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九話

 私は一口大に切ったケーキをフォークで刺し、口に運んだ。

「……んん、とてもおいしい!」

「そうでしょう? ふわふわの生地はまるで綿菓子のように柔らかいでしょう」

 カスリーンの笑顔と甘いおいしさに、私も表情がほころんでしまう。

「ええ。こんな舌触りが優しくて繊細なケーキ、初めて食べますわ」

「フロレア様が一瞬でお気に召すのですから、城下で一番に売れているのも納得です」

「柔らかい生地もいいけれど、この上にかかったオレンジソースも素晴らしいわ。中のクリームともよく合っています」

「私もこのソースは大好きです。他のケーキにも使われているので、次回はそちらもお持ちしましょう」

「まあ、それは楽しみ! ここの菓子職人にも食べさせて参考にしてもらわないと」

 他のケーキを想像しながら、私はもう一口頬張った。……まだまだおいしいケーキはあるものね。

 私は昔から甘いものが好きだったのだけれど、陛下に見初められ、王宮に来てからさらに拍車がかかってしまったみたい。ここではありとあらゆる菓子が用意されるから、目に留まったものに片っ端から手を伸ばして、一時は着られなくなるドレスを大量に生み出してしまったこともあった。さすがに反省した私は、それから甘いものを控え、本当に食べたいものだけを口にすることにした。その結果、美食を追究することになり、私は私を満足させてくれる最高の菓子と巡り合えることを楽しみの一つにしている。

 それに協力してくれているのが、長年の友人カスリーンだ。伯爵夫人で私より十歳上だけれど、趣味も話も合う、婚姻前からの良き友人だ。王妃という立場は、一見華やかで苦労などないように思われがちだけれど、賓客へのもてなしや、料理の献立、王宮の内装など、裏側での細かな決定はすべて私が仕切っており、意外に気疲れのある立場だと知ってほしい。そのせいで甘いものにも手が出やすい……と言うのは言い訳かしら。けれどそんな毎日では気も滅入ってしまうから、息抜きというものが絶対に欠かせない。それが私の場合、菓子と彼女とのおしゃべりなのだ。

 カスリーンは暇を見てはこうして会いに来てくれる。そして私の苦労や悩みを親身に聞いてくれる。妊娠中も、初めての出産に不安がっていた私を、彼女は怖がることではなく、喜ぶことなのだと励ましてくれた。三人の母親である彼女の言葉は説得力があって、とても頼りになる。そういう面では、子育て中の私には先生のような存在でもある。

「ダイナ様は、お健やかそうですね。とてもいい笑顔をしていらっしゃる」

 そう言ってカスリーンは目を細めた。その視線の先には、部屋の奥でいつものように人形遊びをするダイナがいる。侍女に見守られながら、護衛のエゼルと話して楽しそうに人形を動かしている。あの子は本当にエゼルが好きなのね。本来なら、客人がいる部屋に護衛兵は入らないのだけれど、一緒に遊びたいと駄々をこねられ、カスリーンも構わないと言ってくれたから特別に許している。

「……ダイナ、こちらで一緒においしいケーキを食べない?」

「まだいいわ」

 顔も向けず、ダイナは手を動かしながら答えた。かなり夢中みたい。

「ダイナ様はこういったものはあまりお好きではないのですか?」

「違いますわ。あの子は遊びに夢中になると、なかなか言うことを聞いてくれなくて……それで学習の時間に遅れることが、これまで何度あったか」

「拒否ではなく、遅刻ならいいではないですか」

「よくないわ。小さな頃から約束を破る癖を付けるわけには――」

「子供の本分は遊ぶことです。しかしダイナ様は将来この王国を背負って行かれる方……遊ばれるお時間は今くらいしかございません。少し大目に見て差し上げてもいいのでは?」

「カスリーンの言うこともわかりますが、やはり、決められたことは守ってもらわないと」

 しつけは、幼少期が大事だと言うし。

「あまりめくじらを立てすぎると、かえって反発を生むこともあります。ダイナ様はご聡明ですから、遅刻が迷惑をかけることだと十分おわかりでしょう。直接叱るのではなく遠回しに、ダイナ様がご自身で考えられる間をお与えになってはいかがですか?」

