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十六話

「ここで少し休もう」

 城下町から抜け出した俺達は、街道沿いにある林の中へ入り、体の冷えと疲れを回復させるため大樹の下で休憩をすることにした。城下の住人は皆、東の森や山へ避難したらしく、ここには誰もいないようだった。おかげで安心して身を隠せそうだ。頭上に傘のように広がった大樹の枝葉が雨を受け止めてくれて体を濡らさずに済む。制服の裾を絞ると、雨水がぽたぽたと滴った。この天気はいつまで続くのか。木々の隙間からのぞく夜空は相変わらずどす黒く、きらめく星が見える兆しは皆無だった。

「追っ手は大丈夫かしら」

 地面から出た大樹の根に腰を下ろしているエゼルは、不安げな表情を浮かべて呟いた。

「すぐには見つからないだろうが、ここは城下からそんなに離れていないから、あまり長居はしないほうがいいだろうな」

「そうね……」

 エゼルはゆっくりうつむくと、おもむろに聞いてきた。

「ノーマン、城下で聞きそびれたことだけど……」

「ん? 何だ」

「お父さんが邪神を信仰したのは、私を守るためだって……そう言っていたでしょう?」

 そう言えば、監獄棟から逃げた直後に、そんな話をしていた――俺がエゼルに目を向けると、エゼルもこちらを見ていた。

「それはどういうことなの? 私を守るって、一体何から?」

 いぶかしむ眼差しが俺に問うてくる。……まだ答えるわけにはいかない。父親の一計の結果はこれからなのだ。エゼルに真実を話して、信仰心を揺らがせることは避けなければ。

「……詳しいことまでは聞いていない。だがエゼルは赤ん坊の頃、死にかけたことがあるらしいな。俺が想像するに、邪神は生命を司る神で、父親は命を守ってもらえるよう禁じられた信仰をしたんじゃないだろうか」

「私、死にかけたことがあるの? 初めて聞いたわ……」

 当時のことを父親は一切話していないらしい。それだけ娘を案じ、一計に賭けているのかもしれない。

「でも、ノーマンの言う通りかも。お父さんは手紙で、必ず祈りを忘れるなって書いていたの。厳しい言葉が多かったけれど、それが愛情なんだとわかっていたわ。一度死にかけた私を守るため……そうなのかもしれない」

 想像と言って都合のいい答えを作ってみたが、エゼルが見い出した答えは図らずも父親の本心につながった。やはり親子の気持ちは、話さずともつながっているのだろう。

「ところで、ノーマンはどうして助けてくれるの? こんな危険を冒して、後悔はないの?」

「そんなものするか。覚悟はできているよ」

「でも、殺されなきゃいけない私を逃がすなんて、罪に問われる行為よ。やっぱり、これはやりすぎだったんじゃあ……」

「何を今さらびびっているんだ。城下で兵士と対峙した時のお前はどこに行った」

「違う。私が心配なのはあなたよ。私を助けてしまったせいで、この先ひどいことを言われたり、お尋ね者扱いされたら――」

「追っ手がかかった時点で、もうほとんどお尋ね者だ。だったら振り向かずに突っ走るしかない」

 するとエゼルは怪訝な表情を浮かべ、見つめてきた。

「……何だ」

「やっぱり、わからないわ。お父さんに頼まれたから助けたんじゃないんでしょう? 自分の意志だと言うなら、どうしてここまで身を削ってくれるの? 王族でも、家族でもない私のために」

「それは……」

 お前を失いたくなかったから――そう正直に言えればいいが、こんな状況ではあまりに場違いな告白になってしまいそうだ。第一、エゼルは俺に対して何の好意も抱いていないだろう。俺の一方通行の思いをいきなり伝えたところで、ひどく困らせてしまうだけだ。だがそれでいい。エゼルを守り、助けることができるなら、それで――

