第十二話 空っぽの戦士
大地が揺れたかと錯覚するほどの衝撃が、耳元で弾ける。その圧に鼓膜が破れ、激痛が脳を貫いた。
「…………」
「ぅ、ぐ……いった──!」
少し視線を動かせば、倒れるソラのすぐ側にクフンの右足がある。どうにか回避できたが、直撃していれば即死だった。
頭蓋を叩き割られ、中身をぶちまけ、尊厳も何もない無様な骸に成りかねなかった。でも、結果は生きている。重症かもしれないが致命傷ではない。
即座に立ち上がり、左腕一本で一閃。白けた顔をした狐人族の老人は大きく飛び下がり、刀を回避する。
「全く中途半端な実力だからこそ、余計に質が悪いわ」
「く、ぅ……」
「痛いじゃろ。さっさと楽にならんか」
声が聞き取り難い。右の聴覚と肩は完全に機能を停止している。ただ動かないだけならまだしも、痛みによって思考が白熱してしまっていた。
これでは普段通りのパフォーマンスを発揮できるものか。万全の状態でさえ、ソラの実力ではクフンには遠く及ばないのに。
「お金以外の報酬ってのが、そんなに大切なんですか? 教会に従おうとするほどのそれは、一体何なんですか……?」
「それは言えん。話す義理もない。ただ、お前さんなんかよりかは、よっぽど有意義な理由で拳を振るっているつもりだがのう」
「教会の目的がわかっていて、有意義って。あの連中が何をしようとしているのか、本当に知っているんですか!?」
返事がもたらされたことに意外なものを感じつつも、どうにか会話を途切れさせないようにする。とにかく交戦を避けなくては、数秒で挽き肉にされてしまう。
「逆に聞くがお前さん。教会が何をしようしているのか知っているのか?」
「……王国と連邦の共倒れを狙って、その隙に民衆の指示を集めることのはず」
「ああ、そうじゃ。確かにそれも目的の一つ。しかし、それほどの野望にお前さんごときが何かできると、本気でそう思っているのか?」
「……っ。それは」
「──そこで即答できない辺りが、お前さんの信念の軽さじゃよ」
酷く冷たい声。元々最悪に近かったソラに対する評価がさらに地へ落ちていったそんな感覚。最早、クフンの瞳に写るソラの姿は有象無象に過ぎない。
他でもない対面するソラ自身が、そう評価を下されているとしか捉えられなかった。
「どうしてお前さんは戦う? あやつらと一緒にいる?」
「それは仲間だから……」
「見た目だけ綺麗な言葉で誤魔化すんでないわ」
自然と溢れた答えを一刀両断される。同時に冷めきっていたクフンの瞳に再び火が灯った。しかし、それは決して善き感情ではない。
不届きものへ向けられた激しい怒りの炎。ソラを衝動のままに燃やし尽くさんとする負の感情だ。
「己の罪を償うため。そう魂が定められたから。亡き者の意思を継いで。取り返しの付かないこと悲劇を防ぐため……色々なやつがいた。誰も彼も決して譲れない何かを背負っている」
「…………」
何となく、クフンの言いたいことがわかったような気がした。でも気づいたとしても、それを先にソラが口にする権利など、どこにもない。
「だったら、お前さんはなんだ? 肉親でも殺されたか? 或いは償いでもするのか? 何が起きても何を言われようと、己を曲げない意思があるか?」
「……あたしは」
「いつまでうじうじしとるんか。だからお前さんには、ここに立っている資格などないのじゃ」
歯切れのない言葉にクフンの静かな怒声が轟く。どうしようもなく、彼は怒りに震えている。それをソラはどこか他人事のように見ていた。
きっとそれは、ソラにもクフンの怒りの理由がずっと前からわかっているからで──
「仲間だからじゃと? だったらその仲間が諦めたら止めるのか? 逃げ出すのか?」
弾丸のごとき速度でクフンが距離を詰める。咄嗟に飛び下がりも、当たり前のように彼はそれに対応する。
二歩目の加速で地面から足が離れたソラの懐へ。その拳を叩き込んできた。
「お前さんは空っぽじゃ。たまたまそういった人間に出会い、些細な良心で手を差し伸べ、ずるずると関係を続けてきたんじゃろ」
「か、ぅ──っ!?」
「理由などあるはずもない。信念もじゃな。刀に乗せる激情も無く、心の臓が止まろうと立ち上がる気概もなく、ただ断る時期を見失って金魚のフンのようにここまで運ばれてきた」
斬撃の牽制が一瞬だけ拳を妨害し、それでもソラの鳩尾を貫く。空中で衝撃は逃げるはずなのに、それだけで内蔵が搾り取られるような激痛が走った。
意識をどうにか繋ぐ。持ち前の身軽さを生かしてどうにか地面へ着地。チカチカと消えかかる視界に活を入れる。
「──お前さんに、戦う理由などないんじゃろ」
追い付いたクフンの後ろ回し蹴り。一歩下がって回避し、即座に二歩進んで斬りかかる。しかし、望んだ手応えはなく、あるのは驚愕のみ。
片足をあげた体勢のまま、ソラの刃はクフンの両手に挟まれていた。所謂、白羽取りか。超人の集中力があってこそ、実戦で可能となる技だ。
「ほれ、中途半端に逆境を乗り越える力があったからこそこの様じゃ。お気楽な侍など、さっさと折れておくべきだったものを」
返す言葉が出てこない。意識が半濁しているから。否、それも言い訳でしかない。本当はソラ自身が一番納得しているからだ。
