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一話

 この世には二つの世界が存在した。一つは人間の住む世界トラッドリア。もう一つは神と呼ばれる者が住む世界カーラムリア。この二つの世界はごく近くにありながら、肉眼では決して見ることはできず、また直に触れることもできない。しかし、それぞれの世界は互いの世界の存在を知り、そして影響を与え合っていた。

 カーラムリアに住む神々は、トラッドリアを映す鏡から人間達を見守り、そこから届く願いや苦労を聞く。困難を極めた人間には知恵を授けたり、時には奇跡と呼ばれる力を発揮した。そういった人間には持ち得ない力を操れることが、彼らが神と呼ばれるゆえんだった。

 トラッドリアに住む人間達は、そんな神々を慕い、感謝し、祈りを捧げる。その祈りの心は見えない力に変わり、カーラムリアという世界を形作る一助となっていた。人間の心は神々にとって重要なものであり、人間の心次第ではカーラムリアを一変させてしまうこともできる。ひとたび人間達が戦いを起こせば、荒んだ心は神々の力を弱め、その世界も荒らしてしまう。トラッドリアが平和を失えば、カーラムリアも衰退する――二つの世界は持ちつ持たれつの関係であり、どちらか一方が欠けることはできない。なので神々は人間達の世界を平和に導き、人間達はそんな神々の助力を得るために祈りを捧げていた。

 だが、心は水のようなもので、自在に形を変えれば色も変わる。人間達の多くは平和を望み、幸せな暮らしを求めるが、中には自分さえよければいいと、犯罪に走る者もいる。真の平和を実現するには人間の心が一つの課題ではあるが、それは何もトラッドリアだけの問題ではない。カーラムリアに住む神と呼ばれる者も、人間と似たようなものだった。


 握れば簡単に隠れてしまうほど小さく柔らかい手は、わずかな温もりを感じさせるだけで一度も動いてはくれない。私はその人形のような細く壊れてしまいそうな指先を軽く握ってみる。しかし、やっぱり反応は返ってこなかった。今度こそと思いながらこうして握るのは何度目だろう。次は握り返してと願っても、小さな手は何も応えてくれない。

「大きな声で、泣いて……お願い……」

 毛布の上から我が子を抱き締め、私はその顔に鼻先を寄せた。ここまで近寄らないと、涙で滲んだ目では娘の顔が見えなかった。生まれた時は赤みを帯びていた肌も、今は透き通るような白い肌に変わっている。まるで血が巡っていないかのような、恐ろしいほどに白く、薄い肌……。

「……うっ、ううっ……」

 眠ったままの娘の顔を腕に抱き、私は溢れる涙をこらえきれなかった。どうして、どうして娘がこんな目に遭わなければいけないの? この子には輝かしい未来が待っているはずなのに、どうして……。

 三日前、私は苦しみと歓喜の中にいた。こんなことになるなど知る由もなく、陣痛が始まると産婆さんが呼ばれ、私はこの家で娘を産んだ。難産で苦しんだけど、ようやく産まれると自然と涙が溢れた。安堵したのと、我が子が産まれてきてくれた喜び、その気持ちは初めて感じるもので、言葉では言い表せない感情だった。これが母親というもの――体力を使い切って疲労困憊でも、心は跳びはねるほどに歓喜していた。やっとお腹にいた我が子に会えると、その時はわくわくしていた。でも、私が笑顔でいられたのは、そこまでだった。

 我が子は、泣き声を上げることはなかった。明らかに様子がおかしかった。産婆さんはいろいろ手を尽くしてくれたけど、結局、産まれたばかりの娘の声を聞くことはできなかった。その異変に産婆さんはすぐに医者を呼ぶと、娘を診てもらった。その結果はあまりに辛く、受け入れがたいものだった。

 医者によると、娘の心臓は十分に動いておらず、意識もあるかどうかわからず、いつ止まってもおかしくないということだった。心臓に起きた致命的な異常に、私の心は一気に乱された。夫のアルバートと一緒に、娘を助ける方法を聞いたけど、医者は残念ながらできることはないとしか言わなかった。その後も何か必死に聞いていた気がするけど、歓喜から絶望に突き落された私が憶えているのはそれと、娘の余命が数日ということだけだった。