「……大事な友人、だから。それじゃ不十分か」

「私はノーマンにとって、危険を冒せるほどの素晴らしい友人でいる?」

 疑うような目が俺に聞いてくる。父親とは違い、俺の気持ちとはまったくつながってくれないようだ。もう、それでいいさ……。

「お前は素晴らしいを通り越して、最高の友人だよ。俺に対して真摯だし、剣術も教えがいがある。笑顔がないのが玉にきずだがな」

「でも私、邪神の信仰を黙っていたわ。気分を悪くしたでしょう?」

「誰しも秘密は持っているもんだ。俺は今回それを知ったわけだが、ただそれだけのことだ。俺とお前の関係が断たれるようなことじゃない」

「そうだとしても、私を助けてノーマンが得することなんて何一つないわ。むしろ苦しむだけよ」

「エゼルは友人を損得で見ているのか」

「そういうことじゃない。私は、ノーマンのこの先が気がかりで――」

 俺より、自分の心配はしないのか――俺はエゼルの肩をつかみ、こちらへ向かせた。

「エゼルを助けたいだけなんだ。その気持ちに従って動くことの何がおかしい」

「私のせいで、ノーマンを不幸にしたくない」

「こうしてエゼルを逃がせなかったら、俺は不幸を感じたかもしれない。だがそうはならなかった今、俺は少なくとも幸せだ」

「追っ手がかかっている状況が、幸せ? 私には理解できない……」

「構わないさ。何が幸せかは人それぞれだ。理解してもらうもんじゃない。ただ俺は自分のしたことに後悔はない。それだけだ」

 エゼルはやはり理解できないような表情を浮かべていたが、やがてその口元にぎこちない笑みを見せた。

「……あなたは馬鹿よ。かっこつけたことを言って」

「かっこつけたとは何だよ」

「だってそうじゃない。私を逃がすなんて、人生を棒に振る行為よ。それのどこが賢いと言えるの?」

「悪かったな。賢い方法が取れなくて」

 そう言い返すと、エゼルはくすりと笑った。

「あなたが馬鹿なことをするから、私はこうして甘えてしまうのよ。やっぱり、ノーマンは私にはもったいない友人……」

 するとエゼルは手を伸ばすと、俺をひしと抱き締めてきた。

「どんな言葉で言っても感謝しきれないけれど……ありがとう。私を助けてくれて」

「……礼なんかいい」

 俺を抱き締めるエゼルの力が、その感謝の気持ちを伝えてくる。殺されるかもしれないというのに、俺の身ばかり心配して……馬鹿なのはどっちなんだか。

 身を離したエゼルは、微笑みを浮かべた表情で聞いてきた。

「私、今笑えている?」

 雨に濡れた顔は、その冷たさにも動じず自然に笑えているように感じた。だが俺はあえて言った。

「まだまだだな」

「そう……笑うのって難しいのね」

 エゼルは膝を抱えると、溜息を吐いて暗い空を見つめた。この先、今以上に顔をほころばせることができるかどうか……。何があろうと、エゼルも、その笑顔も失いたくない。正念場はここからだ。

「あ、空が……」

 呟いたエゼルの声に視線を上げてみると、つい先ほどまで一面黒かった夜空に、うっすらと明るみができていた。重苦しい雨雲が割れ、その奥から白々とした光が差し込んでくる。

「知らぬ間に、太陽が昇り始めていたらしいな」

 輝きを増し始めた夜明けは、光で雨雲を蹴散らすように、徐々に空を白く染めていく。それと同時に、あれほど降りやむ気配のなかった大雨は、次第に勢いを弱らせると、ものの数分で小雨へと変わり、そしてぴたっとやんでしまった。

「あんな大雨だったのに、まるで一瞬でやんだみたいね」

 立ち上がったエゼルは不思議そうに頭上を見つめる。

「そうだな。誰かが意図的にやませたような――」

 そう言った自分の言葉に、俺の頭にはあることがよぎった。神の奇跡――まさかこれは、邪神を討つ予兆か? 城下の住人達も、さすがに避難は終えているだろう。空っぽになった城下で人間を気にする必要はない。神は力を行使するために天気を操ったのでは――

「……エゼル、そろそろ行こう。もう少し城下から離れ――」

 その時、遠くからガラガラと何かが崩れたような轟音が響いてきた。

「な、何……?」

 驚いたエゼルは林の出口へ向かう。俺もその後に続いた。

「……あっ、あそこ!」

 遠く離れた視線の先――そこには小さく見える城壁があったが、その内側からわずかに土煙が上がっているのが見えた。何かが、起こっているのか――そう思った直後、今度はそのすぐ側にまばゆい閃光が走った。俺とエゼルは思わず顔を伏せる。と、ガンッという衝撃と地響きが体に伝わり、俺は危うく腰を抜かしそうになった。

