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終末世界が訪れ、ブラック社長に会社全員の身代わりとして死ねと言われた俺は、逆に雷霆の支配者になった

作者: 熾星
掲載日:2026/07/01

 

 1.防災倉庫の犠牲者リスト

 赤い月と霧が東京に降りたその日、丸の内のビジネス街は完全な混乱に陥った。

 路上には衝突した車と逃げ惑う人々の悲鳴があふれ、霧の中では感染者が歪んだ体を引きずってさまよっていた。変異犬はコンビニのガラス扉を突き破り、中へ逃げ込んだ人間を引きずり出して食い裂いている。俺たちの会社の人間は、全員、オフィスビル地下二階の防災倉庫に逃げ込んでいた。

 俺は鳴神悠真。東都クリエイティブ株式会社の契約社員だ。

 赤い月が現れる前、俺は社内でいちばん目立たない企画アシスタントだった。徹夜で企画書を書くのは俺で、クライアントに怒鳴られるのも俺。けれど最後に俺の案を持って出資者へ手柄を見せるのは、いつだって黒田課長だった。


 黒田課長は、錆びついたカッターナイフを俺の手に押しつけた。その刃はプリンターの横に半年も放置されていたもので、A4用紙一枚まともに切れない。

「持っていけ。あとでお前が前に出て道を開け」

 俺はその使い物にならない刃を見下ろしたまま、何も言わなかった。

 黒田課長は眉をひそめ、声を低くして罵った。

「悠真、聞こえないふりをするな。外の変異獣は音に敏感なんだ。お前が外へ出て連中を引きつければ、俺たちは非常階段から屋上へ逃げられる」

 黒川社長は防火扉の後ろに隠れ、スーツの上着を肩に掛けたまま、相変わらず上に立つ者の顔をしていた。

「鳴神くん、会社は君をここまで育ててきた。ここで退けば、今までの努力が全部無駄になるぞ」

 そう言うと、社長は倉庫に一つしかない防刃ベストを白石美羽へ渡した。

 美羽は入社したばかりのインターンだった。顔立ちは甘く、声も柔らかい。普段は自分の仕事を他人に押しつけ、そのあと給湯室でショート動画を撮っている。黒田課長も社長も彼女を会社のマスコット扱いし、正社員登用枠も最初から彼女に回すつもりだった。

 黒川社長は慈しむような顔で言った。

「美羽は会社の未来に必要な人材だ。よく聞け。あとで危険に遭ったとき、誰が犠牲になってもいい。だが、彼女だけは絶対に死なせるな」


 美羽は防刃ベストを着ながら、襟元を整えた。その目は俺たちを順番に見回していた。まるで、自分のために死ぬことが決まっている道具でも見るような目だった。

 次の瞬間、彼女が突然、喜びに満ちた声を上げた。

「わ、私……覚醒した!」

「治癒系の異能よ!」


 防災倉庫の中が、一瞬で静まり返った。黒川社長の目が輝く。

 赤い月が現れてから、通信は途切れ途切れになっていた。それでも、覚醒者に関する情報はショート動画アプリに流れていた。特に治癒系の異能者は、自衛隊の避難区域に入れば、医療支援の中核として保護される可能性が高いと噂されていた。

 社長は、将来自分が避難区域で上の立場に立つ姿でも想像したのだろう。すぐに倉庫にあった唯一の消防斧を美羽へ手渡した。

「よし、よし。美羽、君はこれから我々のチームの中心だ」

 黒田課長もすぐに彼女のそばへ立ち、媚びるように言った。

「美羽、怖がらなくていい。俺たちが必ず守る」

 三人は寄り添うように立っていた。まるで、すでに末世で勢力を築き、物資を支配する未来が見えているかのようだった。


 俺は思わず笑ってしまった。このブラック企業で、こんな光景を二年も見続けてきたからだ。

 俺が徹夜で作った企画書には、いつも黒田課長の名前が載っていた。黒川社長が外で愛人を作って妻に見つかったときは、ホテルを予約したのは俺だと言わされた。美羽は自分がかわいく振る舞えることをよく知っていて、雑用を全部俺に押しつけたうえ、裏では「契約社員のくせに将来がない」と笑っていた。

 あの安い給料と次の契約更新のために、俺はずっと耐えてきた。だが今、外には人を食う怪物がいる。そんな状況で、こいつらはまだ俺を使い捨ての囮にしようとしている。


 そのとき、俺の視界に青く輝くホログラムのパネルが浮かび上がった。

【雷霆主宰システムを起動しました】

【宿主:鳴神悠真】

【SSS級異能:終末雷嵐、充填完了】

【初回報酬:神域級収納リング一個、単兵用外骨格アーマー一式】

【直ちに受け取り、雷霆の覇道を開始しますか?】

 心臓が、一拍だけ止まったような気がした。次の瞬間、胸の奥から抑えきれない歓喜が爆ぜた。俺は心の中で呟いた。

「はい」



 2.雷霆の支配者、覚醒

 暗い金色の指輪が、俺の人差し指に現れた。それは空気の中から凝り固まったように生まれ、冷たく、重く、底知れない力を宿していた。同時に、体の奥で眠っていた火山が目を覚ますような感覚が走り、荒れ狂う電流が骨の中を駆け抜け、血液まで燃え上がりそうになる。

