渓谷の戦い
また一体、魔物が血飛沫をあげて倒れる。
目の前に広がるのは何十、何百の死体。切り裂かれ、瞳を憎悪に濁らせ、殺意を向ける屍の上に、ルイザは立っていた。
切り立った崖が両側に聳り立つ渓谷。帝国軍歩兵混成旅団はそこに陣地を築き、押し寄せてくる魔物を迎え撃った。
斥候の偵察によれば、迎え来る魔族は十万もの大軍。駐屯している軍の兵力では守りきれない。
そこでひとつの作戦が立てられた。
魔族の進軍路上に渓谷がある。狭いところで幅一マイルもない谷は、小部隊でも一定時間なら耐えることができる。
混成旅団三千人は堅牢な防壁を構築。壁の前面に展開して防御体制を敷いた。任務はここで一日耐える事。その間に市民は安全な場所に避難する。
市民が逃げるための生贄。
要するに旅団は捨て駒にされたのだ。
それでも軍に忠誠を誓った彼らに拒否は認められない。
かくして、決死の戦いははじまった。
混成旅団の兵は全員が魔法剣士である。戦闘力は高い。当初は有利に戦ったが、数が違った。
いくら倒しても倒しても後ろから魔族が出てくる。
兵はひとり減り、ふたり減り……気づけばルイザはひとりきりで戦っていた。
脇をすり抜け、防壁へ殺到する魔族に切迫し、足を斬る。
一薙ぎで五体もの魔族を両断。それでもその後ろには十の魔物がいる。
魔物の爪がルイザの肩を貫いた。ルイザはその爪をへし折り、相手の首を刎ねる。
後ろから組みつかれた。動きが止まる。その瞬間、周囲の魔物が雪崩のごとく襲い掛かってきた。腹を殴られ、鎧が凹み、腕をもがれ、血が噴き出る。
残った魔力をすべて使い、身体強化の魔法をかけ、力づくで魔物どもを薙ぎ払った。
魔力を使って傷を塞いで血を止める。再び剣を生成して残った左手に持つ。
魔法によって硬化した剣の切れ味は尋常ではない。周囲の魔物を片っ端から切り捨てていく。
太陽は身を隠し、闇の時間。黒い姿の魔物たちは闇に溶け込む。
うざったい。
星あかりを頼りに戦い続ける。もはや腕に感覚はなく、ほんの少しでも気を抜けば脚は動かなくなるだろう。それでも、それでもだ。
自身の戦う理由を確認する。
そうだ、自分は倒れるわけにはいかない。帝国のやつらが逃げるまで、ここで耐えなければならない。
霞む視界の中、もはやどれだけの時間が経ったのかもわからない。
気力だけで支えてきた体も限界だった。
力が抜ける。頭を殴られた。腹を抉られた。足が折れた。
倒れふしたルイザの上を、魔物がぞろぞろと歩いていく。旅団が作った防壁を壊し、帝国へ。
視界を失ったルイザは魔物の足音だけを聞いていた。それも遠ざかり、静寂が訪れる。
ようやく終わった。
意識が朧になる。優しい死が迎えに来る。
ざっと、土を蹴る音。
ルイザの体が持ち上げられた。耳元を甘い声がくすぐる。
「どうしてお前はそんなになってまで戦うんだ?」
答えようとした。けれど喉が動かない。
「そうまでして守るほどに、良い国なのか?」
帰りを待つ人が、暖かい場所が、育ててくれた親が、兄弟が、親友が……そういう美しいものがあるから守りたいのか?
クソくらえだ。
物心ついたときには親に怯えていた。酒を飲んでは殴ってくる父、ヒステリックに喚くだけで無力な母。スラムのお友達には数少ない衣服すら剥ぎ取られた。
世界の全てが憎かった。
ルイザにとって、生きることとは苦しみであり、他者は自身に苦痛を与えるだけの存在だった。
家から逃げた。けれど生きることからは逃げられなかった。死ぬのが怖かった。だから生きた。
生きるためにスラムのお友達と同じことをした。自分より弱い奴を襲って金を奪い、生き延びた。
人を殺すだけで食っていけると聞いて軍隊に入った。
いつしかルイザはひとつの夢を持つようになった。
自分はこんなにも苦しいのに、周りの人間たちは幸せそうにしている。優しい親、愛してくれる女、助けてくれる友達、そんな素晴らしいものを当たり前のように持っている。
そいつらの幸せを壊したかった。
楽しそうに生きてる奴らが許せなかった。
いつしか死の恐怖ではなく、復讐という目的のために生きるようになった。
復讐のためには強くならなくてはならなかった。この世界全て敵に回せるくらい強く。そして十分に強くなったら、奪って痛めつけて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて苦しめて殺す。
幸せなまま死ぬなんて許せない。自分はこんなにも苦しんだのだから、お前らも苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで地べたを這いずり恥辱に塗れ痛みにうめき死んだ方がマシだと願い生まれてきたことを後悔しながら死んでいけ。
だから、魔族なんかに殺させるわけにはいかなかった。
あいつらにはもっと苦しんでもらわなきゃいけない。突如現れた魔族にあっさり殺されるなんて、その程度の恐怖と苦痛ではダメだ。
だから戦った。復讐のため。
「そうか」
口には出していない。まるで考えを読まれたようだ。
ルイザが困惑していると、唐突に抱きしめられた。
「今までひとりで耐えてきたのだな」
うるさい、同情なんていらない。
「案ずるな。もう苦しまなくていい」
死ぬのか。
ルイザの頭に手が置かれる。じんわりと熱が伝わる。なんの魔法かは知らない。ルイザの意識は闇に落ちていく。
訪れた死は優しくて、静かで、甘やかだった。