「……今のは、雷? でも、空にはもう雨雲は……」

 エゼルの言う通り、白む空にはすでに雷を落とすような雨雲は見えない。すがすがしい夜明けの光があるだけだ。やはり始まったのだ。今のは神のいかずち……とうとう邪神が、王国までエゼルを捜しに来たのだ。

 その後も城壁の内側では、得体の知れない力が建物を壊し続けていた。そのたびに土煙が上がり、遅れて轟音と震動がここまで伝わってくる。あれが、神の力なのか。たやすく破壊されていく建物は、まるで陶器を割っていくかのように軽々しい。あんな中に人間がいたら、一瞬で命を手放すことになるだろう。

「戦争でも起きたような光景だわ……ノーマン、一体何が起こっているの?」

 エゼルは呆然としながらも聞いてきた。

「神々が動き始めたんだ。邪神を討つために。おそらく、邪神は王国内のどこかにいるんだろう」

「どこかに……」

 ふらっと足を踏み出したかと思うと、エゼルはそのまま林を出て行こうとする。

「……おいエゼル、どこへ行くんだ」

「ごめんなさい、私……見ていられない。クロメア様が、討たれてしまうなんて……!」

 俺の視線を振り払い、エゼルは城下へ駆け出していった。

「何を考えているんだ。あんなところへ行ったらどうなるか――」

 俺はすぐさま後を追って言った。

「わかっているけれど……ノーマンはここに残って。構わなくていいから」

「せっかく城下を出たっていうのに、自分から戻る気か」

 後ろからエゼルの腕をつかみ、引き止めた。

「あんな中で、さすがに追っ手も来ないわ」

「そうだとしても、お前が行って何ができる。神々の力に巻き込まれて死ぬだけだぞ」

「祈りを……クロメア様のお側で捧げれば……」

「祈るならここでもできる。何も嵐のただ中に入らなくても――」

「待って! 静かに……」

 急に表情を変え、動きを止めたエゼルは俺を黙らせた。その視線は白む頭上を見つめている。

「エゼル、どうした」

「聞こえるの……」

「何が?」

 聞き返すが、エゼルは宙を見つめ、何かに意識を集中させているようだった。

「……私は、ここです」

 きょろきょろと頭を動かし、エゼルは誰かに話しかけるように言った。

「おい、誰と話している。まさか……」

「クロメア様、今行きます」

 そう言うと、エゼルは俺の手を振り払い、城下へ真っすぐに駆け出した。

「エゼル、駄目だ!」

 俺は慌てて背中を追った――ついに邪神が接触してきたか。エゼルを呼び寄せ、代償を奪いに……。

「ノーマンは、来ないで!」

 エゼルは走りながら叫んだ。

「死ぬ気なのか!」

「それでもいい……クロメア様が、お呼びしているのよ!」

 父親の教えの賜物と言うべきか。エゼルは邪神の信仰に何の疑問も抱いていない。それどころか自分の命さえかえりみていない。それはつまり、邪神が自分よりも大事な存在であると言えるかもしれない。父親の一計の準備は理想通りに整っている。あとは邪神の出方次第だ。エゼルの命を奪うのか、それとも――大きな賭けは、間もなく決着するだろう。だが、その前に問題なのが城下に降り注ぐ神々の力だ。あれを避けるなど不可能だ。一旦城下に入れば巻き込まれずには済まないだろう。命懸けの賭けの結末も見ずに、エゼルを死なせるわけにはいかない。しかし邪神と接触させるには城下へ入らなければならないし……一体どうすればいい。俺はエゼルをどうやって守れば……。

 城下が目の前に迫ると、遠くから見えていた土煙がまるで霧のように辺り一帯を覆っていた。その見えない中で轟音は鳴り響き、閃光は瞬き続けていた。地面からは短い地震が連続で起こっているような揺れを感じる。あまりに非現実的すぎる。この世の光景ではない。だがエゼルはためらうことなく城下への崩れた門をくぐっていく。最後まで守る……そう覚悟をしたからには進むしかない。賭けを見届けられるのは、俺しかいないのだ。