 残されたわずかな時間、娘さんと過ごしてあげてくださいと言われ、私はこうして娘に寄り添っている。せっかく産まれてきてくれたのに、何もできず、見守ることしかできない無力を謝り、そして、お母さんはあなたを愛していて、少しでも長く生きていてほしいと伝えるために。

「もっと、生きさせたい……あなたは、生きるのよ……」

 目を瞑ったままの表情に苦しみは見えない。もしかしたらまだ私のお腹の中にいると思っているのかもしれない。羊水に包まれていた頃の夢の続きでも見ていてくれたら、何の苦痛も感じずにいてくれたら――生きてほしいと願いながら、私は同時に安らかな死も望み、そして覚悟している。弱くなっていく娘の呼吸を目の当たりにして、変えられない現実は確実に近付いている。柔く、なめらかな髪を撫でて、私は額に口付けし、壊さないように両手で包んだ。どうか、一秒でも長く娘といさせて。一緒の時を刻ませて……。

「リンゼイ、こんな暗い中で……」

 部屋の扉が開く音がして、背後からアルバートの気配が近付いてきた。

「ろうそく一本じゃ暗すぎるよ。もっと明るく――」

「これでいいの。このほうが落ち付けて、この子も元気になれそうでしょう?」

 そう言うと、短い間が空いた。

「……リンゼイ、君の気持ちはよくわかるし、僕も同じ気持ちだよ。その子を、失いたくない。でも、叶わないんだよ。どう願っても、元気にはならないんだ。残酷なようだけど、これが現実なんだ。わかるだろう?」

 言われなくてもわかっていると怒鳴り返したかったけど、その前に涙がこぼれて、私は嗚咽した。この子に最後が迫っていることは痛いほどに感じている。私から産まれたこの小さな命は、もうすぐ消えてしまうのだと。心はそれをとっくに理解している。だけど、一方では希望を捨てられずにいる。そのうち声を上げて泣くんじゃないか、手を握り返してくれるんじゃないかと諦めきれない自分がいる。動かなくても、娘はまだ生きているんだ。命の灯が消えるまで、希望を持つことの何がいけないというの……?

「……ごめん。冷たいことを言って。でもわかってほしいんだ。僕は産まれてきたこの子と同じくらい、君のことも愛しているし、心配なんだ」

 アルバートの手が私の肩にそっと触れた。

「こうなってから、君はまともに食事も取っていないだろう。出産で苦労したっていうのに、栄養を取らなきゃ体が持たなくなる。僕はリンゼイまで失いたくない」

「構わないで。私はこの子の側にいたいの。ずっと……」

「君は休んでくれ。側には僕が――」

「嫌よ。離れたくない」

 私は娘の体を抱いて、そこに頬を寄せた。最後まで、この薄れていく温もりを感じ続けたい。

「……リンゼイ、頼むから食事だけでも取ってくれ。さっきシチューを作ったんだ。君のものより味は落ちるかもしれないけど、具だくさんにしておいたんだ。体も温まると思うよ。だから食べに――」

