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第1話 違和感と月の蝶

 

 数人の生徒が黒板をチョークで叩く、甲高く乾いた音。

 窓の隙間から吹き込む初夏の生ぬるい風が、プリントの端をばたばたと揺らしている。


 斜め前の席で、西久保が体を大きく後ろに仰け反らせながら声を上げて笑っていた。


「――だからさ、昨日のあれ、マジでヤバかったって!」


 西久保が口を大きく開け、その喉の奥から空気が押し出されるのと全く同時に、鼓膜が震える。

 廊下を走る下級生のスニーカーが床を擦るキュッという摩擦音も、遠くのグラウンドから聞こえる吹奏楽部のチューニングの音も、何もかもが完璧なタイミングで重なり合っている。


 世界は映像と音声の同期という当たり前の物理法則の上に、堅牢に成り立っていた。

 退屈で、何の変哲もない、ただの日常。


「轟、お前も見てただろ? あの芸人がドッキリ仕掛けられたとこ」

「見てた。っていうか、お前笑いすぎだろ。机揺れてるぞ」


 俺は手に持っていたシャープペンの尻で、西久保の背中を軽く小突いた。


「いてっ。いや、だってあれは反則だろ」


 西久保が肩を竦め、またゲラゲラと笑い出す。

 俺も釣られて、口元を緩める。


 自分がここにいて、西久保がそこにいて、同じ空気を吸って同じ音を聞いている。

 自分が「轟信彦とどろきのぶひこ」という人間であることに、微塵の疑いも持っていなかった頃。


 熱を出す、三日前のことだ。


 放課後の帰り道だった。

 霧守町には、昔から古い言い伝えがある。


『朝になると必ず霧が立ち込めて、外から人が入ってこられなかったから、霧守と呼ばれた』


 怪異を外に出さないための結界。

 誰から聞いたのかすら思い出せないそんなどうでもいい由来を、なぜかその時、不意に思い出した。


 寂れたトタン屋根が続く路地の奥。

 薄暗い電柱の陰に、輪郭のぼやけた黒い影が立っているのを見た、気がしたのだ。

 立ち止まり、目を凝らそうとした。


 しかし、朝でもないのに、唐突に足元から乳白色の薄い霧が立ち込め、ぬるりとした感触と共に視界を白く遮った。


 気のせいか。

 目をこすり、再び目を開けた時にはもうそこにはただの薄汚れたブロック塀があるだけだった。


 なんだ、ただの目の錯覚か。

 信彦は、カバンの持ち手を握り直し、足早に家路を急いだ。

 あの時、自分が何に魅入られたのか。

 もっと早く、全力で逃げていれば。




 ********************





 ――ボリッ。




 最初は、キッチンの古い冷蔵庫が製氷機に氷を落とした音だと思った。

 だが、方向が違う。

 音は一階からではなく、どう考えても薄いカーテン一枚を隔てた窓の向こう。

 少し広めに作られた二階の自室のベランダから聞こえていた。


 ボリッ。ボリッ。


 乾いた小枝を噛み砕くような、いや、もっと人工的な。

 例えば、プラスチックのペンキャップを奥歯で無理やりすり潰しているような、耳の奥が痒くなる嫌な音だ。


 ベッドの中で、轟信彦は重い瞼をこじ開けた。

 三十八度近い熱を出して、学校を三日休んでいる。解熱剤のせいで首筋にはべっとりと寝汗が張り付き、着古したスウェットの襟元が肌にまとわりついてひどく不快だった。


 時計の針は深夜の二時を回っている。

 部屋の暗さと、外から入り込んでくる不自然なほど青白い光の強さ。

 ここ霧守町は、夜になると異常なほど静かになる。山に囲まれた盆地という地形のせいなのか、それとも単に過疎化が進んだ田舎だからなのかは知らないが、とにかく音が泥水に吸い込まれるように消えるのだ。


 この家には今、信彦しかいない。

 父親は今週いっぱい地方への出張で不在。看護師の母親は、今日は夜勤のシフトに入っている。


 夕方、リビングのテーブルには『遅くなる。冷蔵庫の弁当ちゃんと温めて食べて』という走り書きのメモと、スーパーの袋がぽつんと置かれていた。

 つまり、深夜の二時に、二階のベランダに誰かがいるはずはないのだ。


 ボリッ。


 また鳴った。


 信彦は仰向けのまま、シミの浮いた天井の木目をじっと見つめた。

 泥棒だろうか。


 いや、わざわざ足場もない二階のベランダに、しかもわざわざ少し広い作りのウチのベランダによじ登ってくる泥棒がいるか? 