 俺は錆びたカッターナイフを、無造作に床へ投げ捨てた。カラン、と乾いた音を立てて、刃が床の上を跳ねた。

 黒田課長がすぐに目を剥いた。

「悠真、お前、何をしている!」

「外は変異獣だらけだ。お前が死にに行かないなら、俺たちに行けと言うのか?」

 彼はまだ、これまでと同じやり方で俺を押さえつけられると思っているらしい。

「忘れるな。お前の来月の契約更新はまだ決まっていない。言うことを聞かないなら、人事評価を最低にして、手当も一円残らず消してやる」


 美羽は消防斧を握りしめたまま、呆れたように目を細めた。

「鳴神先輩、人として少しは考えたらどうですか?」

「私は治癒系なんです。自衛隊の避難区域に行けば、人を救える貴重な人材になるんですよ」

「覚醒していない普通の人が私の代わりに死ぬなら、むしろ釣り合っているじゃないですか」


 黒川社長も咳払いを一つして、あの薄っぺらい経営者口調に戻った。

「鳴神くん、視野を広く持ちたまえ」

「今日、君が怪物を引きつけてくれれば、会社は必ずその貢献を記憶する」

「我々が無事に避難区域へ到着したら、君を正社員にしてもいい。将来的には企画部の副部長の席も考えてやろう」

「さあ、行きたまえ。ぐずぐずするな。若者には犠牲の精神が必要だ」


 目の前の三人を見ていると、ついに笑いが込み上げてきた。

「お前ら、頭がおかしいんじゃないのか?」

「東京がもう怪物の巣になっているのに、契約更新だの、人事評価だの、副部長だの、まだそんな餌で人を釣れると思っているのか?」

「黒川社長、そのくだらない約束が、俺の命より価値があると本気で思っているのか?」

 黒川の顔が一瞬で冷えた。黒田は怒りで顔を赤くし、俺の襟をつかもうと突っ込んできた。

「調子に乗るな!」

「普段、俺がお前をどう教育してきたと思っている。たかが契約社員が課長に口答えするのか!」

 彼の手が俺の服に触れる前に、俺は脚を上げ、その腹へ蹴りを叩き込んだ。鈍い音がした。

 百キロ近い黒田の体が丸ごと吹き飛び、防災倉庫のガラス仕切りに叩きつけられた。ガラスが床一面に砕け散り、彼は腹を押さえて転がり、痛みのあまり罵声すら出せなくなっていた。


 倉庫内は一瞬で死んだように静まり返った。黒川社長は青ざめ、二歩ほど後ずさると、震える指で俺を指した。

「鳴神! お前、気でも狂ったのか! 上司を殴るとは何事だ!」

 美羽が甲高い悲鳴を上げた。

「暴力男! 音を立てたら怪物が寄ってくるって分からないの!」


 彼女の言葉が終わるより早く、廊下の奥から低いうなり声が響いた。続いて、重い足音が近づいてくる。何かが、防災倉庫へ向かって突進していた。黒川は顔から血の気を失い、転がるように奥の鋼鉄製避難室へ逃げ込んだ。

「早く! 扉を閉めろ!」

 美羽は誰よりも早く走り、消防斧を抱えたまま避難室へ飛び込んだ。黒田はガラス片の上を這い、血まみれの顔で扉へ向かって進もうとしていた。

「社長! 助けてください! 中に入れてください!」

 美羽は振り返って扉を閉めようとした。黒田の片手が、扉の隙間に必死に挟まる。

「美羽! 引っ張ってくれ!」

 美羽は心底嫌そうな顔で、黒田の指をはがそうとした。

「離してよ! 怪物が来ちゃうでしょ!」

「私は治癒系なの! 死ぬわけにはいかないの!」


 次の瞬間、地下倉庫の木製扉が凄まじい力で砕け散った。一頭の変異犬が飛び込んでくる。普通の秋田犬の三倍はある巨体で、背中には黒い骨の棘が生えていた。血のように赤い目が、床に倒れた黒田を捉える。黒田は絶望したように鋼鉄の扉を叩いた。

