少年二人が新たな世界を作るべくそれぞれの使命をもって共闘する話:完結編
「歯車城」完結編です。
#12
最上層、第一層、第二層……昇降機がもう何度目か分からない往来をした。最下層。普段ならさらに下へは行けないその箱は、もう一つ下へとがたがたと動く。
昇降機を使え、という首長の発言はこういう意味だったのか、そう二人は納得した。移動したい層を選ぶ時に使われる鍵盤、そこには最上層から最下層まで鍵穴が九つ並んでいる。いつもならそれで終わりだが、以前と比べてあからさまに違う所がある。鍵穴が一つ、増えていた。
「首長の持ってたこの鍵、見たことない形だ」
「そうだな。あの……旧文明の、青に似ている」
かなりくすんだ色に変わっていても、その鍵は錆一つ付いていない。厳重に仕舞われていたからか、外に出るのすら久々なようだった。
「騒音が酷いな。久しく使われてない機構なのかも。少なくとも、僕はここ整備した事ないし。たまに暇になると盗み見てたんだけど、昇降機の構造は普段目にする機械と明らかに構造が違うんだ。例えば金属の縄みたいな構造が……」
「そうだな。耳が痛い」
適度に聞き流しつつ、クロイヌが自身の耳をぎゅっと抑えた。スートが便利だなと素直に感心する。
「……長いし、動くの遅いな。今、外そうか?そのチョーカー」
スートが細長い棒のような金属を持ち上げた。銅色の棒の切れ目から、細かく光る緑の線が幾何学模様を生んでいる。
「首長」
屋敷の一室、やけに豪華な椅子に一人の男が縛りつけられていた。この城の頂点であった男には相応しい、革張りのソファーに。
「なんだ」
「落ち着きましたか」
「……それはこちらの台詞だ」
睨みつけるような眼光が一瞬開き、仰いだ首筋から釦の外れた襟が覗いた。
「無駄話をしたい訳じゃない。恒久炉はどこだ。それと、マスターは」
そう急かすな、と男がごちる。ゆっくりと立ち上がると、部屋の何の変哲もない額縁に瞳をぴたりと押し付けた。
「……⁉」
「……その機構、恒久炉か?」
がこん、と音を立てて額縁が上に移動する。中の空白には、幾つかの鍵が埃一つ被らずに鈍く光っていた。
「いや……原理は同じかもしれないがな。分からない」
首長は後ろ手に結ばれた両手を持ち上げると、取れ、という素振りをする。スートが前に向かうと、首長が指示をした。
「右から二番目の……ああ、それだ。それと、左下の新しいやつ」
木の棒のような、細長い金属と、恒久炉の青に似た揺らめく鍵。後者が恒久炉の物だとはひと目でわかるが、前者はそもそも鍵かどうかすら分からない。
「二本とも、ですか?」
「いや、一つはナハト……お前の首の、チョーカーのだ」
包帯の隙間から顔を出す黒を見て、スートは久しぶりに自分の首の物も意識した。少し上にあるそれが、ごくりと唾を飲んで動く。
「旧世界の鍵だ。壊すなよ。もう誰も直せないんだから。……それと」
力無く座っていたはずの男の目が、力強く光った。少年達は自然と姿勢を正す。
「この鍵は、あの恒久炉は、全ての遺る旧世界の文明は……私達一族が、必死に隠し抜いてきた物だ。私の先祖は危惧した。この力を再び誤って使えば、また世界が……砂に、なるだろうと。次世代の者達に決して伝えないようにと。我々だけが、その重荷を背負っていた。いいか。これから先、全てのことを背負うのはお前達だ」
脅迫のようにも聞こえるそれに、クロイヌは静かに頷いた。スートは、怯えたように少し瞳を左右させたが、一息空けて確かに頷く。
「私が今伝える事は以上だ。恒久炉へは、昇降機を使え」
それだけ話すと、首長はどかりと椅子に座った。その顔は、先程より少し老けたような、安堵すら感じられる顔である。
「……もしかして僕、半端なく大変なことに足を突っ込んでるような……」
「ああ。俺がお前を攫った時からか。流石に……想定外だ」
だろうな、とスートは息を吐いた。もう引き返せない。とっくの昔に、物語は始まっていたんだ。脚が一気に重くなった気がした。
「おっと」
「……ああ、ここか」
話している間に、静かにその昇降機は止まった。行き場を失った茶色の鍵がスートの服のポケットに収まる。知らずに指が震えて、金属がかちゃりと音を立てた。
真白に、二つの影が降り立つ。ひどく広い空間の真ん中には、ぽつりと青が浮いていた。
「恒久炉」
スートが見たそれより例えようも無いほど広かったが、確かにそれは恒久炉だった。
クロイヌがはっきりと何か、言葉を紡ぐ。スートには全く理解できない幾つかの音を拾って、真ん中にゆっくりとせり上がるように平たい板が現れた。
「ここに目を当てると、この城はその人が思った通りに動かせる。脳波が作用する……らしい」
ただの銀の板に見えるそれに、スートは感嘆の声を漏らした。
「へええ……すごい。マスターが教えてくれたの?」
「ああ」
銀の板は暫くその場に浮かんでいたが、扱える者がいないと分かると、するりと地面の溝に収まってしまった。あとはただ、無機質な青が残る。
眼鏡の男が、少年に優しく声をかけた。
「今から、この城の一番大切なものを見せてあげよう。もし万が一……僕が……帰らなくなっても、困らないように」
回復しかけた身体を引き摺って、少年が男に付いて行く。まだ尻尾に違和感があるらしく、荷物のようにそれを腕に抱きかかえていた。
「これが、恒久炉」
城のどの場所とも異質な、真っ白な空間。オイルの匂いも機械の稼働音もここには届かない。現実から隔離された場所のような、冷たさを感じる空間だ。少年は、あまり好きになれなかった。一刻も早くその小さな場所から抜け出したかった。
「クロイヌ、ここが怖いかい?……我慢して、見て、覚えてくれないかな?」
少年がこくこくと頷く。空中に浮いた青が何度も跳ねるのも、彼は逐一怖がった。けれども、目をそらす事はしなかった。ただ、恩人である男だけを見ていた。
「 」
彼は、不意に聞いたこともないような音の羅列を口にした。一つも耳に馴染まない音が、踊る青を消す。マスターは、魔法使いか何かだったのだろうか。誰か自分のものでは無い記憶の中の物語が、クロイヌの瞼にちかちか光る。
「いいかい、僕がすることを、真似してみてくれないかな?」
色の無くなった空間に、いつの間にか薄く四角い板が現れていた。マスターがそれに目を近づける。澄んだ音を立てて、板に青が映った。
「同じことを、君もこの板に。怖くないから」
言われるがまま、クロイヌも目を近づけた。板に映ったのは、次は緑だ。彼の赤い目は驚きに満ち溢れた。マスターはううん、と首を捻る。
「聞いていた話と違うなあ……緑って、どんな意味だったっけ」
まあ、登録できたならそれでもいいか。男性はそう言って、頭をかいた。
「僕がいつかいなくなったら、その時ここの主は君と、この板だ。君は次から、一人でもここに入れる。その目を失わないように、大切にしてね」
何が何だかさっぱり、という顔つきの少年に、男性は微笑む。
「今日はいいんだ。ここまでで。また明日、続きは教えよう」
もう眠いだろう。ゆっくりおやすみ。男はそう言って彼を抱え上げた。彼はそのまま眠りにつく。
「つまり、これを動かせる目玉の持ち主がいないと……ってわけか」
はー、とスートが深いため息を吐く。
「マスターが動かせるのかもしれない。まずは、マスターを探そう」
「……でもマスター、父さんはどこにいるか分からないんだろ。どうするんだ」
「……」
いつも寡黙なクロイヌが、更に静かになる。人形みたいだ。悪い意味で。
「ううう……」
「とりあえず、一旦戻るか?最下層の人達の所へ」
「そうだね……」
がっくりと肩を落としたスートが、昇降機に乗り込んだ。景色がゆっくりと上へ上がる。ひとつ分厚い床を通過するだけで、まるで世界が変わるようだ。真横に立つクロイヌが、ゆるゆると背を壁につけた。
「スート」
「何?」
「話してもいいか、俺にこれまであったこと」
「……いいけど。どうしたの突然」
「話すことで、記憶を整理できるかもしれない。何か、有益な情報があるかもしれない。スート、お前はマスターに似て鋭い。だから、頼む」
それと、アルカナに何を話せばいいのかも正直分からない。だから。そう懇願するクロイヌに対して、スートは思わず素直な感想を述べた。
「あんなに高圧的にしか命令出来なかった君が頼み事だなんて、本当に進歩したな」
スートの頬が限界まで引っ張られ、悲鳴があがる。クロイヌが満足した所でその悲鳴は止まった。
物心ついたころ、既に自分は次期首長としての教育を受けていた。難しい本を一日に何冊も読み、知識を得る。それを疑問に思ったことは一度もない。他の人がどんな生き方をしているのかなんてことにも興味が無かった。ただ、薄々自分は父の子では無いと気づいていた。髪の色、目の色、どこをとっても似ている所がない。けれども、自分に沢山の知識を、礼儀作法を教えてくれた。だからたいしてそれを問題だと思ったことは無かった。
