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< 八 > 最後の楽園

暫く歩いていると、赤黒い瓦屋根の影が見えた。


田畑の間に忽然と現れた建物群は、妖しい気配を放っている。


風切はぱっと振り向き、村丸の手を掴んで勢いよく引っ張った。


「ほら来いってば!あれが妖街の入口だ!準備はいいか?村丸!」


村丸は深く息を吐き、軽く頷いた。


その目は恐怖ではなく、祈るような期待で満ちている。


『うん、行こう。』


二人は畦道を後にし、妖街の入り口へと足を踏み入れた。


迎え入れるのは、人の世では見たこともない奇妙な灯りと、風切が心底楽しみにしていた賑わいだった。


両脇には背の低い木製の看板が並び、不思議な文字と薄紅の灯りがぼんやりと浮かんでいる。


細い路地の先からは、混沌とした喧騒と雑踏の気配が漏れ伝わってきた。


(これが、妖街か。)


村丸は胸の内でつぶやく。


扉が開かれた瞬間、水田の静寂とは打って変わり、色とりどりの光と影、怪しげな露店の呼び声、人のような、異形のような....そんな人々が渦巻いていた。


「おう、着いたぞ、村丸!」


風切は満面の笑みを浮かべ、大きく手を広げた。


「見ろよこの賑わい!あっちの古本屋には様々な歴史ある文献が取り揃えてあるし、こっちには.......!」


(妖世ならでは.....か。だが、妙に懐かしい気配もある)


村丸の目は周囲の様子をゆっくりと捉えていた。


古びた石積みの壁に沿って並ぶ小さな店々は、どれも人間の世界では見られぬ趣向を凝らしている。


人々は妖怪の姿をしている者もあれば、人間そっくりな者もいる。


「なあ、村丸!俺のお勧めの店は向こうの居酒屋だ!お前も一杯どうだ?あ、金は俺が払うからよ!」


風切の声は陽気そのものだが、その言葉には本気で村丸を誘う気迫がこもっている。


村丸は一瞬だけ迷った。


だが、胸の奥に暖かさが広がっていくのを感じ、ゆっくりと頷いた。


二人が石畳を進もうとしたとき、小さな影が走り寄ってきた。


背丈はまだ子供ほどの小狐の少女だ。


赤い髪飾りと小さな草履が、彼の幼さと妖気を際立たせている。


「おにいさん!」


小狐は駆け寄るや否や、村丸の抱える絹鞠を見つめた。


「おねがい、わたしのまりをかえして!」


声には切迫感があり、無邪気な瞳には涙が浮かんでいた。


村丸は何の躊躇もなく鞠を差し出す。


(この子はきっと、大切な誰かと遊んだ記憶が詰まった鞠を、必死に探していたのだろう)


村丸の内心には、いつもの静かな優しさが満ちていた。


小狐は鞠を握りしめ、涙ぐみながら深く礼を言う。


「ありがとう、おにいさん!ほんとうにありがとう!」


そしてその小狐は妖街の奥へ行ってしまった。


その様子を見て、風切は軽く肩を竦め、にやりと笑った。


「ほらな、村丸の優しさ、やっぱり最高だぜ。こうして人を喜ばせられるのって、最高の才能だと思わないか?.....まあここで助ける対象は人じゃないかもしれねーけどな!」


石畳は夜の闇に溶け込み、二人の影は提灯の揺れる光とともに妖しい街並みの奥へと続いていった。


「にしてもお前妖怪とか見ても怖くないんだな。人間は大抵怖がるって聞いたぜ?」


『.....色々な意味で面白いから、かな。お前もだけど。』


「......えっ?」


二人は石畳の小路を抜け、軒先に「月夜盃」と書かれた木製の看板がぶら下がる古びた居酒屋の前に立った。


提灯に揺らめく赤い光が、木戸の隙間からこぼれ落ち、夜の闇を淡く染めている。


小柄な鬼の角が一本生えた鬼の妖の店員、茨鬼丸が二人を迎え入れ、にこやかに頭を下げた。


「いらっしゃいませ!こちらへどうぞ!座敷にご案内いたします!」


村丸は一歩踏み込むだけで、畳の香りと酒の芳醇な匂いに包まれた。


(こんな場所、見たことがない)


薄暗がりの中、低い天井には骨を模した飾りが吊り下げられ、壁には狐の面や怪しげな絵巻が掛かっている。


硝子戸越しに漏れる月の光が、時折その影を揺らし、まるで生き物が這い回っているかのようだった。


(江戸の裏通りにも飲み屋はあったが、こんな妖気だらけのところには足を踏み入れたことがない。大丈夫だろうか)


胸の奥に緊張が走り、村丸は手のひらをじっと見つめた。握りしめた絹鞠を思い出し、自分の優しさだけでは、この場所の狂気までは救えないのではと、不安が膨らむ。


茨木丸の足音が二人の前で止まり、小さな座敷席へと促された。


「こちらのお席でよろしいでしょうか?」


風切は涼やかに笑みを浮かべ、大きく頷いた。


「もちろん!にしても.....何度来てもいい雰囲気だな。村丸、座敷ってだけでもう特別感があるぜ?」


村丸は畳の縁に腰を下ろした。目の前には、湯気の立つ湯呑みが二つ。しかし、その横には見慣れぬ小瓶や粉末状の物体も並んでいる。


(この薬のようなものは何だろう。飲み屋で薬......?)