「今は何も食べる気がしないの。しばらく、放っておいて」

「そうはいかないよ。君の体が心配な――」

 アルバートの手が私の肩をつかんで振り向かせようとするのを、私は身を揺らして振り払った。

「放っておいて! お願いだから……この子の側にいさせて」

 娘の横たわるベッドに顔を押し付けて、私は嗚咽を喉の奥でとどめた。アルバートの優しさに、自分の中の悲しみをぶつけてしまいそうだった。

「……わかったよ。離れたくないなら、そのままでいいよ。その代わり食事はしてくれ。僕が今持ってくるから、いいね?」

「食べたく、ない……」

「駄目だ。一口だけでも食べるんだ。まずいっていうなら仕方ないけど……。じゃあ待ってて。持ってくる」

 アルバートの足音が部屋を出て行き、廊下を遠ざかっていく。私は顔を上げ、涙で歪んだ娘を見下ろした。白くて小さい、儚い我が子。その命は育つことなく、私の前で尽きようとしている。そんな娘を見ながら食事などできるわけがない。母親の私が、生きようとする姿を見せ付けるなんて……。何もいらない。食べるものも、雨風をしのげる家も、私への優しさも、全部いらない。この子が死なずに生きられるというなら、私の、この命さえもいらないから、だから、助けてください。娘を助けて。死なせるなんてできない。私はどうなっても構わない。この子のためなら辛いことも乗り越えてみせる。だからこの子に、奇跡を起こして。私は、諦めたくない――

「人間よ、悲しまないで」

 はっとした私は、思わず部屋の中を見回した。ろうそくの明かりだけの薄暗い部屋に、私と娘以外には当然誰もいない。今、女性の声が聞こえた気がした……。

「心に深く沈んだその悲しみ、私にも伝わってきます」

 今度ははっきりと聞いた声に、私は視線を動かしながら呼びかけた。

「……誰、なの?」

 すぐ近くから聞こえるようで、遠くから響いてくるようにも聞こえる不思議な声だった。でもその主はどこにも見当たらない。

「私は、カーラムリアに住む者……頭上をごらんなさい」

 言われるままに私は部屋の天井を見上げた。

「!」

 そこにあった姿に、私は息を呑み、目を見張った。梁があるだけの暗い天井のはずが、そこにはなぜか真っ白な空間が頭上高くまで続いていた。そしてその中には、純白にきらめく美麗な衣を宙にたなびかせ浮かぶ、美しい女性が微笑みを浮かべていた。その光溢れるおごそかな姿に、私は瞬時に女性の正体を察した。

「カーラムリアの神、なのですか?」

「その通り。私は、生命を司る者クロメア」

「生命……!」

 それを聞いて、私の心が飛び上がらないわけがなかった。祈りが通じた。奇跡が起こったのだ!

「ク、クロメア様、どうか、私の娘を助けてください!」

 両手を組み合わせ、私は祈る格好で頭上に浮かぶ女神に懇願した。

「もちろんです。私はそのためにやってきたのですから」

 光をまとったような銀色の長い髪を揺らし、女神は優しく笑いかけてきた。

「じゃあ、娘はこの先も生きることができるんですか」

「産まれたばかりで命を失うなど、あまりに不憫なことです。私の力で新たな命を授けましょう」

「ああ……ありがとうございま――」

「ですが」

 微笑んでいた女神の表情がわずかに曇った。

「娘さんの命は弱りすぎて、さすがに私でも治すことはできそうにありません」

「治せないって……じゃあ、娘の命はどうすれば……」

 聞いた私に、女神は再び笑みを見せた。

「大丈夫。救うことはできます。新たな命さえあれば」

「新たな、命、とは……?」

 わからずに聞き返した私を、女神はすらりと伸びた指先で指してきた。

「娘さんとは別の命――たとえば、あなたの命など」

「私の……?」

 女神は宝石のような輝きを持つ紫色の目を細めて笑んだ。

「あなたの命を、娘さんの命に代えるのです」

 私の命が、この子の命に代わる――

「それじゃあ、私は……私は一体どうなって……」

「娘さんに命を与えるのです。あなたの命はなくなり、生きることはできなくなります」

「私は、死ぬんですか?」

 この子の声も聞けず、成長も見られずに――

「あなたの祈りの声を聞きました。何もいらず、どうなってもいいと……。だからこそ、私は娘さんを救いに来たのです。あなたの、母親としての愛と覚悟に強い感銘を受けたから。……それとも、我が子のためとは言え、やはり自分の命は惜しいですか?」

 女神に見つめられて、私は今自分がどんな表情をしているかを知らされた。娘を生かすために、私が死ぬ――いきなりそんな選択を迫られて、動揺しないなんてことは無理だった。確かにどうなってもいいと祈りはした。だけど、自分が死ぬなんてことは想像もしていなかった。大事なものをすべて残し、不意に死ぬなんて、そんな恐ろしいこと――いえ、違う。私にとって恐ろしいことはそんなことじゃない。本当に恐ろしいことはすでに起きているじゃない。産まれたばかりだというのに、死にゆこうとする娘。今の私にそれ以上に恐ろしいことはない。たとえ自分に死が訪れようとも、娘の死より恐ろしいものなど、私にはない……!