キメラのアルカナ、彼女ひとりだけであったが友達もできた。クロ、彼らの飼っていた犬とも陽の光の下でのびのびと遊べる。満足していた。毎日楽しく、別段その幸せを不審に思ったことは無かった。けれども、疑問はある。母親の顔は、どこかいつも元気が無かった。ふとした瞬間、全てを疑っているような遠い目をする事があった。何度も尋ねて、それでも理由は分からない。ある日、十二を迎えるまでは。
十二を迎えた年、彼は母親の隠していた写真を見ることになる。茶色く褪せ、端が歪になったそれには、少し若い母親とクロ、恐らくは自分と父親が写っていた。これを持っている事が首長に見つかれば、大変な事になる。それを確信した彼は、こっそりそれを身につけることにした。母親を護るため、ただそれだけの考えだった。けれども、捨ててしまうのもなんだか惜しまれる気がして、小さなポケットに入れたのだ。紙は半分に折られ、更に傷ついていったが、いつしか彼はそれと、見たことの無い父親に愛情を抱いていた。
それからしばらく過ぎた時。ふと、彼はその写真の裏を見た。そこには独特の筆跡で、細かく沢山の文字が刻まれている。ひとつの文が、ひときわ彼の目を引いた。
『この城は回っている』
その文に続き、それを立証する沢山の計算式、そして、力強い彼の言葉があった。
『何処か別の場所へ行き、新たな暮らしを模索する。これは全ての生きとし生けるものの恒久の願いだ。使命だ。私たちの』
「使命……私達、の」
この城の、この世界の、歪みを一人背負ったような気がして、背筋が粟立ったのを覚えている。
この城は回っている。
その発言をした時、一度目は軽くあしらわれた。二度目は、静かに否定された。
三度目。もう気を変えるつもりは無いと、強く首長に歯向かった時だった。突然、身体が傾く。殴られたと気づいた頃にはもう地面に頬がつき、食いしばれなかった歯先が口内を切っていた。
幾つかの重い音の後、彼の意識が急に遠のく。
自分の選択を悔やみかけた、その瞬間だった。
「クロ⁉」
黒い影が、再度伸びた手を弾く。
クロが、主人であるはずの首長に歯を向いた。唸り声をあげ牽制する老いかけた犬を、首長は殴打し投げ飛ばす。為す術もなく、少年は切れた口で叫んだ。
「駄目だ!クロ!」
冷たい床の上に伸ばされた小さな手が、硬い靴で容赦なく踏まれる。
「いっ……」
「惨めな最期だな。なあナハト」
右手を抑えたナハトが、かつての義父、首長のことを睨みつけた。
「お前もこの城が回っているなどとほざかなければ、何も問題は無かったのに。カズサとサイファ、奴らもそうだ。もっと前にもいた。お前達のような愚か者は時々生まれてくる。今を否定するような愚か者が。それがそいつらの使命とやらなんだろうな」
知ったことでは無いがな。ナハトの鼻先で、銃弾が詰められていく。
「父さんは……私は、生き物として当然のことをしたまでだ!違う場所を目指そうとしない、お前こそ異常だ。誓って言う、これは……俺の、俺達の使命だ」
「愚か者め」
あっさりと引き金が引かれた。覚悟を決めてナハトは目を瞑る。しかし、弾は当たらなかった。少年にも、それは不思議で堪らなかった。煙の匂いがする。それと、血だ。
「母様‼」
「リヒト!」
ナハトの母親、リヒトが、息子を庇ったのであった。ほぼ銃口に体当たりしたようで、近くに飛ばされた銃が転がっている。美しいドレスの胸が血に塗れていった。すぐさま首長が駆け寄る。彼女は、どうしてだか満足そうだった。
「リヒト!リヒト……くそ、生物班!」
控えていた研究者達が、声を揃えて返事をする。
「生かせ!カズサの生んだ、キメラ化手術があっただろう!早く!」
どこかその問答が、ナハトには遠く聞こえていた。どくり、どくりと心臓が波打つ。顔は真っ青だ。犬が、ぐ、と低く唸る。
使命だ。私たちの。
父親の遺した字が脳裏に映る。
懸命に生きようとする温もりが、伸ばした手の下に脈打つ。
生きなくてはいけない。生き延びなくては。
ナハトは走り出した。何名かの研究者は振り返ったが、追いかけるどころでは無さそうだった。
「それから先は、マスターの世話になったんだと思う。そのへんはぼんやりしているから、上手くは話せないが」
「……そっか。やっぱり、明るい過去じゃ無いね。」
静かに下を向いたスートに、クロイヌが気遣うように目線を寄越した。
「……ん?」
「どうした」
「ごめんね、少し違うことなんだけど。この字、読んでもらえない?」
スートは、自身のポケットから折りたたまれた茶色い紙を取り出した。静かに開くと、白の十字の折り跡の上、小さく文字が踊っている。
「父さんが母さんにあげて、それを僕が貰ったんだ。読める?」
クロイヌは何度か紙の上で目を瞬いて、スートに目線を戻す。
「同じだ」
「え?」
「俺が読んだ紙と、同じことが書いてある。この城が回っている事と、それを裏付ける四行の数式」
二人は顔を見合わせた。沈黙がいくらかそれに続く。
「ひょっとしたら、同一人物……?」
「仲間という可能性もある」
なんにせよ、とスートは続けた。
「どこにいるんだ、父さん‼」
クロイヌもそれに同意して力無く頷いた。
「こんにちはー」
「ああもういい加減慣れましたよ玄関から入ってください‼」
ルインは、かつての師に対して怒鳴りつけるようにそう言った。カズサは気に止めず、ずるずると配管から上体を出す。
「どう、しましたか?」
あれを。眼鏡の奥の瞳が真剣にそう尋ねていた。
「……隠しましたよ。ちゃんと。もうこの組織もお終いです。……まあもういいんですけど。あ、それとマスター、あんたを尋ねてきた人がいましたよ」
不貞腐れたようにも、そう見せつけて楽しんでいるようにもとれるように彼がそう答えた。
「……尋ねて、ですか?なるほど、それはいい意味で?」
「さあ。けど、子供でした。あと、あなたの事を父さんと呼んでましたよ。息子さんは幾つでしたっけ、今」
「……え⁉」
落ち着いた人物だったマスターも、流石にこれには驚きを隠さなかった。
「オレンジの髪に、緑目の……少年って感じでした。多分、十四とかそこらの」
「スート……⁉」
身を乗り出したマスターは、そのまま研究器具に突っ込む。へゼルは呆然と彼の尻が落ちるのを見ていた。
「な、なんでですか、捕らわれてるんじゃ」
「え?いや、分かりませんが……」
「えっと、それでその子供はどこに……?」
「どっか行きました。あ、あと黒髪のキメラも一緒に」
「クロイヌ⁉」
「落ち着いてくださいって。ほら、眼鏡落ちてますし」
わたわたと手を振り回すマスターに、助手が呆れて笑う。
「それが無いと何も見えてないでしょう。落ち着いてください」
「何から、どうすればいいんでしょうか」
スートが大きく溜息をつく。レオンも同様にどうすべきか分からないらしく、視線をさ迷わせては歯切れの悪い返事を寄越した。
「何も見えてないんです。何も……どうするのが、どうなるのが一番幸せなんだろう」
ぼんやり座り、周囲の人とぽつぽつと喋り出している最下層の人々を見て、スートはまたごちた。
最下層の住人はおおよそ六万人。
これから来るであろうオイルの為の人員。
大地に辿り着くまでに必要な労働力。
着いたあと、仕事を探すこと。
考えなくてはいけないことばかりだ。それに、今ここの人達はどうするのか。
「スート様も、お休みになられてはいかがですか」
レオンが指さした先に、座って寝息を立て始めるクロイヌがいた。今が何日の何時なのかもうとっくに分からないけど、疲れたことは確かだ。クロイヌの横へ行くと、彼も少しだけ目を閉じる。眠りに落ちるのに、それほど時間は必要なかった。
「クロイヌ。起きて。ご飯あるよ」
アルカナが、ぺちぺちとクロイヌの頬を叩いた。いい匂いがする。重い瞼を彼が開けると、大鍋を持った彼女が微笑んでいた。
「食べてね、これ。皆のぶんも無理矢理作ったから、味は薄いかもしれないけど」
一番にあなたに持ってきたの。ずっと食べてない、って聞いて。そう彼女は照れ隠しにくしゃりと笑った。
「……ありがとう」
クロイヌは素直に礼を言い、なんとなく彼女の頭を手で撫でる。その優しい動作に、アルカナの頬が真っ赤に染まった。ナハトは昔、自分より大きい背丈の私を、背伸びして撫でていたっけ。
「……ナハト。やっぱり、私の中ではナハトなんだ。おかえりなさい。ナハト」
大粒の涙を零したアルカナに、彼は驚いて反射的に彼女を抱き寄せた。少女は更に驚き、寂しげに目を細める。
「……でも、違うか。貴方はクロイヌだね。そんな動作、どこで覚えてきたの?スートに教わったの?それとも、他の誰か?」
