< 十五 > 三つ目
風切は息を殺し、冷たい空気の中で前へ進む。
胸にはかつて盗賊として走り回ったときの傷跡が刻まれている。
鴉天狗として正式に認められた存在ではない。
師匠に背き破門された落ちこぼれだ。
「藤代......出てこいよ。やっと思い出したぜ。お前の詳細。藤代の怨霊.....藤代御前!!」
藤代御前はかつて、実在した女性。
愛する夫を失い、恨みを呪いとして込めた。
そして、その呪力を制御しきれず、己を蝕んだ。
藤代の怨霊となって暴走し、ついに猫目堂書房の本に閉じ込められていた。
藤代の怨霊の姿は深く裂け、顔面の皮が剝がれたようで、眼球がぐるりと乾いた瞳孔を回す。
長く垂れた髪に墨がにじみ、衣は古びた和絵巻のように裂け、闇の文字......藤代が綴った呪詛の言葉が漂う。
「呪いを......私は、呪いを贈った。夫の仇に......あの男に!しかし力が強すぎたんだ。制御できなくなった。だから私は、私自身を滅ぼすほど......!」
その声は震え、悲痛に満ちていた。
だが、すぐに狂気が混じる。
藤代の怨霊が吠えると、屋根裏の空間が歪んだ。
古書が宙へと吸い上げられ、墨の頁が闇の渦を形成する。
それは藤代の記憶と呪いが具現化した現象だ。
「お前.....藤代御前は絶世の美女とは聞いていたが....夫を殺した相手への復讐のためにこんなにドロドロになる必要はないと思うし......」
風切はすかさず構えた。
「やっぱ......ヤバい奴じゃねぇか」
風切の呼吸は安定している。
背中から羽が顔を覗かせ、かつての鴉天狗の面影を残す。
藤代の怨霊の放つ墨の呪文が襲いかかる。
文字の魔弾、黒い墨が槍のように風切を貫く。
だが彼は空中へ跳ね、一瞬で床から浮き上がる。
梁に着地し、そこから屋根の斜め梁へと移動する。
風が走る。
右手を前に突き出した瞬間、無数の風刃が形成され、藤代の怨霊に向かって旋回するが、藤代は苦悶の咆哮とともに、自らの身体を墨文字へと変えて回避する。
「見え透いた術式よ......」
扱いきれず暴走する怨の力が炸裂し、屋根裏全体を呪符の渦でほとんど埋め尽くした。
「見え透いた術.....?はっ、それは違うぜ!」
だが、風切は決して怯まない。
盗賊として培った身体能力と精神力で、渦の中を躱しながら狭い屋根裏部屋を飛び回る。
「覚えてろ......俺は、鴉天狗なんかじゃなくても、俺は俺だ!」
舞い上がる渦の中、風切の目が金色に輝き、背後に鋭い黒い羽が展開する。
千の風の羽根が飛び出し、藤代の怨霊に襲いかかる。
羽根は紙呪符を打ち破り、藤代の怨霊の身体の中心へと襲いかかる。
藤代は悲劇の影を帯びた目で唸る。
襲い来る千羽から攻撃を防ごうとするが、風切の「物語」はそれを不要とする力を持っていた。
「お前の呪いは強かった。だが俺の否定されても続ける意志は、もっと強ぇ」
風切は宙を回転し、細かく羽根を散らして渦を崩す。
符と風刃が激しく衝突し、轟音が屋根裏に響き渡る。
梁が折れ、古書が山のように崩れ落ちる。
その音すら、双刃の旋律へと変換される。
「それで、どうなるってんだ......!」
風切は額から血が流れていたが、目に宿った光は決して消えていない。
気配が一段と冷えた。
しかし、風切は笑った。
それは、自嘲でも嘲笑でもない。
ただ、魂の奥底から沸き上がる覚悟の笑み。
「俺は.....」
すっくと立ち上がり、ボロボロの羽織を片手で脱ぎ捨てる。
背中に広がる、真紅の烙印のような痕。
「もう、誰にも背を向けねぇって、決めたんだよ」
その瞬間だった。
風切の背に、黒々とした鴉の羽が広がった。
まるで炎のように黒く、闇よりも濃く。
空気が震え、古い梁が軋みを上げる。
風切の羽がばさりと広がった瞬間、空間が反転した。
闇が渦を巻き、屋根裏に吹き荒れるはずのない風が、螺旋状に渦を巻いて藤代の怨霊に殺到する。
藤代の白い手が数十本、一斉に襲いかかってくる。
「千の手を持とうが、千の舌で呪おうが風には敵わねぇよ」
風切が片手を翳すと、その周囲に漆黒の羽根が舞う。
瞬間。
「妖術・風来陣。」
羽根たちはひとつの円陣を成し、まるで魔法陣のように空間を縛った。
藤代の怨霊がもがくたびに、その体に羽根が突き刺さり、怒りの咆哮が屋根裏に響く。
