少年の小さな迷走
俺は平凡な高校二年生、紅河淳。カテゴライズするなら『無気力人間』の部類か。行方不明の弟を探し、興味本位で知人から探偵を紹介してもらったのだが…
『少年の静かな一歩』『少年の些細なトラブル』の続編的な一話完結短編。
「さすがに、少し心配ね…。」
風呂から出て夕食を食べにダイニングに入ってきた俺に、母がつぶやいた。
部活帰り、風呂上りの少し怠い身体を食卓の椅子に落ち着けた俺は、時計を見た。
午後7時50分。
「芳輝?」
弟の芳輝の姿が見えないことに気付き、俺は聞き返した。
「うん。中三で受験だから部活も引退して、いつも5時には帰ってくるんだけど。」
「勉強してんじゃないの?学校で。」
「こんなに遅くまで?」
母は眉をひそめた。
高校二年でサッカー部に所属する俺の帰宅時間は、まぁだいたい7時か7時半頃だ。
学区域の公立に通う中学三年の芳輝なら、真っ直ぐ帰ってくれば4時過ぎか。
「そのうち帰ってくるだろ。」
中三ともなると、まぁいろいろある。悪友と教室でダベってたり、女と痴話喧嘩になったり…。
俺は特に心配もしなかった。
「学校に電話してみようかしら。」
「大丈夫だよ。やめときなって。いただきます。」
食卓に並べられた夕食に手をつける俺を見て、母も椅子に座った。
8時半を回った頃、母は席を立つと、
「ちょっと電話してくる、学校に。」
と言い、ダイニングのドアを開け、ドアのすぐ外側に置かれている電話の受話器を上げた。
電話している母の声が聞こえてくる。
「…はい、ええ、そうですか…。」
母は受話器を置き、ドアからこちらを覗きながら、
「教室も図書室も、7時には生徒はいなくなってるって。部活が無い子は4時過ぎには下校しているはずだって。」
と言い、心配そうな表情を一段と濃くした。
そして、ダイニングに入ってくると、エプロンを外しながら言った。
「ちょっと私、見てくる。」
食事をすませ、さらに怠くなった俺はため息をつきながら、
「いいよ、俺が見てくる。六中の通学路、俺の方が詳しいし。」
と母を制し、部屋でジーパンとトレーナーに着替えると、玄関でジョギングシューズを出した。
「やっぱり、携帯電話、持たせた方が良かったのかしら…。」
シューズを履く俺の背後でつぶやく母に、
「んー、あいつ欲しがってるしなぁ。俺はいらねーけど。」
と答えて、外に出た。
10月の過ごしやすい空気に、気怠かった身体が少し癒された気がした。
気持ちの良い夜、というやつか。
自転車をこぎだしながら俺は考えた。
さて、寄り道しそうな通学コースは、と…
友達の家に寄ってたりすると空振りだな…
とりあえず普通に帰る道を辿り学校まで行ってみることにした。
「芳輝どころか、中坊にすら会わねぇ…。」
それはそうか。
もう夜9時近いのだ。
懐かしい市立第六中学校の校門の前で、俺はどうしたものかと悩んだ。
可能性を考えてみる。
学校のどこかで倒れている…用務員が見回りで見つけるだろう。
友達の家…その家の親が電話くらいかけさせるだろう。
家出…あいつは金も持たずに無謀なことをするやつではない。
誘拐…中三の男が?ない、うん、ない。
考えられる通学コースを一通り回って、見つからなければ駅の方へ行ってみよう。
俺は、芳輝がどこかに倒れていないか暗がりをよく見ながら自転車を走らせ、駅のコンビニや本屋も軒並み覗いてまわった。
見当たらない。
ひょっこり帰ってきていることを期待しつつ、自宅へ戻る。
「淳、どう?何か判った?」
母の開口一番の言葉から、弟がまだ帰っていないのは明白だった。
「いくつかの通学路と、駅の方も見てきたんだけど、見当たらない。」
「警察に探してもらいましょ。お父さんにも伝えないと…。」
電話をかけようとする母に、
「まぁ、そう大袈裟にすることもないかもよ。友達の家にいて、たまたま親がいなくて羽伸ばしてるとか。」
と言い、シューズを脱いで玄関を上がった。
「朝まで何の連絡もなかったら、俺、明日学校休んで探すよ。父さんも、出張中に心配して『帰る』なんて言い出したら、なんかさ、悪いじゃん。」
「そお?事故にでもあってたら…。」
「人の少ないド田舎じゃあるまいし、事故にあってたら病院に運ばれて、生徒手帳で電話くらいかかってくるよ。連絡がないってのは、何事もないってことだよ。」
「でも…」
「大丈夫だよ。」
「淳、あんたホント楽天家よね…。探すって、思い当たるところはあるの?」
「うん、まあ。」
「どこよ?」
「まぁ任せてよ。」
腑に落ちない顔の母をなんとか落ち着かせ、俺は自分の部屋に戻りベッドに体を投げた。
正直なところ、アテは無い。
だが、弟が何かの事件に巻き込まれているとか、そんなテレビドラマみたいな非現実的なことは想像できなかった。
芳輝は俺より頭も良いし社交的なやつだ。どうせ友達とハメを外しているだけだ。
俺はさほど心配もせず、疲労感に任せて眠りについた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ったく、芳輝のやつ…」
翌朝、芳輝からは連絡も無く、もちろん帰ってもいなかった。
「私も一緒に探すわ。」
「いいから、家で待っててよ。帰ってくるかもしれないし。学校に『2年C組の紅河淳、風邪で休みます』って電話、よろしく。それから六中にも、登校してないかどうか。」
「…頼むわね。午前中に見つからなかったら警察に届けるわよ。」
「ああ、昼前に一回電話入れるよ。」
「あんたも携帯電話、持った方がいいわね…。」
「いらないって、うっとおしい。駅前の公衆電話からかける。」
そう言うと俺は自宅を出た。
携帯電話を持ちたく無いのは本心だ。電話を持ち歩くって、どこにいても捕まるような拘束感、よく平気でいられるものだ。
腕時計がちょうど8時を指していた。
弟の行方のアテは無いが、探し方について相談できる知人がいる。
橋石という、県立土蔵西高校に通う高二の男子で、俺の通う私立城下桜南高校と通学電車が同じだ。
