婚約者を奪われたので、他人の婚約を壊す仕事を始めました
破談令嬢の誕生
「リゼット。君との婚約を、解消させてほしい」
王城の夜会の片隅、噴水の音に紛れるくらい小さな声で、レオンハルト・グレイヴス侯爵令息はそう言った。その腕には、わたしの従妹のミレーユがしがみついていた。
「僕たちの婚約は、家同士が決めたものだ。だが僕は、本当の愛を見つけてしまったんだ」
ミレーユは涙ぐんでいた。上手な泣き方だと思った。まつげが濡れて、頬に落ちる前に指で拭う。あれは鏡の前で練習した動きだ。子どものころ、隣で見ていたから知っている。
わたしは十七歳で、その夜、五年続いた婚約を失った。
――けれど、わたしが失ったのは婚約者だけではない。
この国において、貴族の婚約は「契約」だ。教会と王室の登記所に写しが保管され、双方の家格・持参金・領地の水利権・将来生まれる子の相続順位までが条文になっている。恋ではなく、書類なのだ。
だから解消するには、代償がいる。
違約金。名誉の毀損。婚約歴という消えない傷。一度婚約を解かれた令嬢は、次の縁談で必ず値切られる。
レオンハルトは、その代償をわたしに払わせるつもりだった。「性格の不一致」――そう書けば、非は両成敗。侯爵家は違約金を半分に値切れる。伯爵家のわたしは黙って呑むしかない。そういう筋書きだった。
わたしは三日三晩、家の書庫にこもった。
そして五年前に交わされた婚約契約書の、第九条の但し書きを見つけた。
《婚約期間中、両家の当主の同意なくして、当事者は第三者と私的な文通を行ってはならない。これに反した場合、違反者側の一方的責による解消とみなす》
レオンハルトとミレーユの手紙は、二年分あった。ミレーユは自慢したくて、そのうちの何通かをわたしに見せていたのだ。
――違約金は、満額。しかも解消理由の欄には、《一方的責:グレイヴス家》と記された。
署名の日、レオンハルトは震える手でペンを取り、それから憎々しげにわたしを見た。
「君は……こんな女だったのか」
「ええ」わたしは微笑んだ。「五年も婚約していたのに、ご存じなかったんですね」
これがすべての始まりだった。
半年後、わたしは自分の名前に新しい呼び名がついていることを知った。
《破談令嬢》。
最初の依頼人
「あの……本当に、婚約を、やめさせてくださるんですか」
アルディン伯爵家の応接間で、セレナ・ホルト男爵令嬢はカップを両手で握りしめていた。十六歳。栗色の髪。指先が白くなるほど力が入っている。
わたしは向かいに座り、羽根ペンを取った。
「まず訂正しますね。わたしの仕事は『婚約をやめさせること』ではありません」
「え」
「婚約解消の相談役です。壊すかどうかを決めるのはあなたです。わたしは、壊すべきかどうかを見極めて、壊すと決まったなら、あなたの家が損をしないように壊す。それだけです」
セレナは目を丸くして、それから少しだけ肩の力を抜いた。
「では、ご相談を。お相手は」
「トビアス・ホルト……いえ、トビアス・レイン男爵令息です。隣家の。三つ年上で、生まれたときから知っていて」
「幼馴染ですね」
「はい」セレナはうつむいた。「両家の父が、去年、婚約を決めました。領地が隣り合っていて、水車小屋を共同で使っていて、その、便利だから、と」
「あなたは、彼が嫌いですか」
「まさか!」彼女は跳ねるように顔を上げた。「トビーは優しいし、面白いし、わたしが木から落ちたときは背負って帰ってくれたし、いまでも困ったら真っ先に相談します。大好きです」
「では、なぜ」
セレナはしばらく黙って、それから、消え入りそうな声で言った。
「――手を、つないだんです。婚約が決まった日に。そうしたら」
「そうしたら?」
「弟と手をつないでいる気がして、二人とも、笑ってしまって。笑ってから、二人とも泣きました」
わたしは羽根ペンを置いた。
こういう依頼が、いちばん厄介だ。憎しみがあるほうがよほど簡単なのだ。憎しみには証拠が残る。けれど「家族にしか思えない」には、条文にできる違反が何ひとつない。
「セレナ様。ひとつ提案があります」
「はい」