「クロメア様!」

 土煙の中をエゼルは邪神を呼びながら足早に進んでいく。その辺りの様子を見て、俺はさらに面食らった。

「何だ、これは……」

 最初は瓦礫と化した建物ばかりを見ていたが、よく見ればそこかしこに不可思議な現象や物体が散らばっていた。宙に浮いた水の塊、金色に輝くつむじ風、意思を持ったように動く岩、くっ付いては分裂する光の集合体……すべてが人間の常識から外れたものだった。ここは人間の領域ではない。神の領域に変わっている。これが、神の奇跡というものなのか……。

 思わず足を止めて見入っていた俺の側に閃光がほとばしった。まずい、と思った瞬間には、俺の体は衝撃で吹っ飛ばされていた。全身を引き裂くような轟音と震動が骨をびりびりとしびれさせ、耳鳴りを起こしている。これが直撃していたらと思うと、足がすくみそうだ。ぼんやりしていれば簡単に死ねるだろう。入り込んだ俺達にとって、もはやここは地獄と変わりない。

 吹っ飛ばされたせいで背中をしたたかに打ったが、このくらいの痛みでうめいている暇はない。エゼルの姿を捜し、俺はすぐに立ち上がって進んだ。

「エゼル、どこだ!」

 俺が雷に襲われている間に、エゼルの姿は土煙の奥に紛れて見えなくなっていた。先へ行くなら瓦礫の少ないこの道を行くはずだが――

「エゼル、どこに……ぶわっ」

 その時、横から強風が吹き付けてきた。砂粒や瓦礫の破片が全身に当たる。ひとまず建物の崩れた壁に身を隠し、風を避けた。そして前方に目をやると、流されていく土煙の向こうに、エゼルの後ろ姿が見えた。……いた。まだ無事でいる。

「クロメア様、どこにおられるのですか!」

 風の音に混じって、エゼルの呼びかける声が聞こえた。ふらふらと歩き、さらに奥へ行こうとしている。また見失うわけにはいかない。強風はやんでいなかったが、俺はエゼルの背中を見据え、一直線に向かった。

「エゼル! 一人で行くな!」

 呼ぶが、俺の声は届いていないらしい。こちらには見向きもしない。

「……そちらにおられるのですか?」

 邪神の声を聞いているのか、頭上を見上げ、エゼルは道の角を曲がろうとする。と、再びどこかに雷が落とされた。閃光が走り、その振動が俺の足に伝わる。

「……エゼル!」

 道の角にかろうじて残っていた石壁が、振動のせいかゆっくりと倒れようとしていた。その下にはエゼルが――俺は全速力で駆け、エゼルの体を抱えるように飛んだ。

 ガラガラと音を立てて崩れた石壁が俺の足下に転がってくる。間一髪だった。

「……ノーマン」

 エゼルは危うく壁の下敷きになりかけたことに気付いているのかいないのか、怪訝な目で見てくる。

「礼くらい言ってくれてもいいと思うが……そんなことより、邪神がどこにいるかわかったか」

「この先、多分中央広場のほうよ」

「わかった。俺も一緒に行くから、一人で行くな」

 エゼルを立ち上がらせ、俺はその横にぴったりと張り付いた。エゼルは死なせない。この手で守ってみせる――強風や振動がやまない中を、俺達は道なりに進んだ。

 その名の通り、城下町の中央にある広場は、住人達の憩いの場として花や木が多く植えられた美しい景色が見どころだった。だが神の力が振るわれている今、植物は茎だけを残し、模様を彫った石畳は剥がれ、割れて地面がむき出しになっている。そこにはどこからか飛んできた瓦礫が点々と転がり、昨日までの広場とはまったく別の様相を見せている。