彼とは中学が同じだったとか幼馴染みとかではなく、電車の中でちょっとしたイザコザがあってから、何となく友達付き合いをしている。高二になってからの知人だ。
向こうは俺を嫌っているような態度をとるが、本当に嫌いなら携帯の番号など俺に教えないだろう。
俺は、橋石の度胸のあるところを、少し尊敬していたりする。
駅に着くと自転車を駐輪場に入れ、公衆電話から橋石の携帯に電話を掛けた。
「紅河だけど、朝から悪い。」
「おお、どうした?」
公衆電話からかかってくるのは俺くらいらしく、橋石はすぐに出てくれた。
「ちと調べたいことがあって、ほら、探偵の弟がお前のクラスにいるって言ってたよな?」
実は、俺の本心を言ってしまうと、探偵業というものに興味があり、何かあったら調査依頼してみたいと思っていたのだ。
弟は大丈夫だろうと思っているのも本心で、学校も部活もサボれるし、ほとんど好奇心でこの行動に出た、というのが本音だ。
「調べたいこと?何を?」
「人探し。そのクラスメート、紹介してくれない?」
「あいつを?言ったと思うけど、かなり変わり者だぞ。しょっちゅう学校サボるし、今日もきてるかどうかわからんぞ。」
「電話番号とか、教えてくれれば自分で会うよ。」
「んー、あいつがお前に会うかなぁ…あまり期待するなよ。じゃ、学校終わってからな。」
「あああ、待った待った、今、今教えてくれ、その人の番号。」
「はぁ!?バカ、これから学校だろうがよ。紅河、お前まさかサボるのか?」
「おう。」
「おう、じゃねぇよ。番号教えてもいいけど、あいつ、知らないやつと簡単には会わないとおもうぞ。」
「とりあえず、教えてくれ。」
「んー、ちと待てよ…。」
数秒後、橋石はそのクラスメートの名と番号を教えてくれた。
「南條義継…よしつぐ?戦国武将みたいな名前だな。」
「ああ、それと、そいつは確かに男だけど…会って驚くなよ。じゃあな。遅刻しちまう。」
そう言うと橋石の電話は切れた。
受話器を置くと俺は、そのまままた受話器を上げ、南條の番号に掛けた。
話し中の音。
少し間を置き、再びかける。
受話器の中で呼び出し音が10回以上続いたが…出ない。
三たび掛ける。
今度は1コールで繋がった。
「あ、あの、もしもし…」
「…キョウの言ってたクレカワさんか?」
おお、さっきの話し中は橋石が連絡付けてくれていたのか。
「はい、紅河です。」
「…なんだ、ずいぶん礼儀正しいね。噂と違って。」
「え?うわさ?」
「喧嘩っ早くて、すぐ人を蹴る、凶暴で身体のデカい不良。」
な、な、なんだその根も葉もない噂は!
「ちょっと、あの、人を蹴るどころか、喧嘩なんかしたことないけど。」
「はぁ?キョウ、足に怪我してたよ。クレカワに殺されかけたって。」
「…」
確かに橋石の足のアザは、彼と初めて会った時に俺がつけたものだが…話に尾ヒレどころかツノと羽まで付いて巨大化してるじゃないか…
「…あの、南條クン、」
「くっくっく、嘘だよ。」
ちっ、性格悪そうなやつだ…橋石は『かなりの変わり者』と言っていたが…
「南條クン、橋石から、お兄さんが探偵をしているって聞いたので、頼みがあるんですが…」
「ああ、人探しだっけ?面白そうだから取り次いであげるよ。」
おお、あっさりと…!
「ああ、助かります。急いでるんだけど、どうすればいい?」
「これから一緒に行こう。事務所。」
「え?学校は?」
「駅まで行ったんだけどね、今日も挫折して漫画喫茶。」
今日も挫折って…なんかやばそうなヤツだが…
俺は好奇心が先立ち、待ち合わせ場所を決めると、駅の改札へ向かった。
こんな感覚は初めてだ。
勉強もスポーツも、適当にやってもそれなりに出来るし、興味が持てる趣味といえばサッカーくらいだが、それも学校の敷いたレールの中な訳で、人生そこそこに可もなく不可もなくでいいか、という、俺はカテゴライズするなら『無気力人間』の部類かも知れない。
それがどうだ。この心臓が高鳴るようなソワソワする感じ。
もしかしたら俺は、予定調和というものから逸脱したいのかも知れない。
そう思うと同時に、母の心配そうな顔が浮かんだ。
その想像の中の心配そうな目は、弟の芳輝にではなく、俺に向けられていた。
親を困らせるような道へは…
現実は、多分、普通に大学へ進学し、就職し、結婚し…
「俺、誰のために生きてるんだろ…。」
そんな言葉が、自然と口から出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
待ち合わせの駅前に着いた。
腕時計は9時35分を指している。
南條は学校に行きかけたらしいから、学ランを着ているはずだ。
周りを見渡すが、それらしい学生は見当たらない。
学生と言えば、タクシー乗り場の前辺りにセーラー服の女子高生が1人、携帯をいじっている姿が見えるくらいだ。
「まさか私服じゃないだろうな…。」
俺は学ラン姿に気を配りつつ、待った。
数分して、視界の中にいた女子高生が携帯から顔を上げ、俺に気付くと、こちらに近付いて来た。
なんだ?逆ナンか?今は勘弁して欲しいなぁ…
その女子高生は化粧は濃いが、かなりの美人だ。髪は金髪で所々に赤いカラーを入れているミディアムショート。
真っ直ぐ俺に向かってくる。スマホを持っている以外は手ぶらである。
俺の前に立つと、
「180cm、そこそこイケメン。クレカワ君だね?」
と言った。
女の子にしては声が低めだ。
「君、誰?」
と俺が聞き返すと、
「行くよ。タクシーに乗る。」
と、振り返ってタクシー乗り場に向かって歩き始めた。
「俺、人と待ち合わせてるから…」
と言うと、彼女は振り返りもせず歩きながらこう言った。
「僕が南條義継だ。」
…俺は、絶句した。
二人、タクシーに乗り込むと、南條はスマホに何か表示させ、
「ここに行って。」
と、運転手に見せている。
その横で、俺はまじまじと見つめてしまった。
色の白さ、細い首、狭い肩幅、どこをどう見ても女の子だ。
聞きたい…
セーラー服は学校に認められているのか?
