< 十四 > 破門
風切の過去編。
俺は、風切。
天狗の里で生まれ、鴉天狗として修行を積んできた。
まだ幼かったあの日。
俺は、山の奥の修験道場で暮らしていた。
俺には名がなかった。
誰も本当の名を呼んでくれなかった。
師範には「鴉」と呼ばれ、兄弟子には「クソガキ」、姉弟子には「うるさい」。
でも、ある弟弟子は俺の事慕ってくれてさ。
それが、俺の世界だった。
だが俺は、それでもめげなかった。
うるさく笑い、走り回り、誰よりも早く刀を覚えた。
飛ぶのも上手かったし、隠れるのは得意だった。
「風切」。
そう名乗ったのは、自分の意思だった。
だが、今思えば、あの瞬間からすべてが始まっていたんだ。
その日も、俺は山の上で修行をしていた。
羽織を羽ばたかせて空を舞い、風を切って飛ぶ感覚は、何度繰り返しても飽きることがなかった。
◇ ◇ ◇
俺は鴉天狗としての自負と自由を一身に感じていた。
だけど.......俺は、天狗の中ではちょっと異端だった。
真面目な兄弟子・姉弟子たちの中で、俺はいつも怒られてばかりだった。
「風切、お前は風を舐めている」
「正義とは、己を律する力だ」
そんな言葉を何度も聞いた。
でも俺は笑ってた。
だっていつも俺の中には俺なりの正義がある。
そうずっと信じてたから。
山の上から見える人里の光景は、ちっぽけで、それでいて美しかった。
夜になれば、灯籠や焚火の光がぽつぽつと並び、まるで地上に星が降りたようだった。
けど、ある日。
俺は小さな人間の女の子が小さな花畑で蹲って泣いているのを見つけた。
小さくあしらわれた花柄の少し汚れた着物、痩せた体、でも真っ直ぐな目だけが印象的で.....
まあ、名前は憶えていないけど。
俺が風の巡りを見に里へ降りた時、たまたま村外れの林で昼寝してたら、出会ってしまった。
「......お兄ちゃん、空、飛べるの?」
最初は驚いた。
普通の人間なら逃げるのに、女の子は目を輝かせて聞いてきた。
人を食う妖怪だって居るのにな。
「おう、飛べるよ」
そう答えた俺に、彼女はぽろぽろと涙を流した。
「いいなぁ。私も飛べたらなぁ......飛べたなら、こんな寒い家から、どっか遠くに行けるのに」
その言葉が、俺の胸に刺さった。
聞けば、少女は辛い暮らしをしているという。
火もない。
飯もない。
布団すらろくになくて、毎日が寒くて、怖くて、苦しい。
いつ二度目の死を迎えて冥界送りにされないかずっと怯えていたようだった。
「天狗って、お金持ってるんでしょ?宝とか......いっぱいあるんでしょ?.....いいなぁ。」
その言葉に、俺の心がぎしりと音を立てた。
天狗の宝庫。
そこには山の神々から預かった財宝が山ほどある。
だけど、それを勝手に使えば余裕で重罪。
更には簡単に見えない透明な風の結界で守られていて、誰もが恐れていた。
が、俺なら結界を壊すくらい容易い事だ。
今までの修行の成果を試すには丁度良かった。
俺はその夜、少女と別れてからずっと空を飛んでいた。
寒い風が、ずっと俺の羽織を叩いていた。
「......どうすりゃいいんだよ......」
目の前の子を救いたい。
ただそれだけなのに、俺の信じてきた鴉天狗の道は、それを許さない。
天狗の正義とは、自らを律する力、秩序を守る心だという。
でも。
「困ってる奴を見捨てるのが正義ってんならよ......そんなもん、くそくらえだ」
その夜、俺は宝庫の扉に向かった。
風の結界を越えるのは簡単だった。
俺は風を知っていると思っていた。
誰よりも。
風を斬り、結界の隙間を縫って静かに忍び込んだ。
小判をいくつかと、米袋、あと薬草を。
そして、あの子に似合いそうな緋色の反物を。
すべて、懐に入れて持ち出した。
これが、俺にとって初めての盗みだった。
「......少しでも、あいつが笑えたら、それでいい」
そして俺は朝焼けとともに、村に戻った。
そして俺は女の子の家の前に包みを置いて、そっと立ち去った。
名乗りもせず、風のように消えた。
それで終わるはずだった。
だが、三日後。
俺は山に呼び戻された。
「風の結界が越えられた」「宝が奪われた」「犯人は天狗」
