第一章第六節
「あっちゃー、これはまずいな……」
俺は思わず呟いた。
授業も終わった放課後、昼過ぎから空が曇ってたのでまずいな、と思っていたら少し前からどしゃ降りになってしまった。
天気予報では、夕方からところにより雨となっていたので、まあ、降るにしても帰るまでに間に合うだろう、と思っていた。
それがちょっと早くなり、しかもこんなどしゃ降りになるとは思わなかった。
うーん、どうするかなあ。
推古は傘を持ってるみたいだが、やっぱりどれだけ仲がいいと言っても、男女が同じ傘で帰るのはまずいだろう。
いや、俺は別に構わないし、推古も快諾してくれるだろうけど、変な噂が立つのも悪いし。
確か、こういうどしゃ降り雨は長くないはずだ、やむまで待ってるか。
しょうがないなあ。
俺はそんなことを考えながら、とりあえず推古や他の友達にも用事があって残ると言って見送り、机に戻ってくると、そこには傘が置いてあった。
もちろん、俺が傘を持っていない事は俺自身が知っているわけで。
このタイミングとなると、苑子か。
ちょっとファンシーな女の子用の傘だが、まあ、ないよりはマシだ。
これを借りて帰るか。
悪いな、苑子。
傘を手に取り、昇降口へ向かう。
俺は傘を開いてどしゃ降りの中に飛び込んだ。
傘は中心でデフォルメされた猫がごろにゃーんと甘えている、可愛い傘だった。
男が差すには恥ずかしいというか、女子でも高校生が差す傘じゃないぞ、これ。
いやまあ、苑子が差してても何の違和感もないけどな。
よく考えたらあの見た目で忍者だから、唐傘とかでも合いそうか。
まあいい、ちょっと照れくさいが、周りもどしゃ降りで人の傘なんて見てる余裕もないしな。
俺はどしゃ降りの中、跳ね返る雨に足を濡らしながらふと、苑子のことを考えた。
昨日告白され、御庭番から始めようと言われ、実際始めたわけだが。
もっとこう、お友達みたいな何か、それが先輩後輩だからもう少し上下がある感じという程度だと思ってたが、案外本格的に御庭番してるので困る。
正直なところ、昨日の告白にそのままオッケー出したいくらい、いい子だと思う。
見た目はちょっと幼いけど可愛いし、性格もまあ、内気っぽくて純情そうだったしな。
だけど、あんな命を懸けているような告白に、そんな軽い気持ちで応じたら駄目だと思い、誠心誠意の答えとして、よく知らない人とは付き合えない、と言ったわけだ。
これから友達になって、その結果付き合うに至るならそれもいいと思っている。
だからこそ、こんな主従関係みたいな事はして欲しくない。
もっと友達みたいな付き合いをしたい。
主人と御庭番の間には一線がある。
だからこそ、友達が一番いいと思う。
苑子にそう言おう。
これだけはどんなに悲しい顔をされても仕方がない、最後には伝家の宝刀を抜いてでも、友達として付き合いたい。
俺はアーケードのある商店街に入る。
ここならいいだろう。
俺は一旦傘を閉じる。
「苑子、いるか?」
俺が言うと、背後でべちゃん、という音がした。
べちゃん?
