第二話 トアールの熱い夜 2
青年は一瞬驚いたような顔をして、すぐ穏やかに口元を緩めた。
その指がセレナの駒を言われた通りに動かし、そしてすぐに自身の駒も動かした。
青年の騎士が自陣の歩兵を飛び越える。
盤面の先を見据えて、セレナは別の歩兵を進めた。
周囲の喧騒とは違って、二人の間には静かな時間が流れた。お互いに言葉はなかった。けれども、盤の上では、着実に何かが進んでいた。
誰かと向かい合い、何かをするのはいつぶりだろう。
セレナは、理由もなく、胸の奥をくすぐられるような感覚を覚えた。
駒を一つ置くたび、青年はちらりとセレナを見る。
伺っているのか、観察しているのか。あるいはセレナに思わせぶりたい態度なのか。盤面の反射に視線が流れているだけなのか。
それが計算されたものなのか、それともただの好奇心なのか、セレナには判別できなかった。
「言いたいことがあるなら、早めに言ってほしいわ」
「何のことかな」
「じゃあ、こっちをちらちら見ないで――、あっ」
青年がセレナの僧侶の駒をさらりと取る。
青の瞳が真っ直ぐに向けられ、セレナは思わず息を詰めた。余裕を崩さないその表情に、自分の内側を覗かれたような居心地の悪さを覚え、思わず顔を背ける。
――そして、移した視線の先で、別の男と目が合った。
セレナはすぐに「うわ」と内心で呟いた。
店の奥、革張りの椅子にふんぞり返っていた男が、下卑た笑みを浮かべている。
男は取り巻きたちとともに、セレナの方をじろりと眺めていた。
不躾で、粘着質のある、張りついた黒い笑顔。
何かを企んでいるとしか思えない、セレナが嫌う類のものだ。
「はあ……」
セレナはげんなりと小さく息を吐いた。
「目を付けられたんじゃないかい? あいつら、ここら一体を仕切る組織の男らしいよ。気を付けたほうがいい」
「ご忠告どうも」
そうこうしているうちに、その男たちがセレナに近づいてくる。
のぼせたような真っ赤な顔で、手に持っている木盃からはびちゃびちゃと酒が波打っていた。
――ドン。
案の定、セレナと青年の間を裂くように、大きな木盃がチェス盤の上に置かれた。
(あーあ……)
駒がばらばらと散らばる。セレナはそれが少しだけ惜しく感じられた。
「おいおいっ、フードなんてかぶってちゃあ、もったいねえぞぉ!」
ドカッと隣の席に腰を下ろした男は、下らか覗き込むようにセレナに顔を近づける。
「チェスなんて女にも分かるのか? それなら俺と向こうで飲みながらやろうじゃねえか」
舐めるような視線がセレナの全身を値踏みするように這う。薄汚れた木盃を片手に、男は机に肘をついた。
「そんな深ェフードで顔隠しちまって……へへへ、余計、そそるってもんだ」
酔漢の手が乱暴にフードを剝ぎ取ったとき、その場の空気がひときわ大きく揺れた。
フードの下から露わになったのは、白磁のように滑らかな肌だった。
珍しい艶やかな黒髪が頬をかすめ、その奥で、氷とも星屑ともつかぬ灰銀の瞳が光を返す。無表情に見えるその眼差しには、寂寥と冷ややかな憐れみが潜んでいた。
そして、右眉の上に、斜めに走る引き攣った古傷。
誰かを庇った瞬間に受けた痕が深く刻まれて、美貌を損なうどころか、むしろ異様な存在感を際立たせている。
「……へ、へぇ……冷めた顔だな。余計にそそるじゃねえか」
その手がセレナの顔へ伸びた瞬間――骨の軋む音が宙に響いた。
「まったく、礼儀がなってないね」
地を這うような声だった。
青の瞳を細め、イグニスはただ盃を口にしていた。
だが、酔漢の手首は、見えない糸に絡め取られたかのように、逆関節へねじられていた。
「なっ……な、何しやが――ぐ、がっ……ひぃっ! ま、魔法か!?」
痕跡を残さない精緻な魔法。
その静謐さに、セレナは一瞬だけ息を詰めた。触れもせず、詠唱もなく、それでいて美しい魔法だった。
(……魔法師だったのね)
相当に強い力を持っているのだろう。
セレナの内心に、わずかな興味と警戒が灯る。
男は怒声を上げ、イグニスを乱暴に投げ飛ばした。
椅子が軋み、木盃が砕けた。それを合図にしたかのように、客たちが一斉に店の外へと逃げだした。
受け身を取った青年は、困ったように笑った。その様子を横目に捉え、セレナの瞳が鋭く細められる。
「ふざけんな……ッ! 俺に恥かかせやがってぇ!」
男は肩を上下に膨らませ、今度はセレナに襲い掛かろうとした。
「私、お酒に呑まれる人は嫌いなの」
セレナは男の大ぶりな動きを避けると、掴みかかる腕を無造作にひねり上げた。
「いっ――!」
男はギリ、と歯を食いしばり、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「おいっ、テメェら、いい気になってんじゃねえぞッ! 俺はアダルー家の人間だぞ! オイ、今お前、笑ったのか!?」
荒い息を吐きながら、振り上げられた拳。その動きに合わせて、セレナの視線は、ふと右手に吸い寄せられた。
そこに光るのは、古めかしい銀の指輪だ。
錆びを帯びた骨董のような造りだが、その隙間から、黒い靄がかすかに滲み出ている。
(――止めないと。やらないと。私がやらなきゃ)
黒い靄を見たその瞬間、その感情がセレナの内側でワッと沸き上がった。内側から思考を侵食する、抗いがたい熱だ。
「……へぇ、アダルー家? ずいぶん立派な名ね。聞いたことないけど、それを名乗れば皆が黙るとでも?」
「俺は知らないなあ」青年が麦酒を揺らして答える。「何百年か前に没落した貴族にはあったと思うけど」
「そう。没落貴族、ね」
「てめぇ!」
男のこめかみが痙攣し、顔は怒りで赤黒く染まった。その目がセレナの腰の剣へと吸い寄せられた。
「女のくせに、まさか使えるとでも思ってんのかァ?」
その瞬間。
セレナは一切のためらいなく剣を鞘ごと抜き払った。
――ヒュ、と空気を裂く音。
男は尻もちをついた。
首元に、鞘ごとの剣が押し付けられている。どう見ても偶然ではない、完璧な正確さで。
「試してみる?」
セレナの口元がわずかに弧を描く。だが、その瞳――灰銀の眼差しは、凍えるほど冷たく、無情だった。