「三十日、会わないでください」
「……えっ?」
「婚約契約に《冷却条項》を差し込みます。両家の合意のもと、三十日間、文通も面会も禁じる。これは珍しい条項ではありません。遠征に出る騎士家では普通に使われます」
「そんなことをして、何になるんですか」
「試すんです」わたしは言った。「三十日目に、あなたが彼に会いたくてたまらなくなっていたら――それは恋です。婚約は続けるべきです。三十日目に、彼が元気でいるならそれでいいと思えたら――それは家族です。そのときは、わたしが全力で壊します」
セレナは長いこと黙っていた。
「……こわいです」
「ええ。だから確かめるんです。結婚してから確かめるより、ずっと安いですから」
三十日後、セレナとトビアスは並んでうちの応接間にやってきた。
二人とも、よく寝た顔をしていた。それが答えだった。
「僕たち」トビアスが頭を掻いた。「一回も、会いたいと思わなかったんです。……いや、思ったんですけど、それは、『あいつ最近どうしてるかな』で、それだけで、満足で」
「毎晩、よく眠れました」セレナが言った。「婚約してからずっと、眠れなかったのに」
わたしは書類を三通、机に並べた。両家の当主用、教会用、登記所用。
《合意による解消。双方に責なし。持参金は返還、水車小屋の共同使用権は現状を維持》
「両家の縁は切りません。切る必要がないので。ただ、婚姻の予約だけを消します」
トビアスが、ぽかんとした顔で書類を見つめた。
「これ……全部、僕らが困らないようにできてる」
「当然です」わたしはペンを差し出した。「わたしは婚約を壊す人間であって、人生を壊す人間ではありませんから」
結ばせる男
その三日後、うちの屋敷の門を叩いた男がいた。
「アルディン伯爵令嬢。破談令嬢にお目にかかりたい」
わたしが応接間に降りていくと、そこには背の高い男が立っていた。年は二十四、五。仕立てのいい紺の上着に、王室の紋章入りの徽章。栗色の髪を几帳面に撫でつけていて、目だけが妙に人懐こい。
「ユリウス・ヴェイルと申します。王室公認縁談仲介人」
わたしは思わず笑ってしまった。
「ああ。天敵ですね」
「その認識で結構です」
彼は帽子を脱がずに、一枚の紙をテーブルに置いた。ホルト家とレイン家の婚約契約書の写しだった。
「この縁談を組んだのは、僕です」
「あら」
「そして君に壊された」ユリウスは椅子に座り、まっすぐわたしを見た。「単刀直入に言います。君は縁談を壊しすぎだ」
「あなたは結ばせすぎです」
わたしは即答した。彼が一瞬、目を見開いた。
「この半年で、あなたが成立させた婚約は二十七件。うち六件が、当事者の年齢差が十五以上。四件が、片方が一度も相手と会わずに調印しています。あなたは書類の上で人を並べているだけです」
「――調べたな」
「天敵ですので」
ユリウスはしばらくわたしを見て、それから、肩を落とした。すとん、と。悔しがるでもなく、怒るでもなく。
「その通りだ」
「え」
「僕は今まで、九十九組を結んだ。そのうち三組が、二年以内に離縁している」彼は指を三本立てた。「三組とも、僕が『家のためになるから』で押し切った縁談だ。僕は三人の人間を、書類の上で不幸にした」
彼は懐から分厚い手帳を出した。開くと、細かい表がびっしり書き込まれている。
「これは僕が十年かけて作った相性の記録です。会話の速さ、笑いどころ、朝に強いか夜に強いか、金の使い方、沈黙が続いたときにどちらが先に口を開くか。……僕は誰でも結婚させたいわけじゃない。結んだあとに、二人がちゃんと幸せでいられる縁を選びたいだけだ」
わたしは、その手帳をじっと見た。
ホルト家とレイン家のページには、赤い字で追記がされていた。
《要再考。幼少期の共有時間が長すぎる可能性。ただし親の圧力が強く、僕には止められなかった》
――止められなかった、と書いてある。
「あなた、気づいていたんですね」
「気づいていた。でも僕には壊す権限がない」ユリウスは苦い顔をした。「王室公認というのは、そういうことです。僕が『この縁談はやめるべきだ』と言えば、両家の顔に泥を塗ることになる。結ぶことしかできない仕事なんですよ、これは」