「社長! 開けてください!」

 避難室の中から、黒川の冷たい声が返ってきた。

「黒田くん、会社の未来のために犠牲になってくれ」

「君の貢献は忘れない」


 変異犬が血まみれの口を大きく開き、黒田の太ももに噛みついた。肉が引き裂かれる音に、倉庫内の全員が凍りつく。

 黒田は豚のような悲鳴を上げ、両手で床をかきむしった。十本の血の筋が床に残る。俺は人間工学チェアを引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。変異犬は肉を噛み砕き、喉の奥で骨をすり潰すような音を立てている。黒田はまだ息があり、目だけを俺に向けた。

「悠真……助けてくれ……頼む……」

 俺は椅子の背に体を預け、静かに見下ろした。

「契約社員は会社のために犠牲になるべきなんだろ?」

 次の瞬間、変異犬が黒田の首を噛みちぎった。

 悲鳴が途切れた。



 3.会社の財産

 黒田を食い終えた変異犬は、まだ満足していなかった。ゆっくりと頭を巡らせ、避難室の鋼鉄扉を見つめる。中にいる黒川の声は、恐怖で完全に裏返っていた。

「美羽! 君は治癒系だろう! 早く異能で攻撃しろ!」

 美羽は泣きながら震えていた。

「私の異能は治すだけなんです!」

「魚だって殺したことないのに、怪物なんて殺せるわけないじゃない!」


 変異犬が勢いよく鋼鉄扉へ体当たりした。轟音とともに扉は大きく歪み、枠から粉じんが落ちる。

 美羽が扉の隙間から俺に向かって叫んだ。

「悠真! 早くあいつを引きつけて!」

「私を助けてくれたら、あとで彼女になってあげるから!」

 俺は思わず笑いそうになった。

「そのありがたい施しは、地獄で使ってくれ」

 轟音とともに、鋼鉄扉の半分が吹き飛んだ。変異犬は体をねじ込むように避難室へ入り、黒川社長へ噛みつこうとする。黒川の悲鳴がフロア全体に響き渡った。


 俺は立ち上がり、手首を軽く回した。SSS級異能を試すには、ちょうどいい頃合いだった。意識を向けた瞬間、人差し指の収納リングが暗い金色に光る。

 次の瞬間、荒廃した未来を思わせる黒い単兵用外骨格アーマーが虚空から展開し、俺の全身を覆った。冷たい金属が筋肉に密着し、装甲の隙間を青白いエネルギーが走る。ヘルメットのバイザーが下りると同時に、視界には精密な解析データが浮かび上がった。

 筋力、速度、防御性能。すべての数値が、ありえない速度で跳ね上がっていく。俺は右手を上げ、掌を変異犬へ向けた。荒れ狂う雷が掌の中へ集まり、無数の鳥が一斉に鳴くような鋭い音を立てる。

「終末雷嵐」

 眩い青白の雷柱が轟然と放たれた。防災倉庫全体が強烈な光に呑まれた。雷は変異犬の頭部を貫通し、その背後の耐力壁にまで黒い大穴を開けた。

 変異犬は悲鳴を上げる暇もなく、焦げ臭い黒炭へ変わった。


 カツン、と音がした。炭化した死骸の中から、透き通った一階級の変異核が転がり落ちる。俺は歩み寄り、それを拾い上げた。

 避難室にいた黒川と美羽は、完全に言葉を失っていた。黒川の腕には変異犬に裂かれた深い傷があったが、今は痛みも忘れて、俺の外骨格アーマーだけを凝視している。貪欲な光が、その目の奥で燃えていた。

「君は、そんな強い異能に覚醒していたのか?」

 美羽も目を輝かせ、消防斧を投げ捨てると、俺に向かって駆け寄ってきた。

「悠真先輩! やっぱり先輩はすごい人だったんですね!」

「さっき雷を使ったとき、すごく格好よかったです!」


 俺は一歩横へずれた。美羽は空振りし、ヒールの高い靴で足をひねって床に転んだ。すぐに起き上がり、乱れた髪を直すと、今度は甘すぎる笑みを浮かべる。

「先輩、そんなに強いなら、どうして早く言ってくれなかったんですか?」

「さっきまでずっと心配していたんですよ。怪物に食べられたらどうしようって」

 黒川も近づいてきた。いつもの癖で両手を背中に回し、社長らしい偉そうな態度を取る。

「鳴神くん、それはよくないな」

「そんな強い装備があるなら、すぐに出すべきだった」

「こうしよう。まず、その外骨格を脱いで私に渡しなさい」

「私は社長だ。全体を見て判断できる。私が装備を使って指揮する。君は引き続き前で道を開いてくれ」

「安心しなさい。会社は君を悪いようにはしない」


 あまりにも当然のように言うものだから、怒りより先に呆れが湧いた。

「黒川社長、頭の中に腐った味噌汁でも詰まっているのか?」

「世界が終わったあとでも、まだ社長面を続けるつもりか?」

 黒川の顔がこわばり、頬の肉がぴくりと震えた。

「鳴神! 上司に向かってその口の利き方は何だ!」

「その装備は勤務時間中に手に入れたものだ。つまり会社の財産だ!」

「会社の財産を横領するつもりなら、警察に通報するぞ!」

「忘れるな。君の今月の給料はまだ出ていないんだ。一文無しになりたいのか!」


 俺は反射的に手を振った。乾いた音が、空っぽの倉庫に響く。黒川はその場で半回転し、奥歯を二本飛ばして床へ転がした。高く腫れた頬を押さえながら、彼は信じられないという顔で俺を見た。