「死を恐れるのは当然のことです。命を失えばすべてがなくなるのですから。無理強いをするつもりはありません。死ぬことができないと言うなら――」

「私の命を、使ってください。この子を助けるために!」

 思い切って言った私の鼓動は大きな音で刻まれていた。……これでいいの。娘が生きられるのなら、これで。

「……本当にいいのですか? 戻ることはできませんよ」

「いいんです。私に後悔はありません。だから、娘を、この命で助けてください!」

 その時、背後でガタンと大きな音が鳴り響いて、私は振り向いた。

「なっ……何だ、これは……」

 そこには部屋に入ってきたアルバートの姿があった。瞠目して頭上の女神を見つめる足下には、私のために持ってきたシチューや水がひっくり返って床を汚していた。

「リンゼイ、これは、一体……」

 状況がわからず呆然とするアルバートに私は歩み寄った。

「祈りが通じたの。カーラムリアの神が来てくださったの!」

「これが、神……?」

「そうよ! クロメア様がこの子を助けてくれるのよ。私の命を使って――」

「ちょっと、待ってくれ。君の命を使うって、どういうことだ」

「この子には新しい命が必要なのよ。だから私の命を――」

 最後まで聞かず、アルバートは私の両肩をつかみ、険しい表情を向けてきた。

「何を言っているんだ。命を、譲るってことか?」

「ええ。そうすれば、この子は死なずに生きられるの。声が聞けるのよ!」

「そんなことしたら、君はどうなるんだ」

 真剣な眼差しのアルバートを見つめて、私はその頬に手を添えて言った。

「お別れすることになるわ……ごめんなさい。でもこの子のためだから」

「死ぬっていうのか? 代わりに、君が」

 私は静かにうなずいた。

「おかしい……そんなの……何かおかしい……」

「話は済みましたか? 済んだのなら、私の力で娘さんを救いましょう」

「はい。お願いしま――」

「リンゼイ、待って」

 アルバートは私の腕をつかみ、言葉を止めてきた。

「あなたとは離れたくないけど、許して。私はこの子を助けたいの。そのためにはこの命をあげないといけないのよ」

「そうじゃない。そういうことじゃないんだ。……さっき、君はクロメア様と言ったか? その名前は記憶が確かなら――」

「時間がありません。さあ、始めましょう」

 女神はこちらを見据えると、片腕を伸ばして手のひらを私に向けてきた。これで、娘は生きられる――そう思い、死を覚悟した時、急にアルバートが目の前に立ち塞がった。

「アルバート! お願い、止めないで」

「神が人間の命を奪うなんて、やっぱりおかしい。そもそも、神はトラッドリアでは自分の姿を持てないはずだ。だから神を見た者は誰もいない。リンゼイ、これは幻だ。本物の神じゃない」

「そ、そんなはずないわ。声は、この声はあなたにも聞こえるでしょう? これが幻なら、一体誰が話しているというの?」

「カーラムリアの神……だが、まともな神じゃない」

「救いにやってきたというのに、私を疑うのですか?」

 女神の顔から表情が消えた。声にも暖かみがなくなっていた。途端に私の中にも不安が湧き始めた。

「クロメア様は、神、ですよね? 私の祈りを聞いてくださった神なんですよね……?」

「リンゼイ、こいつは違う。クロメアという名を僕は昔、文献で見たことがあるんだ。かつては生命を司る神だったが、トラッドリアに干渉しすぎたため、堕ちてしまった神――邪神になったと。お前は、そいつなんじゃないのか」

