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十二話

 真っ黒な雨雲から降りしきる大粒の雨にバシャバシャと打たれながら、俺は到着した町の入り口で馬を降りた。屋根のある場所を探し、そこに手綱をつないでから通りの奥へ向かった。朝からこんな天気だ。水溜まりだらけの道に人影などあるはずもない。それでも時々馬車や荷車とすれ違うが、皆急いでいて止まる気配はない。これでは人捜しは大変そうだな……。

 エゼルの家を調べた後、邪神につながるものを処分した俺はホリオーク様に何も見つからなかったと報告した。そして表向きは続けて調査するためとして、本音は他の者に調査をさせないため、自ら父親の元へ行くことを願い出た。これをホリオーク様は認めてくださり、アンリスまで行くと言うと、馬まで用意してくださった。おかげで日が暮れる前に着くことができたが、雨雲に覆われたこんな暗い空では、太陽があろうとなかろうとあまり関係はなかったかもしれない。

 強い雨に打たれながら、俺は無人の通りを歩き進む。本当にどこにも人が見当たらない。立ち並ぶ民家の中からはかすかに気配を感じるから、やはりこの雨のせいで皆家から出られないのだろう。エゼルの父親がこの町にいることはわかっているが、その住所まではわからない。だから俺は歩いている住人に聞いて捜そうと思っていたのだが……これでは一軒一軒訪ねて聞くしかない。

「……やるしかないな」

 俺は気合いを入れ、目に付いた民家から片っ端に聞いて回った。

「誰、あんた。こっちは忙しいんだけど」

「何だ、こんな雨の日に……怪しいやつだな」

「城の兵士が何で一人で来たのよ。本物なの?」

 住人達の対応は同じようなものだった。雨の中、突然やってきた自称兵士の俺に、皆とりあえず不審の目を向けてきた。その警戒感を取り除こうと努めて柔和に、そして丁寧に話を聞くが、結局父親のことを知らないという者ばかりが続いた。町の中心部にはいないのだろうか。時間だけが過ぎていく。この雨でいい加減、体も冷えてきた。だがもう少し――俺は気合いを入れ直し、中心部からやや寂れた印象の西のほうへ足を運んだ。

 この辺りにも民家は見られるが、中心部と比べると明らかに少なく、商店などはないようだ。その代わり緑がそこかしこにあり、つたの這う建物も多い。悪く言えば寂れた雰囲気だが、良く言えば自然に囲まれた静かな環境とも取れる。今日は雨だから余計に暗く感じたのかもしれない。

 俺は正面に見えた小さな家の扉を叩いた。コンコンと軽い音を鳴らすと、中からすぐに高齢の女性が出てきた。

「どちらさま?」

 また不審な目で見られるかと思ったが、女性は穏やかな眼差しでこちらを見上げてきた。

「たずねるが、この町にアルバート・ライトという男性が住んでいるはずなんだが、知らないだろうか」

「ああ、ライトさんね」

 女性は微笑み、うなずいた。ここへ来て初めての反応だ。

「知っているのか。それならどこにいるかを――」

「目の前の道を真っすぐ北へ行けばいますよ。そこで一人で暮らしているの」

「わかった。ありが――」

「私と同じ境遇でねえ。若い頃に奥さんを亡くしてから、ずっと独り身なのよ」

 奥さん……つまりエゼルの母親は、昔に亡くなっているのか。

「新しい嫁も貰わずに、お子さんを男手一つで育てて、立派な人ですよ。だけどお子さんが巣立った後は、あんまり家から出ることもなくなってねえ。昔より痩せて、表情まで暗くなっちゃって……。やっぱり一人になると、急に寂しさを感じるんでしょうねえ。私も最初の旦那が死んだ時は、それはもう悲しくて寂しくて。だけど二人の子供の笑顔で励まされたものよ。再婚してからはまた幸せだったけど、子供達が伴侶を見つけて家を出てから、しばらくした時に二人目の旦那が亡くなってねえ。家に一人きりでいると、悲しさが込み上げて寂しさが身にこたえるのよ。ライトさんはきっと、あの頃の私と同じ心境で――」