「お、お前……私を殴ったのか?」

 俺は歩み寄り、彼の襟をつかむと、左右からさらに二発叩き込んだ。

「殴ったら何だ?」

「普段から俺にサービス残業を押しつけて、俺の企画書を奪って出資者に媚びていたくせに」

「世界が終わった今度は、俺の装備まで奪う気か?」

 俺は彼の膝へ蹴りを叩き込んだ。骨の折れる嫌な音がした。黒川は悲鳴を上げて、膝から崩れ落ちた。

「次にくだらないことを言ったら、今すぐ窓から投げ捨てて犬の餌にする」

 黒川は完全に怯えきった。腫れた顔を押さえ、倉庫の隅にうずくまって、嗚咽を漏らすだけになった。



 4.社長室で鍋を食う

 黒川がそこまで叩きのめされたのを見て、美羽は全身を震わせた。すぐに表情を切り替え、大きな目に涙を浮かべる。俺のそばへ近づき、わざと襟元を少し引き下げ、白い肌を見せた。

「悠真先輩、あんな人のことは放っておきましょう」

「あの人は、社員を搾り尽くすだけのブラック社長です」

「これから私は先輩についていきます。先輩が言うことなら、何でもします」

「私は治癒系です。先輩が戦闘で傷ついたら、すぐに治してあげられます」

「夜だって……そばにいてあげられます」

 そう言って、美羽は俺の装甲の胸元へ手を伸ばしてきた。


 俺は冷たく彼女を見下ろした。

「離れろ。汚い」

 美羽の手が空中で止まった。顔色が青から赤へ、そして白へと変わっていく。

「鳴神悠真、調子に乗らないでよ!」

「私は希少な治癒系なのよ! 自衛隊の避難区域へ行けば、強い人たちがいくらでも私を奪い合うわ!」


 俺は彼女を無視し、会社の給湯室へ向かった。収納リングを開く。そこにあったミネラルウォーター、カップ麺、発熱式の即席鍋、チョコレート、ビスケットをすべて収納する。ウォーターサーバーに残っていた半分ほどの水まで、ひとつ残らず持っていった。

 目の前で物資が消えていくのを見て、黒川と美羽は目を見開いた。

「収納系の異能……!」

 黒川は焦り、這うように給湯室の扉へしがみついた。

「鳴神くん、食料を全部持っていくのは困る!」

「せめてカップ麺を二つだけ残してくれ! 二つでいい!」

 俺は彼を蹴り飛ばした。

「全部会社の財産なんだろ? お前は社長なんだから、自分で投資でも集めてこい」

 俺は地下倉庫を出た。振り返りもしなかった。廊下には変異獣の死骸と切断された肉片が散らばり、血の臭いが鼻を刺す。俺は非常階段を上がっていった。途中で単体の変異獣に遭遇すれば雷で粉砕し、ついでに変異核を回収する。外骨格は強力な防御機能だけでなく、生体反応を探知するレーダーも備えていた。暗がりに潜む怪物も、すべて俺の視界に浮かび上がる。


 わずか三十分で、俺はビル全体の掃討を終えた。

 頭の中では、システムの通知音が何度も鳴っていた。

【一階級変異獣を撃破。異能熟練度+10】

【一階級変異獣を撃破。異能熟練度+10】


 俺は広い社長室を仮の拠点にした。床から天井まである窓の外には、荒廃した東京が広がっている。丸の内のビル群は赤い霧に沈み、道路では車が燃え、感染者たちがあてもなくさまよっていた。

 収納リングから発熱式の即席鍋を取り出し、冷えたコーラを一本開けた。革張りのソファに座って食べていると、牛肉が赤いスープの中で煮え、社長室いっぱいに食欲を誘う香りが広がった。


 そのとき、扉の向こうから忍び足が聞こえた。レーダーを見るまでもなく、誰が来たのか分かっていた。黒川と美羽だ。二人は飢えでふらつきながら、俺が掃討した死骸の跡をたどって、ここまで上がってきた。

