氷の覇王の心配
早朝、廊下の掃除をしていたディーナは王の姿を見つけ、駆け寄った。
「陛下!」
覇王はいつもの如くの仏頂面で振り返ったが、ディーナだと分かると眉間の皺が少し和らいだ。駆け寄ってくるディーナの姿は尻尾を振る犬のようだ。
「ディーナか。どうした?」
「あの、陛下からいただいたクリームのお陰で手が随分良くなりました!ありがとうございます」
嬉しそうに両手を見せてくるディーナに王は抱き締めたい衝動が溢れた。だが、理性が必死に制止し、ひとまず落ち着く。
自分の中で葛藤し、黙っている王を見てディーナはハッとした。
「す、すみません!そんな用事でお呼びしてしまって!す、すぐ仕事に戻ります!!」
慌てて逃げ出そうとするディーナの手首を王は反射的に掴む。違うと言おうと思ってのことだ。だが、目を丸くして振り返ったディーナだが、王自身も目を丸くし、ディーナの手首を見る。
「何だ・・・これは・・・」
「へ?」
「何故こんなにも細い」
王はディーナの手首を握った手を視線の高さにして問う。何故と問われても、その答えを持っていないディーナは動揺する。
「え・・・あの・・・ 」
「食事はちゃんと摂っているのか?」
「い、いつも陛下と一緒にいただいてます・・・」
「働きすぎか?」
「いえ。マリアさんの半分です」
「じゃあ何だ」
何だと言われても分からないディーナは思わず泣きそうになる。それに気付いた王はパッと手を離した。泣かせたい訳ではないし、泣かれては困る。その後、言葉を発することも、何か行動に移ることも出来ず、重苦しい沈黙が流れる。その時まさに助け舟と呼べる声がしたのだった。
「おやおや・・・お2人でどうなされたのですか・・・?」
「「マリア/さん」」
年のわりにしっかりとした足取りの最年長メイドの彼女が現れ、2人共あからさまにホッとする。
「ディーナさん。メイドのルイーズが貴女のことを探していましたよ。石鹸を作られるとか?」
「あ!そうなんです!石鹸を手作り出来ると申し上げたら是非教えて欲しいと仰ってくださって・・・」
「それは素敵ですねぇ・・・。ルイーズはお風呂場の方にいらっしゃいましたよ。行ってあげてください」
「すぐいきます!」
ありがとうございます!と言って、ディーナは小走りで風呂場の方に向かった。それを見送った後、開いているのか閉じているのか分からない瞳を王に向ける。
「何かお悩みですか?」
「・・・マリア。手を」
マリアは迷うことなく王に手を差し出す。王はその手をじっと見つめた後呟いた。
「お前の手も相当荒れているな・・・」
「今更何をしようと変わりません。お気になされないでください」
「手首も枝のようだ・・・」
「上手い表現ですねぇ」
マリアはホッホッホッと笑うが、内心、女性のお心には注意を払っていただくよう申し上げるべきですかねぇ・・・と呟いた。
「・・・お前の手には気付いていたのに、薬をやったのはディーナだった」
「それでいいのですよ。こんな年寄りを気にかけるより、若い彼女を見ていてあげてください」
「だが、お前は俺の母も同然の大事な臣下だ」
「そのお言葉だけで光栄の至りと存じます」
マリアはうやうやしく頭を下げた後ニッコリと笑う。
「悩んでおいでなのですね」
マリアの言葉にピクリと肩を跳ねさせる王。王は慣れてしまえば案外分かりやすい方だ。
「けれど、その悩みの最初の道も分らなければ出口の道も分からない。そんなお顔をされております」
王が何故分った・・・という表情で見つめれば、マリアは優しく微笑んだ。
「存分に悩まれてください。間違ってもよいのです。軌道修正をする時間は十分にあります。それがまた勉強になります」
「・・・そうだな」
「人生日々勉強でございますよ」
「ありがとう。マリア」
「どういたしまして」
王はそう言えばありがとう、ごめんなさいなどの言葉もマリアに教わったなと思い出した。この2つは魔法の言葉なのだと。
