第三十一章 騎士に憧れた少女が至る未来②
詳細な描写はありませんが、この章には性的なことを喚起させる表現がいくつかあります。
閲覧にはご注意ください。
初恋と失恋を同時に体験したルナは、――これで良かった、と思うようにした。
――後にルイスが爵位を手に入れたことを知ったが、それは考えないようにした。彼がどんな理由をもって爵位を手に入れ、あの時、『あの応え』をしたのかは、考えるだけ無駄だ。
それに仮にあそこでルイスが応えてくれたところで、出来ることなどそれこそ身体を重ねるか、駆け落ちするくらいだろう。
傷を舐め合うか、自分のために身内を危険に晒すか――さすがにルナもそこまで恋に酔うことは出来なかった。どっちにしろ、この側室になるというレールに乗った以上、何もかもが遅すぎたのだ。
ルナは、城に戻るとソレーユが待っていた。
ソレーユは、戻ってきた彼女を見て優しく抱きしめ、ただ「ごめんなさい」と謝った。
――この人は一体、どんな結末を望んでいたのだろうか。もしかしたら、駆け落ちをしたら、取り計らってくれたのだろうか。……そうなのかもしれない。
でも、そうした方が良かった、とは思えなかった。その場合、苦境に立たされるのは、やはりソレーユなのだから。
ルナは彼女を守ると決めた以上、その誓いを違うことは許せなかった。
気持ちを切り替えてやっていくことに決める。ルイスは『大切な仲間』として今後接しよう。未練をそう断ち切る。
そして王妃としての仕事を日々覚えていき――ついに『運命の日』がやってくる。
夜中、王の寝室前でルナは普段着ないような薄い扇情的な寝間着姿で立っていた。隣にはソレーユがルナの肩に手を置き、優しく落ち着かせるようにポンポンと叩いている。
「……大丈夫よ、ルナちゃん。ジョンには優しくするように言ったし、ちゃんとはっきり言えば対応してくれるから。……一応、手練れなんだし。でも、もし欲望に走って痛いことしてきたら、私に言うのよ。ぶっ叩くから!」
「は、はあ……」
ルナは緊張していたが、ソレーユと話していると段々と落ち着くことが出来た。なんというか、本来、正妻が側室の応援をするのは可笑しいと思う。……だからこそ、肩の力を抜くことが出来たのだが。
ついに王が待つ寝室へと入っていくことになる。
――落ち着いていたが、やはり緊張してくる。相手は王で、これから床を共にするのだから。それも子供を作るために。
どっどっど、と自らの心臓の音が耳元で聞こえてくる。
それなりに広い寝室、壁際中央部にて天蓋付きの大きなベッドがあった。そこにガウンを纏った王が座っていた。
王――ジョンは入ってきたルナに目を向け、軽く頷く。
「来たか。こちらに来なさい」
「は、はいっ!」
カチコチとした動作でベッドの前までやっていく。辿り着くと、ジョンが隣をポンポンと叩くのでその隣に断りを入れて座る。
――次はどうするのだろう。脱げば良いのか。いや、それは王が先に――いや、そもそも先に肌を晒すのは……駄目なのか、それとも良いのか――?
ルナが混乱していると、ジョンが軽く苦笑する。
「……無理もないが……そんなに緊張しなくて良い」
「はいっ!」
「まあ、うん。そうだな。……ソレーユにはムードを大切にと言われているが、君に必要なのは違うだろう。だからまず手順を説明しよう。恐らく、君の場合はこの行為を『事務的なもの』として認識した方が良いかもしれない。確かに本来、この行為そのものは特別で大切なものかもしれないが、君と私では適応されないだろう。どこまで行ってもやはり『役割』に縛られている」
「…………」
ジョンのやや淡々とした説明を聞いて、ルナはほんの少し落ち着くことが出来た。――ムードは大切かもしれないが、確かに自分と王とではそれはない方がいいだろう、そう思う。
――『役割』とそう思っておけば、気が楽になる。
あと、単純にソレーユに対しての罪悪感が少なからずあったのだ。王がこれは『事務的なもの』であると言ってくれるなら、心も軽くなる気がする。
――王に『行為』の手順を聞き、その意味を知り、緊張しつつも理解する。
「それでは行くよ」
そしてルナは王と身体を重ねた。
王は――ジョンは優しかった。
生娘であるルナの身を常に案じていてくれた。
特殊な行為もしなかったし、痛みもほとんどなかった。
――けれど、そのせいで違う感覚が強く出て、ルナは戸惑うことになる。
身体を優しく愛撫され、自らもほとんど触れたことのない領域を弄られ、悶えてしまう。
今まで出したことがない甘い声が漏れ、身体が制御出来ずに、小さく跳ねることもあった。
思わず腕や脚で抱きつきそうになるのを堪えて、シーツを強く握ったり身を捩ったりして誤魔化す。
――ジョンはたまに頬を優しく撫で、大丈夫かと尋ねてくる。
常に丁寧で気に懸けてくれる。
そしてキスはしなかった。
それはある種の一線だと分かっていたのだろう。
ある意味でルナにとってもっとも大切で侵され難いことでもあると。
――その優しさに触れ、思わず涙が零れてしまう。
どうしてだろう。
どうして、こんな良い人達が素直に幸せになれないんだろうか、そう思ってしまう。