「教えてくれてありがとう。もう行かないと……」

 聞きたいことは聞けた。これ以上長話を聞いていたら、ここに一泊するはめになりかねない――俺は礼を言い、足早に家から離れた。

「あら、温かいお茶でも飲んでいかない?」

 名残惜しそうに言う女性に手を振り、俺は教えられた通りに細い道を北へ進んだ。

 次第に建物の数が減っていき、唯一の道も雑草に覆われていく。この辺りまで来ると町というより、森の一画に入り込んだような感じだ。雑草か植木か区別はつかないし、木の枝も四方へ伸び放題だ。これでは日の光が入らず、花や作物も育たない。誰も手入れはしないのだろうか――そんなことを思って歩いていると、やっと目的の家に到着した。

 ここまで歩いてきた道を見れば想像できたが、やはりそこにあった家も緑に覆われていた。壁の大半には無数のつたが這い、それは窓にまで及んで中の様子を覆い隠していた。屋根には大量の落ち葉が積もり、その色あせた枯れ葉は家の周りにも降り積もっている。それを掃除した跡や、そのためのほうきなどはどこにもない。長い間この状態で放っておかれている感じだ。話を聞いていなければ無人の家だと思ってしまうだろう。それだけ外観からは人の生活感が感じられず、一種異様な雰囲気を漂わせていた。ここがエゼルの生まれ育った家だと思うと、何だか感想も言いづらいな……。

 つたに絡め取られたような家だが、玄関の扉だけはそれを免れている。外出はしているらしい。その際に外を掃除しようとは思わないのだろうか――どうでもいい疑問を感じつつ、俺はつたの及んでいない扉に近付き、軽く叩いた。

「アルバートさん、いますか」

 呼びかけると、中でかすかに物音がした。いるようだ。しばらく黙って待っていると、足音がこちらへ近付いてきた。そして扉がゆっくりと開いた。

「……誰だ」

 少しだけ開いた扉の隙間から頬のこけた四、五十代の男性が顔だけをのぞかせた。その目には強い警戒心が見える。……この人が、エゼルの父親か?

「初めまして。俺はあなたの娘さんの同僚で、ノーマン・スタウトと言います」

「エゼルの? じゃあ城の兵士か」

 こちらを見る目が険しくなった。

「はい。近衛師団所属の――」

 そこまで言うと、父親は急に扉を閉めようとした。

「まっ、待ってください!」

 俺は咄嗟に扉に手をかけて止めた。

「兵士に用はない。帰ってくれ」

「確かに俺は兵士として来ていますが、これは違うんです。娘さんを、エゼルを救うためなんです」

「救う? 何を言っているんだ」

「エゼルは今、監獄棟に入れられています」

 これに父親の動きが止まった。

「……知りませんでしたか」

「どういうことだ。エゼルがなぜ監獄棟なんかに……?」

「俺は許可を得てここに来ましたが、本当の理由は個人的にエゼルを救うためです。よければ中で事情を話させてもらえませんか」

 警戒する目が迷うように俺を見たが、父親はためらいつつも扉を静かに開けてくれた。

「……中へ」

 促され、俺は入った。

「そこに座ってくれ」

 居間の中央に置かれた机と椅子を示され、そこに俺は腰を下ろした。部屋は思っていたより広い。物が少ないせいかもしれないが、棚にある本や小物は綺麗に整頓され並べられている。この辺りはエゼルと同じだ。だがよく見れば埃をかぶっている。床もざらざらとして、天井の梁には蜘蛛の巣が張っている。この人はもともと、掃除というものが苦手なのか、あるいはしない人なのかもしれない。