 二人はガラス扉の向こうから、俺が肉を食べている姿を見ていた。目は食欲で緑色に光っているようだった。美羽が遠慮がちに扉を叩く。

「悠真先輩、開けてもらえませんか?」

「お腹が空いて……」

「さっきは私が悪かったんです。大きな声を出してごめんなさい」

 俺は返事をせず、センマイを箸でつまんで口に入れた。

 黒川は扉の外で足を踏み鳴らし、ガラスを強く叩いた。

「鳴神、我々は同じ会社の仲間だろう! 見殺しにする気か!」

「一口だけでも食べ物をくれたら、会社の株を半分やる!」

「いや、八割でもいい!」


 俺は鍋の容器を持ち上げた。そして、残ったスープと具材を、二人の目の前でゆっくりとゴミ箱へ流し込む。美羽の顔が一瞬で歪んだ。

「鳴神悠真! この人でなし!」

「捨てるくらいなら私たちに渡せばいいでしょ! あんたなんか地獄に落ちればいい!」

 彼女は怒りに任せて罵り始めた。もう甘い演技をする余裕もないらしい。


 そのとき、階下から無数の足音と、ぞわぞわするような鳴き声が聞こえてきた。大量の変異鼠が階段を駆け上がってくる。どれも成猫ほどの大きさで、目は赤く光っていた。

 黒川と美羽が振り返り、血の気を失った。二人は必死に扉を叩く。

「開けろ! 早く開けろ!」

「怪物が来る! 助けて!」

 俺は革張りのソファに腰掛けたまま、足を組んで二人を眺めた。

「さっきまで楽しそうに罵っていたじゃないか」

「続けろ。聞いている」


 変異鼠の群れは、すでに廊下の奥に姿を現していた。黒い波のように、びっしりと床を埋め尽くしている。黒川は膝から崩れ落ち、ガラス扉の前で何度も頭を下げた。

「鳴神様! 頼む、開けてくれ!」

「私が悪かった! 君を搾取して、責任を押しつけたのは間違いだった!」

「中に入れてくれたら、これからは犬にでもなる!」

 美羽も化粧を涙でぐしゃぐしゃにしながら、ガラスを叩き続けた。

「悠真先輩、助けて!」

「まだ死にたくない!」

「私は治癒系です! 先輩の役に立てます! 奴隷にだってなります!」

 俺は二人の醜い顔を見つめた。表情は一切動かなかった。


 扉の外では、鼠の群れが迫っている。先頭の一匹が跳び上がり、黒川の傷ついたふくらはぎへ噛みついた。

 黒川が喉を裂くような悲鳴を上げる。美羽はそれを見て叫び、黒川を突き飛ばして、自分だけ廊下の反対側へ逃げようとした。黒川はバランスを崩し、そのまま鼠の群れに呑まれた。

 廊下には、彼の凄絶な悲鳴と、骨肉をかじる無数の音だけが残った。


 俺は立ち上がり、首を軽く鳴らした。見世物は十分だった。そろそろ仕事をする時間だ。ロック解除ボタンを押し、ガラス扉を開く。

 荒れ狂う雷が掌に集まった。

「雷霆万鈞」

 轟音が響いた。青い雷網が廊下全体を覆った。数百匹の変異鼠が雷の中で激しく痙攣し、耳障りな悲鳴を上げる。三秒も経たないうちに、すべての変異鼠が灰となり、空気は焦げ臭さで満たされた。床一面に低階変異核が散らばっていた。

 俺は手を一振りし、それらをすべて収納リングへ収めた。


 黒川は血まみれで床に倒れていた。片足の肉はほとんど食い尽くされ、白い骨が露出している。全身には無数の噛み傷があり、その多くは骨に届いていた。それでも彼はまだ死んでおらず、荒い息を吐いていた。