「おそばに」
振り返ると、そこには濡れ鼠がいた。
苑子は髪から服から靴までずぶ濡れだった。
「お、おい、お前、何してんだよ?」
「お気遣いなく、傘を一本しか持ってなかった故です」
そう言いながらも、長い髪からはぽたぽたと滴を垂らしている。
こいつの持っていた一本の傘というのは、今、俺の手にあるこれだろう。
「気を遣うわ! 全くお前は!」
俺はカバンからタオルを出して投げる。
汗を拭くハンカチ代わりのタオルなので小さくて、苑子の全身を拭く前に絞れるくらいになるだろうが、顔と髪くらい拭けばいい。
「かたじけありません」
「お前はさ、俺の前に自分を気遣えよ! 風邪ひいたらどうするんだ!」
「滅私奉公こそ御庭番ですが」
「お前が風邪ひいたら、明日の昼飯はどうするんだ! いや、そんなことはどうでもいい、お前が俺のせいで風邪を引いたら、俺が申し訳なく思うだろ」
「お気遣いなく」
「だから! 気遣うって! 言ってるんだよ!」
「痛いです、おやかたさま!」
俺は苑子のこめかみをぐりぐりとしてやった。
拳に絞られた髪がぽたぽたと滴を垂らす。
全く、こいつは。
苑子は制服ごとずぶぬ濡れで、貧相とはいえ女の子の身体をしている苑子の身体に服がぴったりとくっついていて、場所によっては透けている。
ベストのおかげで胸が透けるわけじゃないが、このまま帰すのはあまりにも可哀想だ。
「なあ、お前の家ってどこだ?」
「畑山西町です」
「遠いな、っていうか、反対方向じゃないか。まったく……ちょっと俺の家に来い」
「そんな、畏れ多い」
「いいから来い。ほら!」
俺は苑子を引き寄せて傘に入れ、アーケードから出て歩き出した。
「おやかたさま、そんなに近づくと濡れてしまいます」
ずぶ濡れの苑子にくっ付いているので、俺の服も濡れてくる。
そうでなくても、どしゃ降りで濡れて来てるしな。
「いいんだよ、これくらい」
俺は離れようとする苑子を強引に寄せて、俺の家まで歩く。
俺の家は普通の建売の一戸建てで、周囲の家とほぼ同じ建築方法で建てられてる。
「ほら、入れよ」
「ぎょい……です……」
苑子は不安げに辺りをきょろきょろしながら、玄関に入る。
「上がると濡れてしまいます」
「ちょっとくらいいいから、風呂場に行け。乾燥機あるから使って、その間にシャワー浴びろ」
「おやかたさまの家でそのような事は畏れ多い」
「いいからそうしろ。そうするまで帰さん」
俺が強めに言うと、苑子は黙って従った。
脱衣所まで連れて行って、そこに苑子を入れて、ドアを閉めた。
ま、さすがに服を脱ぐところにいるつもりはない。
俺も着替えてこようかと思った時、中からノックが聞こえた。
「申し訳ありません、乾燥機の使い方が分かりません……」
「分かった、俺がスイッチ入れておくから、お前はシャワーに入ってろ」
「はい……」
まあ、乾燥機はうちには昔からあるが、ない家も結構あるらしいので仕方がないか。
別にボタン押すだけで、電子レンジみたいなもんだけどな。
俺は脱衣所の外で、苑子がシャワーに入るのを待った。
水に濡れた服を脱ぐ音が大きめに響いて来たが、なるべく聞かないようにした。
からから、と風呂の戸を開け、閉める音が聞こえたので、俺はゆっくりと中を確かめながら脱衣所に入る。
誰もいない部屋からは、苑子が近づくと漂ってくる甘酸っぱい香りがした。
おっといかんいかん。
えーっと、あいつが出てきた時用にバスタオルを用意してやって、それから乾燥機の……。
って、乾燥機開けっ放しかよ!
あいつには羞恥心がないのか? いや、あるのは宙吊りふんどし事件で分かってるけどさ。
しょうがないな、俺はなるべく見ないように乾燥機の窓を閉じて──。
いや、よく考えると、ベストとかスカートは一緒じゃまずくないか?
しょうがない、取り出して、別で乾燥させるか。
悪い、苑子、お前の着替え、開けるぞ? 元々開いてたけどな。
俺は、そっと乾燥機を開ける。
中には濡れた苑子の衣服があり、ブラウスとスカートがとりあえず見えた。
その時、ちょうど風呂場からシャワーの音がし始めた。
ここにあいつの脱いだ服があって、あそこには全裸の苑子がいて……。
おちつけおちつけ。
いいか、落ち着けよ、俺。
まずは、落ち着いて、目に見えるスカートを取り出す。
色々絡まっているので、ちょっと振るいながら取り出す。
ぽとん、と落ちたのは、おおよそ女の子の身に着ける衣服じゃない、勇ましいふんどしだった。
あいつ、ふんどしは常着かよ!
あの日だけ、なんか、そういう気分でつけてきたとかじゃないって事か。
まあいい、あいつの下着事情なんて、俺が知ってていい話じゃない。
……上はどうなんだ?