「人から反省を強要するのではなく、自分で反省をさせる、ということ?」

「そうです。そのほうが考えるお力を養えますし、将来、ご自分というものをしっかり作り上げることができると思うのです」

 私は感心して自然とうなずいていた。やはりカスリーンは伊達に三人の子を育てていないのね。

「さすがね。あなたの言葉はいつもためになるわ」

「フロレア様がお望みなら、私はいくらでも助言いたします。少々耳触りの悪いことでも」

 カスリーンはいたずらっぽく笑って見せた。かしこまった態度を取ってはいるけれど、私達の間に立場の差はない。それは違うとためらわず言ってくれる存在は、私にとってはとても貴重だ。

「お願いするわ。これからも、私にいろいろと教え――」

 その時だった。突然部屋の扉が音を立てて開いたかと思うと、外にいた護衛兵の戸惑いを無視し、二人の人物がすたすたと入ってきた。

「一体、何事……」

 私はソファーから立ち上がり、やってくる人物の顔を見て唖然とした。

「……陛下! それに預言師まで、声もかけずにいきなり入ってくるなど……」

 夫であり国王のグレインと、その後ろには預言師ホリオークもいた。二人とも足早にこちらへ向かってくるが、その表情はどちらも険しく、何か差し迫ったような雰囲気をまとっていた。

「お急ぎのご用なら、そう一言おっしゃってください。こちらには客人がいらっしゃるんですよ」

 いくら国王でも、客人を迎えている部屋にいきなり押し入ってくるなんて、あまりに失礼な行為だ。私が抗議の意を込めた目で見ると、グレインはカスリーンを見やり、言った。

「これはマルドーン夫人……失礼をさせていただく」

「陛下、どうぞお構いなく……」

 カスリーンは立ち上がり、深々と頭を下げた。

「あなたは座っていてカスリーン。……陛下、どうしたのですか。私にご用で――」

「ダイナはどこにいる……ダイナ!」

 私越しにダイナを見つけたグレインは部屋の奥へ呼びかけた。私もそちらへ目をやると、人形遊びに夢中だったダイナは、父親のいつもと違う様子に手を止め、きょとんとした顔を向けていた。

「ダイナに何のご用なのですか?」

「ダイナ、こちらへ来るんだ。早く」

 私の質問には答えず、グレインはダイナの元へ行こうとしたが、それを後ろからホリオークが止めた。

「お待ちください国王陛下、あとはこちらで……」

「娘を早く助けなければ――」

「近付かれてはなりません。国王陛下の御身に万が一のことがあるやもしれませんので」

 止められたグレインは歯噛みしながらダイナを見つめる――この焦った雰囲気は、ダイナの命やグレインの身に係わる、重大なことが起こっているからなの?

「スタウト君、来てください」

 ホリオークが扉のほうへ声をかけると、外から一人の大柄な兵士が入ってきた。

「ダイナ王女をこちらへお連れしてください」

 そう指示を受けると、兵士はダイナの元へ歩み寄っていく。

「お父様……?」

 不穏な空気を感じ取ったのか、ダイナは不安な表情と眼差しで私達を見ていた。

「ダイナ様、陛下がお呼びになっておられます。さあ行きましょう」

 不安にさせないようエゼルが微笑んでダイナの手を取ろうとした瞬間だった。

「その子に触れるな!」

 グレインの怒鳴る声にエゼルはその手を止め、驚きと怪訝の浮かぶ目を向けた。それと同じ目を私も向けずにはいられなかった。

「彼女はダイナの護衛兵です。優秀で、私も信頼している者です。怒鳴る必要など――」

「妃殿下、これには事情がございまして……」

 グレインの代わりにホリオークが答えた。

「それなら、まったくわからない私に説明をしてちょうだい」

「もちろんです。ですが今は、あの護衛兵からダイナ王女を引き離す必要があるのです。ご説明はその後に」

「引き離すって……彼女に何か問題でもあるというの?」

「それは、後ほど……」

 この場での説明はできないほど、大きな問題だとでもいうの? エゼルは態度、任務にも真面目で、評価の高い兵士だと聞いている。本来はしなくてもいいダイナの遊び相手にもなってくれて、私を含めた周囲の者達は皆彼女を信頼しているのに……一体、何が起きてしまったの?