そう言われて、真っ先に疑われたのは俺だった。
だけど、否定はしなかった。
「おう。俺がやったよ」
「何故じゃ。」
「人を助けたかった。それだけだ。」
「......風切、お前は鴉天狗の道を外れろ。破門じゃ。」
「フン。上等だぜ。」
その瞬間、風が止まった。
破門。
その言葉を聞いた瞬間、まるで地面が抜けたみてぇに、心の底からすべてが崩れていった。
身体中の筋肉が一斉に強張って、背中に冷たい汗が流れた。
何処かで「そんなはずはない」と思っていたし、「いずれ許される」とも思っていた。
けど、その考えは甘かった。
砂糖菓子よりも。
そうか。俺は本当に、天狗じゃなくなったんだなってその時身に染みて分かった。
肩から羽が抜け落ちるような、そんな錯覚すら覚えた。
山の風が吹き抜けて、俺の羽織をはためかせる。
いつもなら清々しいはずの山の空気が、いまは鉛みてぇに重い。
息を吸っても吸っても、胸が詰まったまんまだ。
「風切、お前は......もう弟子ではない」
あの老天狗の、飾り気のねぇ声が頭の中にこびりついて離れねぇ。
俺は、言い返そうとした。何かを叫び返そうとした。
けど.....なんか声が出なかった。
喉の奥に何かが詰まって、吐き出すことも、飲み込むこともできなかった。
あの瞬間、俺は風の音だけを聞いていた。
弟子たちの視線が突き刺さる。
あいつら、誰一人として、俺を庇おうとしなかった。
いや、まあ当たり前か。
俺は「禁を破った」のだから。
でも。
理由はあった。
どうしても、必要だった。
あの子に渡すためだけだったのに。
けど、理由があったところで、掟は掟だ。
「困っている人を助けるのが天狗だろうが。」
小さく、そう呟いた。
誰に届いたわけでもねぇ。
だからその言葉自分に言い聞かせるように言ったつもりだった。
けど、その言葉にすら自信が持てなかった。
助けたかった。
ただ、それだけだった。
なのに、それが間違いだったってことか。
視線を落とすと、草履の先が濡れていた。
朝露じゃない。
自分でも気づかないうちに、涙がこぼれていたんだ。
どうして、こんなことに。
頭の中が真っ白になった。
怒りじゃない、悔しさでもない。
どうしようもない虚しさが、胸の奥をひたすら満たしていた。
俺はここで育って、ここで飛ぶことを覚えて、ここで鴉天狗としての生き方を教えられた。
それが、終わった?
じゃあ俺は、これからどうやって風を切って飛べばいいんだ?
その後、山を下りろと言われた。
俺は無言で頷くしかなかった。
言い返す力なんて、残ってなかった。
頭を下げて、背を向けて、ただ歩いた。
踏みしめる土の音が、やけに耳に残った。
山道を歩きながら、ずっと考えていた。
あれで良かったのか?
俺のしたことは、本当に間違いだったのか?
誰かを助けるために禁を破るのは、そんなに罪深いことなのか?
答えなんて出なかった。
ただ、胸の奥に燻るような痛みだけが残った。
言葉にならない、もどかしさと哀しさ。
自分自身を責める気持ちと、周囲を恨むような気持ちが、ぐるぐると渦を巻いていた。
そうして、山を下りた。
俺は鴉天狗じゃなくなった。
鴉天狗じゃなくなって、はじめて「風切」という名が重くなった。
自分で選んだ名前だったくせに、いまはその名が、呪いのようだった。
「風を切って飛ぶ鴉天狗」。
その名に、もうふさわしくねぇ。
そう思った。
町に降りても、居場所なんてありゃしなかった。
鴉天狗の力を持っていながら、人に混じって生きるなんて、滑稽だ。
どこに行ってもよそ者扱いで、誰も俺の話なんて聞こうとしねぇ。
誰かのために動こうとしても、疑われて、追われて……まるで罪人だ。
……あの夜だった。
屋根の上で、空を見上げていた。
星が綺麗でな。
けど、いくら見ても、何も届かねぇと思った。
そこで俺は、あの子の声を思い出した。
震えていた声。
あの時、必死で話してくれた声。
それが耳に蘇った。
俺は守ったんだ。
あの子を。
誰も助けてくれなかった中で、俺だけが動いた。
そうだろ?
だったら……だったら。
俺のやったことは、間違ってなかったんじゃねぇか?