「邪神、ですか……あなたは随分とカーラムリアについて詳しいのですね。想定外でした」

 すると、頭上に浮かんでいた女神は忽然と消え失せ、天井は元の見慣れたものに戻っていた。

「本当に、幻だった……」

 部屋に静寂が戻り、私は全身から力が抜けてその場にへたり込んだ。

「リンゼイ、大丈夫か」

 アルバートがすぐに私を支え、抱き締めてくれた。その胸の中に顔をうずめ、私はこぼれてきそうな涙を止めるため、強く目を瞑った。

「この子を、助けたかったのに……」

「リンゼイ……死のうだなんて思わないでくれ。そんな心に悪いやつは付け込むんだ」

「でも……でも、悪い神だとしても、この子が助かるなら、それでも私はよかったの」

「君はよくても、僕はよくない。邪神なんかと係わるべきじゃない。騙されるな」

「じゃあ誰が助けてくれるの? 私の祈りを誰が聞いてくれるの? この子を助けてくれるなら誰でもいい。この命が必要なら今すぐあげるから、お願いよ、助けて……娘を、救って……」

「これは、どうしようもないことなんだ。仕方ないんだよ、リンゼイ……」

 背中を優しくさするアルバートの手の温かさを感じながら、私はとめどなく涙を流していた。一瞬現れた希望は、文字通りの幻だった。今度こそ、娘の最後を受け入れないといけない。悲しくても、悔しくても、認めたくなくても、母親として儚い命の側に、その時まで寄り添ってあげるしか――

「言ったことは、守りましょう」

 再びあの声が聞こえて、私とアルバートが同時に顔を上げた瞬間だった。

「うああっ――」

 私を抱き締めていたアルバートの体が何かに弾かれるように吹き飛ぶと、そのまま壁に叩き付けられた。

「アルバート! ……はっ!」

 何が起こったのかわからず、思わず叫んだ時、私は自分の身の異変に気付いて視線を下げた。

「な、何、これ……」

 自分の胸の全面が、得体の知れない黒い炎のようなものに覆われていた。怖くて両手で払うけど、手はそれをすり抜け、熱や感触は一切感じられない。これも、幻なの……?

「恐れることはありません。あなたの命を娘さんに渡すだけのことです」

「……クロメア、様?」

 私は部屋の中にその声の神を捜しながら呼んだ。

「リンゼイ、聞くな! これは邪神だ……くっ」

 アルバートは床に倒れたまま、どこか痛いのか歪めた表情で言った。

「アルバート、大丈夫な――」

「今はその人間より、娘さんを救うほうが先です」

 夫に駆け寄ろうとした私を、声はそう言って止めた。

「すでに準備はできました。あとは命を移すだけです」

「む、娘は、本当に助かるの? 私の命で本当に……」

「二言はありません。あなたの覚悟で、娘さんは長く生きることができるでしょう」

「この子が、死なずに、生きられる……」

「駄目だ! リンゼイ!」

 アルバートは声を張り上げて、痛みをこらえる様子でゆっくり立ち上がろうとしていた。

「さあ、母親として、あなたは娘さんに命を渡しますか?」

 ここで渡さないという母親がいるのだろうか。助けられるというのに、我が子を見捨てられる親などいるのだろうか――迷い、悩む余地は微塵もない。愛する娘のために犠牲になれるのなら、それは母親として本望であり、幸せに思えることだ。

「……お願いします。私の命を、この子のために」

「リンゼイ!」

 アルバートの必死な声に私は振り向けなかった。……ごめんなさい。でもこの子はあなたの側にいられる。

「よろしい。それでは、あなたの命を、娘さんの命に代えましょう」

 直後、私の心臓が大きく脈打った。

「……うくっ、く……苦し、い……」

 呼吸が上手くできない。胸の鼓動が、変な音を立てている……。

「しばらくの辛抱です。じきに命は渡り、その苦しみも消えるでしょう」

 冷静な声に言われ、私は自分の胸を見下ろした。全面にあった黒い炎は、徐々にその大きさを縮めていた。私の命は、娘にちゃんと渡っているのだろうか――ベッドで眠る小さな我が子には、まだ何の変化も見られない。