「……ダイナ!」

 兵士に連れられてきたダイナに駆け寄ると、グレインはその胸に思い切り抱き締めた。でもダイナの表情には安心の色はなく、どこか不満げだ。

「お父様、どうしてエゼルを怒ったの? 私エゼルともっと遊びたいわ」

「もう遊びの時間は終わりなんだ。フロレアと一緒に行きなさい」

 そう言うとグレインはダイナを私に預けた。

「二人とも、部屋に戻っているんだ」

「いや! エゼルと遊びたい!」

 ごねるダイナの頭を撫でてなだめながら、私はグレインに聞いた。

「これは、危険な問題なのですか?」

「ここでは、何とも言えない……」

 そう言うグレインの視線がダイナに注がれた。娘がいては話しづらいということかしら。

「……わかりました。ではダイナ、お母様と一緒に行きましょう」

「えー、まだ遊びたい……」

「たくさん遊んだでしょう? また明日に。ね?」

 口を尖らせていたダイナだったけれど、不満を表しながらも渋々戻るとうなずいてくれた。少し聞き分けがよくなったようね。

「お戻りになるのでしたら、私はこれでおいとまを……」

 居心地が悪そうなカスリーンは、そう言って帰ろうとする。私はそれを慌てて引き止めた。

「駄目よ。今日は夕食も一緒にと言ったじゃない」

「しかし、お取り込み中に邪魔をしてはいけませんから……」

「あなたが邪魔になるわけがないでしょう。まだお話も途中だったのだし、私の部屋でその続きを聞かせてちょうだい。さあ、行きましょう」

 ダイナと共にカスリーンも強引に引き連れ、私は部屋の扉をくぐった。そこでふと振り返り、グレインの様子を見てみると、ホリオークと何やら真剣に話し込んでいた。そのホリオークは未だ怪訝そうなエゼルに話しかけている――後で説明はすると言われたけれど、やはり気になってしまう。グレインを焦らせるほどの問題って、一体何なの……。

「……陛下とお話をしたいから、カスリーン、ダイナを連れて先に私の部屋へ行ってくれるかしら」

「勝手にお部屋に入っても、よろしいのですか?」

「あなたなら構わないわ。……あなた達、あとは頼むわよ」

 私とダイナの侍女達に二人の相手を頼み、私は出てきたばかりの部屋に再び入った。

 グレイン、ホリオークが距離を取ってエゼルと向かい合っている。そこから離れた位置で大柄な兵士が見守っている。まだ話を聞きに行ける状況ではなさそう――私は遠巻きに眺めながら、聞こえてくる声に集中した。

「どうだ……?」

「……同じ、気配……ひどく淀んだ、恐ろしい気配を感じます。やはり変わらず付いております」

 ホリオークはエゼルを見据えながらそう言った。恐ろしい気配……?

「あの、私には事情がまるでわからないのですが……これは、どういうことなのでしょうか」

 エゼルの困惑の色は深い。演技ではなく、本当にわからないみたい。本人には心当たりがない様子だわ。けれどグレインはそんなエゼルには構わずに言う。

「なんてことだ……ホリオーク、すぐにこの者を拘束しろ。さらに犠牲者を出すわけにはいかない」

「承知いたしました。……スタウト君」

 呼ばれた大柄な兵士は、困惑するエゼルの肩と腕をつかみ、扉のほうへ歩かせ始める。

「ノーマン、あなたは知っているの? 私が何をしたというの? ……ホリオーク様、どうか、ご説明を願います」

「あなたには聞きたいことがありますので、そこで説明はします。まずは部屋を出ましょう」

 そう言い、ホリオークは連れられるエゼルに付いていく。エゼルは困惑の表情を見せてはいるけれど、兵士には逆らわず素直に従い歩いていた。そして私の横を通り過ぎる時、その深い緑の瞳と視線が合った。

「申し訳ございません……」

 力のない声がそう言い、エゼルは廊下で待ち構えていた兵士達に囲まれ、連れて行かれた。謝りの言葉は何に対して言ったものなの? 任務を果たせなくなったこと? それともこの騒ぎを起こした責任を自覚しているから? 彼女が私達の知らないところで、何かよからぬことを働いていたなど、考えたくはないけれど――私は事情を聴くため、グレインの元へ歩み寄った。