 俺が出てきたのを見ると、黒川の目には怨みと不甘が浮かんだ。

「鳴神……お前は助けられたのに……どうしてすぐ助けなかった……」

「わざと……私を……」

 俺はしゃがみ込み、金属装甲に覆われた指で彼の頬を軽く叩いた。

「そうだ。わざとだ」

「お前が俺の成果を奪い、俺に責任を押しつけてきたのも、わざとだっただろう?」

「これが因果応報だよ、黒川社長」



 5.人間の囮として連れていく

 廊下の角に隠れていた美羽は、俺が鼠の群れを一瞬で消し飛ばすのを見ていた。目を見開き、信じられないという顔をしている。

 だが短い恐怖のあと、彼女はまたこちらへ走ってきた。勢いよく床に膝をつき、俺の足にすがりつく。

「悠真先輩、強すぎます!」

「先輩は神様みたいです!」

「黒川社長は自業自得です! 私はずっとあの人に脅されていたんです!」

「正社員登用枠をちらつかされて、仕方なく先輩にひどいことをしていました」

「先輩、許してください!」


 彼女の吐き気がする演技を見ているうちに、ひとつ思いついた。すぐに殺すのは、あまりにも楽すぎる。末世は長い。探路用の囮として使うなら、多少は役に立つかもしれない。

 俺は手に集めていた雷を消し、彼女の言葉に動かされたようなふりをした。

「いいだろう。お前も脅されていたというなら、一度だけ機会をやる」

 美羽は大喜びで、何度も頭を下げた。

「ありがとうございます! ありがとうございます、先輩!」

 俺は床で半死半生の黒川を指差した。

「お前は治癒系だ。あいつを治せ」

「しばらくしたら市内の避難区域へ向かう。あいつには人間の囮として使い道がある」


 美羽は一瞬固まった。だが、俺の冷たい目を見ると逆らえないと悟ったのか、黙って従った。彼女の掌に淡い白い光が浮かび、黒川の傷口を覆う。骨の周囲に肉が戻り、出血が止まり、傷がゆっくりふさがっていった。だが、治癒には彼女の体力を大きく消耗するらしい。

 治療が終わると、美羽は糸が切れたように床へ座り込み、荒い息を吐いた。命を拾った黒川は、何度も美羽に感謝している。

 俺は収納リングから賞味期限の切れかけたソーセージを二本取り出し、床へ投げた。

「食え」

「食ったら出発だ」

 二人は飢えた犬のように飛びつき、包装袋についた油まで舐め尽くした。


 それから数日、俺は二人を連れて東京の廃墟を歩いた。危険な場所へ差しかかれば、黒川を蹴り出して敵の注意を引かせる。見慣れない変異植物を見つければ、美羽に触らせて毒の有無を確かめた。二人は生きているのが不思議なほど傷だらけになったが、休憩のたびに美羽が異能を使って黒川を治し、死なない程度に保たせた。

 毎日、二人に与えるのは俺の食べ残しだけだった。惨めに生き延びようとする姿を見ていると、胸に溜まっていた重い怒りが少しずつ薄れていくのを感じた。


 その日、俺たちは渋谷の廃地下街に入った。レーダーには、ここに三階級の首領級変異獣がいると表示されていた。そいつを倒せば、終末雷嵐を第二段階へ上げられる。

 地下街は暗く湿っていて、血と腐臭が混ざった匂いが充満していた。黒川は足を引きずりながら前を歩き、恐怖で体を震わせている。

「な、鳴神さん……ここは嫌な感じがします」

「暗すぎます。別の道にしませんか?」

 俺は彼の尻を蹴った。

「黙って進め」

「立ち止まったら、その場で殺す」


 突然、暗い天井に二つの赤い灯りが浮かんだ。小型トラックほどもある変異蜘蛛が、音もなく降りてきた。三階級首領、血喰い魔蜘蛛。牙の並んだ口を開き、巨大な白い蜘蛛の巣を吐き出して、俺たち三人をまとめて捕らえようとした。

 俺は外骨格の推進機能を使い、軽く横へ跳んで避けた。だが足の悪い黒川はまともに網を浴び、そのまま捕らえられる。

「助けてください! 鳴神さん!」

 黒川は必死にもがいたが、蜘蛛の糸は鋼線のように締まり、肉へ食い込んでいく。美羽は柱の陰で口を両手で押さえ、声すら出せずに震えていた。

 俺はすぐには動かなかった。腕を組み、壁にもたれて成り行きを眺める。血喰い魔蜘蛛は糸を伝って降りてくると、一本の脚で黒川の肩を貫き、その巨体を宙に吊り上げた。黒川が絶叫し、血が脚を伝って床に落ちる。


 そのとき、美羽が動いた。彼女は黒川を助けるのではなく、地下街の別の出口へ全力で走り出した。走りながら叫ぶ。

「助けて! ここに怪物がいます!」

 魔蜘蛛が黒川を食っている隙に、他の生存者の注意を引きつけて自分だけ逃げるつもりだった。黒川は絶望しながら美羽の背中を見つめ、口汚く罵った。

「白石美羽! この裏切り者!」

「俺が今までどれだけブランド品を買ってやったと思っている! 見殺しにするのか!」

 魔蜘蛛は彼がうるさいと思ったのか、その頭の半分を一口で噛み切った。黒川は、この暗い地下街であっけなく死んだ。


 俺は魔蜘蛛が食事を始めるのを眺めながら、手の中に雷光を集めた。

「腹は満たされたか?」

「なら、もう行け」

 狂暴な雷が地下街全体を照らした。俺は高く跳び上がり、外骨格の推進機関を轟かせる。

「終末雷嵐、二段充填」

 水桶ほどの太さを持つ紫の雷が天井を裂くように落ち、魔蜘蛛の背を正確に撃ち抜いた。

 轟音が響いた。魔蜘蛛が耳障りな悲鳴を上げ、鉄のように硬い甲殻が砕けた。緑の体液が飛び散り、床を腐食させる。

 魔蜘蛛は鋭い前脚を振り上げて反撃しようとする。俺はその脚をつかみ、外骨格の膂力で無理やり引き千切った。

 魔蜘蛛は苦痛で暴れ回った。俺は雷をまとった拳を叩き込み、その頭部を粉砕する。巨大な体が崩れ落ち、周囲に煙が舞った。拳ほどの大きさの、紫の光を帯びた変異核が床に転がる。