「リンゼイ、何て、ことを……!」

 近付いてきたアルバートに背後から腕を引かれ、私はその軽い力だけで体が倒れてしまった。もう、どこにも力が入らない……。

「しっかりしろ、リンゼイ!」

 大声で呼ぶ夫に抱かれながら、私は辺りが暗くなっていくのを感じていた。ろうそくの火が消えたわけじゃない。私の命の火が、消えようとしているんだ。

「人間の愛情とは素晴らしいものです。自分の命さえ顧みないのですから。……これであなたの願いは叶いました。次はそちらから代償をいただきましょう」

「代償……?」

 聞き返した私のすぐ側で、ぎりっと歯ぎしりの音が聞こえた。

「それが、お前の魂胆か!」

「魂胆とはひどい言い方です。私は娘さんに救いの手を差し伸べたのですよ。そんなことを何の見返りもなく行うと思うのですか?」

「やっと本性を見せたな……人間を騙して、何がしたいんだ!」

「騙してなどいませんよ。望み通り、私は娘さんに命を渡しました。その礼を求めることの何がおかしいのですか?」

「まともな神なら欲を見せたりしない。お前は何かたくらんで――」

 まくし立てようとするアルバートの手を強く握って声をさえぎった私は、暗い宙を見つめながら苦しい息で言った。

「代償、は、払います……この子さえ、助かる、のなら……」

「リンゼイ! 何も聞くな。騙されているとわからないのか!」

「母親というものは、やはり素晴らしいものです……心配は要りません。娘さんは必ず生きられます。必ず……」

「では、代償は……何を、差し上げ、れば……」

「あなたからは何もいただけません。命を失い、亡くなるのですから。そんな母親の代わりに何かを差し出せる者がいるとすれば、その命を貰った子以外にはいないでしょう」

 それを聞いて、私の苦しい呼吸はさらに苦しさを増した。

「や、めて! この子に……何も、しな、いで!」

「やっぱり……やっぱり騙したんだな! 娘を救うと言いながら、そんなつもりなどはなからなかったんだな!」

「……黙れ人間」

 冷酷な口調に豹変し、部屋と私の背筋には冷たい緊張が走った。

「私は、自分で言ったことを違えることはない。赤子に命を与え、そしてその代償は育った赤子から必ず貰う。そうだな……死にゆく人間よ。子がお前と同じだけの時間を過ごしたその年、私は子が心に抱く、何よりも大事なものを貰いにくる」

 同じだけの時間……つまり二十三年後に、何よりも、大事なもの――それって、この子の命ということ……?

「救っておきながら、またその命を奪うっていうのか!」

 アルバートも同じことを考えたのか、目を吊り上げて怒鳴った。しかしそれに声は不敵に笑った。

「ふふっ……人間は時に、自分の命よりも優先するものがある。お前のようにな。育った子がその時、何を心に抱き、そしてかけがえのないものと思うか。それは本人次第だ。お前が想像するように自身の命かもしれないし、もっと別のものかもしれない。成長した我が子が一体何を選ぶか……楽しみにするといい」

「傷付け、ないで……この子、を……」

 声が出ない。視界が、狭まっていく――

「娘をどうするつもりだ。何をたくらんでいる!」

 アルバートの声も、遠い――

「子が心配なら、せいぜい大事に育てることだ。ふふふ……」

 怪しい笑い声を残して、声はそこで途絶えた。暗くて、とても静か――

「……リンゼイ、おい、リンゼイ!」

 アルバートが私の体を揺する。でも、笑顔を作ることもできない。残った力でどうにか手を動かして、アルバートの顔に触れるのが精一杯だった。

「この子を……エゼルを……守って…………」

 すべての言葉を言えずに、私は力尽きた。夫の腕の中で最後に見たのは、娘が毛布を邪魔そうにして手足をばたつかせている姿だった――悲しく、苦しいけど、その瞬間私は嬉しく、幸せだった。

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