彼は帽子をようやく脱いで、テーブルに置いた。
「だから、君に会いに来た」
「……何のために」
「組みませんか」ユリウスは言った。「僕には壊せない。君には結べない。だが二人でなら、両方できる」
わたしは笑った。今度は、少しだけ本気で。
「お断りします。あなたのことがまだ嫌いですので」
「結構」彼は嬉しそうに立ち上がった。「じゃあ次の依頼で、また会いましょう」
殴られる青年
次の依頼人は、夜に来た。
裏口から、外套のフードを目深にかぶって、痩せた青年が入ってきた。フードを外すと、頬に黄色く変色した痣があった。
「アルヴィン・ケール子爵令息です」
十九歳。婚約者は、伯爵家のヴィオラ・ダントン令嬢。家格は向こうが上。持参金も向こうが多い。
「……いつからですか」
「婚約して、二月目からです」アルヴィンは膝の上で拳を握った。「最初は、物を投げるだけでした。今は」
彼は袖をまくった。腕に、火傷の痕が三つ並んでいた。
わたしは息を吐いた。ゆっくりと。
「解消しましょう」
「無理です」アルヴィンは首を振った。「言ったんです、父に。そうしたら――『男が女に殴られたくらいで何を言う』と。使用人にも笑われました。ダントン家に知られたら、うちの領地は……」
「アルヴィン様」
わたしは彼の言葉を遮った。
「婚約契約書の第七条を、ご存じですか」
「え」
「この国のすべての婚約契約に共通する定型条項です。《両家は、婚約期間中、相手方当事者の身体および名誉の安全を保障する義務を負う》。……あなたが殴られていることは、あなたの恥ではありません。ダントン家の契約違反です」
アルヴィンが、ゆっくりと顔を上げた。その目に、初めて何かが灯った。
「証拠がいります」わたしは続けた。「医師の診断書。使用人の証言。それから――ダントン家に、こちらが黙って引き下がらないと信じさせるだけの、後ろ盾が」
そこで、わたしは自分の言葉に詰まった。
伯爵家の、婚約を破棄された、二十歳の娘。それがわたしの後ろ盾のすべてだった。ダントン家は、笑って握りつぶすだろう。
――そのとき、わたしは思い出した。紺の上着と、王室の徽章を。
翌朝、わたしは生まれて初めて、自分から手紙を書いた。
《ヴェイル様。壊すのを手伝ってください。リゼット・アルディン》
返事は三時間後に来た。手紙ではなく、本人が来た。
「読みました」ユリウスは玄関で外套も脱がずに言った。「診断書は王立医院で取ります。院長は僕の伯父です。使用人の証言は、ダントン家を辞めた者から取ったほうがいい。名簿は登記所にある。それから」
「それから?」
「僕が同席します」彼は静かに言った。「王室公認縁談仲介人が『この婚約は解消が妥当である』と証言すれば、ダントン家は突っぱねられない。……ようやく、この徽章の使い道が見つかった」
三週間後、ダントン邸の大広間で、わたしたちは書類を突きつけた。
ヴィオラ・ダントンは、青ざめた顔でそれを見ていた。十八歳。細い首。整った顔立ち。彼女はわたしを睨んで、それから叫んだ。
「あの人が悪いのよ! 何を言っても黙ってるんだもの! 何を言っても、何を投げても、黙って、笑って、そんなの、そんなの――」
彼女はそこで言葉を切って、うずくまった。
「――お父様と、同じ顔をするんだもの」
大広間が、静まりかえった。
ダントン伯爵が咳払いをした。誰も彼のほうを見なかった。
わたしは書類の束から、一枚を抜いた。事前に用意しておいたものだった。
「ヴィオラ様。あなたの分もあります」
「……え」
「王都南の療養院への入院申請書です。心を病んだ貴族が、社交界から一年離れて療養するための制度で、名誉は毀損されません。費用はダントン家持ちですが、あなたのお父上には、断る理由がないはずです。――ねえ、伯爵様?」
ダントン伯爵は、何も言わなかった。それが答えだった。
帰りの馬車で、ユリウスがぽつりと言った。
「……君は、あの令嬢を救う準備までしていたんだな」