 俺の正面に座った父親は、こちらをじっと見つめて言った。

「エゼルについて、話してくれ。あの娘に何が起こっている」

 真剣な表情と向かい合い、俺は何から話そうかと考えた。

「……エゼルが監獄棟に入れられたのは、罪を犯したからではなく、その身にある異変があったからです」

「何なんだ、異変とは」

 眉間にしわを寄せ、心配そうに父親は聞いてきた。

「預言師であるホリオーク様によると、エゼルには邪神の気配が付いているようなんです」

「じゃ……」

 息を呑んだ父親は瞠目した。

「同僚の兵士が邪神の影響で殺されたと思われる事件もあり、エゼルはひとまず監獄棟に入れられたというわけな――」

「あの娘は無事なのか! まだ命はあるのか!」

 机に乗り出すようにして父親は聞いてきた。

「落ち着いてください。エゼルは無事です。邪神に傷付けられるようなことは起こっていません。今のところは」

「無事なんだな。そうか……」

 胸を撫で下ろし、父親は椅子に座り直した。その表情には娘を思う親の愛を感じる。この人はエゼルを大事にしている……そうわかると、俺の中にはやはり疑問が湧いてくる。

「問題はさらにあります。邪神の気配が付いた原因を探るため、俺はエゼルの家の調査を任されました。そこで、あってはならないものを見つけました……」

 俺は上着の内ポケットから、一つだけ残しておいた木彫りの神紋を取り出し、机に置いた。

「これが、何だかわかりますか」

 父親は表情を歪め、神紋を見つめていた。

「……見たこと、ないものだ」

「本当に? これはあなたからの手紙に入っていたんですが」

「知らない、そんなもの……」

 正面の俺から父親は顔をそらした――これはやはり、この人が送ったもののようだ。ということは、エゼルが邪神を信仰しているのを、父親は知りながら許していることになる。

「これは、邪神の神紋です。エゼルの机にこれを含めて、壊れたものがいくつもしまわれていました。彼女が邪神を信仰していることを裏付けるものです。父親のあなたは、これについて心当たりは?」

「……ない」

「正直に答えてください。この神紋は、あなたが送ったものじゃないんですか」

「知らない」

 嘘をつき、つかれているとわかっているのに、まだとぼけるつもりか――俺は内ポケットに入っているもう一つのものを取り出した。

「この手紙はあなたからのものです」

 便箋を広げ、机に置いた。

「あなたは決まって最後に『我々の神へ、祈りを忘れるな』と書いていますよね。この我々の神とは、何を指しているんですか。エゼルは間違いなく邪神ですが、あなたの場合は? もしかして、同じものじゃないんですか?」

「それは……」

「エゼルが邪神を信仰していることを、あなたは知っていた。そうなんでしょう?」

「………」

 父親は眉をひくつかせながら険しい表情で黙り込んでしまった。……少し責め過ぎたか。俺の目的はあくまでエゼルに不利な証拠を消すことだ。父親のしたことを誰かに報告するつもりがないのを、まずはわかってもらわなければ……。

「誤解しないでください。最初に言ったように、俺はエゼルを救いたいだけなんです。この神紋も、これ以外はすべて処分しています」

「処分した……? 大事な証拠じゃないのか。そんなことをしたら、君の身が――」

「それだけの覚悟を俺はしています。エゼルを救うために」

 父親は怪訝な表情を浮かべ、こちらを見ていた。

「どうして、そこまで娘を救おうとする。そんなことをしても君が得することはないはずだ。むしろ危険しかない」

「エゼルは俺の大事な……友人なんです。友人を助けたい気持ちに損得は関係ありません。同じ近衛師団の同僚として切磋琢磨し、支え合ってきた仲なんです。そんな彼女が窮地だと知りながら、見て見ぬふりはできません」

「だが娘は密かにそんなものを持っていたんだぞ……裏切られたとは思わないのか。失望したとは――」

「そう思う人間は、相手に何かを勝手に期待しているからです。俺はエゼルにそんなものは持っていません。今まで、ずっと友人でいてくれたんです。邪神を信仰していたことは確かに驚きましたが、そこに至った心境のほうが俺は気になるし、できることなら話してもらいたい。俺が役に立てるかはわかりませんが……」

 禁じられている邪神信仰をしていたのには、おそらく彼女なりの理由があるはずなのだ。ある日突然邪神に祈りを捧げ始めたわけではないだろう。そうなるまで、エゼルの心境に大なり小なり影響を与えたものがあるはず。そしてそれを、父親は知っているかもしれない――俺は正面を見据え、言った。