好きな女性と子を為せず、好きでもない年下の女と子供を作ることにならなけれならないのか。
……どこまでもこの世界は理不尽だ。
ジョンに涙を指で掬われる。「痛かったか」と問われるが、しっかりと「違う」と答える。
それでもルナの涙が止まらず、ジョンにどうしようかと戸惑われたが、彼女は彼の背に腕を回し「ごめんなさい」と呟く。
彼だけに任せず、ゆっくりと彼女も身体を近づけ、動かしていく――。
『行為』はそうしてつつがなく終わる。終わってしまえば呆気ないものだな――と思う。
だが、だからと言って今晩から毎日行うことになるのは勘弁して欲しかった。王と交わるのは嫌ではない。……なんというか、行為の最中に垣間見える自分とは思えない自分を感じるのが少し嫌だったのだ。
「それではおやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
ルナはいそいそと自分と王の服を着付け、頭を下げると足早に部屋を出る。寝室の外に出て、吐息をつこうとすると――すぐ隣に毛布にくるまってうずくまった何か――ソレーユがいた。
「ソ、ソレーユ様!? なんで!? ずっとそこにいて――聞いて――!?」
「ううん。今さっき来たところよ。そろそろ終わる頃かなあと思って待ってたの」
ソレーユは気にしていない様子だったけれど、仮にも夫と寝た直後に会うのは気まず過ぎる。――前々から思っていたが、この人、とても破天荒だ。
そんな彼女は毛布をハラリと脱ぎ捨てると立ち上がり、ずいっとルナに近寄ると頬を挟み込む。顔を近づけられて、思わず逃げ出しそうになってしまう。
何か、こう、王から『特別』な何か印をつけられていないか探しているのだろうか思ったが――、
「涙の跡がある」
「え?」
「じょぉうんん!」
「ソレーユ様!?」
ソレーユが扉を思い切り開けると、部屋の中できょとんとしていたジョンに突撃していく。そしてルナが見守る中、ソレーユがジョンのすぐ下で屈み、次の瞬間には跳び上がって全力のアッパーを繰り出した。
「ふぐぅっ!?」
「おぉおおうう!?」
これにはルナも叫んでしまう。とっさにソレーユに駆け寄り、倒れ込んだジョンに追撃の蹴りを仕掛けようとしていた彼女を後ろから押さえ込んで、引きずって離す。
「そ、そそそそソレーユ様! な、何して――!」
「ジョン! 私、約束したわよね! ルナちゃんを泣かせないって! ちょっと気持ち良くなって涙零れちゃいましたあ、なら許したわよ! けど、これは思いっきり泣かせてるじゃない! なに!? 貴方のテクが素晴らしくて感極まって泣かせたっての!? なんとか言いなさいよ、この馬鹿!」
「あの、顎下に思い切り食らわせてすぐに返答はきついかと……」
幸い舌を噛んだりはしていないようだが……。でもこれはさすがに王妃と言えどやり過ぎではないだろうか。ジョンもキレてしまうのではないか、と思ったが……。
ジョンはぷるぷると震えつつ、手を前に出して、言う。
「ち、ちはうが――」
「ならここで朝までくたばれぇええ! ――がふぅううっ!」
ソレーユが興奮のし過ぎで血を吐いた。それでも止まらない。
「血ぃいいいいいいいいいいい! 王妃様! ステイ! プリーズ、ちょっとステイ! 落ち着いて! お願いします! 話を聞きましょう! いや、聞いて下さい、お願いします、ほんとに!」
ソレーユをなだめるために、全力を尽くしたせいで感慨とか情緒とか何もかも吹き飛んでしまった、今日この頃だった。
――ちなみに王の言われなき誤解は解くことが出来た。
――何もかも問題なく進んだ。仮に『問題』があったところでそれに気付くのはまず無理だったろう。そもそも気付いたところで何が出来たか。
ルナが妊娠したことは大いに祝福された。ただ、見知らぬ者達にもてはやされても、あまり嬉しいとは思わなかったが。少なくともジョンとソレーユが喜んでくれたことが、ただ安心出来た。
――第一子であるクレセントを無事出産し、肩の荷が降りた気になったものだ。
初めは自分の子を愛せるか不安だったが、手に抱く我が子はどうしようもなく愛おしく思えた。
……ただ、幸か不幸か、クレセントは少々『優秀過ぎた』。
生まれながらに複数のスキルを所持し、挙げ句に最上位スキル『覇王ノ鼓舞』というのを持っていたのだ。
別にそれを持っていたせいでクレセントの精神に何か異常があったわけではない。あったのは周りの方だ。
ちょうど新たな魔王の出現が予期されていたため、余計にクレセントがもてはやされてしまったのだ。
次代の王として、手厚く育てることに誰もが賢明になるのは無理なからぬこと。
問題は、クレセントの手綱がルナの手から離れてしまったこと。――そうする事態が発生してしまったことだろう。
二年ほど経ち、クレセントが何事もなく健やかに育つ。
そんな時にソレーユに告げられたのだ。
彼女の妊娠を。
それ自体は祝福すべきことだ。仮に男子だったら、自身の子が第二王子になるが、別に問題ない。元よりそれは承知の上だったし、別に権力なんていらなかった。
ソレーユもルナに王妃の座を奪われるなんてことを不安になんて微塵も感じていなかっただろう。