彼女の手が背中に回る。懐かしむように、慈しむように、一度は失ったその身体をしっかり捕らえる。
「ふわ……うわ、やめてよ、そういうのは二人きりの時にやれよ」
起きたスートが、二人にそう文句を言った。クロイヌは手をぱっと離しスートの元へ行ってしまい、アルカナは涙目でスートを睨みつける。スートがぎょっとして、そそくさとその場を離れようとした。しかし、クロイヌに引き留められる。
「アルカナは、確かに料理が上手いぞ」
「そ、それ……本人に言ってあげてよ」
アルカナとは逆方向を向いたクロイヌが乏しい語彙で褒めた。それを聞いて、少しだけ機嫌を取り戻した彼女がスートにも器を渡す。薄いスープが空腹すら分からなくなっていた空の胃袋に染み渡った。行儀よく二人の尻尾も振られているのを見て、スートはようやく安堵した。まだ時計の針は十分の一も傾いていない。ゆっくりと涌き起こる眠気にのまれる前にと、彼は少ない具を頬張った。
最上層の冷たい監獄に、一つの影が降り立つ。周りを警戒するように静かにそれは動くが、まず最初に看守の不在に、続いてここが無人であることに気づいた。
「降りてきて大丈夫ですよ……誰も、いませんから」
その声に続いて、青年が床に降りる。確かにそこにはきつい臭いの他、何も残ってはいなかった。
「……間に合わなかった、のでしょうか」
「……」
銃を構え直した男が、無言で明るい方へと向かう。青年もそれについて行った。
「誰だ!」
薄暗い実験室に向かって、クロイヌの声が響く。その声に呼応し、スートやレオン、その場にいたキメラ達が一斉にそこへ向かった。
「ニトカ……?ここへの入り方を知っている、ということは」
スートが冷静にそう分析した。と同時に、真っ先に対峙しようとしたクロイヌの腕を掴む。
「どうした、スート」
「怪我人。やめとけ」
「いや、これ位……いっ」
スートがクロイヌの、包帯に巻かれた首を触った。そしてそのまま空っぽの器を渡す。
「避けてない。注意力散漫。はい、無理でしょ」
不服そうにクロイヌがスートを睨んだ。それに臆せず、彼の腕を引いて後方へ移動する。
「へゼル様⁉」
不意に、実験室の中からレオンの声が聞こえた。その声色から、どうやら敵では無かったらしい。じりじりと後退していたスートは、ほっとため息をついた。
「知り合いだったんですか?じゃあ、仲間……?」
スートがそうレオンに尋ねた。レオンが頷き、彼の紹介に移ろうとした所だった。
「……マスター」
扉の先、クロイヌがそう言った。
「……え⁉」
スートはクロイヌを見、振り返って小汚い浮浪者のような男性を見る。
「これが……ええ⁉」
確かにぼさぼさの髪はオレンジに見えなくもなく、瞳は緑だ。こんなのと、僕は間違えられたのか。スートは大分、落ち込んだ。
「……クロイヌ⁉」
スートの父親は、実の息子を無視してクロイヌの元へ向かう。
「怪我、酷いじゃないか……!なんで、いや、僕のせいだよな。ごめん、ごめんよ」
それとこの包帯の結び方も悪い。男は、自分より少し大きい少年の傷を確かめ、ため息をついた。
「……マスター、生きてた……」
「ああ。死にそびれたんだ」
壊れたように立ち尽くすクロイヌに、スートと同じような笑みを男が返した。
「あー……首をやっちゃってるのか。髪は切った方がいい。傷の治りが遅く……そもそも、どんな無茶をしたんだ、君は」
今にも泣き出しそうな少年を差し置いて、男は冷静にそう言う。
「違う……俺は、自分の意思でここまで来たんだ。スートと共に」
「クロイヌ……見ない間に、すっかり成長したんだね。……って、スート⁉」
感動の再会によって空気のように扱われていたスートに、ようやく二人の視線が当たる。
「……その髪色、瞳、スート……なのか⁉」
「うん。僕はスート。最下層に僕達を置き去りにした馬鹿親父を持つ十六歳だ」
「喋れるようになったのか……!それに、こんなに大きくなって」
「当たり前だろ。父さん僕が二歳の時に出ていったんだから」
空いた口を塞げない男が、深呼吸をひとつついて言った。
「……スート。よくもここまで育ってくれたね。置いていってしまってすまない。母さんに似てるな。元気かい、ミモザは?あの人達の中に、いるかい?」
成長したわが子の頭を優しく撫でさする、疲れてはいるが優しげな顔の父親に、とてもでは無いが本当のことは言えなかった。彼なりに精一杯頑張って、危険を冒してここまで来ているんだろう。間に合わなかっただなんて、そんな酷なことを教えたくなかった。
「……久しぶり。父さん。母さんはね……ううん、後で話すよ。僕も沢山、聞きたいことがある」
これからの事を話そう。スートはそう、父親の目を見る。
「キメラのこと、首長制度のこと、生きた土地のこと……目下の問題は、この城の制御」
「……ちょっと、待ってくれ。頭を整理したい」
矢継ぎ早に投げかけられる質問に、流石にマスターはたじろいだ。
アルカナが、ふわあと欠伸をこぼす。難しい話は、彼女には分からない。クロイヌが慕う男の存在も面白くなかった。クロイヌがナハトであった時しか彼女は知らない。誰だろう、あのおじさん。親しげにスートとも話してて。
「つまり君達は、首長を倒し、この城の運転の方法を探るため、恒久炉を動かしたいと……」
少年二人が頷く。マスターは、うんうんと首を振った。
「君達は……すごいな。僕らに出来なかったことを、やり遂げる目前じゃないか……行くだけ行ってみよう。恒久炉に」
その言い方に、二人は疑問を覚える。何か、最初から諦めているかのような物言いだったからだ。
立ち上がる三人に、慌てた様子の少女が近づく。彼女はクロイヌの尻尾を思い切り掴み、彼に悲鳴をあげさせた。
「どうせ分からないくせに……なんで付いてきてるんだ」
「まあまあ。アルカナだって、気になるんでしょう」
昇降機に四人が乗り込む。初めて味わう振動に、アルカナはクロイヌの腕を握りしめた。いて、と彼の顔が少し歪む。
クロイヌはマスターの頭を、スートの顔を見て、ひとつ話をした。
「あの時スートが家族の写真を見て泣いたこと、少し理解出来た」
どうして泣いたのか。それはその時のクロイヌにとって、全く理解できない事柄だった。けど、今は違う。
「ほんの少しだけ……俺も、マスターに、置いていかれたんだろうかと寂しかった。けど、違っていた。その事が嬉しいんだ。」
思考が、もう一度人間のものに近づいているのかもしれない。俺は、キメラだけど。クロイヌが頬を染めて、照れくさそうに話す。
「……僕はずっと、キメラと人間の思考の深さが違うだなんて考えてないよ。最初から言ったろ。キメラと人間は同じだって」
アルカナは少し目を瞬いた。キメラは最下層の住人以上に権利がない。立場が弱い。人に尽くすものだと教えこまれる。そう、自分自身でも思い込んでしまっている。人間とは違う、それは誰もが無意識に持っている考えだった。それを、彼は否定するというのか。
「君が知ろうとしなかっただけだよ。諸々の感情を。知ればそれは凶器になる。無用意に自分を傷つけてしまう。幸か不幸か、君はそれに気づいていた。それを避けてしまった。だから不器用に、僕に怒った。説明するのは難しいけど、嬉しかったよ。それがね」
クロイヌは自分でも分からなかった自分を言い当てられた気がして、何故だか少し恥ずかしくなる。けど腑に落ちた。マスターが去っていった時、きっと本当は寂しいと思えたはずだ。身体は、目は涙を零した。けど、心がそれを慮ることは無かった。拒んだ。無理に前向きであろうと、自分に嘘をついて。
「……ほら、例えばさ、レオンさんだって命令に背いてまでアズを救おうとした。そうだ、もっと身近な例だってある。アルカナだって、キメラだけど人間と同じように恋心を抱くじゃん?変わらないんだよ、何もね」
クロイヌを指さして、スートがくすくすと笑う。
「ちょっ、何の話⁉」
真っ赤になったアルカナが手をばたばたと振った。
「すごいな。アルカナ、見ない間にお前は好きな人までできたのか」
クロイヌが感心したように、羨むようにそう言う。馬鹿なのか⁉スートはこれには流石に同情した。アルカナはまだ目の端で、赤い顔でこちらを睨みつけている。マスターがそれを見て楽しげに笑った。
「三人とも。ほら、着いた。ここだよ」
先ほどと全く変らない青が、四人の前に佇んでいる。
「マスター。打開策は」
単刀直入なクロイヌに、マスターは困ったように首を捻った。
「ううん……実は、ここは代々恒久炉を研究している一族しか、対応していなかったらしいんだ。サイファ……僕の友達で、ここの研究を請け負っていた一族なら扱えたし、彼を経由して他の人を登録することも出来たと思う……彼が死んだ今、誰も扱えない」
四人に沈黙が落ちる。幽霊城。クロイヌの頭を、自分の放った言葉が過ぎった。