「……フロレア、部屋へ戻れと言っただろう」

「陛下のご様子を見ては、何も聞かずに戻ることなどできません。一体何が起きたのですか?」

 グレインの表情はさらに険しさを増した。

「ホリオークから報告があったのだ。昨日、ダイナ付きの護衛兵が殺されたとな」

「護衛兵が……?」

 私は驚きながらも、すぐにぴんときた。

「その犯人が、まさか拘束した彼女だというのでは……」

 しかしグレインは首を横に振った。

「違う。殺したのはあの兵士ではない。……邪神だ」

「邪神? 神が、護衛兵を殺したのですか?」

「そうとしか考えられないそうだ。目撃したホリオーク付きの兵士によれば、護衛兵は黒い炎に巻かれ、殺されたという。こちらの世界ではあり得ないことだ」

 黒い炎……本当なら、確かにあり得ないものだけれど――

「なぜそれが邪神とつながるのですか? 邪神はカーラムリアで厳重に幽閉されていると昔聞いたことが――」

「これはまだ一部の者しか知らないことだ。混乱や動揺を引き起こさないため、フロレアにも言わなかったのだが……」

 グレインの表情に深刻さが漂っていた。

「……お教えください。私は、ダイナを守らなければなりません」

 母として、危険な状況だと知らなければ、ダイナを守り切ることはできない――その意志が伝わったのか、グレインは私を見つめると、おもむろに言った。

「その邪神だが、封印を破り、逃げ出したと、あちらが伝えてきている」

 私は息を呑み、グレインを見つめ返した。

「その邪神が、トラッドリアに来ているのですか? だから護衛兵が――」

「来てはいない。神はトラッドリアでは姿を持てず、力も発揮できないと言われている」

「ですが、護衛兵は邪神に殺されたと……」

「封印を破り、力を使えるようになったためだ。邪神はカーラムリアにまだいるはずだ」

 護衛兵を殺した犯人も、その居場所もわかっている――

「それでは、なぜ彼女を拘束したのですか? すべては邪神の仕業なのでしょう」

「あの者は殺された護衛兵と共におり、その瞬間も間近で見ている」

「同じダイナ付きの護衛兵です。共にいるのはおかしなことではありません。何か怪しい節があるとでもおっしゃるのですか?」

「怪しいのはあの者ではない。そこに付いている気配だ」

 そう言えば、先ほども恐ろしい気配とホリオークが言っていた……。

「その気配というのは、神の気配のことですか?」

 これにグレインはうなずいた。

「神には違いないが、ホリオークが言うには、邪神である可能性が非常に高いようだ。なぜだかあの者に邪神の気配が付き続けている」

「その気配が、何か悪さをするというのですか?」

「今の段階では何とも言えない……神々も、その意図を測りかねているらしい」

「それならば拘束などすることは――」

「わからないからこそ、そうする必要があるのだ。フロレアも、邪神の気配の側にダイナを置いておくなどできないだろう」

 そう言われては私に返す言葉はなかった。だがそれではエゼルがあまりに不憫だわ。彼女は真面目に任務を果たしていただけなのに……。

「ダイナを守ることは私達の役目であり義務です。あらゆる危険に目を光らせるのは当然ですが……しかし、そのために落ち度のない者を苦しめてもいいというのですか」

 グレインは表情を和らげると、私の肩に触れた。

「苦しめるつもりなどない。拘束するとは言っても、拷問や刑罰にかけるわけではないのだ。ただ目の届く場所に置き、監視をするだけのことだ」

「それはいつまで続くのですか? あまり長いとダイナも悲しみますし、彼女自身の心にも悪影響があるでしょう。邪神の気配を除ける術などはおわかりなのですか?」

「わかっていれば拘束するまでもないことだ。気配についてはホリオークと神々が対処してくれている。我々はその結果を待つしかない」

 今、私達が危険に備えてできることはそれしかないのね……エゼルを犠牲にしているみたいで、何だか心が痛むわ……。

「……護衛兵の心配までするなど、フロレア、やはり君は優しいのだな」

 わずかに微笑んだグレインは、私を静かに抱き締めた。

「フロレアもダイナも、私は失いたくない。この問題が解決するまで、二人はしばらく離宮にいるといい」

「それなら、陛下もご一緒に――」

「私は神々から話を聞き、それによって皆を指揮する立場だ。預言の間のある王宮から離れることはできない。……大丈夫だ。私にも信頼する兵士はいる。危ないことはない」

 身を離したグレインは私を見つめた。

「明日にも王宮を出るんだ。いいね?」

「……はい」

 そう返事はしたものの、気持ちはまだまとめきれていない。本当にグレインに危険はないのか……邪神の気配が付く不運なエゼルを助けてあげられれば……ダイナに何と説明をすればいいの……。考えることはいろいろあるけれど、私ができることは限られている。そこで優先するべきは我が子を守ること。安全な場所で守ってあげることが、私が今しなければいけないことなのでしょう。漠然とした不安はあるけれど、グレインを信じ、従うしかない。こんな気持ちのままで、待たせているカスリーンとまた笑顔で話せるかしら――小さな心配を胸に、私はグレインと共に部屋を後にした。

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