「ここに、邪神が……」

 見えるわけでも、感じられるわけでもなかったが、俺は広場を静かに見渡した。邪神はもう側にいるはず。いやが上にも緊張が高まる。

「クロメア様……」

 するとエゼルは広場を歩き始め、そしてふと足を止めた。

「……そこにおられるのですね、クロメ――」

 名を呼び切らないうちに、エゼルの声はなぜか止まった。その表情はこわばり、目は見開いて宙を見つめたままだ。様子が、おかしい……。

「エゼル、どうかし――」

 歩み寄った瞬間、俺は目を疑った。不意に、何の前触れもなく、目の前には黒い人影が現れていた。裾を閃かせた黒い服、地面に届きそうなほど長い黒髪……全身を黒く染められたような人影は、エゼルの正面でふわふわと浮遊していた。そしてそこから伸ばされた右手は、エゼルの胸の中心に触れて――違う。触れているだけじゃない。胸の中に、手首まで埋もれている。その周囲にはゆらゆらと動く黒い炎がちらついている。まるでエゼルの胸の奥から黒い炎が溢れ出ているかのようだった。

「やっと、見つけた」

 低く、どこか嬉しそうな声で黒い女は言った。長い髪が邪魔をして表情は見えないが、唯一見えた口元はにやりと歪んでいた。

「クロ、メア、様……」

 目を見開いたままエゼルは呼ぶ――まさか、この女が邪神クロメア? しかし、神はトラッドリアでは姿を持てないはず。なぜ俺の目に見えているんだ。

「ふふ……私の息がかかった命……同化もたやすいようだ」

 すると邪神はおもむろに頭上へ視線を向けた。

「……やかましいやつらめ。もう無駄だ」

 そう言うと、地面や中空に黒い物体が現れ始めた。それは生き物のように動き、混ざり合い、次第に人の形を作っていく。

「依り代を得れば、力を使うことも問題はない。……さあ、私を殺してみろ。この姿が見えているのだろう」

 邪神は天に向かい、挑発する。直後、再び強風が吹き付け、辺りに散らばる瓦礫や石が不気味にうごめき始めた。そして閃光と共に耳をつんざく雷が邪神目がけて落ちた。近距離の落雷に俺は顔をかばい、後ずさる。直撃した――そう思ったのもつかの間だった。周囲がにわかに騒がしくなり、顔を上げてみれば、邪神の周りには瓦礫を始め、水塊や火球、光の矢や金色の旋風が四方から飛び交っていた。それらは明らかに邪神だけを狙い飛んでくる。しかし邪神は余裕の笑みを口元に浮かべている。神々の力は、すべて黒い物体によって防がれていた。人の形をしたそれは焼かれ、砕かれ、雷に打たれようとも、瞬時に元の形を取り戻し、縦横無尽に動き回る。そのおかげで邪神は傷一つ負わずに済んでいた。

「無力な者らよ。これで無駄だと理解できただろう。私はもう殺せない。歯噛みしながらカーラムリアの地で眺めているがいい」

 あざ笑う邪神に、神々の猛攻が弱まる様子はなかった。必ず邪神を仕留めるという強い意志を感じる。だがそれも黒い物体の完璧な守りの前では足踏み状態だった。邪神のほうが、一枚上手だったということか。

「……往生際の悪いことだ。見ていられない。まあ、それもしばらくの間か」

 邪神はエゼルに向き直った。そのエゼルは胸に手を突っ込まれた状態で、変わらず動きを止めていた。だがその目は潤み、感動した眼差しで邪神を見つめている。

「クロメア様……なのですよね? これは、夢なんかじゃなく……」

「私と会えたことが、それほどに嬉しいか」

「この目で拝見でき、言葉を交わせるなど、これ以上に嬉しいことはどこにもございません」

 ここまで感極まったエゼルは初めて見る。俺としてはすぐに引き離したいが、まだだ。まだ――

「いい依り代に成長したものだ。私の新たな体にふさわしい」

「新たな、体……?」

「……ついに代償を貰う時がきた。お前は、私になるのだ」

「どういう、ことでしょうか」

「私と共に、カーラムリアの愚かな者達に罰を与えるのだ。そのためにはお前の体、そして心がいる。お前を突き動かす心の一部を消し、そこに私のすべてを重ねるのだ」

「クロメア様と、一心同体になれると、そうおっしゃっているのですか?」

「そうだ。お前はこれから、私と共に生きるのだ。トラッドリアの神として生きるのだ」

 邪神の恐ろしい言葉が響く――神々の推測通りだった。やはり邪神はエゼルを自分の器として利用する気だったのだ。一緒に神になると言っても、要は体を乗っ取るということだ。そこにエゼルの意思が残るとは思えない。無意識のまま都合よく使われるだけなのが目に見える。だがそうなるかどうか……最後の決め手はエゼルの心だ。父親の一計は成功するのか、それとも最悪の事態へ向かうのか――俺は吹き荒れる神々の力から身を伏せ、ベルトに差した剣の柄にそっと手をかけて邪神を注視した。