少しだけ感じる居心地の悪さに、村丸は視線を泳がせた。


すると茨鬼丸が膝をつき、柔らかな声で言った。


「当店の一番人気は、骨の髄まで溶かしたような深い味わいの『妖盃酒ようはいしゅ』と、自慢の炭火焼き鳥でございます。よろしければ、お飲み物とお料理、先にお伺いしましょうか?」


風切は軽く首をかしげ、嬉しそうに笑った。


その背中から、自分を守ってくれる安心感がじわりと湧いてきた。


風切は笑顔のまま、まるで慣れているかのように言葉を紡ぐ。


「じゃあ.....、まずは、つくね、レバー、もも、ねぎま、砂肝、皮を2本ずつ!あと妖盃酒頼む!」


すると茨鬼丸は嬉しそうにメモを取り、


「かしこまりました!すぐにお持ちいたします!」


と深々と一礼して立ち去った。


(明るそうな人.....じゃない。鬼の妖だな。)


湯気の立つ盃を前に、村丸は再び畳を見つめる。


(これから何が始まるのだろう。)


座敷の柱に掛かった小さな提灯が、淡い黄橙色の光を揺らすたび、村丸の心臓はひとつ、またひとつと刻まれていく。


その思いを胸に、村丸はゆっくりと膝を崩し、控えめに風切の方を見上げた。

風切は薄暗い座敷の一角で、語り始めた。


「んじゃ、詳しく説明すっぞ。妖世ってのはな、簡単に言えば死後の世界だ。閻魔さまの前で天国か地獄かを裁かれる前の.....いわば待合所みたいな場所さ。昔は小さな待合所があちこちにあって、そこで死者の名簿に間違いがないか確認したり、少し休んでもらったりしていたんだ」


風切は杯をぐいっと飲み干し、軽く喉を鳴らす。


「ところが最近さ、死者の数が急激に増えてな。昔の待合所程度じゃ処理しきれなくなった結果、広いこの妖世が引っ越されたって訳よ。妖世って他にもいくつかあるんだが、この世界はそのうちの一つだ。あの世と連結させるなんて神レベルの力を持たないと出来ねぇよなぁ......本当にすげぇわ.......。それと......あっちこっちから死んだ奴らが流れ込んでくるから、通路も店も人も入り乱れてる。それに元々妖世に住んでいた妖怪もうじゃうじゃいるからな。」


村丸は座敷の柱に映る風切の横顔を見つめる。その声は陽気だが、どこか哀しみを含んでいるようにも聞こえた。


(死者が増えている?なぜ......)


「今どきどんな世界でも.....、どんな世界線でも増えてる死因ってのがな、過労死なんだ。働きすぎて体がもたなかったってやつ。あと、交通事故も昔より増えてる。それと、最近じゃ若い連中の自殺も深刻だ。他にも伝染病とか.....だな。一時期はとある世界で感染症が爆発的に広まって、たくさんの命がいっぺんにこっちへ来ちまって、もう収拾つかなくなったんだよ」


村丸の胸に、ひんやりとした不安が広がる。


「だけど安心しろ、ここは待合所だ。まだお前もまだ裁かれていない。今はただ、身体を休めて、閻魔様の裁きに向けて覚悟を整えればいい。それがこの妖世の役割ってわけさ。まあお前が死んでいるかどうかに関しては疑問を感じるんだけどな。」


村丸は湯呑みを揺らす自分の手を見つめながら、ふと遠い記憶の底からあの光景を引きずり出した。


あの時、彼は井戸の縁に立って自らの意志で深い闇へ飛び込んだ。


冷たい水が襲いかかる瞬間、肌を突き刺すような寒さが全身を貫き、空を仰いだままの視界は水と闇に飲み込まれていった。


息ができず、視界は歪み、鼓動が耳の奥で高鳴った。


(あの時......)


胸の内に、小さな違和感がくすぶり始める。


水面を突き破って自分が這い上がったのは確かだった。


だが、この妖世はあまりにも静かで、あまりにも異質だった。


(異界に転移。たしかにそう言われれば説明はつく。しかし、死後の待合所.....妖世というのなら.....)