――いや、むしろ『代わる』ことを想定していた節がある。
だって、そもそもソレーユが子供を作ること自体、命に関わると言われていたのだから。
そうでなかったら、子供を作ることに躊躇いなんて抱かなかっただろう。
だからこそ、ルナはソレーユに詰め寄ったのだ。
貧血でベッドに横たわる彼女を刺激をしたくはなかったけれど、最低限問いただしたかった。
「――どうして、ソレーユ様、なんで――」
「どうしたの、ルナちゃん、そんなに不安そうにして」
いつもの様に笑っていたけれど、どこかいつもの元気がないようだった。なんとなく妊娠してから日に日に悪くなっている気がする。いや、気がするのではない。悪くなっているのだ。
「聞きました。体調が悪化しているって。――前回妊娠した時もそうだって……だから産めなかったって――もし、私が原因なら、今の地位がなくなっても良いです。別に王妃なんてならなくたっていい。クレセントを養子にしてください――だから……!」
「違うの」
ソレーユがそう、静かに言って微笑みかけてきた。
「初めからこうするつもりだったの。……ジョンにも黙ってたのは悪かったけどね。初めて怒られたわ。……それと貴方も周りも関係ない。もちろん死ぬ気もない。けどもし『最悪』が起こったら、ちゃんとした後釜が居なくちゃならないでしょう? ルナちゃんはもう大丈夫。立派な王妃になれるわ」
「……私は別に、なる気はないです」
そういうのが精一杯だった。
本当は、ソレーユを危険に晒さないために彼女の行為を全否定するべきだった。けれどルナには出来なかった。
仮に、ソレーユがルナを後釜にするために手を引いて『今』を作り上げてきた元凶だったとしてもだ。
自らの子を――愛した人との子を作るために命をも捨てる気で挑もうとしている。狂気を孕んだそれは、ルナにとって自分の『強くなりたい』という思いと通ずるものがあったのだ。分かってしまったからこそ、否定することが出来なかった。
ソレーユが申し訳なさそうに、困り顔で笑う。
「……ごめんなさいね、本当に。……貴方には私をなじる十分な権利があるわ。……私は貴方の『夢』も『思い』全て踏みにじったのだから」
「……ええ、本当に最悪ですよ……恨みたいくらいです」
ルナはソレーユの手を握り、跪く。その手はとても冷たかった。
「……それでも私はソレーユ様が好きです。死んで欲しくないと思うくらい。――それに私言いましたよね? 貴方を守ると。そのための騎士になるつもりでした。なのに……なのになんでその思いすら踏みにじろうとするのですか――?」
「――っ」
ルナの悲痛な思いに、ソレーユが初めて彼女から視線を逸らしてしまった。思いを感じ取れるからこそ、ルナの言葉に偽りがないと分かったのだろう。その思いに罪悪感を抱いてしまったのだ。
「…………ごめんなさい」
けど、彼女はそう一言だけ告げた。
それだけで、この人はもう退く気がないのだろうということが分かってしまった。もういくら言っても無駄だろう。……それにたぶん、このことについては十分に王と話し合ったはず。それでもなお変わらないというのなら、ルナが何を言おうと無理なのだ。
ルナは一度俯き、少ししてから無言で立ち上がり、ソレーユに背を向けた。
「……死なないでください、どうか」
そう言って、立ち去る。
――強い思いを込めたが、この世界はそれほど優しくなかった。ソレーユは命を落とすことになる。
ソレーユの出産にはこの国で優秀な多数の回復術士が集められた。しかし、彼女の容態は悪化し、回復させることが出来なかった。それどころか、回復を何度もかけられたことによって、魔力による拒絶反応や魔力の滞留を周囲に起こし、魔力障害を起こしてしまったのだ。『魔力の透明度が高い』回復術士がいれば、もしかしたらがあったかもしれないが、そのような人間は生きて見つけることがまず難しい。
唯一の、ほんの少しの救いはソレーユは意識が朦朧として横たわりながらも、その胸、腕にアンサムを抱けたことだろう。
――すぐに彼女は意識を落とし、そして目覚めることはなかった。
夫であるジョンは、取り乱しはしなかったものの、その絶望の色合いは誰から見ても明らかだった。ルナはこのような時、支えてやるべきだと分かっていたが……己も意気消沈していたことや妻を失った男にすぐさま寄り添うのは、あまりにも醜い行いに思えてしまったのだ。
……ソレーユはその程度、気にはしないだろう。むしろ王を励ますように言うはずだ。でも、ルナには出来なかった。……ソレーユの代わりなど、務まるとは思えなかったのだ。
幸い王は最愛の妻を失ったことで自暴自棄になり、暴君や暗君に様変わりすることなかった。だが、露出の機会は極端に減ってしまった。
仕事はするが、家臣と会う機会はなくなり、多く会うのはウェイトやルナ――そしてソレーユの忘れ形見であるアンサムだけになってしまう。
ルナはというと、ソレーユが亡くなってから、王妃として役割を全うしようとしていた。
だから、クレセントと触れ合う機会が少なくなり、もっぱら乳母に任せ――気がついたら家臣の取り巻き達が彼を担ぎ上げていた。