葛藤は無く、願いも持たず、挫折の経験もない。かといって迸るような熱い信念を持ち合わせているわけでもない。
あの日、たまたまセレナを保護して。冒険者家業を共に過ごすうちに、レオンとブライアンと出会って。そして、エリアスが仲間になった。
誰もが何かしらの信念を抱えていた。理由を口にはしなくても、その在り方は滲み出ていた。でも、ソラには何もない。
故郷から家出のように逃げ出し、運良く国境の魔の森を乗り越え、冒険者として暮らし、たまたまセレナを助けた。
本当に偶然に。必然性など何もなく。だから、この位置に立っているのがソラでなくとも誰も困らない。
教会に立ち向かう理由なんて、何かの間違いでそれぞれの想いを抱えた人間たちに囲まれたから。それだけだ。
独りでも戦い続けるだろう仲間たちと違って、ソラがずっと独りだったのなら、お気楽に今でも辺境の町で暮らしていたはずだろう。
「だから妥協した行動に出る。あやつらが追いかけたのは人を超越した存在じゃぞ? ならば、わしを一刀で下し追い縋るのが貴様の最善じゃった。なのに、時間稼ぎなど甘えおって」
「あたしじゃあなたに勝てないから……だから、現実的な範囲でやろうと……!」
「出来るか出来ないかではないわ! やらなくてはならないなら、成し遂げる努力を惜しむでない──!」
「──!?」
挟まれた刀を捻られ、体が引き寄せられる。重心の崩れた体勢を立て直そうとして、しかしここは既にクフンの間合いだ。
拳が迫る。右肩に、骨の折れたところに更なる圧がかかり、激痛がソラの魂を揺るがす。続いてクフンの姿が視界の下へ消えた。
しゃがみこんだ。次の動作のために。そのことに気づいたときにはバネのように足腰を跳ね上げ、顎に放たれた老人の拳はソラの顎を捉えていた。
脳が揺れ、意識が飛びかける。ダメだ、勝てない。レベルが違いすぎる。口の中に血の味が、胸の中に諦念が満ちた。瞬間、対面する戦士の殺意が膨れ上がったのは、きっと勘違いではない。
「あの時の貴様は輝いていた。命を懸けて仲間を救おうとしてた。じゃが、今はこの様か。良くも悪くも、貴様は仲間の危機でなくては本気にならん。一人じゃ何もできん、否、一人じゃ何もしようとしない──それをわしは許さんぞ。小娘ぇ!」
深く腰を降ろしたクフンが右腕を弓のように引き絞る。全力を込めた掌底は無防備なソラを粉々に砕き、その命を奪うだろう。
だが、ソラの体はもう動きそうにない。今さら回避はできない。
最期の光景で、しかしソラは静かに思考を巡らせる。レオンたちはソラを足止め役として、クフンの前に置いてきた。それはソラ自身が志願したことだ、恨むつもりはない。
だが、反対の立場だったのなら。ソラはきっとその決断ができただろうか。できなかっただろう。何故なら、ソラの戦う理由は仲間だからだ。
譲れない何かを持っているレオンたちなら、そのために仲間だって危険にさらす。その上で無事を信じて、少しでも早く助けに戻ろうと全力を注ぐだろう。
それぞれがそれぞれの信念を持っているからこそ強い。その信念に誰かを救うことが含まれているだけだ。レオンたちの救いたいと、ソラの助けたいには明確な違いがある。
死にたくないと、ソラは思う。死ぬわけにはいかないと、レオンたちなら思うだろう。覚悟の違い。願いの違い。信念の違い。
まだやり残したことはたくさんあった。それが食事や観光や遊戯など平凡なものではあるかもしれないが、ソラはまだ死にたくない。
死にたくない。その言葉が染み渡る。
なら逃げ出すのか。少なくともレオンたちから離れれば、今ほどの危機には見舞われなかった。
でもみんなと一緒にいたい。その願いを自覚する。
何かを抱え込んだ一行の中で、場違いでお気楽な存在だったとしても、彼らとの生活は楽しくて。
──戦う理由がそれで、何が悪い。
「──っ!」
飛び散り虚空へ消えかけた意識を手繰り寄せる。既にクフンの一撃は放たれた。残されたのは正しく刹那の時のみ。
逃げるのは無理だ。それでも死にたくない。
「う、あぁぁぁぁぁ──!?」
迫り来る死へ、刀を叩きつけた。通常の剣と比べて細長い姿を持つ獣人族特有のそれは、斬ることに特化した刃だ。間違っても叩きつけるものではない。
でも、それしかないならやるのだ。やるしかないのだ。クフンのガントレットに刀が衝突する。刀身が悲鳴を上げ、亀裂が伸びていく。左腕に尋常ではない負担がかかる。
「──貴様」
それでもクフンの一撃は僅かに逸れた。生まれた安全圏に体を滑り込ませ、どうにか生還する。そのまま一気に距離を取ろうと膝を曲げて、
「惜しかったのう。まあ、今の動きだけは誉めてやるわ」
下段回し蹴りが膝を貫く。その場に下半身が崩れ落ち、再びクフンの拳が顔面に迫っていた。死にたくない。
もう一度、刀を構えて叩き付けた。ほんの少しだけ拳の威力が静まり──硬質な音を残してソラの得物が弾け飛ぶ。長年連れ添った相棒が終わる。そして追うように担い手の命も──
「あた、しは……」
クルクルと刃の破片が宙を舞い、森の大木の一つに突き刺さる。小さすぎる傷は大木に然したる影響を与えない。大きすぎる存在に小さなそれは無いにも等しいものだ。
それよりも。遅れて降りかかった赤い雨の方が、木々を汚す大いなる意味を与えていただろう。