「別に。彼女を放っておいたら、アルヴィン様の次の誰かが殴られるだけです」わたしは窓の外を見た。「わたしは婚約を壊す仕事をしています。人を壊す仕事はしていません」
ユリウスがこちらを見ている気配がした。わたしは振り向かなかった。
「……ヴェイル様」
「ユリウスで」
「ユリウス様。ひとつ、訂正します」
「なんです」
「あなたのことは、もう嫌いではありません」
長い沈黙のあと、彼が小さく笑った気配がした。わたしはやっぱり、振り向かなかった。
ほどけない縁
最後の依頼は、二人分だった。
クレメンス・アーレンス侯爵令息。二十二歳。次期当主。文句のつけようがない優男。
そして、その婚約者、アニエス・ボード伯爵令嬢。二十歳。
二人は並んで応接間に座り、まったく同じタイミングで頭を下げた。
「「婚約を解消させてください」」
そして、まったく同じタイミングで顔を上げ、お互いを見て、目を丸くした。
「……アニエス嬢も?」
「……クレメンス様も?」
わたしは羽根ペンを取った。この仕事を始めて、いちばん面白い瞬間だった。
事情を聞くのに、二時間かかった。
クレメンスには、五年連れ添った恋人がいた。名をノアといった。近衛騎士団の、剣の腕だけで平民から騎士になった男。
「……男です」クレメンスは、机を見つめたまま言った。「軽蔑してくださって構いません。でも、僕はアニエス嬢を騙して妻にすることだけは、したくない」
アニエスのほうは、机の下で何かを握りしめていた。促すと、彼女はそれを差し出した。押し花の標本帳だった。ぎっしりと、几帳面な文字で分類が書き込まれている。
「王立学院の植物学科に、女性の聴講制度ができたんです」彼女は震える声で言った。「三年前から出願しています。三年連続で家に握りつぶされました。……わたしは、結婚したくないんじゃありません。いまはまだ、したくないんです」
わたしはペンを置いた。
これは、壊せない。
アーレンス侯爵家には跡継ぎがいる必要がある。ボード伯爵家は借財があり、この縁談の持参金と引き換えの融資で成り立っている。どちらの家も、この婚約が消えたら傾く。当事者二人が望んでも、家が死ぬ。
「――正直に申し上げます」わたしは言った。「壊す方法が、ありません」
二人の顔が、同時に曇った。
そのとき、応接間の扉が開いた。
「じゃあ、結び直せばいい」
ユリウスが立っていた。手には例の分厚い手帳。彼は勝手に椅子を引いて座り、勝手にお茶を注いだ。
「勝手に入らないでください」
「君の執事に招き入れられました。僕はもうこの家で顔パスです」彼は手帳を開いた。「話は廊下で全部聞いた。クレメンス卿、アニエス嬢――お二人は、お互いのことをどう思っています?」
二人は顔を見合わせた。
「……嫌いでは、ないです」アニエスが言った。「むしろ、話しやすい方です。わたしの押し花の話を、三時間聞いてくださった唯一の男性です」
「僕も」クレメンスが言った。「アニエス嬢とは、いくらでも話せます。ただ、恋ではない」
ユリウスが、にやりと笑った。手帳の余白に、猛烈な勢いで何か書き始める。
「共同経営です」
「は?」
「婚姻契約というのは、恋を保証する書類じゃない。財産と家と生活を共同運営するための書類です。恋の項目は、実はどこにもない」ユリウスはペン先でわたしを指した。「リゼット嬢。特約条項を書けますか」
わたしは、彼が何を言おうとしているのかを理解した。理解して、背筋が震えた。
「――書けます」
わたしはペンを取った。
《第一条。両者は婚姻するが、これは家産の共同運営を目的とする契約である》 《第二条。両者は互いに、他者との恋愛関係を干渉しない。ただし公然たる醜聞を避ける義務を双方に負う》 《第三条。世継ぎは、アーレンス家分家より養子を迎える。手続きは婚姻から三年以内に行う》 《第四条。アニエス・ボードの王立学院聴講費用は、アーレンス家がこれを負担する》 《第五条。いずれか一方が真に婚姻の解消を望んだ場合、他方はこれを拒めない。違約金は発生しない》
書き終えて、顔を上げると、四人ぶんの視線がわたしの手元に集まっていた。
「……こんなもの、通りますか」クレメンスが掠れた声で言った。