さすがに五年は放置し過ぎていたが――七歳になったクレセントが五歳のアンサムと模擬戦をして叩きのめして喜んでいることを知って頭を抱えそうになってしまう。
そもそもアンサムは生まれながらにして大したスキルを持っていなかったのだ。それなのにそんな相手に勝って粋がるのはどうかと我が子ながら思ってしまった。
……いや、たぶん嫉妬があったのだろう。クレセントは自分は何もかも持っているはずなのに、何故第二王子なのかと。それに何故、あいつだけやたらと王に可愛がられているのかと。
ルナが周りに耳を澄ませて見れば、いつの間にかクレセントを次代の王とすべく神輿を担いでいる者が多くいるのを知る。
まさか、ここまでとは、と思うほどの勢力に頭痛がしてくるほどだった。それも中心となっているのは自分の家だと知って余計に頭が痛くなる。
「……イユー、出来ればこのことはもっと早く伝えて貰えたら嬉しかったわ」
「申し訳ありません」
クレセントの乳母であり、ルナの家から引っ張ってきた優秀で若い女中の少女、イユーにため息交じりに愚痴る。
――と、言ってもイユーを責めるのはお門違いだと分かっているのだが。王妃である自分と家の板挟みで色々と苦悩していたようなのだ。
というのもルナと実家の関係は少なからず悪化していたのだ。
それは王妃になりながらも、前王妃派――第一王子派であることをほんのりと主張していたため。
実家からすれば、せっかく王妃になれて自身の息子の権利を主張出来るのに、何をしているのか、というところだろう。
そしてよりよい返事を持って帰れないとイユーは『酷い目』に遭うことがあるとつい最近知った。それ以来は、向こうの要望をそれなりに応えるようにはしていたが……。
「……あの……実は、その……」
イユーがいつものキリッとした面もちをやや困惑に染めて、何か言いたそうにしている。
反応を見る限り、本来は言いたくない感じだろうか。たぶん実家に『面倒なこと』を押しつけられてしまったのだ。
……なんやかんやとこの年下の女中は、こちらが気遣っていたおかげか心理的には味方になってくれるつもりらしい。行動は残念ながら、意図せず敵対的だが。
「遠慮無く言って。貴方のために善処するから」
「……恐縮です。……では、ルナ様にご実家から言伝をば。――王妃ならば、王の最愛たる者になる努力をすべきだ。前王妃を喪った悲しみが居ぬまま続いている王を救え――王妃の勤めを果たせ、――とのことです」
「要は王の心を寝取れってことね。馬鹿げてる」
そうしてクレセントに王位を継がせるように取り計らえと言うのだろう。それほどまでに権力が欲しいか。……欲しいのだろう。やはりあの家とは根本的に相成れない。
ルナが深いため息をつくと、イユーが不安そうに見上げてくる。
「……ルナ様……」
そんな彼女を見て、ルナは微笑み、頭を撫でる。
「大丈夫。突っぱねはしないわ」
「……ですが……」
「いいの。……それに寝取ることは感心しないけど、王の心を癒やす、ということを考えなきゃいけないのは確かだから。……逃げるのはいけない。ソレーユ様のためにも。まあ、けどその前にアンサム王子の件をどうにかしないと」
さすがにこのままでは、アンサム王子が可哀想だ。
せめて何か切っ掛けがあれば……そう思い、イユーを使って情報収集をしていると、剣の指南にルイスがついていることを知った。
ルイスを執務室へと呼んで、二人きりで話をすることになった。
王妃になってからもう随分、彼とはまともに会ってはいなかった。『仲間として接する』と思いつつも彼を思いきり避けていたのだ。向こうも何かとこちらと立ち会わないような振る舞いが多かった気がする。
一応、バーニアス将軍を介して彼が元気なことは知っていたが。
ルナは執務室の椅子に座り、対面にて直立不動のルイスと向かい合う。
「お久しぶりですね、ルイス将軍」
「こちらこそ、ルナ王妃様」
ルイスがぎこちなくも、お辞儀をしてくる。
王妃に謁見するということで、ヒゲも剃って服装も整えている。昔はそんなルイスの姿なんて見たことなかったから、とても新鮮だった。我慢しなければニヤけていただろう。
彼はというと、どことなく不機嫌そうだった。
「それで? 如何ほどのご用件でございましょうか?」
「貴方は剣術指南をしていましたね」
「ええ、まあ。おたくの息子さんは専門のお行儀の良い剣術指南役がいらっしゃるようですが、一応、実戦を交えたことを教えておくべきと押しつけられましてね」
どうやら爵位が低い彼は、面倒な仕事を押しつけられたらしい。
さらに聞いた限りだとクレセントはルイスの出生や経緯を軽んじているようだ。そのことから彼に教えを乞うのが屈辱的に感じているらしく、態度で表しているらしい。だから、クレセントとルイスは仲がよろしくないようだ。
――ああ、だからその母親に呼ばれて、不機嫌になっているのか。クレセントが何かあることないこと王妃である自分に吹き込んだとかで、何か罰を与えるつもりとか思っているのかも。昔の確執もあるから、それも込みで。
……『そう思われている』としたら、正直、かなり心外だ。そんなことをやる人間だと思われていたのか。それとも権力を得て変わったと?