「でも、ひとつ望みはある。彼の息子、ナハトが何処かに生きていれば……望みは薄いが、その子が唯一彼の血を継いでいるはずだ」
ヘゼルの話を思い出し、マスターは天を仰ぐ。中々難しいだろう。彼は、恐らくは、殺されて……探すとしても、どうやって……
「ちょっ、ちょっと待って」
アルカナが口を挟んだ。その手は、クロイヌの肩をしっかりと掴んでいる。
「ナハトなら、クロイヌでしょ?」
「……はい?」
新たな事実に、マスターは又しても説明を請わなければいけなかった。けれども、一つ繋がったことがある。小島で初めて見た、あの緑。あれは、血縁によって初めから登録されていた、それを示す緑だったのだと。
「サイファ。待ってろよ。もうすぐ、君の夢が叶うんだからな」
君の息子と、だよ。信じられるかな。突然そう笑い出した男に、少年達は首を傾げた。
#13
『久しぶりですね。ここに、こうした形で来客があるだなんて。』
特徴の無い、何方かと言えば女性のような声が、耳を介せず頭に直接響く。基本的にはパラサイトと同じなんだな。クロイヌはそう思った。
『恒久炉。オイルが採れ次第、進路を変更してくれ』
瞼の裏で青がちらちらと笑う。機械のはずなのに、そこには表情と温度すら感じられた。楽しく笑いかける、少女のような老婆のような。
『せっかちな。まあいいでしょう。明日がその日です。 機械達が配備されていませんが、宜しいのですか?』
『機械……?何の話だ。オイルは全部、最下層の人間が取り扱っている』
『あそこに人間が?何故?……十世紀も以前の起動から経っていますからね、変わることもあるでしょう。ああ、進路はどちらに?』
『生きた土のある場所。分かるか、そこが』
『ここから一番近いのは……情報を解析……ザイオンでしょう。衛星はまだ正常に稼働しています。宜しければ地表の写真を送りましょうか?』
『……?いや、いい。そこに進路を変更だ』
『はい。了解致しました。良かったです。終末戦争の終わりから一千年、ようやく生きた土地を私達の子孫が踏めて。』
機械が久々の来客に笑いかける。そこで、青の光はぷつんと途切れた。
数瞬間を空けて、クロイヌが赤い目を開く。それと同時に、彼の周りを漂っていた青がひらりと元に戻った。瞳の丸い、間の抜けた顔になっている彼にアルカナとスートが駆け寄る。二人が矢継ぎ早に質問した。
「どうだったの?」
「……喜んでた。恒久炉が」
すごい!機械とクロイヌは話せるんだね!そう無邪気に喜んだアルカナを、ほらやっぱり分かっていないとクロイヌが突っ込む。いや、そこじゃ無くて。とスートが更に突っ込んだ。
「オイルの取れる日とか、色々……」
ああ、と納得したようにクロイヌが呟く。
「明日、オイルが取れるらしい」
「……なんだって⁉ネッケンの言うこと間違ってたの⁉じゃあ、もう準備しなきゃじゃないか!クロイヌ、僕行ってくる」
焦って昇降機に戻ろうとするスートに、マスターが声をかけた。
「最下層では、見たところまだ労働階級の人々が働いているようだよ。最上層にいる方々も一旦降ろして、明日に備える。これでいいかな?取り敢えずの間は、秩序は保たなくてはいけない。食事や休息など、できる限りの環境整備。今出来ることはそのくらいだ」
それから……と彼は付け加える。
「スート、君は休んだ方がいい。丸二日、動いていたんだから」
優しげにマスターが笑った。親が子を気遣う、あたりまえの、自然な笑み。ほぼ初対面の父に、スートはまだ少しぎこちなく頷いた。
「……そうしようかな。明日のことを、第三地区の人に伝えてほしい」
そんなに経っていたのか。スートはごしごしと目をこする。そう思うと、眠気も増した気がした。ふわあ、と平和なあくびをひとつ漏らしかけた時だった。
「スート、パラサイトの方は」
「……忘れてたー」
クロイヌが首をかしげてそう問う。少年はがくりと肩を落とした。まだ少し、眠れそうに無い。
ため息を飲んで彼の後を歩き出すスートに、スートの父親が声をかけた。
「スート」
「……なに?父さん」
思いつめたような顔の父親に、スートは困ったように笑って振り向く。
「……今まで、苦労かけたね。大した面倒も見れずに……母さんにも。僕はなんて酷い父親だったんだ」
スートは父親の謝罪に対し、つんと跳ね除けるように返した。
「いや。そういうもんだって慣れてたし。……それに、僕はこれからここに残るつもりだ。残って、ここを良くする為に手伝いたい。その時に、ちゃんと話して聞かせてよ。母さんのこと、これからのこと」
楽しみにしてるからさ。スートがそう言うのを、男性は笑って頷く。和らいだ空気の中、クロイヌだけがどこか遠くを眺めていた。
最南端の麻縄に、クロイヌが手をかける。抱えられたスートが、放置されたままの飛翔蒸気機関に今更のように目を止めた。
「これも、使わなかったね」
どうしようか?城に足をつき直して、スートがそれをじっくりと見る。
「なんだ。このまま動けるやつかも……あ、でもオイルももう堂々と頂けるし、使わないよな。マスターとクロイヌ、レオンさんが今恒久炉を動かせるんでしょ?」
確かに、とクロイヌが頷いた。そんな与太話より、パラサイト本体の整備が重要。それくらい分かっているスートは、大人しくクロイヌの小脇に収まる。
青と白。見ると空は、端が黄色く染まりかけていた。普段眩しすぎて見えない太陽が、今は形を確認できる。ああ、丸い。地球と同じなんだ。ぼんやりとしている間に、身体は宙を舞っていた。ひゅう、と喉がなる。
「最後までこれは、好きになれなかったな」
冷たい風が鼓膜を揺さぶっても、それは確かにクロイヌの耳にも届いた。
白い煙が立ち込める中、最南端の見張りの少年は、目を凝らして下の光る街を見た。今はちょうど、夕刻だ。底を流れるオイルが夕焼けを受けて橙色に、ゆらゆらと光っている。
「……こんな風になってたのか」
少年を見つけた少女が、そちらへ行った。
「何見てるの?……明日は給油らしいよ。早く寝ないと」
上からやってきた数名の指示により、彼らは少しばかり自由を得、楽しんでいた。見張り役ももういらない。そう申し訳なさそうに指示した眼鏡の男性は、どこかで見たことのある顔だった。
「いいからこっち来いって。ほんとにすごいぞ」
首を下に向けられ、切りそろえられた黒髪がぱっと広がる。少女はわあと悲鳴をあげたが、それも直ぐに眼下の世界への感嘆に消える。
「……綺麗」
「だろ?」
今まで、知ろうとしなかった世界。初めて見る光景に、二人は息を飲んで見つめていた。
「これから、色々変わるらしい」
父さんが言ってた。そう彼は付け加える。
「この城から降りて、地面に足を付ける日が……来るんだってさ。信じらんないだろ」
信じられない。そう彼女は笑った。少し不安げだった少年も、つられてふわりと笑う。
「それがさ、いい変化だといいね」
少女が今さっき貰った、飴玉の包を指で転がした。錆の羅列に見えるその包み紙の黒の意味も、そう遠くないうちにわかる日が来るだろう。働き方も、生活も、これから変わる。不安と期待に揺れる少年と少女を、冷たくなりつつある風がぐるりと撫でた。
朝日がてらてらと、機械部までを濡らす。小さなパラサイトはかなり中枢まで光が射していた。そこに、蠢く影ふたつ。
「……ふわあぁ……終わり。後は上に戻って、そこでも確認しよっか……」
「スート。それは俺の尻尾だ。扉を開けるハンドルじゃない」
スートとクロイヌは仮眠をとり、その後はひたすら整備に徹していた。夜空が白んで来た頃、ようやく殆どの準備が終わる。二人は目を擦り壁にもたれかかった。
「……一番、五番、よし。配管連結の用意もよし。ただ、これが引っ込むまでは念のため僕らはここにいなくちゃだね」
いつ流れてくるのか、それが分からないのは残念だけど。まあ、楽しみでもある。それと、来なければいいのにとも思える。終わりが刻一刻と迫っている。もう、彼に伝えられることは無いんだろうか。何か。
「ああそうだ、マスターが話すことがあるから一回は歯車城に来てって。僕も行くから、一緒に行こうよ……クロイヌ?寝てる?」
返事が、やや遅れて返ってきた。
「……起きてる」
「話……聞いてた?」
「ああ」
疲れてるのかな。まあ、そうだろうな。スートはそう結論づけて、静かに床に腰を下ろす。
「楽しかったよ、案外」
「……」
輸送用の配管が、大きな歯車城から伸ばされる。僕達が集めるまでも無かったんだな。これはあれに寄生してる訳じゃないのかも。きっと元々、何かの役割を果たす為の場所だったんだろう。だって、こんなにあつらえ向きの設備がある……微睡みの中、彼はそうぼんやり思った。
「スート、暇か」
数秒か、意識を飛ばしていたスートがはっとしてクロイヌの方を向く。
「なに⁉」
「いや。髪、切った方がいいって言われた。切ってくれ」
