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第3話 タバコと雨

 


 学校での孤立は、決定的なものになりつつあった。

 階段を上っている時、後ろから駆け上がってきた生徒と肩がぶつかった。


 ドンッ、という衝撃で体が壁に押し付けられる。

「あ、わりぃ」という声と、走り去る後ろ姿の映像。


 そこから三歩歩いて、ようやく「痛っ」という鈍い感覚が肩に走った。


 痛覚の遅延。

 自分の肉体が傷ついていることすら、リアルタイムで認識できない。俺はもう、ただの動く肉の塊にすぎないのではないか。


 昼休み。

 信彦は、職員室の前に立っていた。

 このままではダメだ。誰かに助けを求めなければならない。親でも、医者でも、担任でもいい。自分が今どういう状況にあるのか、この狂った症状を説明して、正常な世界に繋ぎ止めてもらわなければ。


「……先生」


 デスクでパソコンに向かっていた河口が、面倒くさそうに顔を上げた。


「なんだ轟。進路希望のプリントなら、とっくに期限過ぎてるぞ」


 河口の口が、はっきりとそう動いた。

 しかし、音声は聞こえない。


 一秒。二秒。


 不気味な静寂の中で、河口がいぶかしげに眉をひそめる。

 その映像を見つめている信彦の耳に、ようやく『なんだ轟』という無機質な音声データが叩きつけられた。


 ダメだ。

 こんな状態では、まともに会話すら成立しない。電話で親に助けを求めたとしても、俺が口を開く前に相手の声が聞こえてしまう。そんな狂気の世界を、親や教師に理解できるはずがない。気味悪がられて、病院の閉鎖病棟にでも放り込まれるのがオチだ。


「轟? どうした」


 遅れて届く河口の声に耐えきれず、信彦は何も言わずに踵を返し、その場から逃げ出した。

 助けを求める回路は存在していた。だが、それはもう完全に機能不全を起こしていた。


 帰宅。

 親はまだ帰っていない。


 信彦はカバンを床に放り投げ、自室の机の前に立った。

 机の端には、提出期限を過ぎた『進路希望調査』のプリントが、白紙のまま無造作に置かれている。


 怒りが、唐突に湧き上がった。

 俺は、こんな紙切れ一枚に自分の未来を書くことも許されないのか。

 怪異に魅入られる前から、俺は普通の人間としての足場が薄かった。だからあいつに「なりかけ」なんてレッテルを貼られたんだ。


「ふざけんなよ……!」


 信彦は白紙のプリントをぐしゃぐしゃに丸め、誰もいない部屋の壁に向かって思い切り投げつけた。


 紙屑が壁にぶつかり、床に落ちる。

 カサッ、という乾いた音が、やはり遅れて響く。


「ふざけんな……」


 怒鳴り声も遅れる。

 その直後だった。信彦は、自分が今、一体何に対して怒っているのか、ふっと分からなくなった。


 理不尽な世界に対してか? モスマンに対してか? それとも、何もできない自分自身に対してか?