 しかも、忍び込んだ先で何かをバリバリと食っている泥棒なんて聞いたことがない。


 そもそもウチには盗まれて困るような現金なんて置いてないし、一番金になりそうなのはテレビの下にあるゲーム機くらいだ。

 仮にゲーム機を盗まれたとしても、セーブデータはクラウドに上がっているから最悪の事態は免れる。


 いや待て、先週買ったばかりのRPGは、まだクラウド同期の設定をしていなかった気がする。あれを最初からやり直すのは絶対に嫌だ。チュートリアルがアホみたいに長くて、スキップもできなかったんだぞ。


 などと。

 どうでもいいことを必死に並べ立てて、信彦は自分の心拍数を強制的に落ち着かせようとした。


 だが、現実は甘くない。


 ――ボリボリボリッ。


 今度は連続だった。しかも、さっきより明らかに音が大きい。


 おかしい。

 何かが決定的におかしい。


 信彦はゆっくりと上半身を起こした。高熱のせいで関節が軋み、頭蓋骨の内側を鉛で叩かれているような痛みを訴えたが、それどころではない。


 フローリングの床に素足を下ろす。

 ヒヤリとした冷たさが、足の裏からふくらはぎを伝って這い上がってくる。

 部屋の空気は重く淀んでいるのに、窓を覆う遮光カーテンが、まるでゆっくりと深呼吸でもしているかのように微かに揺れていた。


 風などない。窓は鍵をかけて、しっかりと閉まっているはずなのだ。


 見なかったことにして、布団を頭まで被る。

 その選択肢が頭の隅をよぎる。それが一番賢い。ホラー映画で真っ先に死ぬのは、得体の知れない音の正体を一人で確かめに行くバカと相場が決まっている。


 しかし、信彦は歩き出していた。

 恐怖よりも、「状況を論理的に把握したい」という欲求が勝っていたのだ。

 得体が知れないまま、朝までビクビクして布団の中で震えて過ごすなんて、精神衛生上悪すぎる。


 泥棒なら大声を出して警察を呼べばいいし、もし野良猫が迷い込んで虫の死骸でも食っているのだとしたら、窓を叩いて追い払えば済む話だ。


 足音を殺して、窓際に近づく。

 カーテンの隙間から、やけに強い月明かりが床のフローリングに白い線を引いている。


 信彦は息を止め、右手でカーテンの端を掴んだ。

 そして、一気に引き開けた。


 窓ガラスの向こう。

 少し広めのベランダに設置された、太めのアルミ製の手すりの上に。

 そいつは「しゃがんで」いた。

 いや、しゃがんでいるという表現は正確ではない。


 鳥が電線に止まるような、物理法則を完全に無視した重心の置き方で、そいつは太い金属の棒の上にちょこんと乗っていた。


 白髪だった。

 月の光を反射して青白く光る、ボサボサの白髪。

 ぶかぶかの黒いロングシャツに、くすんだ赤色のパンツ。足元は裸足で、汚れの目立つ爪先が、手すりの金属を鷲掴みにするように異様な角度で曲がっている。

 全体的なシルエットは「少女」だった。歳は信彦と同じくらいか、少し下かもしれない。


 だが、そんな人間的な特徴などどうでもよくなるほどの異常が、彼女の背中にはあった。


 羽だ。


