図書室の恋人
その図書室に足を踏み入れたのは、実に十五年振りのことだった。
念願かなって司書教諭として母校に赴任した、その初日──私は、校長となった恩師への挨拶もそこそこに、懐かしの古巣へと駆け込んだ。鼻腔をくすぐる埃っぽい本の香りが、あの頃と変わらず心地よい。
「変わってない、ということもないみたいね」
つぶやきながら、周囲を見渡す。
昔と変わらぬカウンターには、昔と違ってバーコードリーダーが置いてある。ほう、と唸って、試しに書架に並ぶ本を一冊手に取ってみる。本の裏側には、学校名とバーコードの記載されたシールが貼りつけられている。貸出カードの時代は終わり──近代化の波は、こんな辺鄙な図書室にも押し寄せている、というわけだ。
見れば、当時と比較すると書架の方もところどころ移動させているようで、限られた空間を有効に活用しよう、と奮闘した形跡がうかがえる。
今の子どもはどんな本を読んでいるのだろう。浮き立つ心を抑えながら、書架を眺めてまわる。往年の名作、近年出版された話題作。子ども向け限定とはいえ、見ているだけで胸が躍る。書架の間を縫うように歩いていると、不意に──見覚えのある書名が、私に足を止めさせた。
色褪せた背表紙。
まるで、その場所だけ、時間が止まっているようだった。
「──まだ、あったんだ」
そっと背表紙をなでると、あの頃の記憶が色鮮やかによみがえる。
図書委員会での私の仕事は、毎週金曜日の放課後に図書室のカウンターの当番をすることだった。
「放課後の図書室なんて、誰もこないだろうに、大変だね」
友人たちは、そう労ってくれたのだが、実のところ、それは私にとって、むしろ喜ばしい業務だった。
誰もいない図書室。私がカウンターについて本を読み始めると、十分もしないうちに見慣れた来訪者が現れる。ぐるり、と書架をまわり、本を携えて戻ってきて、彼はカウンターの真正面の机に陣取って、ページをめくり始める。
週に一度、図書室で重ねる逢瀬。
それは一方的な思慕に過ぎなかったのだけれども、私にとってはかけがえのない時間だった。
その日は、読んでいた恋愛小説に影響されて、気が大きくなっていたのだろう。
「いつも本を読んでるね」
私は勇気を出して、初めて彼に話しかける。
「宮原だって読んでるじゃないか」
律儀に返しながら、彼は顔を上げる。
宮原。聞き慣れた自らの名字だというのに、彼の口からこぼれると、それはまるで心地よい旋律のように私の耳に響く。
「私はカウンター当番の金曜日だけだもん」
「俺も金曜日だけだよ」
「嘘ばっかり」
ご謙遜を。金曜日が訪れるたびに違う装丁の本を読んでいる。そんな人間が読書家でないわけがないではないか。
「ね、どんな本、読んでるの?」
私の問いに、彼は無言でこちらに背表紙を向ける。どこかの国の古典文学だろうか。読んだことのない、難しそうな本だった。
「宮原は?」
返されて、彼を真似るように、私も本を立てて背表紙を見せる。
「その本、面白い?」
「面白くなかったら、読まないよ」
答える私に、それもそうだ、と笑いながら。
「私、もうそろそろ読み終わるよ。図書室の本だから、次に読んでみる?」
彼は曖昧に頷く。
「余裕があれば、読んでみるかな」
言いながらも、心なしか陰りのある笑顔を見せて──下校時間を知らせるチャイムが鳴った。
次の週、彼は図書室に現れなかった。
父親の仕事の都合で転校したのだ、と彼のクラスの友人から聞いた。転校することを事前に知っていれば、もっと勇気を出したのに。伝えたいことが、たくさんあったのに。思ってみても、彼はもういない。
今は遠い中学時代において、結局あの日の放課後の語らいだけが、私と彼の最初で最後の会話だった。
あの時の本。
彼のことを思い出してしまいそうで、在学中は二度と触れることはなかった。ずいぶんと古い本だというのに、まだ除籍されていなかったなんて。
ページをめくって、記憶の中のストーリーを追っていく。やがて最後のページを迎えて、ハッピーエンドの向こう側。巻末には、取り外す手間を省いたのだろう、今では不要なはずの貸出カードが貼りつけられたままになっている。
そこには私の名前と──。
「ちゃんと、読んでくれたんだ」
彼の名前が並んでいた。
「あれ?」
それだけではなかった。書いて、消して、悩んだ挙句にまた書いたような、頼りない線で描かれた相合傘が、私と彼の名前を覆っている。
誰が書いたのかなんて、考えるまでもなかった。あの日の恋心が、胸を締めつける。
「俺も金曜日だけだ、なんて」
謙遜の言葉だと思っていたけれども、もしかしたら嘘ではなかったのかもしれない。金曜日、私が彼に会うことを楽しみにしていたように、彼もまた私に会うことを楽しみにしていたのかもしれない。そう考えるのは、自惚れが過ぎるだろうか。
十五年越しの告白に、悪戯心に火がついた。
笑いを噛み殺しながら、本を持ったままカウンターに足を向ける。今日はこの本を借りて帰ることにしよう。そして、帰宅した彼に相合傘を突きつけてやるのだ。
「これは誰が書いたのかな?」
どんな言い訳をするものか、今から楽しみで仕方がなかった。