「おのれ、おのれえええええええええええええッ!」
藤代の身体が歪む。
壁を這い、天井に浮かぶ。
それら全てが風切を睨み、呪詛を浴びせる。
しかし風切の目は、迷いを捨てた鋭利な刃のようだった。
「......この技は、禁じ手なんだけどな」
羽ばたきと同時に、空間そのものが揺れる。
「妖術・一竿風月」
風切の声が、囁くように、けれど確かに空気を裂いた。
ふ、と風が吹く。
その風は不自然だった。
まるで、どこからともなく、あるいは地の底から這い上がるように、風の粒子が空間を侵食していく。
木々の囁き、虫の声、水のせせらぎ。
藤代の怨霊の目と耳に届くそれらは、確かにそこに存在しない自然の音だった。
(藤代の怨霊が動揺している......なんだ.....?何が見えているんだ.....?)
藤代の怨霊の視界から見えるのは.....小川が流れ、笹の葉がざわめく。
草いきれが鼻をつき、虫が羽音を立てる様子。
仄かに香るのは、夜露と、どこか懐かしい田舎の香り。
あり得ない。
こんな場所ではあり得ない。
けれど、その自然はそこに在った。
正確には.....そう錯覚させられていた。
「……ここは……どこだ……?」
その時、草むらの奥で何かが揺れた。
それは風だった。
風が、草をかき分け、木を鳴らし、空を唸らせる。
だがそれは自然の風ではない。
斬風だった。
風が襲う。
それは目に見えぬ刃となり、次第に竜巻のような刃となって、藤代の怨霊を巻き込んでいく。
「ぎ、ぎゃああああああ!!」
藤代の怨霊が地を這うように逃げ出そうとする。
けれど、草むらが邪魔をする。
木の根が足を絡め、霧が視界を覆う。
いや。
そんなもの、本当はどこにもない。
すべては錯覚。
風切が放った妖術が作り出した、虚構の楽園。
一竿風月。
それは、見る者を自然の中へと導く、錯視と風の術。
その名の由来は、竹竿一つ持って風月を楽しむ、という詩的な境地からである。
だが、風切が見せるのは、あくまで地獄の庭園である。
「……どーした?自然は好きか?風は気持ちいいだろ?」
風が吹いた。
その言葉と共に、藤代の怨霊・藤代御前は、消えていった。
跡には、ただ、静けさだけが残った。
屋根裏に差し込む、壊れた隙間からの光が、黒羽の少年を照らしている。
「......はぁ。疲れた......」
風切はその場に座り込んだ。
大妖術の使用には大きな代償が伴う。
今の彼の妖力は、残りわずか。
それでも。
「やっぱ、こういう綺麗な妖術は向いてねぇわ。せっかく綺麗な景色にしたってのに、誰も風情を分かっちゃくれない」
ぽつりと漏らしたその声は、どこか清々しく、そして優しかった。
「でも......誰かを守るために、強くなるってのも......、過去を踏み台にして覚醒するのも......悪くねぇ」
羽根がひらりと落ち、風切はしばらく黙って立ち尽くしていた。
「......ありがとう」
独り言のようにつぶやく。
床には塵と古書の破片が散らばる。
だが、そこに漂うのは恐怖ではない。
淡い光と、清浄な空気だ。
風切は羽根をたたみ、息を整える。
金色の瞳がゆっくりと暗い天井を見上げる。
「なんとか.....なったぜ......」
彼はもう、盗賊でも落ちこぼれでもない。
自分の物語を、自分の力で書き続ける覚悟を持った"一人の鴉天狗"だ。
『お疲れさん。』
村丸は風切に駆け寄ると自分の羽織をかけた。
「へへっ!ありがとうな!あとで洗って返すぜ!」
屋根裏部屋の暗闇に、もはや藤代の気配はなかった。
だが。
「つーかよぉ......ずっと思ってたんだが.......何か藤代の怨霊の気配がおかしいんだ。」
風切は知っていた。
「もしかして.....逃げた......?」
風切はまだ切れかかった呼吸を無理やり整えた。
漆黒の残光を残しながら、巨大な影が煙のように散っていく。
だが完全には消えていない。
まだ、どこかに逃げ延びた。
「どこへ......?」
風切は身を翻す。
その瞬間、背筋が凍るほどの悪寒が走った。
下だ。
一階。
店主がいる、あの場所へ。
「......まさか......っ!」
動揺に舌打ちすら忘れ、風切は崩れかけの足を無理やり動かした。
(.....!)