 巨大な、教会のステンドグラスの破片をデタラメに叩き割って繋ぎ合わせたような、毒々しい虹色の蝶の羽。

 それが、彼女の背中から生えていた。

 広めのベランダでも収まりきらず、羽の端が外壁のタイルに擦れて、シャリ、シャリ、とガラスの粉をこぼすような微かな音を立てている。


 信彦の脳髄が、理解を完全に拒絶してフリーズした。

 熱のせいだ。高熱が見せている幻覚だ。そうに決まっている。


 しかし、窓ガラスを隔てた至近距離にいるその少女は、信彦と目が合っても全く動じる様子がなかった。


 彼女の左手には、くしゃくしゃに潰れた赤いパッケージが握られており、そこから白い小さな棒状のものを抜き出した。

 少女はだるそうな、ひどく退屈そうな半目で信彦を見つめ返したまま、それを口に運んだ。


 ボリッ。


 信彦は見た。

 少女が、フィルター付きの紙巻きタバコを、火もつけずにそのまま奥歯で噛み砕くのを。

 乾燥したタバコの葉がパラパラと口の端からこぼれ落ち、ベランダのコンクリートの床を茶色く汚していく。


「――いや待て」


 気がつけば、信彦は窓のクレセント錠を開け、サッシを勢いよく引き開けていた。

 初夏の生ぬるい空気が、コンクリートの埃っぽい匂いと、微かな焦げ臭いタバコの匂いと共に部屋に流れ込んでくる。


「おかしいだろ。なんだお前。なんでタバコ食ってんだよ」


 恐怖で叫ぶでもなく、逃げ出すでもなく。

 信彦の口から飛び出したのは、あまりにも直情的なツッコミだった。


 自分でも何を言っているのか分からなかった。背中の巨大な羽とか、物理法則を無視して手すりの上に止まっている異常性とか、突っ込むべきポイントは他にいくらでもあるはずなのに。

 脳が処理の限界を超えて、「タバコを食べている」という最も俗っぽいバグにだけ過敏に反応してしまったのだ。


 少女は、顎を動かすのをピタリと止めた。

 口の端から茶色いタバコの葉をだらしなくぶら下げたまま、ゆっくりと瞬きを一つする。


 長い沈黙が落ちた。

 遠くで、国道を走る長距離トラックの重低音が響き、消えていく。


「……なんや」


 少女の口から漏れたのは、ひどく平坦で、感情の起伏がすっぽりと抜け落ちたような関西弁だった。


「ツッコミどころ、そこなん?」


 ゴクリ、と。少女は口の中のタバコを飲み込んだ。信彦の喉仏がそれにつられて上下する。


「そこだろ。どう考えてもおかしいだろ。タバコは火をつけて煙を吸うもんだ。食うもんじゃない。あと、未成年はそもそもダメだろ」

「未成年て。うちの歳、いくつか知っとるんか」

「知らないけど! どう見ても俺と同じくらいだろうが!」

「……ふうん」


 少女は興味なさそうに視線を逸らすと、赤いパッケージからもう一本タバコを取り出した。そして、また何の躊躇いもなく口に放り込み、ボリッと噛み砕く。


「人間の捨てたもんを食うのが、うちらの流儀や」


 信彦は頭を抱えそうになった。

 異常だ。目の前にいるこいつは、間違いなく人間ではない。逃げなければならない。すぐに窓を閉めて、部屋に鍵をかけて、警察に……いや、警察がこんなものを相手にしてくれるはずがない。


