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 呼吸が止まったとき。

 心臓が動かなくなったとき。

 脳が働かなくなったとき。

 それとも、存在の価値がなくなったとき。

 もしくは、誰かに声を忘れられたとき。

 そして、名前を呼ばれなくなったとき。

 


 人が死ぬ瞬間は、いつだってある。

 けれども、それらはこの世界の本当の『死』ではなかった。

 

 

 この世界の死は、この世界のすべての『記録』から、抹消されることだ。





 ◑ ━━━━━ ▣ ━━━━━ ◐

 




 セレナは、かつて『セレナ・ヴァレンティア』という名の少女だった。

 


 ヴァレンティア伯爵家は、ラディア・クレメンティア帝国の建国以来、代々有能な魔法師を輩出してきた名門である。

 


 帝国にとって欠かせぬ血統であり、魔法管理局の要職に、常に優秀な人材を送り込んできた。

 

 名家の長女として生まれたセレナは、幼い頃から卓越した魔法適性を示した。

 

 その中でも特異な能力を示したものが、『記憶魔法』――人や物体に宿る記憶を読み解く魔法。それから『魔法感応』――魔法の発動を感知し、魔法式を読み取る力である。


 どちらも熟練の魔法師を凌ぐ精度で、セレナは幼い頃から「才女」「天与の器」と讃えられた。

 

 両親はもとより、教師や研究員までもが彼女に期待を寄せ、誰もがその将来を疑わなかった。

 


 

 セレナの才能は、留まることを知らなかった。

 

 十歳のとき、セレナは魔法管理局から研究者推薦を受ける。


 帝国の貴族子弟が初等教育のさなかにいる年齢。その中で、セレナは筆記試験で満点を叩き出し、実技では成人の魔法師を上回る魔法の構築を示した。

 

 「人生を二度目に生きているのでは」と評する声すらあったが、それはセレナを知らぬ人が抱く誤解。

 

 彼女は一度目の人生を、ただひたむきに魔法へ捧げた天才であり、努力の秀才でもあった。


 

 ――セレナが頭角を現した時を同じくして、各地では『黒い潮』と呼ばれる現象が報告され始めていた。

 

 『黒い潮』――黒い靄が突如として湧き、空間をねじ曲げ、怪物が産み落とされる汚染現象だ。

 

 人間の精神を錯乱させ、記憶をかき乱し、信じ合っていた者同士を疑心に陥れ、家族すら仇敵に変えていく。人々の魔力を啜り尽くし、その血肉や魂をも枯れ果てさせるものだった。

 

 その影響は、文化や記録にまで及んでいた。

 一部の歴史が歪み、別のものへと書き換えられてしまうこともあれば、存在した都市が一夜にして消えてしまうこともある。


 

 

 それは、世界が崩れ始めている証。


 

 原因は不明で、対処法も見つかっていない。

 

 魔法管理局の魔法師たちは、ただ、起こった事象を記録に残すことしかできなかった。


 

 だからこそ、若き天才セレナの登場は、格好の人材と見なされた。

 

 セレナは入局してすぐ、『黒い潮』を専門とする、特別魔法研究部「第十三研究部局」へと配属された。

 

 しかし、魔法管理局に暗部が存在していたことを、その時のセレナは知らなかった。

 

 ――十六歳になる、あの日まで。



 

 

 ◑ ━━━━━ ▣ ━━━━━ ◐


 

 

 

(私は……疑問に思わなかった)



 石が息をする音がしていた。


 湿り気を孕んだ凍りついた風が、壁の目に見えない孔から、ゆっくりと出入りしている。

 

 今が昼なのか、夜なのかも分からなかった。


 灯りすらない小さな石造りの牢の中。天井近くに開いた小さな空気窓から、匙の先ほどの灰色が落ちてくる。


 

 最初の夜、セレナは喉が裂けるほど声を張り上げ続けた。


 人の気配があっても、なくても、扉の覗き窓へ身を寄せて必死に叫んだ。

 


「私はやっていない! 何もしていない!」

 


 その叫び声に返ってくる言葉はなく、返事の代わりに、鉄皿に乾いたパンのかけらが落ちる音が鳴った。

 


 ――部下の成果を盗んだ女が、まだ弁解を。

 

 

 ――才女でも、盗人は盗人だな。


 

 静かな地下牢に、セレナの声はよく通った。

 

 普段、自身の研究室で、周りの迷惑にならないよう小さな声しか使わなかった喉。それは久しく大きく震え、たった一日でセレナの喉は燃えるような痛みに苛まれた。

 

 

 翌日、別の声が重なった。

 

 

 ――貧民街の孤児を実験に使っていたらしい。


 

 ――部下や同僚を自分の研究のために殺していたそうだぞ。

 

 

 ――なんて非道な魔法師だ。


 

 セレナは聞こえてきた声に首を横に振り、耳を塞ぎつづけた。


 鎖が床を擦る鈍い音が、胸の内側で増幅して響いていく。


 どれほど声を張り上げても、その鎖の音に、自分の声がかき消されていた。


 

「ちがう、ちがう、ちがう! ――やってない――、わたし、やってないのに――!」

 


 誰も聞いてくれない否定は、牢の固い壁に容易く吸われ、引き伸ばした末尾の響きだけが、壁にはね返って残った。

 

 やがて、それは誰に向けるでもなく、ただただ、自分へ言い聞かせるだけの否定になっていった。


 

 そして、パンは日に日に固く、小さくなっていった。


 水は黒く濁り、金属の味が舌に痺れ、麻痺していく。


 手首の枷は魔力の流れを止めるだけでなく、いつの間にか皮膚の下に疼く痛みを植え付けた。


 眠ると、石の冷たさが背骨に貼りつく。目を閉じたまま数を数えるうち、指を折るのを忘れ、数そのものが分からなくなっていく。


 

 

 次第に、セレナは、時間の代わりに、足音で日を測ることを覚えた。


 廊下を三人分の革靴が通り過ぎる時、真鍮の札が触れ合う音が鳴る。一人分の重たい踵が止まる。それが、食事の時間。

 

 二度の食事のあいだに、書記官の柔らかな咳払いが一度。そして書記官の後に、必ず一呼吸置いて、あの男が来た。


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