村丸の心臓は、ざわめくように打ち鳴らされた。


彼の足元で座敷の木製の床板が軋む音が、まるで彼の胸に響き返すようだった。


(....もしかしたら既に死んでしまったのかもしれない)


思考は次々と連鎖し、過去の断片が断続的に映像のように蘇る。


あの日、井戸の底で見た黒い影。


光を求めて伸ばした手。


渇望と恐怖が交錯する感触。


空気の代わりに冷たい水に包まれた瞬間、命の灯火がどうなったかは、誰も教えてくれなかった。


村丸の視界の端で、提灯の光が揺れた。


橙色の炎は揺らめきながら、確かな温かさを宿している。


しかしその光を見つめるたびに、彼の胸には痛みにも似た懐かしさが広がる。


(これはまだ「生きている」と呼べるのだろうか。「生きている」と錯覚させられているだけなのでは.....いや、先程風切が言っていたように、生きたまま妖世に連れてこられる奴もいると聞いたから望みはあるが.....可能性は低そうだな。)


そう考えると、膝の下がぞくりと冷えた。


足先から頭頂まで、生の実感が失われていく気がした。


村丸は湯呑みを置き、畳に染み込む感触に指先を滑らせながら、自分自身を確かめるように胸を押さえた。


鼓動はある。


呼吸もしている。


(俺はもう、江戸には戻れないのかもしれない.......)


胸中に重い沈黙が広がる。


外からは店員のそっと差し向けられる料理の香りが混ざり合って漏れてくる。


村丸はゆっくりと目を閉じ、かすかな嘆息を零した。


(どうか.....間違いであってほしい。これはただの転移だと言ってくれ......)


そんな村丸の心配をよそに風切は言葉を続ける。


「それと.....覚えておけ、村丸。ここで、もし一度でも死んじまったら、天国にも地獄にも行けねぇ。ただの『冥界送り』だ」


その言葉に、居酒屋のざわめきが遠のいたように感じられた。


風切は暗い瞳を村丸に向け、さらに続ける。


「冥界送りってのはな、輪廻転生の枠から完全に外されるってことだ。もう新しい命を得られず、永遠にこの世界にも入れず、『あの世』にも帰れねえ。肉体も魂も、ただ枯れ果てて、誰にも思い出されずに消えちまうんだ」


風切はぐっと息を吸い込み、声を荒げた。


「それだけじゃねえ。冥界送りになると、記憶の断片が次々に抜け落ちる。大切な人の顔も、温もりも......最後には自分が何者だったかすら忘れて、泡のように消える。そうやって切り捨てられた魂は、歪んだ怨念や後悔だけを抱え、果てしなく彷徨い続けることになるんだ。その成れの果てが怨霊や悪霊、亡霊とかだ。......もしかしたら地獄よりも残酷かもな。」


風切の刃のように鋭い声が、座敷の薄暗がりでひびいた。


「......分かるか?一度でも死ぬってことは、ここでの存在を自ら絶つだけじゃなく、帰る場所や繋がりを断ち切るってことだ。だからこそこの妖世では死ぬな。どんなに苦しくても、どんなに絶望しても、必ず生き延びる方法を探せ。それが唯一、生きていた証を守る道なんだ」


風切は重々しく視線を落とし、杯を掲げて締めくくった。


「絶対に、堕ちるなよ」


風切は重々しく杯を置くと、ぴたりと真面目な顔つきで村丸を見据えた。


「まあ.....話をまとめれば、この妖世は天国でも地獄でもない。死後の裁きを待つ場所でありながら、そのまま堕ちれば冥界送りになる危険を孕んだ場所でもあるってことだ。誰もがここで一度は立ち止まり、傷を癒し、次への一歩を踏み出すための休息を与えられる。ここが、お前にとっての『最後の楽園』なんだよ。まあ結局転生する時はここであった記憶とかも消されちまうんだけどな。」


その言葉を放つと、風切の表情はさっと緩み、いつもの豪快な笑みを取り戻した。


「......おっと、真面目ぶりすぎたかな?すまんすまん!」


風切はテーブル越しに両手を大きく振り、茶目っ気たっぷりにウィンクを投げた。


その姿はまるで、暗い夜道にパッと灯りをともす提灯のようだった。


(最後の楽園か。)


村丸の胸には、先ほどまでの不安と絶望が淡く溶けていくような温かさが広がっていた。


(ここで死んだら終わり.......冥界送りは避けなければならない。)


その瞬間、風切の戯けた表情越しに見える優しさが、村丸の心を静かに満たした。

<村正逸話#9>


作中で村丸は「こんな妖気だらけのところには足を踏み入れたことがない。大丈夫だろうか」と心配しているようですが、大抵の妖怪は村丸を人間だと認識していても危害を加える事はあまりしません。


何故ならば傍に妖怪である、風切が居るからです。

(妖怪同士殺し合う事はあまりないらしい、が.....?)


よっぽど妖力がない妖怪じゃなければ大抵は気づくのですが、皆は黙認しています。


むやみやたらに殺生をしてはいけないと分かっているからです。

(ただし、人間を食うタイプの妖怪はあまり分かっていない様子。勿論奉行所から敵視されている。)


奉行所の力は偉大ですね。

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