 頭の警鐘はガンガン鳴り響いているのに、信彦の両足はベランダの床に縫い付けられたように動かなかった。

 なぜなら、会話が成立してしまっているからだ。

 だるそうにタバコを食いながら、中途半端な距離感で言葉のキャッチボールができてしまうなんて、想定外すぎる。


「お前……何者だ」


 信彦はようやく、一番根源的な問いを口にした。声が少しだけ掠れていたのは、熱のせいだと思いたかった。


 少女はタバコを咀嚼しながら、再び信彦の方を見た。

 その視線は、先ほどまでの「ただそこにあるものを見る」ような無関心なものではなかった。


 値踏み。


 はっきりと、そう感じた。


 まるで、スーパーの精肉コーナーで、消費期限ギリギリで変色しかけたひき肉のパックを手に取り、買うべきか捨てるべきか吟味しているような。

 ひどく冷徹で、実務的な視線。


 信彦の背筋を、冷たい汗がツーッと流れ落ちる。

 こいつは、ヤバい。


「……うちか」


 少女はぽつりと呟いた。


「うちは、人攫いや」


 人攫い。その単語が、生ぬるい夜風に乗って信彦の鼓膜を叩く。


「人間界の裏でコソコソやっとる、回収業者みたいなもんやな。ルール破ってこっち側に半分足突っ込んでもうたバカどもを、ゴミ袋に詰めて持っていくのが仕事や」

「じゃあ……俺を、攫いに来たのか」


 論理的だ。パニックになりかけている脳内で、その結論だけが妙にストンと腑に落ちた。

 だから自分はこんな怪異を見ているのだ。


 だが。

 少女は、じっと信彦を見つめたまま、動かなかった。


 虹色の羽が、バサリと一度だけ大きく羽ばたく。


 1秒。2秒。3秒。


 信彦は息を止め、全身の筋肉を硬直させた。

 しかし、少女はふいっと視線を逸らし、大きく息を吐き出した。タバコの焦げた匂いがする、ひどく重い、ため息だった。


「……いや。ちゃうな」


 彼女は手すりの上で立ち上がった。不安定な足場であるはずなのに、微塵もグラつかない。


「今回は、見逃したるわ」

「……は?」

「せやから、見逃したる言うとんねん」


 少女は面倒くさそうに首の後ろを掻いた。


「お前、なりかけやけど、まだセーフや。ギリギリな。……いや、ホンマはアウトなんかもしれんけど、今はよう分からん」


 何を基準に判断されているのか、全く分からない。信彦が問い返そうと口を開きかけた瞬間、少女の身体がフワリと宙に浮いた。

 物理的な重力から完全に解放された、ぞっとするほど軽やかな浮遊。


「なんやその顔。攫われんで良かったって、喜ぶとこやろ」


 空中に浮かんだ少女は、見下ろすように信彦を見た。

 その瞳の奥に、一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ、強烈な「怯え」のようなものが混ざったのを、信彦は見逃さなかった。


「まあええわ。また来るかもしれんし、来んかもしれん。お前はせいぜい、自分がまだ人間やと思い込んどき」


 その言葉を最後に、少女の姿は夜の闇に溶けるように、唐突に掻き消えた。バサリ、という羽音の残響だけが、耳の奥にこびりついている。


 信彦は一人、ベランダに取り残された。

 助かった。攫われなかった。安堵して床にへたり込む場面だ。しかし、信彦の胸の内に湧き上がっていたのは、圧倒的な違和感だった。


 なぜ、選ばれなかったのか。

 あの怪物は、明らかに何かを躊躇い、意図的に職務を放棄した。


 遠くで、国道を走るパトカーのサイレンが鳴り始めた。


 ウゥゥゥ、という音が。


 信彦の耳には、パトカーの赤いランプが暗闇を照らす「映像」よりも、ほんのコンマ数秒だけ、遅れて聞こえていた。


 光の速度は秒速約三十万キロメートル。

 音の速度は秒速約三百四十メートル。

 雷が光ってから音が鳴るまでにタイムラグがあるように、遠くで起きている事象の視覚情報と聴覚情報にズレが生じるのは、純粋な物理法則だ。


 だから、おかしくない。



 ――いや待て。



 あのパトカーが走っている国道は、家のすぐ裏手だ。距離にしてせいぜい三十メートル。三十メートルぽっちの距離で、人間がはっきりと知覚できるほどのタイムラグが生じるか?


「……気のせいだ」


 信彦は声に出して言った。


 三十八度近い熱で脳が茹だっているから、視覚と聴覚の処理速度にバグが起きているだけだ。


 そう自分に言い聞かせながら、信彦は窓を閉めて乱暴に鍵のクレセント錠を回し、ベッドに潜り込んだ。


 しかし、鼻腔の奥には、焦げたような安物のタバコの匂いが、粘りつくようにいつまでも残っていた。



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