聖女、クマさんに出会う2
マオは、走りにはちょっとした自信があった。
部活には入っていなかったものの、小さなときから運動会や体育祭ではよく一位になった。
だが、それはあくまで人間相手のこと。
後ろから追ってくるのは、熊だ。熊の獣人だ。まず歩幅が違う。身体能力が違う。
必死に走っているが、確実に距離が縮まってきているのを感じていた。荒い息遣いが、地面を揺らす足音が、すぐ近くまで来ているのを感じる。
「おーい」
「!?」
熊獣人は、なぜだか声をかけてきた。
これでは、まるで童謡「森のくまさん」だ。
「女の子ちゃーん。おーい」
「ひぃ……」
ご機嫌な声で、熊はマオを呼ぶ。それこそ、まんま「森のくまさん」だ。
マオは小さな頃から、あの童謡が好きではなかった。物語仕立てだが、そのストーリーラインが理解できなかったから。
熊はなぜ、一番の歌詞では「お嬢さんお逃げなさい」と言ったのか。なぜ逃げろと言ったくせに、そのあとで「お待ちなさい」と言ったのか。
小さな頃、マオはそれに対して「クマは『逃げろ』と言ってお嬢さんの恐怖心をあおって、その上で追いかけるというドS野郎なのだ」という解釈をした。
成長して、ヒグマによる残酷な事件について知ると、その確信をさらに強めた。
「女の子ちゃーん女の子ちゃーん、待ってよぉー」
「ひぃーっ」
マオの恐怖とは裏腹に、熊は明るい声で呼びかけてくる。やはり、マオが思うように熊はドS野郎なのか。マオが怖がって逃げるのを楽しんでいるのか。
怖すぎてもう、何が何だかわからない。だが、捕まったら最後なのはわかる。追いかけてくるやつに待ってと言われて待って、いいことなど何もないのは子供でも理解できることだ。
「リンクス、リンクスー!」
マオは、死ぬ気で走った。どうせ捕まれば死ぬのだ。それなら、今この瞬間死ぬ気で走るしかない。
名前を呼ぶのは、恐怖を振り払うという意味もある。人は、極限の恐怖にさらされると、安心感を求めて親しい誰かの名前を呼ぶのだという。多くの人にとっては、「お母さーん」というその悲鳴が、マオにとってはリンクスを呼ぶことだったのだ。
「マオ!?」
「リンクス! たしけてー!」
追いかけられて走るうち、運良くもと来た道に戻れていたらしい。呼び声に応えるように、気配が近づいてきた。そっちに向かって、マオは無我夢中で走った。
「マオ、みぃみぃ鳴いてどうした!?」
「くまー! くま出たー!」
リンクスの姿が見えた。よく見知った木々の向こうだ。そこを突っ切り、あと少しでリンクスのところへたどり着くというところで、靴の紐が切れた。
ブチンという音がして、その直後マオの身体は派手に転んだ。ズシャーと地面の上を滑る。それまで必死で走っていたのだ。マオは可哀想な姿で転んだまま、しばらくうごけずにいた。
「大丈夫か!?」
リンクスが慌てて駆け寄るより早く、動いたのは熊の獣人だった。大男はひょいとマオの身体を起こすと、手早く泥をはたき落とし、スカートを整え、髪を撫でて整えた。
「ごめんな、驚かせちゃったな。前に森ん中で変わったもんを拾って、たぶん人間の持ち物だろうなって思ってたら今日女の子ちゃんが歩いてるの見かけて、もしかしたら君のかなって思って声かけようとしただけなんだ」
熊獣人は地面に膝をついて大きな身体をなるべく小さくしてマオを見ると、懐から取り出したものを差し出しながら言った。
追いかけられた恐怖と転んだショックが抜けきれずにいたものの、マオはそれを見て目を見開いた。
「……これ、わたしの」
それは、マオの生徒手帳だった。開くと、カバーのところにちゃんと両親の写真が入っていた。
それを見て、一気にいろいろな感情がこみ上げて、マオの目には涙が溢れた。
「おとさん、おかさん……」
泣くまいと唇を噛みしめるのに、涙はどんどん溢れてきてしまって、マオはその涙を持て余す。
「おい、なにマオを泣かせてんだよ!」
「ち、ちがう。これ、なくしてたの。おとさんとおかさんのしゃしん。見つかった、ほっとした」
「え、あ、それで……って、どこのクマ野郎かと思ったら、ウルサか?」
マオが泣いたのを見て、リンクスは熊獣人に掴みかかろうとした。だが、マオが止めたのと熊獣人の顔をよく見たのとで、その動きを止めた。