がり、床に散った火の粉をひとつ避けると、部屋の奥に置かれた古びた箪笥へと歩み寄った。


箪笥は深いこげ茶色の漆が剥げ、幾度も修繕された引き出しの継ぎ目がかすかに歪んでいる。


その錠前には厚い鉄の鍵が差し込まれ、まるでこの家の秘密を守り続けてきたかのように重々しい存在感を放っている。


「開けるぞ」


父親はそう呟くと、ギィ……と長い軋みを伴って錠前を外した。


箪笥の扉を引き開けると、中からはもう何十年も時を止めたかのような埃の匂いが立ち上る。


包まれた長い布が見え、その布は幾重にも丁寧に巻かれ、まるで大切な何かを守るかのように硬く結ばれている。


父親はゆっくりとその布を解きほぐし、中心に息を潜める「それ」を取り出した。


黒漆が全ての光を吸い込むかのように深い艶を放つその鞘は、鋼と漆の境界すら曖昧にさせる不思議な質感を帯びていた。


柄には銀細工が複雑に施され、鍔は通常のものとは異なる、どこか歪で異形の形状をしている。


まるで意志を持ってうねる影のように、見る者の心をざわつかせる異様さがあった。


父親は静かに息を吐き、二重に包まれた刀を両手で捧げ持つ。


囲炉裏の炎は揺らめいて、その銀細工をきらりと瞬かせた。


「これが……お前の祖先が、命と引き換えに残した物だ。この刀の名を....."村正"。代々、この家の長子にだけ継がれてきた。この刀は『誰にでも渡せるものではない』。それだけは忘れるな」


彼の胸に、ひどく重いものがのしかかった。


肌に触れる黒漆の冷たさよりも、肩を押さえつける因縁の重さがずしりと堪えた。


彼は静かに瞳を閉じる。


父親はなおも言葉を継ぐ。


「受け取るかどうかは、お前自身の意志に委ねる。だが……絶対に抜刀するな。」


囲炉裏の火は今や盛りを過ぎた紅蓮の炎となり、燃え尽きようとしている薪の内側から淡い白煙が立ち上り、天井の梁へとゆっくりと吸い込まれていく。


室内には二人の呼吸だけがこだまするようだった。


彼は覚悟を決めたように、ゆっくりと両手を伸ばした。


その手は迷いなく黒漆の鞘を包み込み、そして刀を鞘ごと受け取った。


その瞬間、掌に伝わる重みは単なる鉄の質量ではなく、遥かな過去と未来の声なき囁きが押し寄せるような圧迫感を伴っていた。


(駄目だって言われると.....抜刀してみたくなるのが人間なんですよ.......父上。特に刀身が気になるな.....)


震える手で柄を握り、刃を鞘から引き抜く。


その刹那、ギィンと金属が空気を裂く音。


長い年月を封じられていた魂が、解き放たれたような衝撃が全身を貫く。


冷たい、でも疼く。


鼓動が、血液が、刃の先へと引き寄せられる。





               "お前か"。




脳に直接言葉が伝わり、彼の視界は白く霞み、鼓膜が振動する。


(え....)


言葉とともに、冷気が肌を這い、筋肉がひとりでに動き出す。


彼は抗おうとしたが、意識は闇の中に沈んでいった。

<村正逸話#1>


この物語の舞台は関ヶ原の戦い・大坂(夏)の陣によって東軍と西軍との決着がついて、ひとまず落ち着いた時(江戸時代初期)になります。


西暦に直すと、大体1615年5月8日(前者は豊臣家が滅んで天下が徳川のものになった日(と言われる))から1616年4月17日(徳川家康が死んだ日(と言われる))までのどこかになります。


つまり「戦が終わって平和になり、家康さんはまだギリギリ生きてる時」と言う感じの江戸時代です。

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