……いや、鴉天狗としては間違いだったかもしれねぇ。
でも、"風切"としては、正しかった。
その時、胸の中で何かが音を立てて崩れた気がした。
そして、同時に何かが静かに芽生えた。
天狗じゃなくたっていい。
俺は、俺の正義を通してやる。
たとえ誰に否定されようが、誰にも理解されなかろうが.....助けたい奴がいるなら、助ける。
それが「義」に背くなら、俺は「外道」と呼ばれたってかまわねぇ。
でも、笑ってくれたなら。
「ありがとう」って言ってくれたなら。
それで十分だろ。
……そう思えた。
そうして俺は、義賊になった。
風切として、空を飛ぶことを選んだ。
破門は、終わりじゃなかった。
あれは、始まりだったんだ。
鴉天狗じゃなくなった俺が、本当の意味で「人を救う」ための、最初の一歩だったんだ。
鴉天狗じゃなくても、空を飛ぶ方法なんて、いくらでもある。
でも.....なんで大人って、あんなに信用できねぇんだろうな本当に。
大人は昔から嫌いだった。
いや。
正確には昔は信じてたんだ。
信じて、信じて、信じた結果が、裏切られただけだ。
そのうち嫌いになるってもんさ。誰だって。
まだ俺が破門されたばかりの頃。
世の中は広くて、眩しくて、ちょっと怖くて.....でも、助けを求める奴らがいっぱいいるって思ってた。
助けようとして、近づいて、話して、笑って……そして、何かを奪われた。
藤代の怨霊も大切な何かを奪われたんだろう。
何故俺がそれを分かってやれなかったんだと今でも思っている。
あいつは、いい大人だったよ。
慈善家って肩書きの、立派な人間。
孤児たちを集めて、寺子屋を開いて、読み書きを教えていた。
ちょっと腹が減って山を降りた俺に、握り飯をくれて、「困ったらいつでも来なさい」なんて、まるで親鳥みたいに言ってくれた。
最初は疑いもせずに、それが「優しさ」だって思ってた。
山の上にいる天狗たちが教えてくれなかった、暖かい何か。
その優しさを信じて、俺は毎日手伝いに行った。
そんなある日、倉に入ったら妙な光景を見ちまった。
あの「いい大人」が、子どもたちが集めた古着や薬草や小銭を.....全部、酒と博打に使ってやがった。
しかもそれだけじゃない。
笑って話してた子どもたちを、よその町の金持ちに売ってた。
小間使いとか、嫁入りとか言ってな。
その瞬間、俺の中で「大人」ってやつは完全に全部、塗り替えられたんだ。
善い顔して、笑って、裏では平気で誰かを喰らう。
きっと、そういうもんなんだろう。
そんな事しなければ生きていけないということは分かっている。
分かっているけど。
辛いし、悲しい。
「仕方ないことだよ」と言われるたびに、奥歯が軋んだ。
「誰だって生きるためにやってるんだ」と慰められるたびに、目の前が真っ赤になった。
その後、あいつは涼しい顔で「そんなことはしていない」と抜かした。
ならば証拠を突きつけた。
証人を連れてきた。
それでもあいつは「そんなはずはない」と言った。
……そう。
大人ってのは、間違いを認めないんだ。
謝るくらいなら、嘘を吐く。
自分を守るためなら、誰だって売る。
笑って、手を振って、裏では毒を煮る。
それからだよ。
俺は人の懐から金を抜くようになった。
ただ、悪い大人からしか取らねぇ。
持ってるだけで、他人を傷つけるような奴からだけ。
そんなことしてたら、名前が広がってった。
「風切」って名の義賊がいるらしい、ってな。
俺は別に正義の味方じゃねぇし、村丸のような未来の英雄義賊にはきっとなれないと思っている。
けど、子どもたちがせめて笑って暮らせてるなら、それでいい。
……でもさ。
ほんとは怖ぇんだよ。
また信じたら、また裏切られるんじゃねぇかって。
あの時みたいに、踏みにじられるんじゃねぇかって。
だから、俺は大人が嫌いなんだ。
誰かにすがって、信じて、また全部、崩れちまうのが……怖いんだよ。
.....だから、俺は.....義賊として暗躍し、アイツらを見返して俺を破門させた事を後悔させてやりたい。
いや、見返してやる。
そう思っていた。
◇◇◇
「......あー......だっせぇな......俺。」
風切は血だまりの中、笑った。
頬に返り血。
胸に残る焼けつくような痛み。
意識を取り戻した、とすぐに分かった。
意識を失っていた時、風切は懐かしくも、何処か苦しさすらも感じられることを思い出した。
