第十三話 潰える未来
人の気配がないはずの、今では原生の虫や獣たちの気配さえ消え失せた森の中に、場違いな影が歩を進めていた。風を切り、大地を力強く踏みしめ、一歩また一歩と目的地を目指すそれは、一人の老人だ。
白いローブから覗く手足は枯れ木のようになるまで肉を損なわれ、口から漏れる吐息に生命の色は薄い。本来であれば残り僅かな余生を楽しみながら、天からの迎えを待つだけの身だろう。それが鍛え上げられた若い騎士でも追いつけぬような速度で駆け抜けていく。
尤も彼の正体を加味すれば、若者よりも早い程度ではあまりに遅すぎた。『勇者』の一人”予言者”と呼ばれる男の肉体としては。
「……さっきの音は、追っ手?」
背後より迫る少数の足音、それが何者かと接敵し戦闘を始めたことを、カインははっきりと知覚していた。しかし、それはおかしな話だ。カインは|たった一人で王国軍に潜伏していたのだから(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。そこから逃げ出そうとしているカインを捕まえる人間はいても、手を貸す戦力などあろうものか。
教会側の戦力にしても、”あれら”が剣を引き抜けばこの程度では済まない。純粋な味方である線は限りなく薄いだろう。
「警戒してなくてはなりませんね」
理由は知らないが都合が良い。そう考えることができても、カインは思考を止めなかった。そも、聖都を目指すカインを補足している時点で、何かしらの事情に精通している人間のはずだ。目的も無く動いているとも考えにくい。
だからといって、異能は消耗が激しいのだ。無駄に予言はできず、頼れるのは長年かけて膨れ上がらせた経験のみだった。
全方向への警戒を怠らず、その上で全速力で森を進む。やがて、頭上の木々の数が見るからに減り、遮られていた月の光が老人を照らし出して──
「こんばんわ。綺麗な夜空ね」
森を抜けた平原に一人の女性が立ち塞がっている。大陸東部から伝わる独特の衣装。風変わりなその姿が妙に似合う美女であり、カインに最大限の警戒を抱かせる獣人。『勇者』アンナが優雅に微笑んでいた。
「どうもこんばんわ。驚きましたね、このような場所で顔を合わせるとは」
「本当にね。それよりもご老体には今夜の寒さは堪えるでしょう? 散歩は程々にしないのかしら」
「ははは。確かに老いぼれなのは認めますが、これでも王国の最高戦力の一人でして。この程度は気にもかけませんよ」
──どうして彼女がここにいる。
無駄にも見える言葉を投げかけ合いながら、カインは必死に思考を巡らせる。確かにアンナは戦場の西部に、カインが担当していた東の反対側へと姿を現したはずだ。それを確認したからこそ、カインは予定を踏み倒して初日から計画を実行した。
ここで『勇者』と対面するのは想定外過ぎる。
「……はっきりと言わせて貰うけれども。ここで私かあなたが欠けるのは王国にとって致命的よ。できるなら今夜のことは無かったことにして、軍に戻っていただけない?」
「それは、できない相談ですね」
「どうしても?」
「どうしてもです」
確かにここで引き下がれば、ひとまずは穏便に話を済ませられる。単純な個人の武力に大きな不利を持つカインにとって、それが安全策であるのは間違いない。だが、その後に、二度目の機会が果たして訪れるだろうか。恐らくは他の指揮官も、次はカインから決して目を離さない。それで何もできずに終わるわけにはいかないのだ。
計画のために、カインは帰らなければならない。失敗は許されない。十年前に見た景色を、その時の教王との誓いを。無為にするわけにはいかない。
「ご覚悟を。無理矢理にでも、押し通らせていただきます」
「そう──残念だわ」
声は正面から。立ち姿も優雅なまま目の前に。しかし、『視た未来』に絶対の信頼を置き、カインは懐から短剣を取り出すと背後へと振るった。甲高い音を響かせ、小さな刃が何かと衝突する。
それは拳だ。美しい姿には似合わぬ構えで、右手を放ったアンナの拳だった。視界の端に、本体と置き換わっていた幻影が消えていくのがちらりと映る。
「老いぼれだからと、舐めないでいただきたい」
「別に侮る気はないわよ」
同じ『勇者』でも、元の肉体の差でカインは他の超越者ほどの力を引き出せない。だが、生きた年月が積み重ねた経験と、異能の相性がその穴をどうにか埋める。
今もなお、カインの脳裏には様々な未来が流れているのだ。五秒後の未来、それを視た結果変化した五秒後の未来。そのまた先の未来、未来、未来──未来。それこそがカインの異能。膨大な情報量を瞬時に処理できるのは、カインの静かな修練の賜物だった。
その力を使えば、カインはアンナと対等に戦える。打ち倒すことだって、不可能ではない。
「君は今を騙す”道化師”。しかし、死ぬ瞬間までは騙せないでしょう。それだけ視ることができれば、僕は未来を変えることができます。未来の前には今の改革だけでは届きませんよ」
ここからが本番だ。命令するだけではない。自ら血を流す戦いの気配を間近にして、恐怖を覚える。だが、恐怖は消すものではなく、乗り越えるものだ。
故に震えなどはなく、アンナの一挙一動にカインは意識を張り巡らせた。
「視えてますよ」
「……バカね」
右からの回し蹴り。確かに視た未来を前に、カインは完璧な対処をした、はずだった。しかし、未来が今になってもアンナの姿はそこにはない。相変わらず背後から動いていない。
だが、焦らない。カインの動きを視てから行動を変えた。『勇者』の動体視力なら不可能ではない。落ち着いて次の未来を視れば、
──真っ赤な世界を嘲笑が満たしていた。
「……?」
聞いたことない声だ。何をされた。すぐに対処をしなくては。そう考えて持ち上げた短剣は地面へと落ちた。手足から感覚が失われていたのが原因だろう。口から何かが勢いよくこぼれ落ちる。
理解が追いつかない。未来を、未来を視ても何もわからない。先程まで視えていたアンナのあらゆる攻撃の可能性が、全て真っ赤に塗りつぶされている。ふと違和感を感じて体を見下ろしてみれば、胸から見知らぬ腕が飛び出していた。
「フハハハハハハハハハハハハハハっ! あァーッハッハハハぁ!!」
何も、視えない。意識が混濁していく。アンナは何をした。この声は誰だ。どうやってカインの予言を潜り抜けた。
理解が追いつかず、無限に湧き上がる疑問に何一つとして答えは現れず。ただただ、耳障りな男の高笑いだけが視たばかりの未来だけでなく、今をも支配していって。
"予言者"の意識は暗雲へと堕ちていった。