「信じろと言ってくる人間が一番疑わしいことはわかっていますが、それでも俺を信じてほしいんです。すべてはエゼルを救うために……俺は危険を承知で証拠を処分したんです。それを中途半端にするわけにはいきません。お願いです。邪神に関して隠していることがあるなら、ここで全部、正直に教えてください」

 俺は父親の目を凝視して懇願した。その表情は困惑とも不審とも取れるものを浮かべている。俺の真剣な気持ちは伝わっただろうか――沈黙が部屋を支配する。外の降りやまない雨音がやけに大きく、耳障りに響いてくる。胸が落ち着かない。焦りだろうか。拒まれたら俺はどう言ってまた説明をすれば――

「……まだ信用はできない」

 父親がおもむろにそう言ったのを、俺は呆然と眺めた。

「が、君の言葉には嘘が感じられなかった。君という人間を信用するにはまだ時間が要るが、その言葉だけなら、信じてみてもいいかもしれない」

 少しの迷いを含んだ弱い口調ではあるが、どうやら俺の気持ちは伝わったようだった。

「ありがとうござ――」

「ただし、私は君の言葉を信じるんだ。君も、私の話すことを信じてほしい」

 強めの口調でじっと見つめられ、俺は小さくうなずいた。

「もちろんです。……それじゃあ、教えてください。この神紋はあなたが送ったものですよね」

 俺の手の上の神紋を見下ろすと、父親はかすかに首を縦に振った。

「ああ……」

「ということは、あなたはエゼルが邪神を信仰しているのを知りながら、それを止めるどころか、逆に勧めるようなことをしていた……それは、あなたも邪神を信仰しているから?」

 これにも父親はかすかにうなずいて見せた。

「その通りだ……」

 親子で邪神を信仰するとは……最悪の想像が現実になってしまった。

「なぜですか? 禁じられたことだと知りながら、一緒に信仰するなど……。親であるなら、それを止めてあげるのが正しい行動でしょう。娘を思うにしても、これはあまりに――」

「止める気など、微塵もなかった」

 ぼそりと呟いた父親は、どこか暗く不気味な眼差しを向けて言った。

「そもそも、エゼルに邪神を信仰させたのは、この私なのだから」

 俺は耳を疑って、思わず聞き返した。

「……何? 今何と――」

「物心が付き始めた頃から、エゼルには邪神の話を聞かせていた。他の神に嫌われ、長い時間閉じ込められているかわいそうな女神なのだと。だが本当は、エゼルの命を救ってくれた心優しい女神でもあると……」

「邪神が、心優しい女神? どうしてそんな嘘を教えたんですか」

 理解のできない言動に、俺は眉をひそめずにいられなかった。幼い子供がそんな話を聞かされれば、疑いもせず簡単に信じてしまうだろう。それが親の話ならなおさらだ。

 俺のしかめた表情を見て、父親は軽く自嘲した。

「嘘……確かに大半はそうだ。しかしエゼルの命を救ったというのは真実だ。私の目の前で、赤子だったエゼルは救われたんだ。私の妻の命と引き換えにな」

 妻……そう言えば母親はすでに亡くなっていると住人は言っていたが――

「命の引き換えとは、どういうことですか?」

「生まれたばかりのエゼルの心臓には、致命的な異常があった。そのせいで数日しか生きられないと宣告されたんだ。リンゼイは泣き伏せ、エゼルから離れなかった。私達に娘を救う術はなく、ただ側にいてやることしかできなかったんだ……」

 淡々と語っていた父親だが、そこで表情に力がこもった。

「だがそこに邪神が現れた。幻を見せ、リンゼイに命と引き換えに娘を救うと言ってきた。私はすぐに疑い、止めたが、リンゼイは娘のためなら命も差し出す覚悟で、その言葉に乗ってしまった……」

 感情を押し殺したような表情を見せ、父親はこちらを見た。

「……信じられないような話だろう。だが、君には信じてもらうしかない」

 言われた通り、すぐに信じられる話ではない。しかし作り話をするにしても、こんな現実味のないことをわざわざ話すだろうか。父親の様子は真剣に見える。俺を騙そうというふうには感じられない。だがこれが実際にあった話だとすると、父親は邪神によって娘を救ってもらったが、妻は奪われた形になる。いいことをしてもらったのか、ひどいことをされたのか……どちらとも言えない結果だ。けれど父親は、そのいい結果だけをエゼルに伝え、信仰させている……。

「奥さんの命が邪神によって奪われたことを、エゼルは知っているんですか」

「リンゼイの死については、病死と言ってある」

「なぜ本当のことを教えないんですか」

「娘のためだ」

 真実を隠すことが……?

