第一章第四節
苑子の家系は昔は代々御庭番を勤めていたような、由緒正しい家系なんだそうな。
そして、その家系は今でも続いており、他にも現存する忍者の家系とともに、暗躍しているそうだ。
彼女の親父さんも現役で忍者らしい。
どこでどう活躍してるんだろう?
まあ、とにかく、そんなわけで昨日は少し話し込んでから別れて帰って来たわけだが。
御庭番、か。
苑子はやたらやる気ではあった。
が、もちろん俺は苑子に何かをさせるつもりはない。
苑子が俺に望んでいるのは俺に仕える事じゃない、いつも俺の近くにいたいってだけだと思う。
むしろ、苑子がいつも俺のそばにいて、俺が何をしてやれるかを考えていた。
俺にできる事なんて限られてるけどな。
そんなことを考えながら、その翌日、いつも通り登校する。
昇降口でいつものように上履きに替える。
「……ん?」
上履きに違和感があった。
なんだか暖かい。
いや、直射日光が当たって暖かいとか、そういう感じじゃなく、なんだか人肌のような温もりがあった。
推古の悪戯でなければ、心当たりは一つしかない。
これはもしや奴か。
奴なのか?
「……苑子、いるのか?」
俺は何もない空間に呼びかけてみた。
「おそばに」
すると、俺の背後からすとん、とどこかから飛び降りたような音がして、苑子の声が聞こえた。
何なんだこの本格的な御庭番!
「えーっと、お前、俺の上履きに何かしたのか?」
「おやかたさまがお越しになるまで、某が暖めておきました」
「どうやって?」
「胸に入れて」
「秀吉かよ! 藤吉郎かよ!」
俺は思わず突っ込んでしまった。
「つか、直じゃないだろうな?」
「直ですが?」
「直かよ! お前は女なんだから、その、色々あるだろ!」
「ご安心を、そんなにありません!……くすん」
苑子はえへんと、ない胸を強調する。
そして、すぐにへこんだ顔になり、泣きそうになった。
自分で言っといて自分で落ち込むなよ。
「……まあいい、その、おやかたさまって俺の事か?」
「もちろんです、某のお仕えするおやかたさまです」
至極真面目な表情で、苑子が言う。
「いや、普通に名前じゃ駄目なのか?」
「お仕えする主をお名前呼ぶなど畏れ多い!」
いや、だから、お前、畏れ多くもそいつと付き合いたいって言ってたんだぞ?
「まあ、いい。別に履物を暖める必要ないから」
「ぎょいです」
苑子はあくまで御庭番のようにそう返事をした。
なんかいろいろ文句言ってやろうかと思ったが、いつの間にか消えていた。
何なんだあいつは?
どこに控えてたんだ?
まあ、呼べば出て来るんだろうけど、呼ぶほどの用でもないし、黙っていよう。
俺はぶつぶつ言いながら、昇降口を後にした。
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「じゃ、いつも通りこの列から和訳をやってもらうぞ」
英語の大久保がそんなことを口にした。
やばい、やり忘れてた。
俺は背筋が冷たくなるのを感じた。
大久保は授業では教科書で教え、毎回その部分を問題集から宿題にしている。
主に単語の和訳なのだが、これがなかなか難しい。
辞書で調べれば一発なのだが、辞書がなければまず分からないような問題だ。
そして、俺は面倒なのでいちいち辞書なんて持ち歩かない。
いつもなら前の休み時間までに推古から辞書を借りて調べておくのだが、それをすっかり忘れてしまっていた。
これからじゃ辞書を借りることも出来ない。
ここは素直に謝るしかないか……。
「次、四谷。この文を和訳してくれ」
俺は諦めて立ち上がる。
出来る限りやるしかないか。
「えーっと、彼は風呂の水を……えっと……」
分からない、当たり前だが、メインとなる動詞が分からない。
「やってないのか? しょうがないなあ、もう少しだからヒントでも出そうか」
大久保が少したるそうに言う。
いや、もう怒られて終わりでいいや、と諦めたのだが、ヒントを出されると聞いてしまうのが人間ってもんだ。
「例えばお前が、トイレに行って大をした。その後何をする?」
分かんねえよそんなヒント!
何なんだよ、分からないで怒られた方がマシだろ、そんなドヤ顔でヒントなんか言うなよ?
「ん?」
もう一度問題集を見ると、そこには小さく答えが書いてあった。
あれ? この問題ってやってたっけ?
いや、そんな覚えはないんだが。
前の授業であらかじめやったか?
「どうした、四谷?」
「あ、はい」
考えてる時間はない、この答えでいいや、答えるか。
「見る!」
俺はそこに書かれていた答えを大きな声で自信たっぷりに読んだ。
「…………」
しん、となる教室。
大久保もクラスメートも一瞬唖然とする。
その後、教室が爆笑に包まれる。
え? え? なんだ?
「い、いや……見るよな……うん……」
必死に笑いをこらえているが大久保の声は震えていた。
待て、何でみんな笑ってんだ?
あ! 大久保のヒントだ!
「例えばお前が、トイレに行って大をした。その後何をする?」
「見る!」
いや、見るよ! 見るけど違うんだよ! ここに書いてあったのを読んだんだよ!
そりゃ、みんな笑うだろう。
大久保もずっと笑ってるし。
「四谷、宿題はして来るようにな」
やっとおさまって来たので大久保が言う。
「あ、はい、すみません……」
俺はそう言って座る。
俺の顔は真っ赤だ。
大久保がその問題の答えと解説をし始める。
俺は真っ赤な顔でそれを聞いていた
ちなみに答えは「流す」だった。
謝った方が良かったじゃないかよ! どうせ怒られたし!
何なんだ、誰の悪戯だこれ!
俺は問題集に書かれた文字をじっと見る。
ん? この可愛い文字は見覚えがあるな。
えーっと、ああ、あれだ、ラブレターの文字だ。
って事はこれ、苑子かよ。
あいつ、後で呼び出して叱ってやる!
授業が終わり、休憩時間に入る。
俺は教室から出るまで三回くらい、「見るよな」とからかわれたが、適当にあしらって外に出る。
俺は廊下を少し歩いたところで止まる。
「苑子、いるだろ?」
「おそばに」
すとん、と音がして俺の背後に気配が現れる。
「さっきの授業の時、問題集に答えを書いたのはお前だな?」
「はい、事前に入手した情報によると、本日おやかたさまが当たることになっておりましたのに、問題を解いておられないご様子でしたので、某が代わりに解きました」
「そういうのは、気付いたら俺に教えてくれ」
おそらく俺だけでは解けなかっただろうが。推古に聞くなり辞書で引くなり出来たはずだ。
「ですが、おやかたさまのお手を煩わせるのも心苦しく」
「なあ、苑子、お前何年だっけ?」
「一年生です」
「俺は二年だ。しかもあの問題はかなりハイレベルなんだぞ?」
「はい、とても難しかったです」
難しいも何も解けてないじゃないかよ。
「背伸びするな。そんなことはしなくていい。あと何で『見る』だったんだよ?」
「はっ、分からなければとりあえず『見る』と書いておけばいいというのが某の勉強法です」
「勉強じゃねえよそれ! 間違ってたし恥をかいたぞ?」
「そうですか……」
苑子がしょんぼりしたように項垂れる。
なんだか、犬を叱った時みたいな気分になるな。
叱らなきゃだめだが、叱ると可哀想みたいな。
俺はだが、慰めの言葉一つも思いつかなかったので、そのまま廊下を後にした。




