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短編(異世界など)

婚約者を奪われたので、他人の婚約を壊す仕事を始めました

作者: みき
掲載日:2026/08/30

  破談令嬢の誕生



「リゼット。君との婚約を、解消させてほしい」


 王城の夜会の片隅、噴水の音に紛れるくらい小さな声で、レオンハルト・グレイヴス侯爵令息はそう言った。その腕には、わたしの従妹のミレーユがしがみついていた。


「僕たちの婚約は、家同士が決めたものだ。だが僕は、本当の愛を見つけてしまったんだ」


 ミレーユは涙ぐんでいた。上手な泣き方だと思った。まつげが濡れて、頬に落ちる前に指で拭う。あれは鏡の前で練習した動きだ。子どものころ、隣で見ていたから知っている。


 わたしは十七歳で、その夜、五年続いた婚約を失った。


――けれど、わたしが失ったのは婚約者だけではない。


 この国において、貴族の婚約は「契約」だ。教会と王室の登記所に写しが保管され、双方の家格・持参金・領地の水利権・将来生まれる子の相続順位までが条文になっている。恋ではなく、書類なのだ。


 だから解消するには、代償がいる。


 違約金。名誉の毀損。婚約歴という消えない傷。一度婚約を解かれた令嬢は、次の縁談で必ず値切られる。


 レオンハルトは、その代償をわたしに払わせるつもりだった。「性格の不一致」――そう書けば、非は両成敗。侯爵家は違約金を半分に値切れる。伯爵家のわたしは黙って呑むしかない。そういう筋書きだった。


 わたしは三日三晩、家の書庫にこもった。


 そして五年前に交わされた婚約契約書の、第九条の但し書きを見つけた。


《婚約期間中、両家の当主の同意なくして、当事者は第三者と私的な文通を行ってはならない。これに反した場合、違反者側の一方的責による解消とみなす》


 レオンハルトとミレーユの手紙は、二年分あった。ミレーユは自慢したくて、そのうちの何通かをわたしに見せていたのだ。


 ――違約金は、満額。しかも解消理由の欄には、《一方的責:グレイヴス家》と記された。


 署名の日、レオンハルトは震える手でペンを取り、それから憎々しげにわたしを見た。


「君は……こんな女だったのか」


「ええ」わたしは微笑んだ。「五年も婚約していたのに、ご存じなかったんですね」


 これがすべての始まりだった。


 半年後、わたしは自分の名前に新しい呼び名がついていることを知った。


《破談令嬢(はだんれいじょう)》。



  最初の依頼人



「あの……本当に、婚約を、やめさせてくださるんですか」


 アルディン伯爵家の応接間で、セレナ・ホルト男爵令嬢はカップを両手で握りしめていた。十六歳。栗色の髪。指先が白くなるほど力が入っている。


 わたしは向かいに座り、羽根ペンを取った。


「まず訂正しますね。わたしの仕事は『婚約をやめさせること』ではありません」


「え」


「婚約解消の相談役です。壊すかどうかを決めるのはあなたです。わたしは、壊すべきかどうかを見極めて、壊すと決まったなら、あなたの家が損をしないように壊す。それだけです」


 セレナは目を丸くして、それから少しだけ肩の力を抜いた。


「では、ご相談を。お相手は」


「トビアス・ホルト……いえ、トビアス・レイン男爵令息です。隣家の。三つ年上で、生まれたときから知っていて」


「幼馴染ですね」


「はい」セレナはうつむいた。「両家の父が、去年、婚約を決めました。領地が隣り合っていて、水車小屋を共同で使っていて、その、便利だから、と」


「あなたは、彼が嫌いですか」


「まさか!」彼女は跳ねるように顔を上げた。「トビーは優しいし、面白いし、わたしが木から落ちたときは背負って帰ってくれたし、いまでも困ったら真っ先に相談します。大好きです」