「邪神は娘の命の恩人かもしれないが、同時に奥さんを奪った敵でもあるでしょう。それなのになぜ嘘をついてまで信仰させるんですか。それもエゼルのためだと言うなら、俺は違うとはっきり言います。エゼルに付いた邪神の気配は、その信仰のせいかもしれないんだ。祈り続けたことで邪神を引き寄せてしまったとも考えられる……つまり、父親のあなたがエゼルを窮地に立たせているんだ。信仰を強いたせいで!」

 話しているうちに、俺はだんだんと腹が立ってきた。元凶はこの父親だ。これが我が子のためにすることか? さっき感じたエゼルへの愛は勘違いだったのか? この人はただ自分の意に添わせたいだけの自分本位な親だったようだ。離れたエゼルがどれほど辛いかも知らずに……。

「信仰を強いているのは、あの娘のためだ」

 父親は真顔でまた同じことを言った――自分のしていることをまったくわかろうとしていないのか。

「エゼルの父親だと言うなら、エゼルを守ってくれ! あなたのしていることはそれとかけ離れて――」

「私はあの娘を守ることだけしか考えていない」

 この父親は――俺は苛立ちに任せて机を叩いた。

「どこがだ!」

 怒鳴るように言って睨んだ俺を、父親は冷静な表情で見つめてくる。

「落ち付け。まだ話の続きがある。聞いてくれ」

 冷静な目に見られ、俺は軽く深呼吸をした。今は感情を抑えろ――椅子に座り直して居住まいを正したのを見届けてから、父親は再び口を開いた。

「信仰は、あの娘のためなんだ」

 まだ言うか――思わず睨んでしまった俺を、父親は小さく片手を上げて制してきた。

「邪神はリンゼイの命と引き換えにエゼルを救ったが、それで終わりではなかった。エゼルを救ってやった代償を求めてきたんだ」

「代償? それは奥さんの命じゃ……」

「命は救う手段であって、対価ではない……邪神はそういう考えだった。そしてその代償を、邪神はエゼルに求めてきた」

「エゼルに……でも、その時はまだ赤ん坊だったんでしょう? 一体何を求めてきたんですか」

「リンゼイと同じ時間を過ごした年……つまり二十三年後に、その心に抱く何よりも大事なものを貰いに来る、と」

「二十三年後って、まさに今年……」

 俺の脳裏には誕生日に花を渡した時の素っ気ないエゼルの顔が浮かんでいた。今年に邪神が……まさか、気配が付いたのはそれなのか? 代償を貰うためにエゼルの側へ……。だが、心に抱く何よりも大事なものというのは一体――

「私は邪神を、命の恩人などと思ったことはない」

 正面を見ると、父親は憎々しい表情に変わっていた。

「邪神はエゼルを救っておきながら、またその命を奪うつもりだ」

「それじゃあ、何よりも大事なものというのは……」

「人間にとって何よりも大事なもの……それは、自分の命しかないだろう。あの邪神は娘の、人間の命をもてあそぶ気だ。そうして嘆き悲しむ様をあざ笑いたいんだ」

 父親の怒りのこもった視線がこちらを見た。

「だから私はあの娘に邪神を信仰させた。嘘の心象を刷り込んだ上で、命を救ってくれた、本当は素晴らしい女神なのだと。世間は邪神と呼んで忌み嫌うが、私達だけは味方となり、祈りを捧げてあげようと言い続けてきた。そう強いることで、エゼルにとって邪神が何よりも大事な存在になるよう仕組んだんだ。女神のためならば、命も惜しまない覚悟ができるように」

 邪神信仰は、娘を守るために考えた末の行動だった……だが――

「エゼルは確かに邪神を信仰していたようですが、その信仰心が自分の命より大事なものなのかは確かめようがない。仮にあなたの考え通りになっているとしても、邪神がかつて言った通りの行動をするとは限りません。いきなり命を奪いに来ることだって――」