「大変、光栄です……それがクロメア様のご意思ならば、私は体でも心でも、喜んで差し出します」

 恍惚の表情で、エゼルは淀みなく言う。

「よく言った。素晴らしい覚悟だ……では、お前の心を、さらけ出せ……」

 邪神の右手が突っ込まれている部分から、まるで油でも注がれたかのように黒い炎が噴き上がった。

「うっ……」

 エゼルが苦しげに顔を歪めた。まさか、命を――

「お前の心を占めるもの……そんなものはもういらない。跡形もなく消えるがいい!」

 エゼルの胸から噴き上がった黒い炎は空高くまで舞い上がり、土煙の向こうへ消えていった。

「あの炎が、お前の大事にするものを壊しにいった。心配はいらない。お前の命を奪うことはな――」

 ボンッと火が破裂するような音がして、俺は瞠目した。土煙の向こうへ消えたはずの黒い炎が、なぜか邪神の胸を貫いて燃えていた。これは――

「な、ぜ……私の、元に……」

 邪神の声はかすれ、呼吸が乱れている。かなり苦しげだ。

「クロメア様、何てことに……!」

 エゼルは驚愕の声を上げ、呆然と見つめる。これは、この賭けは――

「……ふ、ふふふ……こざかしい人間め……」

 邪神は不気味に笑うと、初めてその表情を見せた。長い黒髪の間から見えたのは、怒りをたたえた恐ろしいまでに歪んだ形相だった。

「罠を張り、私のもくろみをぶち壊すつもりだったのか……」

「何のことでしょうか。何か不快に思われることを――」

「黙れ! ぐっ、うあ……」

 邪神を貫いている黒い炎は、じわじわとその全身を覆い始めていた。服の裾、髪の先が、次第に炎に呑み込まれ、消えていく。

「クロメア様! 早く、早く私の体をお使いください! この命、クロメア様のためなら惜しみません!」

「目前で、足をすくわれるなど……いいだろう。代償として、その命、私と共に道連れにしてやる! 我が子を失う絶望を、再び与えてやろう!」

 黒い炎の中に消えかけている体で、クロメアはエゼルの胸に突っ込んでいる右手をさらに突き入れた。途端、そこから黒い炎が舞い上がった。

「ああっ、ク、クロメア、様……うぐ……」

 エゼルが苦悶の表情でうめく。道連れなど、させるものか――俺は剣を握り、邪神の右手目がけて切りかかった。

「はあっ!」

 振り下ろした瞬間、黒い物体が眼前に現れ、俺の剣を真っ二つに折った。……しまった! 唯一の武器が――

 だがその時、折れた剣の断面が赤く光り出したかと思うと、まるで植物のように伸び、元の剣の姿を取り戻した。これは、神の奇跡か……?

 すると、邪神を狙う神々の力が、今まではばらばらに振るわれていたのが、息を合わせたかのように一度に、一斉に向かい始めた。不自然な攻撃……何か意図があるはず――俺は守り続ける黒い物体が神の攻撃で砕かれ、そして再生する様を見て気付いた。元に戻る、ほんのわずかな時間、その瞬間だけ邪神は守りを失う。神は俺に、そこを狙えと言っているのだ。黒い物体を引き付けている間に……。

 邪神の体は黒い炎によって半ば消えている。何もせずともその命はじきに消滅するだろう。だが右手はエゼルの命をつかみ、引きずり出そうとしている。死ぬなら、一人で死にやがれ――俺は神の力に合わせ、邪神の腕に切りかかった。

「離れろっ!」

 雷の閃光とあらゆる轟音の中へ突っ込み、俺は剣を力強く振った。振動が伝わり、確実な手応えを感じる――当たった!