「では、なぜ」


 セレナはしばらく黙って、それから、消え入りそうな声で言った。


「――手を、つないだんです。婚約が決まった日に。そうしたら」


「そうしたら?」


「弟と手をつないでいる気がして、二人とも、笑ってしまって。笑ってから、二人とも泣きました」


 わたしは羽根ペンを置いた。


 こういう依頼が、いちばん厄介だ。憎しみがあるほうがよほど簡単なのだ。憎しみには証拠が残る。けれど「家族にしか思えない」には、条文にできる違反が何ひとつない。


「セレナ様。ひとつ提案があります」


「はい」


「三十日、会わないでください」


「……えっ?」


「婚約契約に《冷却条項》を差し込みます。両家の合意のもと、三十日間、文通も面会も禁じる。これは珍しい条項ではありません。遠征に出る騎士家では普通に使われます」


「そんなことをして、何になるんですか」


「試すんです」わたしは言った。「三十日目に、あなたが彼に会いたくてたまらなくなっていたら――それは恋です。婚約は続けるべきです。三十日目に、彼が元気でいるならそれでいいと思えたら――それは家族です。そのときは、わたしが全力で壊します」


 セレナは長いこと黙っていた。


「……こわいです」


「ええ。だから確かめるんです。結婚してから確かめるより、ずっと安いですから」


 三十日後、セレナとトビアスは並んでうちの応接間にやってきた。


 二人とも、よく寝た顔をしていた。それが答えだった。


「僕たち」トビアスが頭を掻いた。「一回も、会いたいと思わなかったんです。……いや、思ったんですけど、それは、『あいつ最近どうしてるかな』で、それだけで、満足で」


「毎晩、よく眠れました」セレナが言った。「婚約してからずっと、眠れなかったのに」


 わたしは書類を三通、机に並べた。両家の当主用、教会用、登記所用。


《合意による解消。双方に責なし。持参金は返還、水車小屋の共同使用権は現状を維持》


「両家の縁は切りません。切る必要がないので。ただ、婚姻の予約だけを消します」


 トビアスが、ぽかんとした顔で書類を見つめた。


「これ……全部、僕らが困らないようにできてる」


「当然です」わたしはペンを差し出した。「わたしは婚約を壊す人間であって、人生を壊す人間ではありませんから」



  結ばせる男



 その三日後、うちの屋敷の門を叩いた男がいた。


「アルディン伯爵令嬢。破談令嬢にお目にかかりたい」


 わたしが応接間に降りていくと、そこには背の高い男が立っていた。年は二十四、五。仕立てのいい紺の上着に、王室の紋章入りの徽章。栗色の髪を几帳面に撫でつけていて、目だけが妙に人懐こい。


「ユリウス・ヴェイルと申します。王室公認縁談仲介人」


 わたしは思わず笑ってしまった。


「ああ。天敵ですね」


「その認識で結構です」


 彼は帽子を脱がずに、一枚の紙をテーブルに置いた。ホルト家とレイン家の婚約契約書の写しだった。


「この縁談を組んだのは、僕です」


「あら」


「そして君に壊された」ユリウスは椅子に座り、まっすぐわたしを見た。「単刀直入に言います。君は縁談を壊しすぎだ」


「あなたは結ばせすぎです」


 わたしは即答した。彼が一瞬、目を見開いた。


「この半年で、あなたが成立させた婚約は二十七件。うち六件が、当事者の年齢差が十五以上。四件が、片方が一度も相手と会わずに調印しています。あなたは書類の上で人を並べているだけです」


「――調べたな」


「天敵ですので」


 ユリウスはしばらくわたしを見て、それから、肩を落とした。すとん、と。悔しがるでもなく、怒るでもなく。


「その通りだ」


「え」


「僕は今まで、九十九組を結んだ。そのうち三組が、二年以内に離縁している」彼は指を三本立てた。「三組とも、僕が『家のためになるから』で押し切った縁談だ。僕は三人の人間を、書類の上で不幸にした」


 彼は懐から分厚い手帳を出した。開くと、細かい表がびっしり書き込まれている。


「これは僕が十年かけて作った相性の記録です。会話の速さ、笑いどころ、朝に強いか夜に強いか、金の使い方、沈黙が続いたときにどちらが先に口を開くか。……僕は誰でも結婚させたいわけじゃない。結んだあとに、二人がちゃんと幸せでいられる縁を選びたいだけだ」


 わたしは、その手帳をじっと見た。


 ホルト家とレイン家のページには、赤い字で追記がされていた。


《要再考。幼少期の共有時間が長すぎる可能性。ただし親の圧力が強く、僕には止められなかった》


 ――止められなかった、と書いてある。


「あなた、気づいていたんですね」


「気づいていた。でも僕には壊す権限がない」ユリウスは苦い顔をした。「王室公認というのは、そういうことです。僕が『この縁談はやめるべきだ』と言えば、両家の顔に泥を塗ることになる。結ぶことしかできない仕事なんですよ、これは」