ルナは、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなって、背もたれに寄りかかる。
「もういいわ。座りなさい、ルイス」
「はい? よろしいのですか?」
「うんうん、良いですよ。あとその口調やめなさい。別にお説教するために呼んだわけではないのだから。むしろ昔みたいに楽にしてくれると助かるわ」
「――だったらなんだってんだよ」
ルイスはどっかりと椅子に座り、疲れたような深いため息をついて、胸元を緩め、天井を仰ぐ。
「こちとら『王妃様』にお呼ばれして、首でも切られんのかとヒヤヒヤしてたんだぜ。おたくんとこの息子と仲がどうにも悪くてね。――スラム野郎は臭くてかなわんだと」
「その件については私からクレセントに言っておきましょう。私の息子でありながら、力量でなく生まれや地位で判断するなんて、とね」
そう言うと、ルイスが目を見開いた後、口元をほころばせる。
「お前、変わんねえな」
「安心した?」
「ああ」
その一言がとても優しくて、思わずドキリとしてしまった。
けれど、その微かに浮かんだ邪念をすぐさま振り払う。
「今日、呼んだのはもう一人の方――アンサム王子についてです」
「あ? あいつか。……才能はねえけど、頑張ってるが……自信がねえんだよなあ。周りが苛め過ぎて味方もいねえから、立ち上がる術もねえ感じだ。がむしゃらもやれねえから、昔の俺よりヤバいぜ、あれ」
「そう……」
それほどまでに追いつめられているのか。ここ数年、もう少し周りに目をやるべきだった。
「……ルイス、お願いがあるの。アンサム王子を気にかけてあげて。彼を贔屓にしなくてもいい。沈んだ彼に手を差し伸べて、引き上げられる人になってあげて。ただ引き上げてあげるだけでもいい。……きっと彼にとってそれだけでも救いになるから」
「…………なんで俺が?」
「貴方とは全く違うけど、今のアンサム王子はどん底にいるの。そんな彼を救えるのは貴方だけだと思ったから」
「…………」
ルイスが鼻から息を漏らす。
「まあ、王妃様の要望とあったら応えますがね。どっかでベソかいてたら、声かけることにしとく」
「それでもいいわ」
きっとそれだけでもアンサムは救われるかもしれない。この世界は何も思い通りにならないが、そんな中でも何気ないたった一つの優しさで、何かを得ることが出来るかも知れない。そうであって欲しいと切に願う。
ルナは王妃としての務めを果たせていた。ソレーユに教わったことは何一つ無駄にならず、この国を動かし続けることが出来たのだ。
……でも、『人』に関することではルナの行いは正しかったと言えなかった。
ルイスに掛け合い、アンサム王子を奮起させるべく手を打ったことは良かった。実際それが実を結んだようで、アンサム王子はメキメキと力をつけていった。逆にクレセントはスキルにかまけて努力することを怠り、着実にアンサム王子に追いつかれ始めていたのだ。
まさかそれが巡り巡ってルナを苦しめることになるとは思わないだろう。
同時期に王の心のケアをしようとするが、上手くいかなかった。ありとあらゆる手段を使ってなんとか気持ちを持ち直させようとしたが、駄目だったのだ。
そして、意図せずに彼女は妊娠してしまうことになる。
その時に生まれたのが、カマルとセレーネだった。
これには彼女も少し罪悪感を抱いてしまう。まるでこれでは王の気を持ち直すためだけに偶然生まれてきてしまったようではないか、と。
――それにそのことは、クレセントの権力が失墜し出すことで噂され始めてしまう。
でもカマルとセレーネに対して愛がないわけじゃない。彼らに抱いた愛おしさは決して嘘では無かった。
……不幸だったのは、クレセント同様、セレーネが『優秀』であったこと。『真実ノ心明』を持って生まれたために、ルナの『負い目』を敏感に感じ取り、抱き上げようとする度に泣いてしまうのだ。
そして後にセレーネが『真実ノ心明』を持っていることが分かり――少なからず『怯えて』しまったのは無理なからぬことだった。
セレーネに泣かれる度に、そんなことはないはずなのに、ソレーユに責められているかのように感じてしまうのだ。自分の行いがあまりにも不純であると、そう言われている気がしてならなかった。
そのため、セレーネの世話はイユーに任せきりになってしまう。駄目だと分かりつつも、どうしようもなかったのだ。どうしてもセレーネを恐がらずにいられなかった。
そこから順調だったルナの王妃としての歯車が狂い始めることになる。
さらに三年の月日が過ぎ、この頃にはアンサムとクレセントの実力は拮抗し始めていた。
それでもなお、クレセントは研鑽を怠り、持ち前のスキルだけでどうにかしようと躍起になっていた。
次第に模擬戦での勝敗が落ち込むことで、焦りはしていたようだ。
ある時、ルナが執務をしていると、乱暴に扉が開け放たれた。クレセントがドカドカと部屋の中に入ってきて、彼女に詰め寄る。
「母様! 母様!」
「なんですか。貴方も王子なら多少の礼節を――」
「そんなことよりも僕に剣術を教えて下さい!」
「はい?」
ルナはいきなりのことに首を傾げてしまう。
「聞きましたよ! 母様は昔、軍に所属していてあのスラム野郎――」
「ルイス将軍と言いなさい」
「――ルイス、将軍、と打ち合っていたと! 実力も五分であったそうじゃないですか!」
それは随分と盛られている。ルイスには一度たりとも勝てなかったし、実力もかなり開きがあった。まあ、確かに自分は軍内部ではそれなりに強い方であったが、将軍らと比べると数段落ちるだろう。
「そんなことありませんよ」
「謙遜は良いんです! 僕に剣を教えてください! そうすれば『あいつ』にも勝てるはず――」
そう言って憎々しげに顔を歪ませる。明らかにライバルに勝ちたい、という風ではない。アンサムを相変わらず見下していて、それなのに自分より劣っていないことが気に入らないと言った様子だろうか。
ルナはため息をついて、首を横に振る。
「貴方に剣を教えている将軍の方が私よりずっと強く、為になるでしょう。そもそも剣も含めてですが、何事も近道などあり得ません。アンサム王子だってルイス将軍から根気強く教えてもらって強くなった――」
「うるさい!」
ばぁん、とクレセントが机に手を思い切り叩きつける。これにはさすがのルナも驚いてしまう。――この子はここまで酷い癇癪を持っていたのか?