すぐに村丸も、その気配を察したのか、何も言わず彼の後を追う。
傷だらけの身体に鞭を打って、階段を駆け下りる。
板の軋む音。
埃が舞う。
夜の静寂が再び戻っているのに、なぜか息苦しい。
(間に合え......)
風切はただ、それだけを祈っていた。
「藤代の怨霊は完全に消滅した」と思わせておいて、実は"本体"は、逃げていたのだ。
虚像や残像ではなく、核そのものが、風切たちの攻撃を受け流していた。
そして、最も隙のある場所へ向かっていた。
今、この建物の中で最も無防備な人間.....
「寝子......!」
村丸も何処か険しい目をしている。
無言で頷き合い、二人は階段を跳ねるように駆け下りた。
一階。
見慣れた木造の入り組んだ本棚達の間の通路を駆け抜ける。
そして少し開けたところに.....
確かに、彼はいた。
風切に青年の姿をした、何処か胡散臭いあの初老の男。
しかし、妖街の人妖々に慕われる「優しき店主」。
しかし、何かが違っていた。
「......寝子......?」
風切が声をかけた。
けれどその瞬間、村丸の背筋に冷たいものが走った。
(違う。寝子であって寝子じゃない.....)
寝子は動かない。
ただ、椅子に座ったまま、微動だにせずこちらを見ていた。
闇が揺れていた。
寝子.....いや、かつて寝子だった何かの身体から、瘴気が染み出していく。
その身体は、すでに人のそれではなかった。
爪は伸び、牙が覗き始めた。
「これが......寝子の......本性......?」
風切は息を呑む。
(まさか、人間じゃなかった.....?)
村丸も隣で筆を止めたまま、目を見開いていた。
だが、その変化はまだ始まりに過ぎなかった。
「ふ......ふふふふ......」
異様に低く、喉を鳴らすような笑い声。
それは猫の唸りにも似ていた。
「ずいぶんと長いこと......人間ごっこをしたものだ。」
声が重なる。
一つは老いた店主のもの。
もう一つは、深い底なし沼のような藤代の怨霊の声。
だがその奥底には.....もう一つの第三の声があった。
それは獣の本能、あるいは呪われた妖怪.....猫又のものだった。
頭には何処か恐ろしく見えてしまう猫耳が生え、背後から2本の尻尾が現れた。
「尻尾が......2本......猫又......?!」
(猫又.....)
風切が呟いた瞬間、空気が変わった。
<村正逸話#17>
寝子は、表向きは物腰柔らかく飄々とした青年で通っていますが、その正体は人間ではありません。
本来の彼は「猫又」と呼ばれる妖の一種です。
長く生きた猫が変化した妖であり、長き時を妖世で生きてきた存在です。
ですが、彼は自らの正体を初対面の人間に明かしたことはないです。
理由は単純かつ切実。
人間は妖怪を恐れる者が多いからです。
(その為、いつもは人間の青年の姿に化けている。)
特に、彼の額に宿る「第三の目」。
これは彼の妖力の源であり、弱点の一つでもあります。
その目をうっかり正面から覗き込めば、一般妖怪や一般人間のたちまち意識はぐらりと揺らぎ、正気を保つのも難しくなり、最悪の場合、狂死します。
だからこそ、寝子はいつも額を前髪で隠しています。
そして何もないかのように、店主として日々を過ごしています。
人間と妖は同じで、どこか違う。
だけど、それでも本を手にする者たちに、安心してこの書房に立ち寄ってほしかった。
恐れではなく、静かな興味と好奇心を手に、古びた扉をくぐってもらいたい。
だから彼は今日も、「ただの気の抜けた青年」の仮面を被って、のんびりと椅子に腰掛けています。
尚、胡散臭さは健在な為、人間には好かれていない。
(一部の人間を除く.....)