 俺はそれを拾い上げた。頭の中で、システムの通知が鳴る。

【三階級首領を撃破。異能熟練度が上限に到達しました】

【終末雷嵐がLv2へ進化しました。受動技能:雷霆領域を解放しました】

 俺は満足して変異核を収納し、地下街の出口へ視線を向けた。美羽はさっき、兎より速く逃げていった。だが、逃げきれるはずがない。外骨格のレーダーは、とっくに彼女の熱反応を捕捉していた。


 6.黒獅子隊の庇護

 俺は美羽が残した熱反応と足跡をたどり、急がずに地下街を出た。地上に上がると、廃墟となった広場から騒がしい声が聞こえてくる。武装した生存者の車列が、広場に停まっていた。

 車両はどれも改造されていて、屋根には自衛隊の補給車から奪ったと思われる軽機関銃が据えつけられている。車体には黒い獅子のマークが描かれていた。この一帯で悪名高い武装集団、黒獅子隊だ。彼らは生存者から物資を奪うだけでなく、自衛隊の輸送ルートまで襲撃していた。


 車列の中央で、美羽は迷彩服を着た大柄な男に寄りかかって泣いていた。その男の名は獅子堂豹吾。廃墟では、豹の兄貴と呼ばれている。

「豹の兄貴、お願いです。私のために何とかしてください!」

「鳴神悠真って男が、私の社長を残酷なやり方で殺して、そのうえ私にひどいことをしようとしたんです!」

「やっと逃げてきたんです」

 豹吾は美羽の太ももを撫でながら、下卑た光を目に浮かべた。

「安心しな、小娘」

「俺がいれば、誰が来ても跪くしかねえ」

 周囲の手下たちも声を上げて笑った。

「そうだ。黒獅子隊は渋谷廃墟の王だぞ!」

「その男を捕まえたら、男は犬の餌にして、女はこっちで好きに使わせてもらおうぜ!」


 俺は影の中から歩き出し、低く笑った。

「そうか? なら、どうやって俺を跪かせるのか見せてもらおう」

 俺が姿を見せた瞬間、美羽は悲鳴を上げ、豹吾の胸にしがみついた。

「豹の兄貴、あいつです!」

「あいつ、物資をたくさん持っているんです。それに、ものすごい高性能の機甲装備も!」


 物資と機甲装備。その言葉を聞いた瞬間、豹吾の目が光った。彼は美羽を押しのけ、重機関銃を抱えたまま俺の前へ歩いてきた。上から下まで俺を眺め、地面に唾を吐く。

「小僧、その機甲装備を脱げ。ついでに物資も全部出せ」

「機嫌がよければ、死体の形くらいは残してやる」

 俺はこの死に急ぐ暴徒たちを見て、呆れて首を振った。

「お前らは、獲物と狩る側の区別もつかないのか」

「怪物だらけの廃墟を、俺が一人で歩いている。なぜだと思わないのか?」


 豹吾は激怒し、顔の肉を歪めた。

「死ぬ寸前まで偉そうにしやがって!」

「撃て! こいつを肉片にしろ!」

 数十丁の自動火器が同時に火を噴いた。弾丸が雨のように俺へ降り注ぐ。後ろでは、美羽が興奮したように拳を振っていた。

「撃って!」

「その役立たずを殺して!」


 次の瞬間、全員の笑顔が固まった。弾丸は外骨格アーマーに当たっても、細い傷ひとつ残せなかった。乾いた金属音を立てて、次々と床へ落ちていく。

 俺は肩についた灰を軽く払った。視線は冷えきっていた。

「終わったか?」

「次は俺の番だ」

 俺は右足を上げ、地面を強く踏みつけた。

「雷霆領域」

 轟音が広場を揺らした。俺を中心に、半径百メートルの地面が紫の雷の海へ変わる。狂暴な電流が地を這い、逃げ場のない波となって広がっていった。

 数十人の暴徒は悲鳴すら上げられず、一瞬で高圧電流に焼かれて炭になった。数台の大型SUVにも雷が走り、燃料タンクが爆発する。

 火柱が夜空へ上がり、熱風が赤い霧を揺らした。一撃で全滅だった。広場には静寂だけが落ちた。燃える車両のはぜる音と、濃い焦げ臭さだけが残っている。


 豹吾は少し離れていたうえ、厚い絶縁防護服を着ていたため、かろうじて生き残っていた。だが、すでに完全に戦意を失っている。熱を持った銃を投げ捨て、その場で膝をつき、必死に頭を下げた。