「通します」ユリウスが立ち上がった。「僕がまとめた縁談です。王室公認仲介人が『これは家のためになる縁組だ』と保証すれば、両家は必ず頷く。嘘は一つもついていない。これは本当に、両家のためになる縁組だ」
わたしは、その横顔を見上げた。
「――ユリウス様」
「なんです」
「わたし、ずっと間違っていました」わたしは書類の上で指を組んだ。「不幸になる婚約は、壊すしかないと思っていました。でも」
「でも?」
「ほどいて、結び直すこともできるんですね」
ユリウスが、こちらを向いた。彼はしばらく黙っていて、それから、あの人懐こい目を細めた。
「僕もね、ずっと間違っていました」
「……なにを」
「壊す人間は、結ぶ人間の敵だと思っていた」彼はわたしの書いた条文を指でなぞった。「壊し方を知っている人間だけが、壊れない結び方を書ける。……こんな第五条、僕には十年かかっても思いつかなかった」
契約
半年後の春。
アルディン家の門柱に、新しい看板が掛かった。
《縁結解処》 ――王室公認縁談仲介 ユリウス・ヴェイル ――婚約解消相談役 リゼット・アルディン
ふざけた看板だと思う。それを彫らせたのは彼で、支払いをしたのはわたしだ。
その看板を見上げていたら、ユリウスが隣に来て、書類を一枚差し出した。
「……なんですか、これ」
「婚約契約書です」
わたしは書類を落としそうになった。
「あなた、正気ですか。わたしは婚約というものを信じていません。信じていない人間が、それをやると思いますか」
「思いませんね。だから、読んでください」
わたしは仕方なく紙を開いた。
見慣れた定型文が並んでいる。両家の名。家格。持参金――持参金の欄には、彼の几帳面な字で《不要》とだけ書いてあった。
そして、いちばん下。
《第十二条。いずれか一方が、この関係によって不幸になったと感じた場合、その者は無条件・無違約金にてこの契約を解消できる。相手方はこれを一切拒めない》
わたしの手が、少し震えた。
「……こんな婚約契約、聞いたことがありません」
「君が書かせたんですよ」ユリウスは肩をすくめた。「アーレンス家の第五条。あれを読んだ日から、僕はずっと考えていた。縁を結ぶというのは、相手を閉じ込めることじゃない。いつでも出ていける扉をつけたうえで、それでも隣にいたいと思ってもらうことだ」
彼は帽子を取って、胸に当てた。
「僕は、九十九人と誰かを結んできた男です。人を見る目には、それなりに自信がある。……そのうえで言います。僕の見立てでは、君と僕は、ほどく必要のない縁だ」
わたしは、その書類をずいぶん長いこと見つめていた。
それから、羽根ペンを取った。
彼が息を呑む音がした。
わたしは第十二条の下に、新しい行を書き足した。
《第十三条。前条により契約を解消する場合、両者は解消の理由を共同で書面に記し、これを保管する》
「――なんですか、これは」
「不備を補いました」わたしはペンを彼に返した。「壊すときに、ちゃんと話し合うための条項です。……理由も言えないような別れ方は、二度としないと決めているので」
ユリウスは、書き足された一行を見て、それから声を上げて笑った。ずいぶん失礼な笑い方だった。
「君は本当に、破談令嬢だな」
「ええ」
わたしは、自分の名前の下に署名した。五年前より、ずっとまっすぐな字だった。
「ですから、安心してください。あなたが幸せにしなかったら、わたしがこの婚約を、いちばん上手に壊しますから」
後日談
その年の秋、《縁結解処》に、二人連れの客が来た。
侯爵令息レオンハルト・グレイヴスと、その妻ミレーユ。
二人は青ざめた顔で応接間に座り、まったく同じタイミングで頭を下げた。
「「離縁の相談を……」」
そして、まったく同じタイミングで顔を上げ、目の前に座っている女を見て、凍りついた。
わたしは羽根ペンを取り、いちばん上等な微笑みを浮かべた。
「ようこそ、《縁結解処》へ。ご相談を承ります」
隣でユリウスが、こらえきれずに噴き出した。わたしは彼の足を軽く踏んで、それから帳簿を開いた。
「――なお、相談料は前金です」




