第二話 トアールの熱い夜 3
「手が震えてるわ。お酒のせい? 怒ってるの? それとも――剣が怖いのかしら?」
「くそっ、生意気言いやがって!」
セレナの左手が、鞘の端を押し込んだ。
ごッ、と鈍い打撃。喉元に押しつけられた衝撃が、男の意識の芯を断ち切る。
体から力が抜け、男はぐったりと床に崩れ落ちた。
次にセレナが男の仲間の方に視線を向けると、彼らは短い悲鳴を残して、蜘蛛の子を散らすように店を飛び出していった。
「……あれ、仲間じゃなかったの?」
セレナは剣を鞘ごと腰のベルトに戻す。
「強いんだね」
いつの間にか起き上がっていた青年が、自分の服の皺を伸ばしながら言った。
「先に手を出したのはあなたじゃない。白々しい。何が目的なの?」
警戒を顕に睨み付けたが、青年はどこ吹く風の表情だ。
「それより、なんで――」
その時。
青年の言葉を遮るように、ビキッ、と背骨の軋む音が響いた。
崩れていたはずの男の身体が、ぐらりと起き上がる。瞳は虚ろに見開かれ、唇からは言葉にならない謎の呻きが漏れ出ていた。
セレナの特別な目には、男の全身から零れる黒い糸が見えていた。
――人は誰しも、「魔力」を持つ。それが、セレナには多様な糸のように視える。
だが、男の魔力の糸はほつれ、そこから黒い靄が滲み出ていた。
「……やっぱり」
セレナが一歩下がったと同時に、男は操り人形のように立ち上がった。
ぎこちない関節の動きに似合わず、力だけが異様にこもっている。
ひゅっ、ひゅうっと、その口元から浅い息が聞こえた。額には脂汗がにじみ、身体が入り込んだ異物を拒絶しているかのように震えている。
男の太い喉の奥から、獣の唸り声のような、ぐるぐると濁った音が鳴った。そしてその身体からも、黒い煙が滲み出るように立ちのぼる。
「ひぃっ! の、呪いだぁっ!」
「黒い呪い……!」
遠巻きにいた客たちが悲鳴を上げ、我先にと逃げ惑う。
「ぎ、あ、あ、アアア……ッ!」
男の皮膚がざらりと波打つ。
その内側から、何かが這い出そうとしていた。骨の軋む音とともに、身体のあちこちが不自然な角度に揺れはじめる。黒い靄はさらに濃くなり、身体の輪郭が歪んでいく。
セレナは動かなかった。
その目には、黒い靄の正体――ほつれた魔力の《縒糸》が見えていた。
突進してくる男に、一歩、静かに前に踏み出す。
腰の剣に手をばした状態で、ただ静かに距離を測る。
ドンッ、と地鳴りのような衝撃共に、男の身体を中心に黒い靄が炸裂した。
それは爆発するというよりも、内側から破れたような衝撃だった。硝子や器が一斉に砕け散り、焼けつくような匂いが空気を満たす。
「くっ!」
青年は即座に魔法での結界を唱え、巻き込まれた客たちの前に展開した。だが、死角から迫る破片までは防ぎきれなかった。
「……っ!」
セレナは咄嗟に、破片の飛んで行った方向へと、身体を向けていた。
鋭い破片が腹をかすめ、焼けるような痛みが走る。
顔を歪めたセレナだったが、青年の胸を押し返してすぐに立ち上がる。
「こっちはいいから、店の人たちを下げさせて」
黒い靄に包まれた男が再び立ち上がっていた。
その目は虚ろだ。もはや人の意識は感じられない。
襲いかかる男に、セレナは身を斜めに逸らす。勢いを殺さず踏み込み、膝裏へ足を滑り込ませる。男の身体は制御を失い、体勢を崩した。セレナはその肩口に軽く手を添え、押した。
――トン。
重心を失った男の身体は、床に大きく叩きつけられた。
「アゥぅぅッ――グあああああ――!」
「触るからね」
セレナは倒れた背中を膝で押さえつけ、身動きを封じる。そして男の腕に触れた。指先を動かした瞬間、その手に黒い火が灯る。