「ああ……そうだね。それと、これも」
スートが茶色い鍵を手のひらで回した。
歯車城に向き合うデッキの上、少し前星空を見た場所。そこに椅子が用意される。それと、箒とはさみも。
クロイヌが糸を解くと、黒髪がばさりと肩の下まで舞った。スートがそのひと房を掴んで、はさみを滑るように入れる。
「ああ、確かに傷に当たると痛そうだね。やっぱり長いや」
「隣で寝てる俺を見て、女と間違えたことがあっただろ」
ちょきん。
「ああー……あはは、あったね。ほんとびっくりした」
そういうことも、もう無くなるんだね。どっちの意味でそう口にしたかったのか分からなくなり、スートは言いかけて口をつぐんだ。
「あっ、そう言えばさ、君最初に上へ行った時、妙に振る舞いが……高貴に見えた!後にも先にもそれきりだよね、君が敬語使ってたの」
「最後のは余計だ」
軽い音を立てて、黒が床を染めてゆく。
「おかしいなーと思ってたけど、あれは君が首長の養子として育てられてたからなのか」
「……そうかも知れないな。あそこで俺は、十年も過ごしていたんだから」
包帯の上に髪の毛が落ちないよう、スートが布をクロイヌの首にかけた。
「考えてみれば、当たり前か。君はクロイヌよりもナハトであった方がずっと長いんだから」
「……過ぎたことだ」
耳の横をはさみが通り過ぎ、クロイヌが注意を促す。あっこれ耳だ、危ない。そんな調子でスートがその周りを切りそろえた。
「うーん、完成かな。けっこう男前」
布を軽く払い、床の上の髪を箒で下へ落とす。短髪になったクロイヌは、自分の頭を触ってなんとなく感嘆の声を漏らした。
「ほら、仕上げだ」
包帯を緩め、見えるようになった白い項を赤い傷が這っている。それを横断する黒の、変色した金属に棒を差し込んだ。ぱきんと音を立てて、チョーカーが落ちる。布とも金属とも違う質感のセラミックをクロイヌが掴み、口を開いた。
「呆気ないな」
「そうだね」
チョーカーの外れたクロイヌは、スートが今まで見たどのクロイヌとも違う、別人のように思えた。彼を彼たらしめていた物がひとつ消えて、もうひとつ消え、じわじわとクロイヌは変わる。ナハトでもクロイヌでも無い、誰かに。
「包帯。頼んだ」
「……君、随分あっさりしてるよね……」
白い喉元の上をほんの少しだけ黒髪が覆う。何故かスートの心臓が傷んだ。彼は、もうクロイヌじゃない。マスターの意思を継いで、歯車城に牙を向いて、僕を必要とした彼じゃない。
「ほら、できた」
そんな風に、アルカナのように、僕のこともいつかあっさり忘れるんだろうな。ああそっか、僕は寂しいんだ。
「ありがとう」
「ううん。ねえ、もう溜まったのかな?オイルは」
「多分」
「多分って君……終わる前に、野菜と鶏の世話をやろう。寝る前にやったとは言え、二日分開けてたんだ。一応」
立ち上がったクロイヌの、少し上にある短くなった黒。むき出しになった包帯の巻かれた項が少し痛々しい。ゆっくり遠ざかるそれに、スートもついて行った。
最上層では、混乱した大人達が沢山いた。何をどうすればいいのか、誰にも分からない。だから、出来ることをするしかない。そう皆をまとめあげたのはマスターだった。
「この城全体に混乱が起きないように、ヘゼルさんが次の首長として就任した……そういう事で進めましょう」
ヘゼルが緊張した面持ちで頷いた。流石に、ありのままを伝えるにはこの城は狭すぎる。混乱が一番の敵、青年もそれは弁えていた。
「その補佐を、経験のあるレオンさんに。キメラの皆さんには、その手伝いを」
首長の傍にいたキメラ達も同意を示す。
「……それから、脳無しキメラ達の対処についてですが」
マスターは声を低くし、遠くのぼろ小屋を見た。元々使用人のキメラ達の住処だったそこに、今は彼らが収められている。
「……元々、どこのどなただったかを特定し、知り合いの方に会わせましょう。それで思い出すこともあるかもしれません。それと、物理的に元に戻せないかの研究も……現生物班マスター、ルイン君に」
遠くで科学者達が頷く。言葉を選び、核心的なことを言うのは避けた。今はそれくらいしか思い浮かばない。
「最下層、第七層の人々への政策は改善。警備に無駄に人員を割くことはありませんからね。それと、上では余っている食料も……また、首長の待遇。彼はまだ私達の知らない事を知っているはずです。そして……」
久々に人前で話し続け、マスターはため息を零した。どこからか持ち出された椅子にだらりと腰掛ける。疲れに身を任せていると、一人の少女が水を運んできてくれた。
「お疲れ様」
「ああ。ありがとう。クロイヌのお友達さん」
はにかんだアルカナがコップ一杯の水を手渡した。ゆっくりと男性は嚥下して、彼女に微笑みかける。
「ナハトは、首長の元でどう過していましたか?」
「……いい子でした。すごく。優しくて、暖かくって。でも、クロイヌだって負けてないです」
満面の笑みを浮かべて、彼女がそう言った。彼は少しだけ安堵する。彼がナハトであった間も、何かしらの意味が、楽しさがあっただろう。酷い目にあっていやしないか。それはスートにも、クロイヌにも長年向けられていた不安だったからだ。
「マスター!来てるらしいわよ、あの二人!」
アズがぼんやりしていたマスターを大声で呼んだ。慌てて彼は昇降機へ向かう。
マスターが南端に着いたときと、彼らがそこに現れたのはほとんど同時だった。黒いリフトから、最初にスートが、次にクロイヌが降りてきた。
「マスター、話ってなんだ」
久しぶりに落ち着いて聞くクロイヌの声は、彼に良く似ていた。
洋灯の炎が、ぐらりと揺らぐ。古ぼけた部屋を光が這って揺らした。白けた机に囲まれて、肩身が狭そうに立派なソファーが置いてある。
研究室のソファーに、だらしなく少年二人が寝そべっていた。オレンジの髪と、黒い髪。白衣が乱雑にその端にかけられている。灯がじりじりと音を立て、その都度影が揺らいだ。
「……僕、もう今日何もしたくない」
オレンジ色の髪の少年が、少し首を持ち上げて呟く。
「俺も同意したい……てかなんなんだあのトルマンってやつ。突然現れたくせに今までと全然違うことを言いやがる。前の首長の方がマシだったよな?」
首長、言わばこの世界のトップに対してあんまりな口を利くのは、黒髪の少年だった。
「うう……僕キメラとかあんま興味ないんだけど……犬は犬、人は人、とかそんなんでよくない?折角の遺伝子資源を使ってみたいだけなんじゃないの?」
「そもそも俺は言語学に進みたかった……いや、近いのかもしんないけどさ」
「そうだよ。サイファはまだ近いじゃん。古代文明の研究、だなんて」
そう言って、むくりと顔を上げた彼から眼鏡がずり落ちる。
「先祖が首長の直属の研究者だったからってさ、襲名にすることの意味が分かんない」
「だよな。首長が襲名ってのでもうおかしいけど」
不貞腐れた様子で、彼らは立ち上がる気すら無く倒れていた。二人分の体重を受けて、ぎしりとソファーが傾ぐ。
二人は今朝会った、新しい首長というのを思い出していた。おそらく二十代の、そのくせ威圧感のある男。後頭部にがっちりと固定された金髪が輝いていた。元々彼らは、父親達の後を継いで、十七を迎えれば研究者になることが決まっていたのだが、内容は自由なものだと思っていた。けれども、その男に研究の内容を指定されたのだった。もちろん、選択の自由など無く。
「アイン、ツヴァイ、イー、アル……」
「なんだそれ」
「古代言語。世界の言葉が一つだけになる前は言語が沢山あったんだってさ。俺、結構覚えたんだぞ」
「目的があるなら、よりいっそうきついかもね。僕は正直やりたいことってあんま無かったから、働き口としてはいいのかもしんないけど……あ、強いて言えば、地理学とかやりたかったかも」
「意外。なんでだ」
「ほら、前君が言ってくれたじゃん。この城がぐるりと円を描いて回ってるって可能性。調べる価値はありそうじゃない?」
「よく覚えてんなー……そうだ、俺たち第二層の研究室取れるんならさ、端っこのにしない?」
「なんで?審査の時超遠いよ」
「でも、端からなら外が見えるだろ。だとしたらこの城が回ってるかどうか、本当に確かめられるぜ」
サイファと呼ばれた少年が、にやりと歯を見せた。カズサもつられて、唇に弧を描く。
「いいよ」
「そうこなくっちゃ」
何度か年を越して、互いに研究の成果も少しずつ出せるようになった頃だった。カズサは、助手であるミモザと結婚し、その少し後にサイファも結婚した。自分の子供の可愛さは勿論、人の家の子供の成長の速さにも驚いたことを、鮮明に覚えている。丸くなったよな。お互い。彼らはそう冗談を言い合っていた。
「よく撮れたぞ」
「……あー。姿勢を維持するのって思ったほか疲れるね」
「たかが数十秒だろ。子供抱えてる奥さんの方が大変だ」