 彼は帽子をようやく脱いで、テーブルに置いた。


「だから、君に会いに来た」


「……何のために」


「組みませんか」ユリウスは言った。「僕には壊せない。君には結べない。だが二人でなら、両方できる」


 わたしは笑った。今度は、少しだけ本気で。


「お断りします。あなたのことがまだ嫌いですので」


「結構」彼は嬉しそうに立ち上がった。「じゃあ次の依頼で、また会いましょう」



  殴られる青年



 次の依頼人は、夜に来た。


 裏口から、外套のフードを目深にかぶって、痩せた青年が入ってきた。フードを外すと、頬に黄色く変色した痣があった。


「アルヴィン・ケール子爵令息です」


 十九歳。婚約者は、伯爵家のヴィオラ・ダントン令嬢。家格は向こうが上。持参金も向こうが多い。


「……いつからですか」


「婚約して、二月目からです」アルヴィンは膝の上で拳を握った。「最初は、物を投げるだけでした。今は」


 彼は袖をまくった。腕に、火傷の痕が三つ並んでいた。


 わたしは息を吐いた。ゆっくりと。


「解消しましょう」


「無理です」アルヴィンは首を振った。「言ったんです、父に。そうしたら――『男が女に殴られたくらいで何を言う』と。使用人にも笑われました。ダントン家に知られたら、うちの領地は……」


「アルヴィン様」


 わたしは彼の言葉を遮った。


「婚約契約書の第七条を、ご存じですか」


「え」


「この国のすべての婚約契約に共通する定型条項です。《両家は、婚約期間中、相手方当事者の身体および名誉の安全を保障する義務を負う》。……あなたが殴られていることは、あなたの恥ではありません。ダントン家の契約違反です」


 アルヴィンが、ゆっくりと顔を上げた。その目に、初めて何かが灯った。


「証拠がいります」わたしは続けた。「医師の診断書。使用人の証言。それから――ダントン家に、こちらが黙って引き下がらないと信じさせるだけの、後ろ盾が」


 そこで、わたしは自分の言葉に詰まった。


 伯爵家の、婚約を破棄された、二十歳の娘。それがわたしの後ろ盾のすべてだった。ダントン家は、笑って握りつぶすだろう。


 ――そのとき、わたしは思い出した。紺の上着と、王室の徽章を。


 翌朝、わたしは生まれて初めて、自分から手紙を書いた。


《ヴェイル様。壊すのを手伝ってください。リゼット・アルディン》


 返事は三時間後に来た。手紙ではなく、本人が来た。


「読みました」ユリウスは玄関で外套も脱がずに言った。「診断書は王立医院で取ります。院長は僕の伯父です。使用人の証言は、ダントン家を辞めた者から取ったほうがいい。名簿は登記所にある。それから」


「それから?」


「僕が同席します」彼は静かに言った。「王室公認縁談仲介人が『この婚約は解消が妥当である』と証言すれば、ダントン家は突っぱねられない。……ようやく、この徽章の使い道が見つかった」


 三週間後、ダントン邸の大広間で、わたしたちは書類を突きつけた。


 ヴィオラ・ダントンは、青ざめた顔でそれを見ていた。十八歳。細い首。整った顔立ち。彼女はわたしを睨んで、それから叫んだ。


「あの人が悪いのよ! 何を言っても黙ってるんだもの! 何を言っても、何を投げても、黙って、笑って、そんなの、そんなの――」


 彼女はそこで言葉を切って、うずくまった。


「――お父様と、同じ顔をするんだもの」


 大広間が、静まりかえった。


 ダントン伯爵が咳払いをした。誰も彼のほうを見なかった。


 わたしは書類の束から、一枚を抜いた。事前に用意しておいたものだった。


「ヴィオラ様。あなたの分もあります」


「……え」


「王都南の療養院への入院申請書です。心を病んだ貴族が、社交界から一年離れて療養するための制度で、名誉は毀損されません。費用はダントン家持ちですが、あなたのお父上には、断る理由がないはずです。――ねえ、伯爵様?」