「あいつの話をするな! どいつもこいつもどいつもこいつも! 僕の方がすごいんだ! なのに皆役立たずで、あんな雑魚に負けるようになったんだ! 僕が勝ってたのに! 母様はどっちの味方なんだ! あんな奴の味方をするなあ!」
「仮にも母親になんという言葉遣いをしますか!」
「――っ」
ルナに怒鳴り返され、クレセントがビクつき、黙る。
これには怒りを通り越して、失望してしまう。ここまで酷くなるとは思わなかった。
まずルナは母親である以前に王妃なのだ。それなのにも関わらず、礼節も弁えず怒鳴り散らすとは。しかも自分が悪くないときた。
……誰もこの子に諭すことさえしなかったのか?
本当にこの子の教育に関われなかったことを後悔してしまった。
「いい加減になさい! アンサム王子は何も持っていなかったにも関わらず、必死に鍛錬し、力をつけたのです! 対して貴方は自分の能力にあぐらをかき、一切、鍛えてこなかった! その結果が今、出ているのです! それすらも分からず、他者のせいにするなど、恥を知りなさい!」
「…………!」
クレセントがぷるぷると震え、そのままボロボロと涙を零してしまう。
――可哀想、とは思えなかった。むしろこれは必要なことだったはずだ。あまりにも遅い叱責に、ルナは自己嫌悪すらしてしまいそうになる。
……たぶん、これだけでは通じない。この子の心には深い『甘え』が根付いている。恐らく並大抵のことでは、変えることは出来ないだろう。残念ながら、自分にはそれを矯正出来る時間は作れない。……たぶん彼を囲う者達が作らせてもくれないだろう。恐らくこちらが誰かを送り込んでも撥ね除けられるだけだ。
せめて今ここでわずかにでも彼を奮起させられれば良いが……。
ルナはため息をついて、額を押さえる。
「クレセント、貴方には失望しました。ですが、今からでも遅くはありません。研鑽を積みなさい。そうすれば、貴方ならば必ず結果に結びつくでしょう。――まず……」
「う、うぅうううう!」
クレセントは泣きながら唸り声を上げて、走り去ってしまう。扉は開け放ったままだ。
ルナはしばし呆然として、最後にもう一度、深い深いため息をついて、項垂れてしまった。
結局、クレセントは鍛錬を積むことはなかった。
六年が経過する頃には、アンサムとクレセントの実力や立場は真逆になっていた。
我が子の落ちぶれた様は見ていて辛い。肥え太り、飲んだくれになっていて、栄華は過去のものとなっていた。
そのせいで、多少、ルナも風当たりが強くなっていたが、怪我の功名か実家の発言力が弱まったのが救いだった。
……さすがにクレセントを見捨てるのには忍びないため、度々、時間を作っては声をかけてはいた。けれど自分の言葉は彼の心に掠りもしない。――それでも諦めるつもりはなかった。才能はあるのだから、今からでも努力すれば、きっと良くなるはずだと。
――そんなおり、『事件』が起こった。
前々から不安視されていた魔王の出現が確認される。実は数年前から、魔王が出現したのではと噂されていたのだ。
魔界にて魔族の軍が集結しているという情報がもたらされ、緊張が高まっていった。
魔王は人類を虐殺しようとしてくる。どうやら魔王となった者は、配下に敵を殺させることでわずかながらの経験値を取得出来るようなのだ。わずかと言っても、数千、数万単位の経験値を手に入れられれば、レベルは加速度的に上がっていく。
――詳しい理由は分からないが、代々魔王はレベルを上げることを『邪神』に求められているらしい。特定のレベルまで上がると、魔王は『邪神』の下へ向かい、この世界から姿を消す。
だが、『邪神』に至る道は五百年前に聖教会の女神によって封印されてしまったらしく、ここ二代ほどの魔王は目的を見失っていたようだ(いわく魔王をあと一人でも『邪神』の下へと行かせると世界が滅ぶらしいとのこと)。
まあ、そのおかげで魔族は基本的にタイタンと戦争することが主になり、こちらに被害が及ぶことが少なくなった。そのため、ここ数世代は魔族側となあなあで仲良くしてやり過ごすことにしていたのだ。
無論、相手が凶悪な魔王であった場合はこちらも戦争に巻き込まれる可能性はあるが――。
――今回は凶悪な魔王であると判断された。
強大な力を持つ魔族を筆頭に魔族の軍が前触れもなく人狼の国に進行してきたのだ。その様は鬼気迫るもので、人狼達では太刀打ち出来ないと判断して、プレイフォートも軍を送り込んだ。
その際、アンサム王子が陣頭に立ち、前線へと向かうことになった。代々王族はこの時のために力をつけていると言っても過言ではない。その一報には、国が歓喜して勝利を確信したほどだ。
アンサム王子は、王種には至っておらず最上位スキルも持っていない。だが、その実力は折り紙付きで、光魔法を操れることから聖騎士などと呼ばれているほどだ。
勇者にもっとも近いとされているため、この戦争では二百年間現れていない勇者に選ばれるだろうと期待されていた。