なぜ女装を?
下着も女物?
もしかして女装ではなくニューハーフ?
だが、今機嫌を損ねられても困る。
俺は聞きたいのを我慢して黙っていた。
すると、南條の方から口を開いた。
「初めて会う人には質問攻めに合うんだけど、さすがにクールだね、僕には全く興味ない、って顔してるね。」
「あ、いや、それじゃ、聞いていいか?」
「駄目。」
…なんなんだよ。
それ以外に会話のないまま、15分ほど走り、タクシーは止まった。
降りた場所は住宅街のマンションの前で、ロックされているガラス張りの出入り口の横に設置されたテンキーを、南條は幾つか押した。
見回してみたが、探偵事務所らしき看板や表示はどこにも無い。
しばらくしてガラスの扉が自動的に開き、俺達は中に入った。
俺にしてみれば、もう完全に非日常だ。
少し怖くなってきたが、あの橋石の知人でもあるし、好奇心の方が勝り、不安を期待感が押し退けていく。
エレベーターで5階まで上がり、廊下を右に向かう南條に付いていく。
突き当たりのドアに『南條探偵事務所』と表示されていた。
南條がコールブザーを押すと、「どうぞ」という男性の声がインターホンから聞こえ、南條はドアを開けて入っていった。俺も後に続く。
マンションの外観や廊下の清潔さから、事務所も近代的で清潔な感じを想像していた俺は、雑然とした中を見て少し引いた。
まず、タバコ臭い。書類や本がテーブルの上や床にまで所狭しと積まれている。奥の大きめのデスクにはパソコンのモニターがこちらに背を向けて3台並び、モニターの周りにはビールやコーヒーの空き缶が転がっている。
そのモニターの向こう側に、男性が1人座っていた。顔はモニターに隠れて見えない。
その男性が言った。
「今日は何だ?義継。」
「友人が人を探している。相談に乗って欲しい。」
「金は?」
「ない。」
「帰れ。」
「友人の名は紅河淳、高校二年、キョウの紹介。」
「橋石君の?」
「はい。」
男性はモニターの向こうでキーボードをカチャカチャと叩き、何かを確認している様子だ。
俺は、兄弟にしては妙によそよそしい会話に緊張しながら、言葉を挟んでいいものか戸惑っていた。
しばらくして、男性が言った。
「10分だけ無料で相談を受ける。10分過ぎたら10分毎に5千円頂く。」
探偵業の相場など知らない俺は、それが高いのか安いのかさっぱり判らなかったが、実際に依頼をしたら払える額ではない料金になるであろうことは想像できた。
10分で聞けることを、俺は急いで頭の中で整理した。
南條義継が、こちらを見て頷いた。
改めて近くで見ても、女子高生にしか見えない。セーラー服に違和感はなく、やはりかなりの美人だ。
男性が立ち上がり、デスクから出てきた。
「初めまして、南條です。そこのソファーにかけて下さい、紅河淳君。」
「あ、はい。」
『10分』はもうスタートしているのだろうか?
差し出された名刺には、『南條治信 Harunobu Nanjyo』とだけ書かれており、裏には11桁の数字があった。おそらく電話番号だろう。
俺と義継はソファーに座った。
「どういったご相談ですか?」
義継との会話の印象とは打って変わり、柔らかい物腰で、表情は穏やかで優しい。
年齢は若そうである。20代後半か。それでも高二の弟とは10歳は離れていることになるが。
俺は緊張しつつも、話し始めた。
「実は弟が昨日から帰らず、行方を捜しています。弟は公立中学の三年で、朝学校に行き、登校して授業を全て受けているところまでは確認できていますが、下校時刻が不明瞭なのと、その後の足取りが判りません。」
南條治信氏は、無言で聴いている。
数秒考えてから、俺は続けた。
「僕が知りたいのは捜索の手順や方法です。僕の話で不足している情報があれば、質問して頂ければ解ることを全て答えます。」
「弟さんの行方、ではなく、捜索の手順を知りたい?」
「はい。捜索自体を依頼しても、おそらく僕には報酬が払えないと思いますので。」
「捜索代金の話は、まだしていませんが。」
「物事は全てリスクの最大値を予測して対応するべきだ、と考え、10分で得られる情報が今の僕の限界である可能性を考慮し、であるならば『手順』を聞いて自分で捜す…です。」
南條治信氏の目つきが変わった。
「ふむ。警察に届けた方が金もかからないと思うが?」
「えっと、事を荒立てるより、まず自分で探してから、と思いまして。」
「なるほど。では質問。」
治信氏は右手の中指でトントン、と自分のこめかみを軽く二度叩いた。
彼にとってその仕草は、短期的な記憶力を上げるおまじないのようなクセであった。
「弟さんの通学手段と所要時間は?」
「徒歩で約30分。」
「部活動と、校外での習い事、塾などは?」
「今は帰宅部、塾などの習い事は一切なし。」
「弟さん、彼女はいる?」
「知りません。」
「通学路に、車道はある?信号は?」
「車道あり、信号を2つ通ります。」
「弟さんは携帯電話を持っている?」
「持っていません。」
「ご自宅の近くに親戚は住んでおられる?」
「一番近い親戚は電車で2時間かかります。」
「ペットは飼っている?」
「数ヶ月前まで犬がいましたが、老衰で、今はいません。」
「ご両親は健在?」
「はい。」
「ご兄弟、君の他は?」
「僕だけ、2人兄弟。」
「君との兄弟喧嘩は多い?」
「口ゲンカはたまに。暴力を使う喧嘩は小学生の時に一度だけ。」
「最後です。弟さんの趣味は?」
「プラモデル、アニメ、小説、カブトムシやクワガタ、熱しやすく冷めやすいタイプで、広く浅くな印象。」