「うがああ!」

 邪神はのけぞり、俺に切られた右腕を見て悲鳴を上げた。

「エゼル!」

 駆け寄ると、エゼルは目を瞑り、微動だにしなかった。胸に埋もれていた邪神の手は、黒い炎と共に宙へ消えていった。そっと肩に触れると、体は風に吹かれた紙のように、あっさりと傾いて倒れようとする。俺はそれを咄嗟に支え、エゼルの顔をのぞき込んだ。まさか、遅かったのか――

「ふ、ふふ……貰って、行く……ぞ……」

 振り向くと、地面に這うように倒れた邪神は、顔の半分を黒い炎で消されながらも、不敵な笑みを浮かべて俺を見ていた。やがて全身を炎に呑み込まれると、その姿は塵も灰も残さずに消え、炎も役目を終えたかのように静かに消失した。気付けば黒い物体もいなくなり、神々の力もやんでいた。あれだけ騒々しく、危険で、非現実的な光景が広がっていたのがまるで嘘のように、今は圧倒的な静寂だけが城下に残されていた。

 しかし、俺の耳には自分の心臓の鼓動がやかましいほどに聞こえてくる。邪神の言葉を信じれば、エゼルの命を俺は、助けられなかったのか? 道連れにされるのを、防げなかったのか――エゼルの体を地面に横たえ、俺は目を開けない顔にそっと触れてみた。

「エゼル、起きろ。起きてくれ……」

 砂で汚れた頬はまだ温かかった。死んだとはとても思えない温もりだ。俺は手を取り、握ってみる。こちらもまだ温かい。何となく違和感を覚え、俺は手首にも触れてみた。すると、指先に脈動を感じる――生きて、いる?

 俺はエゼルの口元に耳を寄せた。ごく小さな、すーすーという呼吸音が聞こえる。間違いない。エゼルはまだ生きている。道連れにはされていなかった!

「エゼル! 助かったんだ。お前は生きているんだ。起きて喜べ!」

 肩を揺すり、話しかけるが、エゼルの目はなかなか開かない。どうしたんだ。怪我をしている様子はないが……。

「おい、エゼル、どうしたんだ。眠いならこんな埃っぽいところじゃなく、綺麗なベッドの上で――」

 その時、エゼルの目がうっすらと開いた。やけにまぶたが重そうで、その目の焦点は合っていなかった。そんなに眠かったのか?

「エゼル、寝ぼけている場合じゃないぞ。俺達は助かった。お前は、邪神から解放されたんだ」

 聞こえているはずだが、エゼルは仰向けの姿勢のまま微動だにせず、ぼーっとしているだけだった。寝ぼけるにもほどがある。俺はその顔を上からのぞき込み、言った。

「俺の声、聞こえているだろう。おい、何か言ったらどうだ」

 俺は目を合わせて言うが、エゼルの視線は微妙に合ってくれない。……何だ? 見えていないわけじゃないだろうな――小さな不安がよぎり、俺はエゼルの顔の前で手を振ってみた。

「……エゼル?」

 何も反応はない。深緑の瞳は動かず、瞬きすらしてくれない。おい、やめてくれよ。どうして急に目が見えなくなるんだ。

「エゼル、本当に見えないのか? 邪神はお前に何をしたんだ」

 聞いても答えは返ってこない……まさか、答えられないのか? 目だけじゃなく、耳までなんてことは……。

 すると、エゼルの右腕がゆっくりと動き、何かを探すようにさまよい始めた。俺はすぐにその手を握り、言った。

「俺はここだ。ここにいる」

「……だ、れ?」

 やっとエゼルは声を出した。だが、その発音はかなり不明瞭だった。

「そこい、だれか、いうの……?」

 力の入っていないエゼルの手を握りながら、俺は愕然とした。

「エゼル、やはり、耳まで……」

 邪神は死に行きながらも成し遂げたのだ。代償を奪うことに。

「あー、あー……あにも、いこえないわ。だれか……」

 俺はエゼルを起こし、抱き締めた。

「済まない。俺が、もっと上手くやっていれば……」

「だれ、あの? のーまん……?」

「ああ、俺だ……」

 命は救えた。結果、賭けには勝った。だが、邪神は別の代償を奪っていった。これで本当に勝てたと言えるのか。俺は、エゼルを救えたと言っていいのか……駄目だ。こんな終わり方にしてはいけない。俺にはまだ、エゼルのためにしてやれることがあるはずだ……。

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