しかし、状況は変わらない。
意識は朦朧とし、視界の輪郭が滲んでいる。
身体のあちこちから血が流れていた。
腕が動かない。
地に伏したまま、藤代の怨霊が迫る足音だけが、乾いた音を刻んでいた。
「くそ、俺......ここまでか......よ......」
ぽたり、ぽたりと、地に滴る血の音すらも遠く、まるで深い水の底に沈んでいくようだった。
不思議と恐怖はなかった。
笑えるくらい、静かだった。
ただ一つ、胸の内に疼くのは悔しさだった。
何も守れなかったこと。
師匠に修行の恩返しが出来なかったこと。
心で呟いたその時だった。
すっと風が、戻った。
ほんのわずか。けれど確かな風。
それは天狗としての本能が告げていた。
風が、誰かの存在を運んでくる。
重たい瞼を無理やりに押し上げると、そこには.....屋根裏部屋の外に居たはずの村丸がいた。
静かに立っていた。
怒りも悲しみも、憐れみも浮かべない顔。
ただ、奴はそこにいた。
だが、村丸は何も言わない。
彼は元から声を発さないのだ。
代わりに、懐から一冊の小さな帳面と、墨筆を取り出した。
しゃり、しゃり、と筆が紙を擦る音が、風の音に紛れて届く。
次の瞬間、村丸はその帳面を風切の前に差し出した。
ぼやけた視界に、ひとつの文字列が映った。
『まだ、お前の刃は折れちゃいない』
刹那、風切の心臓が跳ねた。
胸の奥に火が灯ったような、そんな衝撃。
村丸はゆっくりと筆を走らせて、さらに続きを書き記してゆく。
『お前に"正しさ"なんて求めちゃいない』
『お前は、盗んで、逃げて、笑って、それでも今、ここに立ってる』
『それが、お前だけの誇りだろう』
風切は目を見開いた。
涙が何故か止まらなかった。
ずっと、誰も言ってくれなかった。
自分が笑うことを、誰かのために戦うことを、バカだ、偽善だと嗤われることはあっても。
それを「誇り」だと呼んでくれる者は、いなかった。
「村......丸......」
かすれる声で名を呼ぶと、村丸は、にこりとも笑わなかったが、確かにその目を細めた。
『行け、風切。風はまだお前に味方してる』
その瞬間、風が爆ぜた気がした。
大気が震え始める。
風切の背に、黒羽がばさりと広がった。今まで広げること無く、お飾りのような物になっていたが、それを今、広げたのだ。
目に力が戻る。足に熱が通う。
「......ッし......ははっ!」
震える身体を押さえつけながら、風切は立ち上がる。
片手に握る古びた刀。
疲労困憊の体。
けれど、そんな彼が今、誰よりも高く風に乗っていた。
「なあ、村丸」
風切は振り返り、にやりと笑った。
「今のお前、めちゃくちゃ......かっこいいぜ」
村丸は答えない。だが、その無言が、すべての返事そのものだった。
「俺は、盗んで生きてきた。道場も......名も......誇りも、全部捨てて、欲しいもんだけ盗ってきた」
痛みが神経を鋭く研ぐ。
意識はまだあるが、敵はまだ完全に殺しきれていない。
「だったら、盗ってやるさ......この命ごと、勝利ってやつを!」
敵は再び咆哮した。
だが、その声にもう恐れはなかった。
風切は笑っていた。
自分の名を、自分で呼びながら。
風切がこんな余裕そうないつも通りの態度を取り戻したのは、村丸が最後に書いた一行のおかげだった。
「風を切ると書いて.......風切。俺の刃はまだ切れちゃいねぇ!」
村丸が最後に書いた一行は.....
『"破門"とは、帰る場所を失った者ではなく、"自分の道を選んだ者"の名だ』
<村正逸話#16>
風切が助けた女の子の生前の名前はカコちゃん(名字不明、漢字不明)です。
心優しい女の子で、花が大好きです。
実はカコちゃん自身が貧しかったのは他の人に色々分け与えてしまうというお人好しな性格の所為で、一日を生きるのにも困ってしまうくらいに貧しかったです。
しかし、風切のおかげで閻魔の裁きの順番が来るまで妖世で生きることが出来ました。
(朝、目が覚めて風呂敷包みを見て風切がやったことだと瞬時に分かったようです。)
裁きの結果は天国行きになり、いつかそのお礼を言いたいと思いつつも、言えずじまいで転生してしまいました。
風切との記憶は残念ながら転生と同時に失われてしまいましたが、何処かで大好きなお花を売り歩いていると思います。