質問を終えた南條治信は思った。
説明も受け答えも理路整然としており素早い。かなり頭の回転が速いな、この紅河君は。
それに…冷静だ。
「わかった。では捜索お勧めの方法と手順を話す。」
「はい。」
「弟さんのクラスメートへの聞き込みからスタート、最後に弟さんを見かけた人を特定しろ。
次、最後に見かけたという人に、見かけた場所と時間をなるべく正確に聞き出せ。
そしてその時の弟さんの様子を聞き出せ。服装、何を持っていたか、元気そうか、暗そうか、何かを飲んだり食べたりしている様子があったか等、見て気付くこと全てだ。
次、通学路から最も近い派出所に行き、当日の通学路付近の交通トラブルを全て聞き出せ。
次、これまでの聞き込みから、弟さんの意思とは関係なく『移動せざるを得ない可能性』の仮説を立てろ。
つまり、連れ去られることはもちろん、自分からどこかへ行かなければならなくなった事情がないか、も仮定しろ。この時、私情を挟まず最悪の可能性を考えること。例えば、『車にはねられてトランクに積まれた』くらいの可能性は考えろ。
次、仮説の実証に動け。仮説に沿って、そこへ実際に自分も行く。」
俺は、流れと要点をだいたい掴んだが、教えて欲しい肝心な部分が無いような気がし、聞き返した。
「はい、えっと、質問です。」
「ん?」
「聞き込み情報から立てる仮説、『どこに行ったか』ですが、場所をどう絞り込むんですか?」
「ポイントは『電話の無い場所』、あるいは『電話があってもかけられない状況に置かれる場所』だ。」
「もう一つ…」
「ここまで。10分だ。延長しますか?」
俺はあせった。
南條治信氏からの質問、ペットや弟の趣味が捜索とどう関係があるのかが解らなかったからだ。
「いえ、ありがとうございました。」
あとは自分で考えてやるしかない。
「義継さんも、ありがとうございました。」
セーラー服の美少女、いや美少年、義継は黙ってうなずいた。
南條治信氏は、タバコに火を付けながら言った。
「さて、紅河君との相談はこれで終わり。ところでさ、紅河君、携帯電話を持っていないらしいが、どうして?」
「うっとおしいですよ、所構わず電話なんか掛かってきたら。」
「出られる時だけ出ればいいのでは?」
「着信の履歴、残るんでしょ?折り返してくれないだの、返信がないだの、無視しただのと、知人のやり取りを見てると、思うんですよね。」
「何を?」
「馬鹿だな、と。」
「なるほど。」
義継は、兄治信の態度を見ていて思った。
どうやら紅河淳に興味を持ったな、と。
俺と義継はマンションを出て、タクシーを拾い駅に向かった。
タクシーの中で、俺はどうしても気になっていることを義継に聞いた。
「義継クン、男、だよね?」
「ああ、僕は男だ。」
「てことは、ただの女装?」
「まぁ、そうなるかな。でも僕には女装している感覚はない。」
「え?」
「僕は男。で、今着たいファッションがこれ。それだけ。」
解ったような、解らないような…
「魔法使いに似合うファッションだ。」
義継の唐突な言葉に、俺は言葉通りに聞き返した。
「えっと、魔法を使えるのか?」
「ああ、僕は魔法を使える。」
「どんな?」
「教えない。」
「…」
ただの中二病こじらせ系か…
だが、南條義継は悪いやつではない、ということは判った。
帰りのタクシー代は払うつもりだったが、義継が受け取らなかった。
義継と駅前で別れ、母に警察への届け出をもう少し待つよう電話を入れると、芳輝の通う第六中学校へ向かうため、電車に乗った。
その頃、漫画喫茶へ向かう義継のスマホの着信音が鳴った。
出ると、治信だった。
「お前さ、また少しバイトしないか?」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺は地元の最寄駅に戻り、自転車で市立第六中学校へ向かった。
午前11時少し前。
弟の芳輝は三年二組…あ。
「今、授業中じゃん…。」
聞き込みは昼休みにするしかないな。
まてよ、そもそも、俺、学校に入って行けるのか?怪しまれるよなぁ。
「正攻法でいくか。二年前まで通っていた中学だしな。」
紅河淳は、こんな時、あまり悩まない性格である。
真っ直ぐぶつかって、駄目ならまた別の方法を考える。
周到に段取りを組み失敗しないよう計画するタイプではなく、行き当たりばったり的な行動をよく取るが、それは、『嘘や裏表がなければ、必ず何かが助けてくれるものよ』という母の教えに従うところが大きかった。
そして彼自身、どちらかと言えば『人を疑うより信じる』タイプである。
彼をよく知る者は皆、そんな彼の気質が『お人好しで楽天的』に見える。
紅河淳は、先に派出所に立ち寄った。
「すみません、おまわりさん。」
「はい?」
「昨日なんですけど、あ、ちょっと地図、いいですか?」
「はいはい。」
巡査が近辺地図を広げる。
紅河が地図を指差しながら聞く。
「ここから、この六中までの範囲で、昨日、交通事故とか、事故ではなくてもトラブルとか、何かありましたか?」
「ええとね、ああ、通報があったね。」
「どんな?」
「住民の方から、この辺り、変なブレーキ音がしたので見ると、子供が倒れていて、車が走り去るのを見た、と。」
紅河の胸中に嫌なざわつきが起こる。
「それ、何時頃ですか?」
「4時少し前。それでね、現場に駆けつけたのですが、誰も、子供も見当たらなくてね。」
「その子供って、いくつくらいの?」
「通報を頂いた方の話では、かなり小さい子で、女の子のようだった、と。」
女の子?
