第五話 夢の静寂 2
早朝。
朝露の気配が残る宿はしんと冷えていた。
古びた床が、体重を移すたびにキシリ、ミシリと軋む。セレナは足音を忍ばせるように、ゆっくりと歩いた。
まだ熱の残る倦怠感が身体を重く包み、腹の奥には鈍い痛みが燻っている。その気だるさを抱えたまま、階段の手すりに手を置く。
昨日の出来事を思い返すたび、胸の奥にわずかなざわめきが生まれる。セレナは、あの青年の掌の上で転がされているような気がして、どうにも落ち着かなかった。
これ以上あの青年に関われば、自分が自分でなくなってしまうような気がした。認めたくはないが、あのペースに飲み込まれていたのだ。
契約には、別行動を制限する内容はない。だから、いつまでもここに留まる理由もなかった。
セレナは息をか細く吐き出す。その拍子に、ふと視線が横へ流れた。
「きれい……」
壁に掛けられた小さな絵が、朝の光を受けて淡く輝いていた。釣りあげられるように、視線が自然とそこに留まった。
遥かな青い海と、焼け沈むような赤の空。二色の溶け合う境界が、見たことのない二つの世界を描き出している。
セレナは立ち止まり、その静かな絵に惹き込まれた。
「お嬢さん、一人で行くのかい?」
背後から、落ち着いた女の声がした。
「そんなに急がなくてもいい。ゆっくりしていきなさい。彼らも、もう少しすればここへ来る」
「……それなら、先に出ます」
セレナはもう一度、絵へ視線を戻した。その様子を見透かすように、女は言う。
「気に入ったのかい?」
セレナは目を離さず、「ええ」と頷いた。
嘘ではなかった。灰銀の瞳が、憧憬にかすかに揺らぐ。
「……少し気になっただけです。これは、海ですよね」
「この街にはないけど、東へ行けば、この絵の景色が広がっているよ」
「同じ場所、ですか」
絵の中の海は、静かに光を返している。
セレナは海を見たことがなかった。
どのような場所なのだろうか。夕焼けの赤と深い群青が、二つの世界を分け隔て、また溶け合う。その変わりゆく光景を、自分自身の目で確かめてみたい。この絵のように、美しいのだろうか。
セレナはその光景を目の奥に焼き付けたまま、声をかけてきた相手と視線を合わせた。
白髪の混じる髪を後ろで一つにまとめ、清潔な前掛けを身につけた人物だった。手には掃除道具を持ち、その立ち居振る舞いから、この宿を取り仕切る主人だと分かった。
セレナは懐から小さな布袋を取り出し、女の手に押しつけた。
「宿泊の代金は、これで足りますか」
「宿代はいらないわ。坊ちゃんたちと一緒ならね。もうすぐ朝ごはんもできるのよ」
女はその手を握り、布袋を押し返した。硬貨の感触とともに、かすかな温もりが伝わってくる。セレナは反射的に手を離し、階段を降り始めた。
「――この海に行ってごらん。とてもいい場所だから」
後ろから掛けられた声に、セレナは応えなかった。
外へ出ると、朝のトルーアの街は夜の喧騒の名残を手放し、白く静かな光に包まれていた。
扉を押し開けると、射し込む陽光が目の奥を刺す。セレナは思わず目を閉じ、視界が慣れるのを待つ。
やがて目の前に、煉瓦造りの家々が整然と並ぶ街道が広がった。
トアールは、ラディア・クレメンティア帝国の北東部に位置する。
北西には永久凍土のソラリシア山脈が連なり、白い峰が遠く霞んでいた。
冬には、氷を細かく砕いたような吹雪と乾いた風が吹き降ろす。
そしてその雪山に続く山脈の裾、トアールのすぐ北側には、古くから燐灰石を産出する鉱山が点在していた。
東には、灰色の空のもと、針葉樹林が延々と続くタリアンの広大な森。さらに先には、黒い潮に汚染された魔物の棲む地――リュンダルカの淵がある。
西には王都へと続く、なだらかなバリック高地。ただし、冬季は北側からの雪風に閉ざされやすく、南方の街道に比べ往来は限られていた。
それでもトアールは寒さに似合わぬ熱気を持ち、人と物が絶えず行き交う北方の要所として栄えていた。
セレナは振り返らずに歩き出した。
まずは人通りの多いメラード通りで情報を集めよう――その時だった。
「わっ!」
横から小さな影がぶつかり、セレナは反射的に身を引いた。だが避けきれず、子供を受け止めようと腕を広げる。ぶつかった子どもは足をもつらせ、前のめりに倒れかけた。
セレナは指先を動かした。
見えない力が少年の体を支え、地面に触れる寸前で、少年の身体をそっと支えた。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「大丈夫? 怪我は……ないわね。私もぼんやり立ってたから、ごめんなさい。でも、前を見て歩かないと危ないわよ」
「うん! ありがとう!」
助けられた少年は慌てて礼を言い、顔を上げる。灰銀の瞳と視線が合った瞬間、少年は目を丸くし、声を弾ませた。
「わぁ……お姉ちゃん、変な髪色!」
セレナはわずかに眉を動かし、しゃがみ込むと、少年に視線を合わせた。