『ありがとうとごめんなさいをちゃんと言える人はとても偉い人なのです。そして、ごめんなさいを言えた人を許してあげる寛大な心を持つ人も大事です。この言葉を使いこなせる人は・・・そうですね・・・最近の王子達の言葉をお借りするなら・・・最強ですよ』
「お前には世話をかけてばかりだ」
「そのお世話をさせていただくのが私達の仕事ですから。いつでもご相談ください。陛下」
マリアは失礼しますとその場を後にした。
王は執務室に向かいながら自問自答を繰り返す。
家族同然のマリアよりディーナを気にする理由は何だ?最近よく共にいるからか?いや、共にいる時間はマリアと大して変わらん。それにマリアの方がずっと長く共にいる。
マリアとディーナに対する感情のこの違いはなんだ?何故違う。
眉間の皺を深く深くしているとポンと肩を叩かれハッと我に返る。
「陛下。羽ペンのインクが落ちそうですよ」
マルドアがそう言って書類と羽ペンの間に手を入れてくれている。王は慌ててインク瓶に羽ペンを戻す。そう言えば執務中だったと思い出した。
「最近上の空が多いですね。何か悩み事ですか?」
「・・・お前にも分るのか?」
「何年お傍で仕事をさせていただいていると?」
苦笑するマルドアに王はむ・・・と唸る。もしかしたら自分は分かりやすいのだろうか。
マルドアは一つ息を吐いた後口を開く。
「ディーナのことでしょう」
ガタンッ!
王が動揺のあまり机を揺らし、倒れそうになったインク瓶をマルドアが支える。
「な・・・何故・・・」
いつもほとんど表情の変わらない王の動揺した表情にマルドアはこれは珍しいと心の中で感動していた。
「ディーナが来てから陛下は変わられました」
「変わった・・・?」
「いい方にです」
マルドアはインク瓶を戻し自分の仕事をしながら言葉を続ける。
「今までは本当に触れれば切れる刃の如しでしたが、今はその刃も鞘に納まった状態です。勿論すぐに抜けますがね。簡単に申し上げれば『丸くなった』という表現がピッタリでしょうか?」
「丸くなった・・・だと・・・?」
「陛下の隈もなくなり、我々は喜んでおります。こんな雑談を以前したことがありましたでしょうか?」
思い返してみると確かに覚えがなく王はなるほど・・・と口元を片手で覆う。
「私用で物を買われることが滅多になかった陛下が手の塗り薬を買われた。しかも無意識のご様子でしたね。手荒れに効くと聞いた途端食いついて。誰が驚いたって商人が一番驚いていましたけどね。商品を説明する声が震えていましたから」
「・・・そんなに必死だったか?」
「ただでさえ鋭い瞳であられますのに射殺しそうな目でずっと商人の話を真面目に聞いてらっしゃいましたから、商人は泣きそうでしたよ」
振り返ってみると確かに涙目だった気がする。奴には悪いことをした・・・。
「王は最近だけで今までなかったことをされています。例えば寝室に人を入れる。まあ、ディーナはそのために呼ばれたのですから当然ですがね。そして共に寝る「おい。何故知っている」
「皆知っていますよ。王が起きださず仕事をしないのなんて異例中の異例でしたから皆何事かとそっと王の部屋をのぞきこみましたから」
王は片手で顔を覆って肘をついた。
「ですが、そんな異例のことに私共は喜んでいるのです」
顔をあげ、微笑んでいるマルドアに王は目を丸くした。
「王だって人です。欲があって当然だ。しかし陛下は王という国を統べる立場にある。だから私欲を捨ててこられた。そんな陛下が人として当然の欲を見せられ始めた。それは私達にとって嬉しいことなのです」
王には何が嬉しいことなのかさっぱり分らなかった。
「分からないって顔されていますね」
言い当てられ驚く。
「それだけ我々が王を敬愛しているということですよ」
「・・・ありがとう」
王の感謝にマルドアは満面の笑顔を浮かべた。