「あの、その小さい子以外には?誰か近くにいませんでしたか?」
「さぁ、帰宅途中の中学生が何人か歩いていたようですが、詳しくは…。」
「倒れていた子、どこに行ったんでしょうか?」
「それが、自分が現場に着いた時には何の形跡も残っておらず…おそらく、自分で起き上がって家へ帰ったのでしょう。」
「そうですか…。」
紅河は少し考えた。
もし、芳輝がその倒れている子を見たら、どんな行動を起こすか…?
「他に、他には、何か事故は?」
「昨日はその一件だけですね。中学生同士の自転車のトラブルは結構ありますが、たいてい当事者だけで解決させて終わりますしね。」
「そうですか、有難うございました。」
紅河はペコリと頭を下げると、派出所を出て六中へ向かった。
午前11時40分。
六中の正門をスイッと通り抜け、自転車置き場へ自転車を置くと、紅河は職員玄関でスリッパに履き替え、守衛所を除いた。
「居ないし…無用心だな。」
守衛所の窓口に据えてある『来客者ご記入』と書かれた紙に『11:45/紅河淳/紅河芳輝の面会』と記入し、職員室へ向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「近っ」
職員室は職員玄関から数歩である。
二年、三年、と正面玄関から教室までどれだけ歩かされたことか。
俺はノックをし、職員室の引き戸を開けた。
カラカラカラ…
「すみません、失礼します…」
職員室には三名、教員がそれぞれのデスクにいた。
4時間目に担当授業がない先生方だろう。
そのうち二名の教員がこちらを見た。俺に近いデスクにいた男性教員が立ち上がりかけた時、奥の方にいた女性教員が声を出した。
「あら、もしかして、紅河君?」
三年の時に担任だった社会科の橘先生だった。
「あ、どうも。淳です。」
「元気そうね。学校は?」
「ええ、ちょっとご相談がありまして、入っていいですか?」
「どうぞ、こっちへいらっしゃい。」
職員室というと、怒られる時にしか入らない印象があったが、久し振りに見る中学の職員室は記憶より狭く見え、来客という立場の自分が少し大人になったような気分になった。
橘先生は隣のデスクの椅子を引き寄せ、俺に座るように促した。
確か40代前半だと思ったが、彼女の頭髪には白髪が少し混じっていた。
「実は、三年でお世話になっている弟の紅河芳輝が、昨日の放課後から自宅に帰ってなくて…。」
俺は事情を話し、三年二組の生徒に聞き込みをしたいことを告げた。
「それは心配ね…。警察には届けたの?」
「いえ、今日探して見つからなければ届け出る予定です。」
「生徒達に動揺を与えたくないので、担任の高部先生と私が立会いでなら、お願いしてみるわ。」
「よろしくお願いします。」
「ここで待っていなさい。」
そう言うと橘先生は職員室を出て行った。
職員室にいる他の二人の教員は、黙々とデスクで何かの書類に当たっていた。
職員室に戻ってきた橘先生は、給食の終わる1時10分まで、俺との雑談に付き合ってくれた。
ほとんどが高校生活に関する質問攻めであったが、俺の担任であった中三の時の思い出話には、俺自身も気付かなかった裏話があり、意外な発見や感動があった。
「…吉田さんね、泣いて帰ったのよ。紅河君があまりにも冷たいから。ふふふ。」
「え、いやぁ、全然気付きませんでした…。」
「そろそろ、女心にも気を使わないと、ね。ハンサムで背も高くて、モテるでしょう、今も。」
「そうでもないです。」
「紅河君は、少し無表情過ぎるわね。嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか、もっとはっきりしてもいいんじゃないかしら。」
「そう、ですか、はい…。」
なんか説教じみてきた。基本的に年上の女ってのは説教好きだよな…
「あら、給食が終わった頃ね。三年二組は皆教室にいるように伝えてありますから、一緒に行きましょう。」
「あ、はい。」
…てことは、教壇に立って全員にヒアリングかな?それはちとやりにくいな…ま、仕方ないか。
俺はコソコソせずオープンにいこうと心に決め、橘先生に連れられて三年二組の教室へ向かった。
教室では、担任の高部先生から短い説明があり、俺は紹介を受けて教壇に立った。
橘先生は発言せず、隅で椅子に座っている。
「二年前の卒業生、紅河淳です。今、城下桜南高校の二年です。」
「知ってます!桜南サッカー部ルーキー!」
「先輩がいた時代は六中サッカー部、めちゃ強でしたよね!」
「芳輝君、休んでますけど、風邪ですか?」
いくつかの声が返ってくる中、俺は橘先生の顔を見て、うなずき返してくれたのを見ると、事情を話した。
「…それで、芳輝と最後に会ったのは誰か、教えて欲しいんです。」
教室がざわつき始める。
高部先生が言う。
「思い当たる人は、手を挙げて発言してくれるか。」
数人の挙手があり、順番に話を聞く。
「教室で、数学の問題の話をした後、別れました。」
「正面玄関から出て行くのを見かけました。一人だったみたいです。」
「家が近いのでよく一緒に帰りますが、昨日は別々でした。」
「4丁目の信号のところで、子供がひき逃げされるのを見ていて、芳輝君もそこにいました。」
ひき逃げ!?