「兄貴! いや、爺さん! 俺が悪かった!」

「全部あの女が言ったことです! 俺はあんたと何の因縁もない!」

「見逃してください! 俺なんて屁みたいなもんです!」


 美羽は呆然としていた。自分は新しい後ろ盾を見つけ、俺を殺させられると思っていたのだろう。だが、数十丁の銃を持つ黒獅子隊でさえ、俺の前では蟻にもならなかった。彼女は這うように俺へ近づき、また足にすがろうとした。

「悠真先輩! さっきのは全部嘘です!」

「敵に入り込むために、あの人たちに従っているふりをしていただけなんです!」

「許してください。これからは本当に犬になります。先輩の言うことなら、何でも聞きます!」

 俺は彼女を蹴り飛ばした。美羽は廃車に叩きつけられ、痛みで体を丸める。その醜い姿を見ても、俺には嫌悪しか湧かなかった。

「美羽、お前は世界で自分だけが賢いと思っているのか?」

「他人は全部、お前の都合よく動く人形だとでも?」


 俺は豹吾の前に立ち、見下ろした。

「命が惜しいか?」

 豹吾は何度も頷いた。額は血だらけだった。

「惜しいです! 見逃してくれるなら、黒獅子隊の物資も武器も女も、全部あなたに差し出します!」

 俺は地面で咳き込む美羽を指差した。

「あの女を殺せ」

「そうしたら逃がしてやる」


 美羽の顔から血の気が消え、悲鳴を上げた。

「鳴神悠真! そんなことできるわけないでしょ!」

「私は治癒系異能者よ! 人類に必要な存在なのよ!」

 だが豹吾はためらわなかった。脚に差していた軍用ナイフを抜き、獣のように美羽へ飛びかかる。

「この女! てめえのせいで、俺はこの人を怒らせたんだ!」


 ナイフが美羽の胸に突き刺さった。彼女は目を見開き、俺を凝視したまま、口から血を吐いた。治癒異能が本能的に白く光り、致命傷を修復しようとする。

 だが豹吾はすでに正気を失っていた。ナイフを抜き、何度も、何度も突き刺す。血が地面を赤く染めた。やがて、美羽の手に灯っていた白い光は完全に消えた。

 オフィスで偉そうに振る舞い、末世になってからも裏切り続けた女は、そこでようやく息を引き取った。


 豹吾は血まみれの手を上げ、歪んだ媚び笑いを浮かべた。

「爺さん、殺しました」

「これで、逃がしてもらえますよね?」

 俺は彼を見て、かすかに笑った。

「いつ俺が逃がすと言った?」

 豹吾の笑顔が凍りついた。

「あんた、さっき確かに……」

「嘘だ」

 俺は手を上げた。紫の雷光が一瞬だけ走り、豹吾の眉間を貫いた。彼は仰向けに倒れ、目を見開いたまま動かなくなった。

「お前らみたいな人間のクズ相手に、信用なんて必要ない」

 俺は焦げた死体をまたぎ、黒獅子隊が残した物資車へ向かった。扉を開けると、中には軍用缶詰、ミネラルウォーター、救急セット、高性能爆薬が箱ごと積まれていた。俺は遠慮なく手を振り、すべて収納リングへ収めた。


 赤い月は夜空の高いところにあり、霧はまだ渦を巻いていた。遠く、東京の廃墟の奥から、さらに高階級の変異獣が放つ恐ろしい咆哮が聞こえる。

 俺は血と硝煙の混じった空気を深く吸い込んだ。

 かつてオフィスで誰にでも踏みにじられ、数万円の給料のために黙って耐えていた契約社員は、赤い月が降りた夜に死んだ。

 今の俺は、この廃土でただ一人の雷霆の支配者だ。


 頭の中で、システムの機械音が再び響いた。

【宿主が初級掃討任務を完了したことを確認しました】

【メイン任務を更新します:雷霆帝国を築き、廃土を粛清せよ】

【任務報酬:位面跳躍機能を解放します】

【受諾しますか?】

 俺は果てしない廃土を見つめた。機甲のバイザーの奥で、視線は冷えきっていた。

「受ける」


 外骨格の背部推進機関が、眩い青い炎を噴き上げた。俺は闇を引き裂く稲妻となって、霧の最深部へ飛び込んでいく。

 この壊れた世界は、まだ始まったばかりだ。そして、俺の時代はもう始まっている。

 ——完——



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