09.約束
「うっ、おえ……」
成瀬はトイレにこもり、嗚咽を繰り返した。
夕食は全て吐き出してしまい、吐き気はあるが何も出ない。
「はぁ、はぁ……かいちょー……」
菱沼はなぜあんな画像を送ってきたのだろう。
気力を振り絞って、メールをさかのぼり、一番初めに来た写真から順に開く。
一枚目に写っていたのは、縛られたあの男だ。
そしてあとは、その男がどのようにして解体されていったか、写真に撮って送られていた。
あの男に恨みはあったが、菱沼に直接殺してほしいと願ったわけではない。
菱沼を止めたいが、すでに男は殺されている。
成瀬はどうしたらいいのか、わからなかった。
警察に菱沼のことを通報したくない。
「いくら考えてもわかんないよ……。かいちょーのところに、行かないと……」
成瀬は気合と共に立ち上がり、外へ出かける準備を始めた。
とりあえず、菱沼の家に行く。
話を聞かないと、何も考えられない。
服を着替えていると、心配した母が声をかけた。
「……どこに行くの?」
「かいちょーのところ」
「もう夜遅いし、雨も降ってるのよ? 大丈夫なの?」
大丈夫、とは、何が、だろうか。
成瀬は即答せず、大きく息を吸った。
何ひとつ、大丈夫なことなどない。
外へ出るのも怖いし、手が震える。
しかし、菱沼のことがそれ以上に気にかかる。
「大丈夫。それに、今行かないと、絶対後悔するから」
成瀬は母親に向けて、精一杯の笑顔を見せた。
心配をかけまいとする気持ちが通じたのか、母親は複雑な表情をしながらも、成瀬を止めなかった。
玄関を出ようとしたところで、母親は言った。
「帰ってくるの、待ってるから。絶対帰ってくるのよ」
「うん、わかってる。じゃあ、いってきます」
合羽を着て外へ出ようとしたところで、突然、成瀬の電話が鳴った。
菱沼には電話番号を教えていないはず、と思いながら画面を見ると、非通知の表示が出ていた。
この状況でかかってくる電話が、この件と無関係であるとは思えず、成瀬は躊躇したが、電話に出た。
耳に当てると、小さなノイズ音が響く。
向こうから喋るのを待っていると、しばらくして、機械で加工された無機質な音声が聞こえ始めた。
「菱沼のところへ行くのか」
「……あなたは誰?」
「菱沼の居場所を知りたいか」
質問には答えず、声は淡々と続いた。
「ちょっと待って。イヤホンするから」
成瀬は外に出ながら、ハンズフリーのイヤホンマイクをつけた。
これなら雨の中でも声が聞こえる。
「あなたはどうして私の電話番号を知っているの? それに、かいちょーの知り合いなの?」
成瀬の記憶が正しければ、菱沼の知り合いはそれほど多くない。
少なくとも高校では誰かと話しているところを見たことがない。
「……私は菱沼のことをよく知るものだ。やつはまた間違いを犯している。波止場へ向かえ。まだ今なら追いつける」
波止場、と言われてすぐに浮かぶのは海に面している隣町だ。
歩いて一時間半ほどかかるだろう。
成瀬は声の言う通り、その波止場を目指して歩き始めた。
死体を捨てるため、菱沼は家を出ているはずだ。
あてがない成瀬は、声に従うしかなかった。
「間違いって何? またって、前にもこんなことがあったの?」
歩きながら、少しでも聞いておこうと成瀬は質問を続けた。
「やつはお前の知る通り、正義感が強く、悪を許せない。そんなやつが、いじめの現場を見たらどうすると思う?」
「……いじめられている子を、助ける」
「そう。やつはいじめられている子を助けるために、いじめっ子を殺している」
成瀬は足を止めた。
それが嘘であると思いたいが、今の菱沼の様子を考えると、ありえないとは言い切れなかった。
「……私に、どうしてほしいの?」
「正直なところ、わからない。今説得したところで、将来にわたって菱沼を止めるのは不可能だ。あれは善悪の区別がない」
どうにかしてほしいと思っているが、何もできない。
成瀬も同じ気持ちだが、この人と違うのは、菱沼に直接会えるところなのだろう。
「あなたの意見はわかった。私が何をしても文句言わないでね」
「ああ、かまわない。さあ急げ。やつはもう隣町に入った」
声の主は、成瀬が歩く間、ずっと話し続けた。
彼女が菱沼の同級だったことや、中学の頃の菱沼のことなど、成瀬の知らないことをたくさん教えてくれた。
彼女は名乗らなかったが、きっと、菱沼のことが好きだったのだろう。
だから、直接関わりたくないと言っても、気になって仕方ないのだ。
少し違っていれば、菱沼のとなりにいたのは、自分ではなく、彼女だったかもしれない。
雨の中、かすかに海の匂いが漂い始めたころ、彼女は、あとは成瀬に任せる、と電話を切った。
波止場につくと、暗闇の中で菱沼を探した。
夜の雨は想像以上に視界を悪くする。
防波堤の先にクーラーボックスを持った影を見つけたころには、雨がやみはじめていた。
「かいちょー!」
走り寄りながら声をかけると、菱沼はゆっくりと顔を向けた。
凍りつくような無表情だったが、成瀬を見た途端、目を見開いた。
「成瀬さん、どうして……」
驚いて固まる菱沼につかつかと近づき、成瀬は彼女の頰を平手で叩いた。
手のひらがジンジンと痛み、菱沼の頰が赤く染まる。
「なんで、人を殺したりなんてしたんですか! そこまでしてくれなんて、頼んでないのに!」
決して怒っているわけではないが、感情が溢れ出して、語気が荒くなる。
菱沼は手を遊ばせながら、成瀬の話を聞いている。
言いたいことがまとまっていないのだろう。
成瀬も昂ぶった気持ちを落ち着かせるために深呼吸をして、改めて菱沼に聞いた。
「かいちょー、もう全部捨て終わったんですか?」
「ええ、ついさっき……」
菱沼の足元にあるクーラーボックスは空だった。
中には雨水が溜まっている。
「……かいちょー、自首しましょう」
成瀬の出した答えは、菱沼に自分の罪を認識してもらうことだ。
「自首なんて、そんな、できない……」
「かいちょーが帰ってくるまで、私はずっと待ってます」
「でも、何年もかかるのよ? 出てくるころには、成瀬さんはきっと、私のことを忘れてしまっているわ」
菱沼と価値観のずれを感じながらも、成瀬は続けた。
「忘れません。忘れられるわけ、ないじゃないですか」
成瀬は涙ぐみながら言った。
言葉が出てこなくなり、嗚咽がもれる。
そんな成瀬を見ながら、菱沼はゆっくりと喋り始めた。
「……成瀬さん、私ね、人に捨てられるのが怖いの。あんなにやさしかったお父さんやお母さんも、私を捨てた。まるで、ゴミを捨てるのと同じように。成瀬さんが望むなら、私、何だってする。人を殺すのだって、全然怖くない。だから、捨てないで、お願い……」
菱沼は成瀬にすがりつく。
成瀬はそんな菱沼を抱きしめた。
憧れていた会長は腕の中で震えていて、こんなに弱くて小さな存在だったのだと知った。
「私が、かいちょーと一緒にいます! 一生、離れません!」
「……本当? 本当に?」
「本当です!」
成瀬は菱沼にキスをした。
雨に濡れて冷えた唇の感覚が、直に伝わる。
「ずっと、待ってますから……」
成瀬は消え入りそうな声で言うと、そのあとは何も話さなかった。
雨は止み、金色の月が夜を照らしていた。