再び教室がざわめく。
俺は聞き返した。
「それ、もっと詳しく教えて。」
「子供を跳ねた車が、一瞬止まったんですよ。で、芳輝君は、ナンバーをメモってたみたいです。」
「それで?」
「俺、急いでたので、芳輝君が救急車とか呼ぶんだろうなと思って、それ以上は見てなかったです。」
「だって、芳輝は携帯持ってないじゃないか。なんで君は手伝わなかったんだ!」
「紅河君!」
声を荒げてしまった俺を、橘先生が制した。
「あ、いや、すみません。教えてくれてありがとう。」
教室に沈黙が訪れた。
高部先生が立ち上がり、皆に伝えた。
「他になければ、ここまでにしよう。紅河君もご家族も芳輝君のことが心配です。ここでの話は他でしゃべらないこと。変な噂が立つと一大事になりますから。」
俺は改めてクラスの皆に感謝の言葉を述べると、先生二人と職員室へ戻ることにした。
教室を出た直後、追いかけてくる生徒がいた。
先ほど『ひき逃げを見た』と発言していた生徒だ。
「あの、紅河先輩…」
「ああ、さっきは怒鳴ってごめん。ありがとう。」
「いえ、あの、ナンバー、車の…」
「え?」
「俺もはっきり見ていて、その…」
「知っているなら教えてくれるか?」
「その…やばい車です、関わらない方がいいです。」
「どういうこと?」
「俺が言ったって、内緒にしてもらえますか?」
「あ、ああ。」
「駅前に、青星興行ってありますよね、あそこの社用車です。」
「セイセイコウギョウ?ナンバーだけで判るのか?」
「間違いないです。線路沿いの屋根のある駐車場、あそこの『青星興行』って書いてある場所にいつも止まっています。」
「そう、わかった。ありがとう。」
「関わらないでくださいよ、絶対に。」
「なんで?」
「…ヤクザです。」
俺はもちろん、聞いていた橘先生も、高部先生も、息を飲んだ。
「…わかった。よく話してくれた。ありがとうな。」
職員室の前まで戻ると、俺はそのまま教員二人にお礼を言い、職員玄関から出て行こうとした。
高部先生が、
「すぐ警察に届けなさい。危ない真似はするなよ、紅河くん。」
と心配そうに言ってくれた。
橘先生は、険しい表情をスッと解くと、
「解決したら、また来て下さいね。芳輝君も交えて、また話したいわ。」
と言い、にこりと微笑んだ。
「お手数をお掛け致しまして、ありがとうございました。」
俺は頭を下げると、職員玄関を出て自転車を取りに走った。
芳輝は妙に正義感の強いところがあるからな…
厄介なことになっていないといいけど…
俺はよろめきながら自転車をこぎ出し、全力で駅前の青星興行へ向かった。
少し離れて、紅河淳の自転車を追う原付バイクがあった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
まず、車を確かめるか。
俺は線路沿いの屋根付き駐車場に着くと、『青星興行』の文字を視認した。
二桁ナンバー、二桁ナンバー…
あった。確かに停まっている。
呼吸を整えようと努めたが、心臓の鼓動が速くなるのを抑えられない。
どう切り出す?
取り繕っても、ペコペコとした手に出ても、目的を果たせなければ意味がない。
俺は頭の中を整理した。
目的は芳輝を探し出すことだ。
青星興行が交通事故を起こそうが、それを隠そうが、それは関係ない。
芳輝がここへ来たか?ここに居るか?行方を知らないか?
これだけ聞こう。
万が一俺も監禁されるなら…それは芳輝も捕まった可能性が高いという証拠だ。
目的は芳輝を見つけ出すこと!
橋石拓実がここにいてくれたら…
彼の顔が頭を過ぎったが、振り払い、俺は覚悟を決めた。
10数メートル離れた角に、紅河を追っている原付バイクの姿があった。
フルフェイスを外し電話をかけるそのセーラー服姿は、南條義継だった。
「兄貴、紅河クンが青星興行に入るぞ。止めるか?」
電話の相手は兄の治信である。
「青星か、ま、大丈夫だろ。10分して出てこなかったら、お前も行け。」
「はいよ。」
義継は電話を切ると、その場に原付を停め、紅河の動向を見守った。
治信の言った『バイト』とは、紅河淳の追跡だった。
探偵業を営む南條治信は、関わった全ての人間は情報網だ、という考えを持っている。
取り分け、面談した人間の中で『使える』と判断した者には何かしらの形で貸しを作り、後々情報網として活かすこととしていた。
青星興行は駅前ビルの3階と4階を事務所としており、窓口は3階のようだ。
自転車で突っ走ってきた呼吸の乱れは整ってきたが、やはり心臓は破裂せんばかりに打っている。
ビルの階段に足を掛けると、急激に恐怖心が襲ってきた。
「そんな簡単に、人をどうこうしないだろ、いくらなんでも。」
俺は自分に言い聞かせ、震える足を一歩一歩持ち上げた。
エレベーターもあったが、3階で開いた途端すぐ事務所だったら怖いと思い、階段にした。
3階まであがると、小さな踊り場に自動販売機と灰皿があり、すぐ狭い廊下へと繋がっている。
廊下に入ると、『青星興行』と表示されたドアがすぐに目に入った。
俺は弟を探しているだけだ!
意を決し、ドアを開く。
すぐ受け付けカウンターとなっており、女性の事務員が、
「いらっしゃいませ。」
と頭を下げてきた。
普通の会社みたいだ…面喰らっている俺に、女性事務員は続けた。
「お約束でしょうか?」
俺は軽く一呼吸する。
「いえ、急にすみません。中学生の弟が、昨日、こちらに来ていないか伺いたくて…。」
「お名前を頂けますか?」
「紅河と申します。弟は紅河芳輝です。」
「クレカワ様ですね?少々お待ち下さい。」
女性事務員は席を立ち、書類をパラパラとめくると、その書類を持ったまま言った。
「ご来客のリストには、クレカワ様という名はございません。」
「そうですか…あの、中学生の男子、身長172cmくらいの、昨日、ここに来てませんか?」
「昨日の午後でしたら、私がここに居りましたので…学生の方はお見かけしておりません。」
「あの、本当に?」
聞き返す俺に、女性の方は書類を置き、受付カウンターに座り直すと、
「どんなご容姿ですか?」
と、嫌な顔一つ見せず応じてくれた。
「学校帰りのはずなので、詰襟学ラン姿です。」
「確かにお見かけしておりません。学生服の方が来られることはほとんどございませんので、お見かけしたら印象に残ります。ですが、それが午前中でしたら、別の者が受け付けをしておりましたので…」
「あ、いえ、午後です。四時以降です。」
「でしたら、お見えになっていないと思います。」
嘘を言っているのか、本当に見ていないのか、この女性の表情からは判らなかった。
これが大人の応対か。大人の嘘は見抜けないな…経験不足ってやつか。
「そうですか、お忙しいところ、有難うございました。」
俺は頭を下げると事務所を出て、エレベーターを使いビルを降りた。
ものの5分程度だったが、ビルの外へ出るとドッと疲労感を感じた。
空振り、なのか。
さて、どうしたものか…
自転車の方へ考えながら歩いていると、グイっと背中の服を掴まれた。
驚いて振り返ると、女子高生…いや、南條義継だった。
「うお、なに、何でここにいるの?」
「無鉄砲だな。どんな情報で青星に来た?」
「弟の中学で聞き込みしたら、青星興行の…」
「待った。あっちで話そう。」
義継は俺をゲームセンターに引っ張って行った。
「ここならうるさくて会話が聞かれにくい。で?」
問いかける義継に、俺ははこれまで得た聞き込みの内容を話した。
一通り聴いた義継はその場で電話を掛けた。
どうやら兄の治信氏と話しているらしい。
電話を切ると、
「5分待て。」
と言い、義継はテーブル型のゲーム台につっ伏せると、居眠りを始めた。
俺は持て余したが、とにかく治信氏の言った『可能性』の仮説を立てることにした。
小さな子供が車にはねられた。
芳輝はそれを見て車のナンバーを控えた。
同級生の証言から、それが青星興行の車だと芳輝が知った可能性は高い。
その状況で芳輝はどう行動するか?