「あなたはいま、ここに在るもの――」
魔力は細い糸のように身体の中を巡る、いわば生命力となるものだ。しかし、黒い潮に触れ汚染された糸は、ほつれて濁流に呑まれ、やがて存在を崩壊させる。
黒い靄の内側でほどけた《縒糸》。魔力の循環。
それはセレナの指先に導かれるように震え、ほつれた部分が炎に吸い寄せられるように絡み合った。
「糸よ、在るべきものへ留まれ」
指先から伝播した炎は男を包み、全身を覆う黒い靄を喰らい取るように燃やしていく。
一本、また一本と、鈍く染まった糸が白銀へと変わった。そしてそれは縫い直され、男の胸の奥へと戻っていく。まるで、裂けた布を針で縫い合わせるように。
やがて最後の糸が胸の奥へと戻ると、黒い靄は空中に霧散して消えた。
「……ふぅ」
がくりと崩れ落ちた身体を横たえると、セレナは男の指から指輪を抜き取った。それを布で包み、腰元の鞄へ収める。その仕草の裏で、わずかに膝が震えていた。
成功させるという強い意志があっても、セレナはいつもこの瞬間に緊張を覚えた。
一歩間違えれば、黒い潮の汚染を止められず、汚染された人間を殺めてしまうかもしれない――その恐怖があった。
周囲を見渡すと、机や椅子、チェス盤があちこちに散乱した店内は静寂に包まれていた。人々は隅へと押しやられたように縮こまり、怯えた瞳だけをこちらへ向けている。
「あ、えっと……」
セレナが問いかけると、店主は肩を震わせ、目だけで会話を拒んだ。――その表情に、セレナは自分がすっかり慣れてしまっていることを自覚した。
恐怖だ。
「化け物」という囁きが、縺れたように耳に入る。
セレナはため息をひとつ吐き、慣れた所作で左手の黒い炎を鎮めた。
「この男はもう大丈夫。水でもかけておけば、目を覚ますわ。呪いも残っていない」
背を向けようとしたその時、あの青年だけが静かに口を開いた。
「――さて。机と椅子がこのままだと、店としてやっていけないでしょう」
青年は軽くパチンと指を鳴らした。
すると、散乱した椅子や机が滑るように元の配置に戻り、粉々に崩れていたチェス盤も、駒一つずれることなく元の形に整列されていく。
(やっぱり、ただ者じゃない)
セレナのことを知っていたのだろうか。セレナがしたことに、あまり驚いていない様子だ。
「片づけは済みました。もう大丈夫でしょうか」
店主がぎこちなく立ち上がると、青年に深く頭を下げた。
「あ……、ありがとう、ございました。でも、その……あの……」
周囲の人々の視線がセレナに突き刺さる。
怯え、疑い、忌避の色。セレナは誰にも目を合わせようとしなかった。
目を見ずとも、自分に向けられる視線の意味に気づかないわけがない。
セレナは腰元の袋から数枚の銀貨を取り出し、机の上に置いた。そして盤面を見下ろすと、女王の駒を一手進めて、青年の王を詰む。
「悪くない勝負だったわ」
「え? あ、まって――」
言いかけた青年を残して、セレナは颯爽と扉へ向かって歩き出す。沈黙の切れ端に、客たちの囁きが落ちた。
――いまの、見たか?
――呪いがあの女の手に吸い込まれて。
――いや、呼んでたんだ、呪いを操ってた!
――あ、あの男を燃やそうとしたぞ。
セレナはその声を振り切って、店を出た。
その背中を見ていた青年は、呼び止めるために上げた腕をひっそりと下ろした。そしてその近くの床元に、赤い滴が点々と落ちていることに気づく。
「想像以上に厄介そうだな。でも……やっと見つけたよ、セレナ」
青年は小さく息をつくと、セレナの後を追って店を出た。