そんなアンサム王子の陰になっていたが、クレセントも戦争に参加することになった。自ら志願したらしい。
誰も気にかけなかったが、ルナだけは隅にいるクレセントに歩み寄り、手を握る。
「貴方の勇気、母はしかと感じ取りました。――無事を祈っています」
「……ええ、ありがとうございます、母様」
そう俯いて言うクレセントが、醜く笑っていたのをルナは知らなかった。
――『それ』は程なくして伝えられた。
アンサムが魔族を撃退したこと。――そしてそのあとクレセントが、アンサムに襲いかかったらしいとのことを。
ルナは久しぶりに血の気が引いてしまった。何かの間違いではないかと何度も確認してみたが、やはり事実だった。
戦場に当てられたのか錯乱したようで、自分をアンサムだと言っていたようだ。その末に襲いかかったようだ。
幸いアンサムは怪我をしなかったようだが、これには相当な怒りを覚えたらしい。クレセントを問答無用で斬首にはしなかったが、追放してしまったようだ。
その後、クレセントの消息は不明だ。
この事件を切っ掛けにして、クレセントの母であるルナを陰で悪く言う者が多く現れる。――別に悪く言われることに関してはどうだって良かった。でも、聞き捨てならないのがソレーユを暗殺したとか、カマルやセレーネは偶然生まれて愛していないなどと言われたことだ。
このせいで、特に後者の話が二人の耳に届いたせいで、強く敵意を向けられることになったのが辛かった。元々忙しさのせいであまり接して来なかったために、誤解を招いてしまったのだ。
イユーはルナに対する印象を良くするために、それとなく色々と言ってくれていたようだが効果は薄かったらしい。
――仕方ないのだ。一番の原因はセレーネ達とちゃんと向き合わなかったせいだろう。彼女らにとってルナは、どう足掻いても自分を避ける最悪の母親でしかないのだ。
心労が徐々に溜まっていく。それでも魔王が出現している間は気が抜けないため、政務を怠りはしなかった。
でも、全てが敵に回った訳ではない。バーニアスはたまに会った時、気にかけてくれるし、ルイスもよく喋るようになった。ウェイトの淹れてくれる紅茶は美味しい。王と話す時も癒やすつもりのはずが、逆に癒やされることもしばしばだ。
だからまだ大丈夫、そう思っていた。
そんなおり、真夜中、政務を終えて寝室に戻ろうとする時、彼女の前に凱旋から戻ってきたばかりのアンサムが立ち塞がった。
今まで見たことないような醜いとも言えるゲスな笑みを浮かべていて、さすがに違和感を覚える。
「こんばんは、ルナ王妃」
「こんばんは、アンサム王子。凱旋ご苦労様です。――我が息子、クレセントの件は申し訳ありませんでした。あのようなことをする子だとは思えず、命を危険に晒したことを母である私が詫びます。――そして、死刑に処さずにいてくれて本当に感謝します」
ルナはそう言って深々と頭を下げる。
その時のアンサムの顔は彼女には見えなかったが、なんとも言えない表情をしていた。『良心』が咎めた、そんな表情だ。けれど、すぐに傲慢な顔になると、鼻を鳴らす。
「ああ、その件について話があるんだ」
「なんでしょうか」
「僕の心はとても傷ついた。まさか敬愛する兄から、いきなり刃を向けられたのだからね。君はともかく、君の他の子供達もそうだと言い切れないと思うんだ」
「……何を言いたいのですが?」
その不穏な空気に、ルナは若干、身を退いてしまう。何か不味い気がする。
「このご時世だ。危険分子を野放しにしておくのは不味いだろう。今のうちに間引いておくべきだと思うんだ」
「何を……そんな――何故……」
混乱してしまう。何故、そんなことを言う。アンサムはここ数年、カマルやセレーネを気にかけていてくれた。そのかいあってクレセントの弟妹である二人の立場は悪くならなかったのだ。そのことには感謝していたのに――。
「おやめください! あの子達は何も悪くありません! 貴方に懐いていて、貴方を害することなんて絶対にあり得ません!」
ルナがそう必死に言うと、アンサムはとてつもなく不機嫌そうな顔になる。しかし、すぐに表情を傲慢で下卑たものへと戻す。そして彼はルナに近づき、腕を強くきつく掴む。
「いっ――」
「なら、君は母親としてあいつらが従順な犬である『証拠』をすぐそこの僕のベッドで見せて欲しいな」
「――っ」
アンサムに顔を近づけられ、ねっとりとそう言われて、怖気が走った。気持ち悪い。吐き気がする。彼が何を言っているのか分からない。――分かるが、理解したくなかった。
「そんなっ、こと――離してください――!」
「そうか、ならあの二人を見捨てるんだな」
「……!」
その脅し文句はずるい。それを言われたら、逃げることなんて出来ない。
――でも、そうするとアンサムと寝ないといけない。それは王にとって、そして亡きソレーユにとって最大の裏切りになってしまう。
けど、振り切ることが出来なかった。
ルナはうつむき、震え声で言う。
「どうか……このことは誰にも言わないで、ください……」