車を追う前に、まず子供の介抱だろう。
そうだ、その子供をどうする?
家に送り届ける。
その子供が意識不明だったら?
病院に連れて行く。
そうだ、そのどちらかだ。
家に送り届けているなら、今頃とっくに帰宅してきているはずだ。
では病院か?
病院でも、電話くらいしてくるだろう。
ううむ…
仮説を立てたらそこへ行け、か…
ガバッと義継が起きた。
ムームー唸っている携帯に出る義継。
「…うん、うん、ほい。」
義継は俺に携帯を差し出して言った。
「兄貴。代われって。」
俺は義継の携帯を耳にあてた。
「はい、紅河です。」
「南條です。昨日の16時42分、私立堀巻病院に4歳くらいの女児が急患で診療を受けている。目下、身元が判らず、中学生くらいの少年が看病に付いているそうだ。」
「え、はい…」
「堀巻病院て、私立第六中学校から4〜5kmの距離だねぇ。」
「あ、あ、有難うございます!」
俺は携帯を義継に返すとゲームセンターを飛び出し、自転車を取りに走った。
取り残された義継は、再びパタリとうつ伏せになり、居眠りを始めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
堀巻病院に着いた俺は、受付で女児の急患の話をし、面会を求めた。
病室を聞き、入っていくと、6人病室の一番窓際に、教科書を開いて読んで聞かせている芳輝の姿があった。
「お前…」
「あ、兄ちゃん。」
「何で連絡しないんだ!」
「ちょっと、声大きいよ。」
ベッドには、頭に包帯を巻き網ガーゼで覆った女の子が、驚いた顔でこちらを見ていた。
腕にも包帯が巻かれている。見た目、4歳か5歳くらいだろうか。
「どこの子だよ。親は?」
「ちょっと、廊下で話そう。」
そう言うと芳輝は女の子の右肩を優しく撫でると、持っていた教科書を彼女の脇に置き、俺と一緒に廊下へ出た。
俺は、まず家に連絡しなかったことを咎めた。
「出来ないんだよ、病院の電話って。」
「そんなことあるかよ。」
「なんか、『おつなぎできません』て出るんだ。嘘だと思うならやってみなよ。」
「公衆電話は?」
「1円も持ってないし、テレカも持ってない。」
「んじゃ、帰ってこいよ。」
「それが、離れられなかったんだ、あの子から。」
「他人の子だろ、病院に任せて帰るくらい出来るだろ。」
「医療費の請求について聞かれて、判らないって答えたら、警察の人が来て、医療費は市町村で賄う手続きも取れるらしいけど、退院となると公的な身元引き受け人がどうのこうのと言われてさ…。」
「で?」
「警察で身元を調べてるらしいんだけど、その結果を聞くまで離れられなくて…」
「だから何で離れられないんだ?どう転んでもお前には関係無い子だぞ。」
「だってさ、記憶喪失らしくて、まともにしゃべれないんだ、あの子…」
「お前が背負うことか、って言ってるんだ。病院に連れてきただけで充分立派なことしたよ。帰るぞ。」
芳輝はうつむき、納得出来ないような表情をしている。
「んじゃあ、ひとまず、母さんを安心させるためにも、まず電話だ。」
俺は病院の廊下を見渡し、電話を見つけると芳輝の腕を引き、電話を掛けに行った。
「ん?公衆電話じゃないな、これ…」
受話器を取り、自宅の番号を押す。
『只今お掛けになった番号は、お繋ぎすることが出来ません…』
「なんだこれ?」
「ね?掛からないでしょ?」
俺はナースステーションへ行き、廊下に設置されている電話の掛け方を聞いた。
すると看護婦は、
「ピンク電話だから0発信出来ないのよ。外に出て携帯電話で掛けたら?」
と平然とした顔で答えた。
「携帯、持ってないんですけど。小銭が使える公衆電話はありますか?」
「ああ、それなら一階に降りて第一病棟の入り口のところにありますよ。」
「病院の固定電話、お借り出来ないんですか?」
「秘匿回線もあるので、基本的には貸してないです。」
俺は少し腹が立った。
病院なんだから緊急を要する患者も多いだろうに、0発信出来ない電話?じゃあ携帯にも掛けられないってことか?