「そんなことはわかっている。邪神は見えない世界の神だ。無力な人間は所詮、その手のひらで転がされるしかないことも……。だったら君は諦めるか? 私はそうは思わなかった。諦めるなら、できることすべてをやり尽くしてからだ。邪神を信仰させ、独りでも身を守れるよう剣術を習わせ、禁欲的な日常を送らせることで心が何にも傾かず、信仰にのみ集中できるようにした。君の言うように、私がエゼルにしてきたことは無駄になるかもしれない。だが娘の命が危険と知りながら傍観できる親などいない。私は邪神に騙され、遊ばれているんだろう。それでも、大事なものを貰いに来ると言われたからには全力で守ってやるのが親というものだ。それが邪神だろうと、抵抗しなければいけないんだ」

 やはりこの人は父親だった。娘を愛し、その身を案じる本物の父親だった……。

「……私が話せることは、これだけだ。あの娘は、不幸にも生まれた直後から邪神と係わってしまった。だがそれはあの娘の責任でも何でもない。信仰も私が強いたものだ。娘には何の落ち度もないんだ。……君は、本当に救ってくれるのか?」

 俺は強くうなずいた。

「覚悟はとうにできています。信仰に関する証拠は万が一を考えて、あなたもすべて処分しておいてください。そうすればエゼルにかかる疑いは完全に避けられるはずです。ですが、最大の問題は邪神の気配だ。あれが付いている限り、自由の身に戻るのは難しい……」

 ただ話からは、気配が付いた原因は信仰のせいではなさそうだとわかった。それ以前に邪神が自らエゼルに近付き、命を救った代償を求めていることにありそうだ。疑問なのはその代償を二十三年後という今に求めていることだ。父親は邪神が命を奪いに来ると言うが、人間をもてあそぶにしても、そんなに時間をかけるほど楽しいことなのだろうか。一度は救ったエゼルの命を、今になって奪いに来る……何だか二度手間のようで腑に落ちない。命を奪いたいなら二十三年も待たずにその場で――いや、もしかしたら邪神には待つ必要があったのかもしれない。二十三年前、赤ん坊だったエゼルでは何か都合が悪いことでもあったのかも……。

 ふと我に返ると、正面から父親が怪訝な表情で見つめていた。思考の世界に入り込み過ぎたか。

「……俺に出来るのは証拠を消すくらいで、気配のことは残念ながらどうにもできません。しかしあなたの話はとても重要なものだと思います。ホリオーク様にお伝えして、解決につながるよう努力はするつもりです」

「ありがとう。君の言葉を信じて話した甲斐があったと思いたいよ」

「こちらこそ、話してくれて感謝します」

 俺は椅子から立ち、玄関へ向かった。扉を開けると、何も変わらない大降りの雨の景色が眼前にあった。騒々しい雨音と冷たく湿った匂いが俺の全身に染み込んでくる。帰りも濡れながらの道程か。

「父親として、私はこんなことしかできなかった」

 振り向くと、真剣な表情を浮かべる父親がいた。

「次はどうか、友人の立場からエゼルを助けてやってくれ。……君の、名前は……」

「ノーマン・スタウトです。ノーマンで構いません」

「そうだった。ノーマン……今は、君だけが頼りだ。頼む」

 俺はうなずきを返し、雨の中へ向かった。

 邪神はエゼルに命を救った代償を求めている。それは心に抱く何よりも大事なもの――普通に考えれば自分の命だが、邪神はそうとは言っていないわけで、本当に命なのかはわからない。だがエゼルが狙われているのは間違いないだろう。これから邪神が言葉通りの行動に出るとして、父親が考え、やってきたことが奏功したとしたら、エゼルは無事、邪神から解放されるのだろうか……いや、相手は堕ちた神なんだ。その瞬間まで一時の油断も期待もしてはいけない。父親が言っていたように、俺はエゼルのためにできることをやり尽くす。後はホリオーク様と神々のお力に任せるしかない――馬にまたがり手綱を握った俺は、薄暗い道の先を見据えて駆け出した。

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