 怒りを燃やすためには、「自分」という燃料が必要だ。だが、その自己がもう空っぽになりかけている。

 信彦は床に転がった紙屑を見つめたまま、ただ乾いた笑いを漏らした。


 気晴らしに、テレビの下のゲーム機を起動する。

 やりかけのRPG。コントローラーを握る。


 画面の中で、派手なエフェクトと共にタイトルロゴが爆発する。

 ドォン、という重低音が、画面が切り替わった後にスピーカーから鳴り響く。

 気持ち悪い。三半規管がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような吐き気。


 コントローラーを持った手が震え、信彦は即座にコンセントから電源コードを引っこ抜いた。

 かつて好きだったもの、時間を忘れて没頭できたものは、もう俺の世界には存在しなかった。




 ********************




 その日の夜は、激しい雨だった。

 窓ガラスを叩きつける雨粒。

 信彦はいつものように、部屋の電気を消し、窓を開けて待っていた。

 だが。


 太い手すりの上にも、パイプ椅子の上にも、誰も来なかった。

 あいつがいない状態で、世界の音のズレに一人で向き合わなければならない恐怖。

 窓の外の街灯に照らされた雨粒の映像と、ザアアアという激しい雨音が完全に分離し、暴力的なノイズとなって部屋を満たし続ける。


「……なんで、来ないんだよ」


 すがるような、情けない声が口からこぼれた。

 自分がどれほどあの怪異に――あの完璧に同期したタバコの咀嚼音に依存しているか、痛いほど思い知らされた夜だった。

 朝まで、一睡もできなかった。


 翌晩。

 雨が上がり、生ぬるい風が戻ってきた夜。

 サッシを開けると、モスマンは何事もなかったようにパイプ椅子にだらしなく座り、タバコを食っていた。


「……」


 信彦はベッドの端に座り、彼女を見つめた。


『昨日、来なかったな』


 喉まで出かかったその一言を、俺は力任せに飲み込んだ。

 それを言ってしまえば、自分が完全にこいつに依存していることを、待っていたことを認めてしまう気がしたからだ。


「なあ」


 沈黙に耐えきれず、俺は口を開いた。


「吸血鬼の噂、知っとるか」


 俺の言葉を遮るように、モスマンが抑揚のない関西弁で切り出した。

 赤いパッケージから、今日四本目のタバコを取り出している。

 昨日来なかったことなど、微塵も気にしていないような平坦な態度。


「……吸血鬼? ニンニクとか十字架に弱い奴だよな。そんなの映画の中だけだろ」

「アホか。そんなクラシックなもん、今の時代におるかいな」


 モスマンは鼻で笑うと、タバコを口に放り込んだ。


 ボリボリボリッ。


 連続して噛み砕く、不快で完璧な音。


「今の吸血鬼はな、血ぃなんか吸わん。もっと効率のええもんを吸うて生きとるんや」

「効率のいいもの?」

「人間の、負の感情や」


 モスマンは、椅子の背もたれから身を起こした。


「ストレス、疲労、絶望、自己嫌悪。人間社会におったら、嫌でも溜まるゴミみたいなもんやろ。吸血鬼は、そういうドロドロしたもんを餌にしとる。夜の繁華街とか、終電間際の駅のホームとか、そういう吹き溜まりに紛れ込んでは、しんどそうな奴に声かけて回るんや」

「で、吸われた人間はどうなるんだよ。死ぬのか?」

「死なんよ。むしろ、すっきりした顔で家に帰るわ」


 モスマンは退屈そうに羽を揺らした。シャリ、と微かな音が鳴る。


「吸血鬼はな、対象を殺さん。殺したら餌が減るだけやからな。しんどいの、全部吸ってくれるんやで? 嫌な記憶も、抱えきれんストレスも、綺麗さっぱり無くなる。……せやけどな」


 彼女の視線が、俺の足元を舐めるように動いた。


「吸われた部分は、ぽっかり穴が開く。感情の起伏がなくなって、ただ息しとるだけの空っぽの案山子になる。それでも、また新しいストレスが溜まったら、自ら進んで吸血鬼のところへ並ぶんや。『また吸ってくれ』言うてな。搾取されとることも気づかんと、喜んで自分を差し出すんや」


 ボリッ。

 最後のフィルターを飲み込み、モスマンは俺をまっすぐに見据えた。


「どっちが悪やと思う?」


 唐突な問いだった。


「人間の弱みに漬け込んで、中身を空っぽにするまで搾取する吸血鬼か。それとも、しんどいことから逃げるために、自分の存在すら売り渡す人間か」


 常識で考えれば、搾取する吸血鬼が悪に決まっている。人間の弱みにつけ込むなんて最低の行為だ。


 だが。

 俺の脳裏に、昼休みの教室でノイズに耐えきれず孤立する自分の姿や、白紙のプリントを壁に投げつけても怒りすら湧かなかった空っぽの感覚がフラッシュバックする。

 口から出かかった「吸血鬼だろ」という言葉を、どうしても音声として出力することができなかった。


 しんどいの、全部吸ってくれるんやで?


 その言葉が、悪魔の囁きのように脳内でループした。

 もし今、目の前にその吸血鬼がいたら。俺は、この音が遅れて聞こえる吐き気のするような日常の「疲弊」を、こいつに吸い取ってくれと懇願しない自信があるだろうか。


 学校で孤立していく恐怖も、自分が何者か分からなくなっていく絶望も、全部無かったことにしてくれるなら。

 空っぽの案山子になったって、別にいいんじゃないか?


「……搾取される側も、悪くないだろ」


 俺の口からこぼれ落ちた声は、自分でも信じられないほど弱々しく、かすれていた。

 部屋の空気が、ピタリと止まった。


「だって。それで楽になるなら……別にいいだろ。どうせ自力じゃ治せないピントのズレ抱えて、毎日毎日すり減って生きていくより……空っぽになった方が、よっぽどマシだ」


 ズルッ、と。

 俺の中で、人間としての尊厳のようなものが滑り落ちた音がした。

 自分でも気づかないうちに、俺は「逃避」という甘い蜜に手を伸ばしていたのだ。


 モスマンが、タバコを取り出そうとしていた右手を空中で静止させていた。

 だるそうだった半目の視線が、ゆっくりと俺に向けられる。

 その瞳の奥。

 ずっと感情が抜け落ちていたはずの平坦なガラス玉の奥底で、見えない傷口を力任せに抉られたような、生々しい痛みの色が閃いた。


「……それ、言うんや」


 彼女の口から漏れた声は、先ほどまでの軽口とは全く違う。地を這うような、ひどく冷たくて、泣き出しそうなほど脆い響きを含んでいた。

 虹色の羽が、小刻みに震えている。

 俺は、自分が踏んではいけない地雷を無自覚に踏み抜いてしまったことを悟った。

 サッシから入り込む風が、ひどく冷たく感じる。


「……前にも、おったんや」


 モスマンは、俺から視線を逸らし、ベランダの向こうの暗闇を見つめながら、ぽつりと漏らした。


「お前みたいに、ピントがズレて……毎日しんどい、しんどい言うて、うちの袖を引く奴が」


 俺は息を呑んだ。


「そいつは……どうなったんだよ」


 モスマンは、タバコを噛むのを完全にやめていた。

 しばらくの沈黙の後。


「……まあ、色々や」


 彼女はそれ以上、何も語らなかった。

 ただ、赤いパッケージを握りしめる彼女の指先が、微かに白くなっていたことだけが、俺の網膜に焼き付いていた。



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