 ダントン伯爵は、何も言わなかった。それが答えだった。


 帰りの馬車で、ユリウスがぽつりと言った。


「……君は、あの令嬢を救う準備までしていたんだな」


「別に。彼女を放っておいたら、アルヴィン様の次の誰かが殴られるだけです」わたしは窓の外を見た。「わたしは婚約を壊す仕事をしています。人を壊す仕事はしていません」


 ユリウスがこちらを見ている気配がした。わたしは振り向かなかった。


「……ヴェイル様」


「ユリウスで」


「ユリウス様。ひとつ、訂正します」


「なんです」


「あなたのことは、もう嫌いではありません」


 長い沈黙のあと、彼が小さく笑った気配がした。わたしはやっぱり、振り向かなかった。



  ほどけない縁



 最後の依頼は、二人分だった。


 クレメンス・アーレンス侯爵令息。二十二歳。次期当主。文句のつけようがない優男。


 そして、その婚約者、アニエス・ボード伯爵令嬢。二十歳。


 二人は並んで応接間に座り、まったく同じタイミングで頭を下げた。


「「婚約を解消させてください」」


 そして、まったく同じタイミングで顔を上げ、お互いを見て、目を丸くした。


「……アニエス嬢も?」


「……クレメンス様も?」


 わたしは羽根ペンを取った。この仕事を始めて、いちばん面白い瞬間だった。


 事情を聞くのに、二時間かかった。


 クレメンスには、五年連れ添った恋人がいた。名をノアといった。近衛騎士団の、剣の腕だけで平民から騎士になった男。


「……男です」クレメンスは、机を見つめたまま言った。「軽蔑してくださって構いません。でも、僕はアニエス嬢を騙して妻にすることだけは、したくない」


 アニエスのほうは、机の下で何かを握りしめていた。促すと、彼女はそれを差し出した。押し花の標本帳だった。ぎっしりと、几帳面な文字で分類が書き込まれている。


「王立学院の植物学科に、女性の聴講制度ができたんです」彼女は震える声で言った。「三年前から出願しています。三年連続で家に握りつぶされました。……わたしは、結婚したくないんじゃありません。いまはまだ、したくないんです」


 わたしはペンを置いた。


 これは、壊せない。


 アーレンス侯爵家には跡継ぎがいる必要がある。ボード伯爵家は借財があり、この縁談の持参金と引き換えの融資で成り立っている。どちらの家も、この婚約が消えたら傾く。当事者二人が望んでも、家が死ぬ。


「――正直に申し上げます」わたしは言った。「壊す方法が、ありません」


 二人の顔が、同時に曇った。


 そのとき、応接間の扉が開いた。


「じゃあ、結び直せばいい」


 ユリウスが立っていた。手には例の分厚い手帳。彼は勝手に椅子を引いて座り、勝手にお茶を注いだ。


「勝手に入らないでください」


「君の執事に招き入れられました。僕はもうこの家で顔パスです」彼は手帳を開いた。「話は廊下で全部聞いた。クレメンス卿、アニエス嬢――お二人は、お互いのことをどう思っています?」


 二人は顔を見合わせた。


「……嫌いでは、ないです」アニエスが言った。「むしろ、話しやすい方です。わたしの押し花の話を、三時間聞いてくださった唯一の男性です」


「僕も」クレメンスが言った。「アニエス嬢とは、いくらでも話せます。ただ、恋ではない」


 ユリウスが、にやりと笑った。手帳の余白に、猛烈な勢いで何か書き始める。


「共同経営です」


「は?」


「婚姻契約というのは、恋を保証する書類じゃない。財産と家と生活を共同運営するための書類です。恋の項目は、実はどこにもない」ユリウスはペン先でわたしを指した。「リゼット嬢。特約条項を書けますか」


 わたしは、彼が何を言おうとしているのかを理解した。理解して、背筋が震えた。


「――書けます」


 わたしはペンを取った。


《第一条。両者は婚姻するが、これは家産の共同運営を目的とする契約である》 《第二条。両者は互いに、他者との恋愛関係を干渉しない。ただし公然たる醜聞(しゅうぶん)を避ける義務を双方に負う》 《第三条。世継ぎは、アーレンス家分家より養子を迎える。手続きは婚姻から三年以内に行う》 《第四条。アニエス・ボードの王立学院聴講費用は、アーレンス家がこれを負担する》 《第五条。いずれか一方が真に婚姻の解消を望んだ場合、他方はこれを拒めない。違約金は発生しない》