秘匿じゃないまともな回線電話を各フロアーに据え付けろよ…全く。
公衆電話で、俺は芳輝に電話を掛けさせた。
「…うん、堀巻病院。うん、ごめん。え?俺は全然、うん、うん…」
受話器を置くと、芳輝は、
「母さん、今から来てくれるって。」
と言い、味方となる理解者を得たような表情をした。
「先に病室に行ってろよ。俺はもう一箇所掛けるところあるから。」
と芳輝を行かせ、俺は南條治信氏の名刺を取り出し、そこに書かれている番号に掛けた。
「もしもし、紅河です。南條さんでしょうか。」
「南條です。声が落ち着いてるな。解決したか?」
「はい、有難うございました。病院まで調べて頂いて、あの、費用は?」
「君の情報から調べを付けるまでに4分掛かった。調査料は1分5万円として20万円。だが、初回サービスで無料にしておこう。」
「あ、有難うございます。」
「その代わり、私が困った時には手を貸してくれよ。」
「あ、はい。」
無料にしてもらったことより、たったあれだけの情報で芳輝の居所をピタリと当てた調査力が気になった。
「あの、女の子の急患とか、病院の特定とか、中学生が看病してるとか、何を調べて判るんですか?」
「企業秘密だ。誰でも簡単に判るようなら探偵は要らないだろ。」
「はあ、そうです、ね…。」
「ではまた。忙しい身でね。」
治信氏の電話は切れた。
そうだ、義継クンにもお礼を…
「トゥルルルル…トゥルルルル…トゥルルルル…」
出ない。
「トゥルルルル…トゥルルルル…トゥルルルル…」
出ない。
「…『只今お掛けになった番号は、電波の届かない所に居られるか、電源が入っていない為…』」
ちっ…
夕方になったら橋石にもお礼の電話を掛けておこう。
俺は病室に戻った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
40分程して、母が病院に来た。
時計は午後3時45分を指している。
病室で、芳輝に、これまでの経緯を聞いた。
4丁目の交差点で、赤信号に歩いて入ってしまったこの女の子が走っていた車と接触し、突き飛ばされるようにして歩道へ転がってきた。
車は急ブレーキをかけ一瞬止まったが、そのまま走り去った。
二桁の覚えやすいナンバーだった為、芳輝はメモを取ったが、近くにいた同級生に『ヤクザの車だ』と教えられ、追う気は起こさなかった。
芳輝は救急車を呼ばなければと思ったが、電話を掛ける術がなく、その場でヒッチハイクをして、乗用車で近くの病院へ女の子を運んだ。それが私立堀巻病院。
女の子の身元が判るまで付いていようと思い、自宅に電話をしようとしたが、使える電話が見つけられなかった。
治療を終えた女の子に、看護婦と一緒に名前や住所を聞いたが、女の子はまともにしゃべれない状態で、脳に腫れが見受けられることから、記憶喪失かも知れないと診断された。
芳輝は一度自宅に帰ろうとしたが、離れると女の子が泣き出し、警察の身元捜査が終わるまで付いていることにした…。
母は途中で買ってきたマドレーヌを差し出しながら、女の子に聞いた。
「こんにちは。あなたのお名前は?」
「きょ、きょしゅ、いあい…」
「きょしゅ?」
「いあい、いかい…」
芳輝は表情を明るくし、言う。
「昨日はほとんど声も出せなくて、今日もこんなにはっきり話すのは初めてだよ、母さん。」
母の表情が時折真剣になる。
どうやら母は女の子の口元、動かし方を見ているようだ。
「いかい?」
「いあーい」
「ひ?」
「いあ、ひあい…」
「もう一度言ってみて?」
「ひ、か、い…」
「ひ、か、り?」
母の言葉に、女の子はニコッと笑った。
「あら、ひかり?ひかりちゃんね?」
女の子はニコニコ笑っている。
おおおお、すげえ母さん!
読唇術か!?
俺と芳輝は感動を覚えた。
「何言ってんのよ。2人も育てたのよ、幼児の言葉くらい読めるわよ。」
「名前は覚えてるってことか。」
「そうね、でも苗字が判らないわね…きょしゅ、って何かしらね?」
「記憶喪失って、回復するものなのか?」
「医者の話だと、頭を打って脳が腫れている間、一時的に起こる記憶障害だって言ってたよ。」
「こんな小さいのに、可哀想にね…。」
母の言動を見ていて、母親の、女性の愛情の深さを改めて感じさせられた俺は、この女の子をどうするべきなのか、俺や芳輝が判断するべきではないな、と思った。
「芳輝、あんた昨日お風呂入ってないでしょ。一旦帰って、お風呂入ってちゃんと寝なさい。」
「うん、でも、この子、どうする?」
「私が仮の身元引き受け人になっておくわ。そのうちご両親が見つかるでしょ。」
「わかった。じゃあ、一旦帰る。」
そう言って芳輝がベッドを離れようとした時、女の子…『ひかり』が泣き出した。
「あらあら、気に入られちゃったわね、芳輝。」
「また明日来るから、ひかり。」
芳輝の言葉に泣くのを止めたかと思うと、ひかりはスースーと眠りだした。
芳輝が帰った後、俺と母は治療した主治医と会い、この子の怪我や病状を詳しく聞いた。
そして、もし身元が判明しなかった時どうするか、を話し合った。
「この子はね、多分、芳輝の声が好きなのよ。」
「そうなのか?」
「見てればわかるわ。」
「ふぅん。」
「孤児院じゃ、可哀想ね。身元不明の時は引き取るか!ね、淳!」
「う、うん、まぁ、母さんが良ければ…。」
「何よ他人事みたいに、あんたの妹よ。」
「そんな、まだ警察が調べてるし。俺も調べてみるよ、この子の身元。」
「あら、あんた探偵にでもなったの?」
「芳輝の行方は突き止めただろ。」
口を尖らせる俺に、母は屈託無く笑った。
ひかりが目を覚まし、キョロキョロした後、俺に言った。
「おん、よんで。」
目を覚ます毎に、時間が経つ毎に、ひかりの発言ははっきりしていくようだった。
なるほど、芳輝、この可愛さにはやられるな…。
少年の小さな迷走
【完】
少年の成長を描いたシリーズの第三弾です。
『俺は誰の為に生きているのか?』と疑問を持つ紅河少年、『魔法を使える』と言う女装の美少年、『身元不明の幼女』ひかりちゃん…今後描いていく物語で回収していきたいと思います。