二人分の視線を受けて、子供を抱えた女性、ミモザがふわりと笑った。
「これくらい大丈夫ですよ!……貴方のところのお子さんも同い年でしたっけ?今が一番やんちゃですよね」
「はい。お陰で毎日飽きませんよ」
すっかり父親の顔になったサイファが笑う。その横から、サイファの妻が、小さな男の子を連れてやってきた。その下には黒い子犬もいる。
「スート、ほら挨拶は?」
カズサが妻から子供を預かり、その子の顔に近づけた。まだまだ小さい彼は、対して興味も無さそうにぷいっとそっぽを向いてしまう。
「駄目だな、お友達とは仲良くしないと」
四人は困ったように笑いあった。
「犬なんて飼ってたっけ?僕初めて見た」
「この前飼い始めた。子供は動物と一緒に育てるとメンエキ力が上がるってお前も言ってただろ。クロイヌとブラックドック、どっちの名前にしようか考え中」
真顔で悩むサイファを見て、慌ててカズサが牽制する。
「前者は止めておけよ。まんますぎる……まさか君、息子に名付けては無いよね」
「嫁さんに付けてもらった」
「良かった……」
「どういう意味だ」
「けっこういい名前じゃないかな?クロイヌなんて早々被んなくて……ふふっ」
「ミモザ、馬鹿を言わないでくれる?どれほど私が苦労して名前を決めたことか……」
小競り合いに、互いの妻も笑いながら加わる。そうこうしているうちに、焼き上がりましたよとカーテンの向こうから声がかかった。
「焼きあがったぞ。結構いい出来じゃないか」
陰影だけの写真が、青年の手に渡される。
「うん。中々いいね」
カズサはそれを満足した様子で受け取って、眺めては微笑んだ。それに抱き抱えられた子供が手を伸ばす。
「んー、んー」
「写真って言うんだよ。ほら、スートもいる」
「まんま?」
「違うなあ。あ、こら舐めないの」
写真の角を舐め、食べ物じゃないと認識したスートが手を引っ込めた。悲しそうな顔になった子供に、二人ともひとしきり笑う。
「すっかり父親になったよな。俺もカズサも」
「あはは。子供って可愛いものだよね」
カズサは笑った。彼の子供が、その顔に手を伸ばす。サイファは、ひとしきり笑った後急に静かになって、
「……なあ、お前に言いたいことがある」
と言った。
久々に見る彼の煌々とした瞳に、思わず彼も息を飲んだ。
「場所を変えよう」
第二層の端。青空が佇むそこで、彼の二つの紫が輝いた。丸くなっただなんて冗談だ。紫と緑がそれぞれ二つずつ、燃えている。
「俺は、変わる事は怖いことだと思う。けどもっと恐ろしいのは、変わる事を望まないことだ」
サイファがじっと、カズサの方を見た。カズサも、サイファの黒髪が風に吹かれて青空と入り混じるのを眺めている。
「……つまり、言うのか」
カズサが呟く。風がコートの裾を攫った。
「ああ。アカシックレコードもお前に渡しただろ。この城が回っていること、別の都市へ行く計画……次の査定は近い。どうだ」
「……世界が変わる大事変になるだろうな。息子にとって、明るい未来になるといいのだけど」
「きっと素晴らしいことさ。こんな窮屈な所なんか抜けて、広い世界で、沢山の経験を味わえるんだ。考える葦であれ。あー、そんな時代を少年のうちに過ごしたかった」
「僕もだ。その考える葦であれって、パスカルか」
「いや。俺の言葉だよ」
一文字だけじゃないか。かっこつけめ。そんな軽口を言って、二人で笑いあった。息子達が、大地に足を下ろして追いかけあっている。考えるだけで幸せな光景だった。
「……いいぞ、言おう。」
二人の科学者は、研究の成果を立てる傍ら、また別の成果を樹立してもいた。この城が回っていること。この城を動かす計画。それがこの世界を大きく変えることだと二人は信じていたし、願ってもいた。
査定の日、二人は証拠を提示して、自分達の論を正確に伝えようと努力した。周りの科学者達は驚くか、まるで信じていないかのように振舞う。そんな奴らなんてお構い無しに、二人はじっと首長を見た。
「お分かりいただけたでしょう。この城は回っています。誰にも何のメリットもありません。ルートを変えて、神の大地……生きた土地を探すべきです」
力強くそう言った科学者達を、若い首長は全く取り合わなかった。
「そんなこととっくの昔に知っている」
その言葉だけが、閑静な大広間に響く。
それから先、色々な事があった。周りに目を向ける余裕が出来たのは、ほんの最近、妻子の身に危険が迫ったと知った時からだった。見ていない間、知りもしない間に、少しずつ世界が見知らぬ物に変わっていった。
妻の死は、第三地区で彼女の友達だったと言う少女から聞いた。友人の妻はキメラとして生き長らえさせられていることは首長から。その子供は、養子として十年間過ごした後、殺されかけて命からがら私の元に辿り着いていたことも、今なら知っている。
「これ、君に渡すよ」
日に焼けた薄い紙に写った、古ぼけた家族写真。黒髪の男性とその妻らしき女性が、ややむくれた男の子を抱いている。ついそれを見てしまったらしく、男性の目線はやや外されてしまっているが、如何にも幸せそうな表情だった。
「わあ、それがクロイヌのお父さん?結構かっこいいね」
横から顔を突っ込んだスートが、楽しそうにそう言う。
「このあと君は……君の父さんの最期の願いのお陰で、殺されることは無くお母さんと一緒に首長の元に引き取られていたんだ。その時の名前がナハトだ。首長の父親が死んだ時……おそらく君は十二かそこらの時に城が回っていると指摘して、材料にされかけた。そして僕がその治療をした。まさかこんなボロボロでやって来たのがあの男の子だとは思わなかったから、クロイヌと勝手に呼んでしまったのさ」
クロイヌの首が二人の顔を見て、写真の中の二人を見て、緩やかに上下動を繰り返した。
「じゃあ、父さんはクロイヌの本当の名前を知っているの?」
「ああ……教えようか?君の名前を」
クロイヌは、また何度か顔を動かして、二、三度言葉を発しかける。そして、マスターの顔をしっかりと見て、少し笑って首を振った。
「いい。これは、マスターが付けてくれて、マスターと、あとスートに沢山呼んでもらった名前だ。俺はクロイヌ。いい名前だと思う。すごく気に入っている」
ぎこちなく彼が笑う。眉が下がり、目尻も緩んでいた。初めて見た表情だった。見なくたってももう分かる。尻尾は彼の後ろでゆっくりと振られていた。君の表情筋はずいぶん進化したな。そうスートが茶化すように言うと、クロイヌは何時もの仏頂面に戻り彼の頭を小突いた。
「……誇らしいよ。僕の息子と、僕の友達の息子が、こんなに立派に成長してくれて」
ぼんやりとマスターが呟いた。そして戯れていた二人の頭を優しく撫でる。
「……見せてあげたかった。彼にも。その優しい奥さんにも。」
二人の背後には、遮るもののない青空が横たわっていた。それが二人の行く末である様に、そう彼は願う。
「じゃあ、僕はこれで。首長とは話してきたけど、他にも沢山話したい人がいるんだ」
昇降機へ向かう広い道を進むマスターが、その擦り切れた白衣の裾が見えなくなるまで、二人は静かにそれを見送った。
一呼吸開け、足元の飛翔機を見たクロイヌがスートに話しかける。
「確かに、使わなかったな」
「うーん、折角買ったんだけど」
折角なら乗ってみるか?と、クロイヌが誘う。いいの?とスートは目を輝かせた。空を飛ぶ乗り物に乗るなんて、生まれて初めてだ。断る理由が無かった。
「うわわっ、わ」
上下動を繰り返すそれに、スートは少し後悔し始めた。これなら、行きのリフトの方がよっぽど乗り心地が良い。
「君、運転の方法知らないんじゃ……」
「知らない」
「降ろせ‼死にたくない‼」
「冗談だ。元々これで囮をするつもりだったから、調べてはいた」
やった事があるとは、一言も彼は言っていない。
「それも初めてに含まれるんだぞ。……君、囮役好きなんだね。でももう二度とやらせないからな」
スートの睨みがクロイヌの背を焦がす。彼は苦笑した。それが自身を思いやる台詞なのだと、もうとうに理解していた。
「高いなー!最上層までひとっ飛びだ!」
「ああ。一番初めにここに来た時もこれに似たやつで来た」
最上層の上にまで、飛翔機は駆け上がっていく。隙間の空いた鉄越しに、雲が腰の横についた。
「なんだ、操縦したことあったのか。え?じゃあそれを使えば良かったんじゃないの?」
「着地に失敗して壊した」
「やっぱ不安になってきた」
思い起こすのは、たかが十日ほど前の過去。短い間、本当に短い間だけの友人だったが、それまでの世界を全て壊してくれた。
「おい。これやっぱり安物だな。燃料もう無いぞ」
「えっ⁉ちょっと、早く戻ろうよそれは」