「約束しよう」
そう言ってアンサムがした引き笑いは、どうしようもなく気色が悪かった。
『それ』は獣の行為と一緒だった。
いや、それよりも下だったかもしれない。
覆い被さり、体重をかけて、相手に支えさせる。自分は何の苦労もせず、相手の身体を揉みくちゃに触り、乱暴に身体を動かす。
――ルナは、王がどんなときでも自分を気にかけていてくれたことをこの時、知る。
彼はどんなときでも優しくしてくれた。
こんな痛みを覚えたことはない。
息が押し出されるような圧迫感をこれほど強く感じたことはない。
――自身に今乗りかかっているケダモノは、自分が楽しむために相手のことなんてまったく気にかけてなんていなかった。
早くこんな時間、過ぎてくれと願う。
――久しく流していなかった涙が、その時、自然に彼女の頬を伝っていた。
「ああ、実に良い。王妃はそれなりの年齢だが、まだまだイケるな。また今度も頼むよ」
「――っ」
そう言って彼は満足そうに言う。何も言うことが出来なかった。今の彼とは言葉も交わしたくなかった。
ルナは一人、いそいそと衣類をただし、寝室が素早く立ち去る。扉の外に出て、早歩きをして王子の寝室から離れて――またぽろぽろと涙が零れてしまった。
これほど穢されたという思いを抱いたのは初めてのことだった。涙がとめどなく溢れて、嗚咽が漏れてしまう。
その日以来、ルナはまともに寝ることすら出来なくなった。
アンサムに呼び出されることが何度もあった。何度もそんなことが続けば、自ら漏らさなくても、どこからか伝わってしまうもの。
ひそひそと噂されている『その話』を偶然耳にして、ルナは卒倒しそうになってしまった。
そしてそれは最悪なことに、セレーネにも伝わったのだろう。
偶然、ばったり城の中で彼女に出会ってしまった。
別になじってくることはなかった。
でも、その憎悪に満ちた表情は、ルナは恐らく生涯忘れられないだろう。
セレーネは無言でそのまま通り過ぎた。
ルナはしばし、呆然と佇んでいたが――、
「うっ、ぷ」
強烈な吐き気に襲われて、脇目も振らずに自室に駆け込んだ。
そして花瓶の中身を床にぶちまけて、それに胃の中のものを全部吐き出した。
それでも吐き気が止まらない。寒気もする。涙が溢れてくる。身体の震えが止まらない。
「あぁ……あぁ、あああ……」
悲痛な泣き声が漏れ出てきてしまう。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。知られた。怖い。どうすればよかった。仕方なかった。どうすればいい。これから、何をすれば。どうしよう。知られてる。皆に。どうする。裏切った。皆を。どうしよう。
心の糸が張り詰め、千切れそうになる。――これが切れたら、たぶん精神は取り返しのつかない状態になるだろう、と本能的に察すること出来た。でも、そうすることが救いであるのなら――。
そう彼女が無意識に思っていると、不意に部屋の扉が開け放たれた。
ビクつき、そちらを見やると、そこにいたのは王だった。
今、一番、会いたくない人物がそこにいた。
「あぁ、王……いやぁ……、あぁ、……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
ルナは顔を手で覆い子供のように泣きじゃくる。
足音が近づいてくる。どうしよう。何か言わなければ。自分はどうなってもいい。せめてセレーネとカマルの二人だけは許しをもらわなければ。あの子達は何も悪くない。でも何を言えば良い。――頭が回らない。
そして、王が目の前にやってきて、しゃがみ――フッとルナは包み込まれるような感触を覚えた。
「え?」
ルナは王に抱きつかれていた。それは優しく、背中をとんとんと落ち着かせるように叩いてくれる。
「すまない」
「なんで……王、私は……私は裏切ったのに――」
「違う。この件について、君は被害者だ。……色々と気付くのが遅れてしまってすまない。まさかこんなことになるとは……吸血鬼にタイタンの奴らめ……」
「――?」
よく分からない。これは夢? そうあってほしいという妄想? それほどまでに自分は壊れてしまったのか? でもそうでなかったら――一体どうして……?
まだ頭の中が真っ白でまともに考えることが出来なかった。
「……アンサム……奴には私から言い含めておく。……ルナ、もし、また何かあればどんなことでもいい。私を頼るんだ」
「……なんで……王……」
そう言って、離れて笑いかけてくれた王は、少しげっそりとしていた。まだ心の傷が癒えたわけではないのだろう。それなのに、こちらを気遣ってわざわざやってきたのだ。
「ごめんなさい……私が、しっかりしていれば……」
「大丈夫だ。……問題ない、上手く行くはずだ」
王は怒りを感じ取らせるような低い声で、そう言った。
――ルナは崖っぷちで留まることが出来た。しかしそれ以降、本当にまともに眠ることが出来なくなってしまった。
彼女の苦悩は現代まで、絶え間なく続く。