 書き終えて、顔を上げると、四人ぶんの視線がわたしの手元に集まっていた。


「……こんなもの、通りますか」クレメンスが掠れた声で言った。


「通します」ユリウスが立ち上がった。「僕がまとめた縁談です。王室公認仲介人が『これは家のためになる縁組だ』と保証すれば、両家は必ず頷く。嘘は一つもついていない。これは本当に、両家のためになる縁組だ」


 わたしは、その横顔を見上げた。


「――ユリウス様」


「なんです」


「わたし、ずっと間違っていました」わたしは書類の上で指を組んだ。「不幸になる婚約は、壊すしかないと思っていました。でも」


「でも?」


「ほどいて、結び直すこともできるんですね」


 ユリウスが、こちらを向いた。彼はしばらく黙っていて、それから、あの人懐こい目を細めた。


「僕もね、ずっと間違っていました」


「……なにを」


「壊す人間は、結ぶ人間の敵だと思っていた」彼はわたしの書いた条文を指でなぞった。「壊し方を知っている人間だけが、壊れない結び方を書ける。……こんな第五条、僕には十年かかっても思いつかなかった」



  契約



 半年後の春。


 アルディン家の門柱に、新しい看板が掛かった。


《縁結(えんむすび)解処(ほどきどころ)》 ――王室公認縁談仲介 ユリウス・ヴェイル ――婚約解消相談役 リゼット・アルディン


 ふざけた看板だと思う。それを彫らせたのは彼で、支払いをしたのはわたしだ。


 その看板を見上げていたら、ユリウスが隣に来て、書類を一枚差し出した。


「……なんですか、これ」


「婚約契約書です」


 わたしは書類を落としそうになった。


「あなた、正気ですか。わたしは婚約というものを信じていません。信じていない人間が、それをやると思いますか」


「思いませんね。だから、読んでください」


 わたしは仕方なく紙を開いた。


 見慣れた定型文が並んでいる。両家の名。家格。持参金――持参金の欄には、彼の几帳面な字で《不要》とだけ書いてあった。


 そして、いちばん下。


《第十二条。いずれか一方が、この関係によって不幸になったと感じた場合、その者は無条件・無違約金にてこの契約を解消できる。相手方はこれを一切拒めない》


 わたしの手が、少し震えた。


「……こんな婚約契約、聞いたことがありません」


「君が書かせたんですよ」ユリウスは肩をすくめた。「アーレンス家の第五条。あれを読んだ日から、僕はずっと考えていた。縁を結ぶというのは、相手を閉じ込めることじゃない。いつでも出ていける扉をつけたうえで、それでも隣にいたいと思ってもらうことだ」


 彼は帽子を取って、胸に当てた。


「僕は、九十九人と誰かを結んできた男です。人を見る目には、それなりに自信がある。……そのうえで言います。僕の見立てでは、君と僕は、ほどく必要のない縁だ」


 わたしは、その書類をずいぶん長いこと見つめていた。


 それから、羽根ペンを取った。


 彼が息を呑む音がした。


 わたしは第十二条の下に、新しい行を書き足した。


《第十三条。前条により契約を解消する場合、両者は解消の理由を共同で書面に記し、これを保管する》


「――なんですか、これは」


「不備を補いました」わたしはペンを彼に返した。「壊すときに、ちゃんと話し合うための条項です。……理由も言えないような別れ方は、二度としないと決めているので」


 ユリウスは、書き足された一行を見て、それから声を上げて笑った。ずいぶん失礼な笑い方だった。


「君は本当に、破談令嬢だな」


「ええ」


 わたしは、自分の名前の下に署名した。五年前より、ずっとまっすぐな字だった。


「ですから、安心してください。あなたが幸せにしなかったら、わたしがこの婚約を、いちばん上手に壊しますから」



  後日談



 その年の秋、《縁結解処》に、二人連れの客が来た。


 侯爵令息レオンハルト・グレイヴスと、その妻ミレーユ。


 二人は青ざめた顔で応接間に座り、まったく同じタイミングで頭を下げた。


「「離縁の相談を……」」


 そして、まったく同じタイミングで顔を上げ、目の前に座っている女を見て、凍りついた。


 わたしは羽根ペンを取り、いちばん上等な微笑みを浮かべた。


「ようこそ、《縁結解処》へ。ご相談を承ります」


 隣でユリウスが、こらえきれずに噴き出した。わたしは彼の足を軽く踏んで、それから帳簿を開いた。


「――なお、相談料は前金です」

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