眼下に見える錆色の歯車。そのずっと奥、ぽつんと見える小島。ほんとうにちっぽけな、小さな、砂屑の様な。これから、飛び去って戻ってこないもの。その輪郭がぼやけないように、スートはクロイヌに文句を付け始めた。
最上層、元首長邸宅。今は捕らわれた首長、ニトカ、見張りのキメラ達のみがいる。広い屋敷の一角には、ふたりの人間だけがいた。最も、片方は獣の姿である。
男性と獣の目がかち合った。カズサは優しく笑うと、懐から拳銃を取り出す。安全装置を確認すると、注意を払い獣に近づいた。
「ディスト、君はどうしたい?」
黒豹が声帯を低く鳴らす。彼は困ったように、片手に拳銃を、もう片方には何も載せずに彼女の前に晒した。
「選んで、ほしいんだ」
獣が大きな爪の手を、カズサの手に重ねる。
「そっか」
男が頷いた。
「そうであって欲しいと、思ってたんだ」
彼女の目がじっくりと彼を見つめる。記憶を取り戻したのだろうそれは、静かに頭を垂れた。
「これは本当に身勝手な……僕の考え、なんだけど。キメラにされた皆の考えが、そうであると、そうできると信じてるんだ」
カズサが笑う。その手のひらが黒豹の頭を撫でた。失ったものは戻らない。これから、作り直していくしかない。
音を立てずに、獣が帰ってくる。首長がそれに気づき、首を緩くそちらへ向けた。
「……話は終わったのか?」
初老の男が、手を伸ばして闇に溶けかかった獣を撫でる。低く喉を鳴らして、その獣が答えた。手錠がじゃらりとそれに続く。
「どうだ?息子とのご対面は」
黒豹はゆっくりと頭をふった。この様子では、まだ話せていないらしい。無理は無い、その息子を襲っていた本人だからだ。周囲も警戒し、なるべくなら寄せ付けないようにするだろう。
「そうか。すまんな。悪い事をした」
遠くを見て困ったように微笑む、いつかの彼女を思い出す。裂けた口ではその笑みも叶わない。大きな爪は、切り裂き傷を与えることは出来ても抱きとめることは出来ないのだ。
『今日からお世話になります、トルマン様』
『ほら、ご挨拶しなさい。ナハト』
慣れない名前に首を傾げる彼も、未来の首長として勉学に励む彼を見守る彼女も、今ならゆっくりと思い出せる。
ナハトが自我を持った瞬間から、彼は恐怖と狂気に苛まれた。結局養子は養子でしか無い。そんな怒りが彼を作り変えていった。そして迎えた、最悪の結末。
「ディスト……私は、お前を生かした時、最善の選択をしたと思っていた。ナハトだって、殺すつもりでは無かった。キメラにすれば、ほかの者と同様に、従順にできるかと思っていた。殺してしまうのは君達の父親に申し訳ない、そう思っていた。そうだ、私には無い勇気を持っていたな、彼は。だから君も惚れたんだろう」
首長が疲れた顔で笑う。妻子は生かすという彼の約束を、破るつもりは無かった。彼は充分自分に尽くしてくれた。けれど、飼い慣らすことは首長の技量では不可能だった。
「あの頃からだっただろうか」
十年間で、キメラ化手術は飛躍的に進歩を遂げていた。あちこちの層から、事故で瀕死になった者が運ばれてくる。けれども、動物一体を犠牲にし、その血と生命力を人間に分け与えるキメラ化手術によって助かる者も現れた。難点は記憶を一切失ってしまうことだ。そうなれば、後は主人の後につく犬と同じだと、ある時誰かが気づいた。気がついてしまった。瀕死の者が第二層の研究室に行き帰らなくなっても、人々は疑わなかった。死んでしまったのだと悔やんだ。そして、生物班に、ありがとうと礼を言う。徐々にキメラ達が増えていく。何も疑わない。給与も要らない。人間の召使は彼らに取って代わられていった。
「私は、獣になり記憶を失くしたお前のことを、いつしかただの動物だと、道具だと捉えてしまっていた。息子を殺せと命じた。いつからだろう。いつから、人をキメラにすることに、そのキメラをいいように扱うことに慣れてしまったんだろう」
歪んでいる。歪んだのは、いつからだったか。ヘゼルの時、アズの時はそこまで罪悪感は湧かなかった。むしろ、そういうものだろうとすら思っていた。今度こそキメラにすればいい。そうすれば、大抵記憶は消えてしまうのだから。
「記憶を取り戻すのには、過去に会っていた人と会う必要があるらしい。思い出す時間は、人により個人差がある。君や、ナハト……の場合、間隔を開けて思い出したらしいな」
こく、と大きな頭が揺れる。ネコ科の顔の表情筋は少ない。声帯も、声を発するには適さない。今思い出しているかどうか、正直彼にも分からなかった。
「……なあ」
首長が口を開く。不自由な腕を胸のポケットに当てて、俯いた。
「本当に死にたいとは思わないのか、ディスト。この先生きていて、その身体では人として扱われることはまず無いだろう。もしそうなら、私も一緒に」
懺悔の様な、責任逃れの様な。哀れな老人の声だったと、首長自身もそう受け止めた。
「それ以外にも、出来ることはあるでしょう」
突然、第三者の声が加わる。数回会ったことがあった。元生物班マスター、カズサだ。
「首長。貴方は確かに、沢山の罪を犯しました。サイファはもう戻ってきません。リヒトも、クロイヌも、ミモザ……私の妻だって、あるはずだった未来を辿れなかった。もう、どうしようも無いのです。これから先、未来を考えるしか」
首長が気まずそうに目を逸らした。死んで終わりになんてさせないと、カズサの目が強く訴える。
「その為に、貴方の力を貸して頂きたい。貴方しか知らない事がきっと沢山あるのでしょう」
罪人に頼む彼。首長は遠くを見たまま、静かに頷いた。
「それとですね、リヒトと話をさせていただけませんか。聞きたいことがあるのです」
首長が鎖を手放す。黒豹はずるずると身体を引きずった。
「……ああ、そうだ」
首長が胸のポケットからくすんだ紙を出す。小さなそれは、皺の目立ってきた指に負けず劣らずしわくちゃだ。
「これは、ナハトが持っていた写真だ。見覚えがあるだろう……ナハトの元に、持って行ってくれないか」
「使命だ」
荒い筆跡の中、やけに力強く書かれたその文字に彼は目を止め、少し微笑んだ。
「分かりました。」
カズサはそう言ってそこを去る。遠ざかる彼に、首長はため息を漏らした。
「どこまでお人好しなんだろうな。あの男」
ホルスターに収められていた小銃が、がたりと床に落ちた。自害の為の二発が、撃たれないまま転がる。煤けたソファーにずり上がると、天窓の向こうの青を睨みつけた。
「全く、分からない事だな。私の正義は、何処へ飛んでいってしまったのか」
碧空の上に、珍しく千切れた雲が飛んでいる。風が吹いているようだった。
少年達の頬を、だいぶん緩くなった風が撫でる。
「フライトもこれでお終いだな」
「ああ」
最下層の南端の、粗末な柵が見えてきた。刻一刻と、別れが迫ってくる。なんとも表し難い感情が二人を包んだ。達成感、嬉しさ、興奮、哀しさ、淋しさ、愛しさ。二人も形容出来ないし、きっと誰も形容し得ないだろう。
「お別れだね」
緑と赤。交わらないそれが見つめあった。
「料理、友達、感情……君は僕から、沢山の事を学びとった。もう僕が教えられることは何も無いよ。お疲れ様、クロイヌ」
今生の別れのように、でもそれを隠して努めて明るく振る舞う。不用意に何かが零れ落ちて、彼を心配させないように。
クロイヌの口がはくはくと何かを呟いた。緩みかけの緑を見て、少し下に視線を落として、それでも何一つとして言葉は紡げなくて。もう一度、大きく息を吸ってスートを見る。
「……でも、俺はお前に何も教えてやれなかった」
「ううん。僕だって、父さんのこと、あの城のこと、君のこと……沢山教わった。君がいなければ見えなかった世界がいくつもあるんだ。ありがとう、クロイヌ」
素直に感謝を言われ、もう何も言える事は無かった。心の中ではもう決まっているのに。言いたいことは、ひとつだけなのに。理性が、今までの生き方がそれを包み隠してしまう。これは紛れもない、自分で決めたことなのに。
「スート!」
クロイヌが、突然そう叫んだ。呆気にとられたスートの肩を掴み、頭一つ低いその目に話しかける。
「お前は、この城を変えた。目的はもう、果たしてるはずだ」
だから、
だから、一緒に。
空いた空白に、狼狽えているスートが瞬きを繰り返してこちらを見返した。肩に込められた力はひどく強いもので、みしみしと音がしたようにさえ思える。
簡単なその一言が、浮かばなかった。結局、口が先に動いたのだ。
「スート、俺はお前がいないのは、寂しい」
果たして言葉が発せられた。自分が一番怖がっていた、感情をかたちにしてしまうこと。それでもどこか、すっきりとしている自分もいた。
「……そ、それは」
緑の瞳が開き、二度、三度と瞼に隠されて、こちらをじっと見つめている。
子犬の様な純真な赤がこちらを見つめた。必死に頼み、縋りつくような、素直な瞳。僕は、最初から、つい最近君に会ってからなのだけど、これに滅法弱いのだ。