したがふんどしなら、上はサラシか?
いや、そんなことどうでもいいだろ!
女の子のプライバシーに配慮しろよ俺!
今はどうでもいいんだよ。
さて、後はベストを取り出すだけだ。
ベストを取り出すとき、もしかすると、他の衣服が見えてしまうかもしれないが、それは仕方がない。
うん、それは仕方がない。
俺がベストをその中から取り出すとき、それは見えた。
白地に蛍光プリントのブラジャー。
その胸の小さな女の子用のサイズは、まあ、苑子にぴったりだと言っていいだろう。
俺はほっとしたりがっかりしたり色々あったが。ベストとスカートをそこらにかけて乾燥機を回し、部屋を出た。
着替えをして、出てきたあいつにココアでもご馳走しようかと、ポットの電源を入れてから、脱衣所に戻る。
苑子はまだ、シャワー中かどうかを確かめる。
中からは気配を感じない。
まだ脱衣所にはいないようだ。
安心して俺は脱衣所に入──。
「んなっ!」
そこには、苑子がいた。
全裸で俺の用意したバスタオルに頭の水気を吸わせている、つまり、首から下は何一つつけていない状態の苑子が、湯気を発しながらそこに立っていた。
その姿態は中学生前半と言ってもいいくらい幼く、だが、そこかしこで女の子を主張していて、その主張部分は多分、男に見られたら死んでしまいたくなるくらい恥ずかしい部分ばかりだった。
「なんでお前がいるんだよ!?」
言ってから理不尽だと思ったが、そんなことも考えられないくらい混乱していた。
「も、申し訳ありません。勝手に上がってしまいました」
苑子の方も混乱してるようで、そう返してきた。
「いや、悪いのは俺なんだけどさ! さっきまで気配なかったと思ったからさ」
「気配は消していたのです」
「なんでそんな無意味なことを!」
俺は落ち着くために深く深呼吸をした。
すると、苑子が発する湯気を大量に吸って、余計に落ち着かなくなったが。
「とりあえず、ベストとスカートは別で乾燥させようと思ってたから、まだ乾燥させてない。こっちはアイロンでもかけなきゃならないかもしれないが、俺はアイロンがどこにあるかもわからん、すまないな」
「いえ、構いません。帰ってからきちんとしますので、そこは適当で大丈夫です」
苑子はさっきよりは落ち着いた声で言う。
「じゃあ、乾燥機入れ替えるからさ、乾いたのはもう着──」
俺が乾燥機を開けて、中を出すと、俺の手にはふんどしが握られていた。
「…………」
俺は、極力何も考えずに、それを苑子に手渡す。
バスタオルで胸から下を覆った苑子は、真っ赤な顔でそれを受け取る。
俺はそっとベストとスカートを乾燥機に入れ、適当に回して、無言で脱衣所を出た。
俺が溜息を吐いたと同時くらいに、中からも溜息が聞こえてきた。
その後、出てきた苑子にココアを飲ませてやったが、元々口数の多くない苑子が、ほとんど無言になって、俺もほとんど喋らなかったから、時だけが静かに過ぎた。
「あのさ──」
静寂を恐れる俺は、とりあえず口を開いた。
「俺は別にお前に仕えてもらおうとか、そんなことは考えてなくてだな」
「そんな、一日でお役御免ですか!」
苑子は悲しそうな顔をする。
「いや、そうじゃなくってだな。俺はどっちかというともっと友達みたいに付き合いたいんだよ」
「それは畏れ多いです」
「いや、畏れ多くてもそれでいいんだよ。多少図々しい方が俺はいいと思うぞ?」
「…………」
小さな苑子は、俺をじっと見る。
表情には乏しい子だが、考えていることは何となく分かる。
この子は、男女の友達という愛情表現がどんなものかよく分からないんだろう。
だから自分が分かりやすい御庭番という方法で、俺への愛情を表現しているんだ。
だったらそのままでいい、だが、俺はこいつに友達を教えてやらなければならない。
そんなことを考えているうちに、時間は過ぎ、苑子は帰っていった。
苑子が御庭番になって、まだ一日、あまりにも濃厚すぎて、かなり疲れた。