「……いいの?一緒に、あの城で旅しても」
「構わない……お前が、そう決めるのなら」
クロイヌの顔に、見た事の無いような優しい笑顔が映される。心から嬉しいのだと、何も言われなくても理解できた。
スートの目元も緩み、優しい笑顔が零れる。数滴零れた涙を、気にすることも無かった。
「クロイヌ!」
「わっ、何すんだ止めろ!」
足場が不安定に飛行中だと言うことを忘れて、スートがクロイヌに抱きつく。当然の如く、飛翔機は大きく揺れた。
「へへ」
慌てふためくクロイヌを見上げて、スートがにやりと笑った。そして、自分の首筋をとんと叩く。
「こんなもの無くっても、もう君は僕の主だ」
だからさ、早く取って!そうスートが自分のチョーカーに指をかけた。
「ああ」
クロイヌが薄く笑う。かちゃり。簡素な作りのそれが青い空に弧を描いた。その先に見えるのは、煙の耐えない最南端だ。
「変わっちゃったね、二人とも」
「そうだな」
スートが笑う。クロイヌも笑う。操縦が疎かになった飛翔機が警告音を甲高く鳴らすまで、近づいた歯車城に笑い声が響くほど笑った。
跳ね動くように飛翔機が、最下層の元いた場所に辿り着いく。柵を外し、少年二人が降りた。その先にいるのはカズサだ。
「おかえり、スート」
「あ……あのね、父さん」
スートが目を逸らして、カズサに話しかけた。
「その……あんな事言っておいてなんだけど、僕、クロイヌと一緒にあの小島で旅に出ることにしました……」
カズサは、申し訳なさそうに小さくなるスートを見て、あっけらかんと返す。
「そう?良かったね、クロイヌ」
「えっ、そんなあっさり」
「いいんだ、スート。正直君に出来ることはあまり無い。今までずっと被支配階級だったんだろ。上からの指示には向いてないよ」
ばっさりと言い切られてしまったスートが肩を落とした。クロイヌがそれを見て軽く笑う。
「寧ろ君には、もっと色々な世界をクロイヌと見てきて、僕にそのことを伝えて欲しい。それが僕達の願いだったからね」
クロイヌとスートが力強く頷いた。
「オイル、送れてたかい?僕が頼んでみたんだ。恒久炉に。でも、違う血筋の者だって言われた。嫌われちゃったのかな」
「大丈夫だろ。マスターなら……ああ、届いた。早いとこ動かしたい。折角整備したんだ」
「せっかちだな。クロイヌは。もう出るのか……ほら、お客さんだよ。それも二名も」
金の髪の青年が、おずおずと前に出る。クロイヌより僅かに年上に見える、ヘゼルが彼に声をかけた。濃い琥珀の瞳が、真剣そうに彼を見つめる。
「あなたが……クロイヌさん。あなた達がこの城を変えたのだと聞きました。何も出来なかった私に比べ、素晴らしい快挙だと思います……あなたから何か、これからのこの城に向けて、アドバイスをして欲しいのです。……きっと、いい城にしますから」
クロイヌは軽く空を仰いで、首を傾げて、数瞬開けてようやく話し出した。
「……この城の人は、皆見えない何かに頼りすぎている。自分で考えず、それで満足だと思い込んでいる。それじゃ、駄目だ……自分達の事は自分で決めろ。頭を使え、考える葦であれ」
感銘を受けたヘゼルが、こくこくと懸命に頷いた。
「はい!ありがとう、ございます!」
「やるねえ。君、いつもけっこう口下手なのに」
「最後のは……誰かの言葉の引用だ」
横槍を入れたスートに、クロイヌは素直にそう返した。もう一人客人がいることを忘れ、手袋を付け始めた彼に少女が声をかける。
「あのさ、」
アルカナが、マフラーを掴んでクロイヌを振り向かせた。首を絞められたクロイヌが、怪訝そうに振り返る。
「なんだ」
「やっぱり、私を連れて行ってはくれないの?」
アルカナの真剣な目が、きらきらと輝いた。
「駄目だ」
「なんで⁉」
あの頃、ナハトと私がいた頃。その時は身分の違いから、一緒になれるなんて到底思えなかった。諦めていた。けど、今は違う。
「貴方は今、首長の養子のナハトじゃあ無くて、ただのクロイヌでしょ。じゃあ、連れてってくれてもいいのに……」
クロイヌは、一瞬目を逸らしスートに助けを求めたが、結局息を吸って居直った。
「この世界は、丸いらしい」
「へ?」
答えになっていないその言葉に、彼女は間抜けな声を出す。
「どこへ行こうと、最後は同じ所に繋がってる。ならきっと、またいつか同じ場所に、歩き続ければ帰ってくる。そしたらまた会えるだろ、アルカナ」
「……次、会えたら?」
どうするつもりなの?と、彼女の目が訴えた。星屑を宿したような輝きが、昔の約束を記憶の底から引きずり出させるように瞬く。
「……そしたら、その時考える」
クロイヌがふいっと目を逸らすと、アルカナの頬は分かりやすく膨れた。クロイヌはそれを見て、軽く笑いその頭を撫でる。その顔は、随分前の彼の顔にそっくりだった。頬を染めて、どこか満足そうに彼女は微笑む。
「……まあ、いいや。クロイヌ、貴方は世界を巡って、私はここでキメラの皆を助ける。待つだけなんてつまらないからね。この城を、もっとずっと良くできるように頑張ってみる……だから、その目で確かめに来て。この城がどうなったのかを」
貴方が満足いくような城に、私になっていたら、その時こそ結婚しようよ。前向きな彼女に、クロイヌは苦笑いしつつ考えるとだけ返した。
「話は終わりか?そろそろ……」
クロイヌがスートの身体に腕を回しかけた。しかし、アルカナの口は止まらない。
「待って。あなた達に用事がある人は沢山いるから。アズとレオンさんはスートにお礼を言いたいって。スーはスートに聞きたいことがあるって。そういや、名前似てるよね二人。あ、今はネッケンだっけ?……えーと、あと、第三地区の……沢山いすぎて名前忘れたけど、スートにお礼をって。あとはね、首長の願いで、クロイヌと……ディストっていう黒豹のキメラを会わせてあげたいんだって。まあ、これは危険そうだし遠慮してもいいと思う。後は……」
喋り続けるアルカナをクロイヌが止めた。
「待て。それ、一体いつまでかかるんだ」
「さあ……?とにかく、今すぐには出れないみたいだね!」
恰好良く退場を、なんて考えていたスートも苦笑い。二人は顔を見合わせ、どちらともなく口を開けて笑った。
「仕方ないかな、クロイヌ」
「……そうだな。もう少しだけ、居座るとするか」
恒久炉の指令を受けて、歯車城は円形の針路から、徐々に違う道を歩み始めていた。騒ぐ人々は気づかない。何よりも楽しみにしていた、彼らさえも。
宴は何日か続き、その後数人の見送りだけを受けて彼らは旅立った。気持ちのいい快晴の日。大きな城の柵の内、号泣していた父親と少女の顔を思い出すだけで、スートは時折面白くなってつい笑ってしまう。あの、火花のような二週間から、少しだけ時間が過ぎた。
それから、歯車城がどうなったかって?少し、考えてみてほしい。寄生を終え、蛹を作って羽化し晴れて自由の身となった寄生虫が、それまでいた宿主のこれからを知るだろうか?振り返って想像するだろうか?少し考えれば分かることだろう。俺達も同じだ。
そんな事より、僕達の話をしよう。
君の髪、また伸びたね。出会った頃を思い出すよ。
お前こそ、随分背が伸びたし日焼けしたな。いい男になれたんじゃないか?
本当に⁉
冗談だよ。
……うっ。君は、冗談を案外言うよな。
それに、随分感情が豊かになった!よく笑うし、人を気遣える。僕のおかげかな?
そうかもな。出逢えたのがお前で良かったよ。
素直に言われるとなんか怖いね。
なんだと。
……あとはそうだな、沢山の経験のお陰だな。
ああ、あの膝を撫でる草。足の指を通り抜けて行く水。空から水が降るのも、氷が降るのも初めて見た。
生き残った人々の街。喧騒、音楽、舞踏。
えーと、歯車城より全然大きい海!
あと僕、悠久なんて言葉はもう信じないぞ。
同感だ。ちょっと無理して抜ければ、大地は乾いていなかった。
あはは……あのちょっと、が大変だったな……
そう言えば、この前歯車城に行ったよね。皆元気そうにやっていて良かったよ。父さんもやっと研究に戻れるーって、喜んでたし。また見に行こうね。
……次行ったら、それこそあいつが俺を攫ってでも結婚しそうだな。
ふふっ。確かにね。アルカナも楽しそうで良かったよ。
ねえ、クロイヌ。
いつか星空を見たバルコニーで、二人の若者が空を見上げている。雲一つない碧空が、風が、大地が彼らを包み込んでいた。
「これから先、どんどん初めて知ることが増えていくんだろうな」
「ああ。きっと、もっとずっと増えるだろう」
「無知な我々に乾杯!」
「考える葦達に乾杯。」
ぎこぎこぎこ。名前を失った小さな機械が蠢く。合わせて杯の中の酒も揺れた。
Fin
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