忠誠などではなく……
皇帝陛下の手を煩わせてしまったが、令嬢達から声をかけられなくなった。
たまに遠目から眺められることはあるものの、それくらいならば許容範囲だ。
いつものように訓練をしていると騎士に声をかけられた。
「リンド守護騎士、こちらを」
守護騎士となってからは近衛騎士達と同じ訓練場──これまでの一般騎士とは別の場所──を使っているため、一般騎士がここまで来るのは珍しい。
すぐには受け取らず、差し出された紙を見る。
「これは?」
「とある方より『リンド守護騎士に渡すように』と頼まれました」
視線を逸らすその仕草にわたしは剣の柄に手をかけた。
「まずは名を名乗れ。わたしを守護騎士と知った上で、正体も分からない相手からのものを渡そうとするとは……同じ騎士として危機意識が足りていない」
いつでも剣を抜ける体勢をするわたしに、一般騎士が怯えた様子で半歩後退る。
「お、お待ちください! お、おれは頼まれただけでっ……平民が貴族の方から頼まれて、断れるわけないと思いませんか……!?」
「では、貴様は自身が警備している場所で『誰も通すな』と命じられていても、貴族に言われたら通すのか? 違うだろう? 民を、城を、皇族の方々を守護する立場の騎士が権力に屈してはならない」
紙を持つ、一般騎士の手が震えている。
……だが、それが難しいというのも理解できる。
わたしのように他に大切なものがなければいいが、ほとんどの人間には家族や友人、愛すべき人がいて、それらは強みでもあり、弱みにもなってしまう。
剣の柄から手を離して構えを解く。
「それをください」
「え……?」
「見逃すわけではありません」
震える手で差し出された紙を受け取る。
「あなたは、自身の上司にこの件について報告をしなさい。それによって何かしらの処分を受けるでしょう。……そして、その処分を不服と思うのであれば、あなたに騎士は向いていない」
一般騎士は肩を落とし、去っていった。
あの様子から、自分の行動が正しくないというのは理解しているようだ。
反省しているならきっとやり直す機会はあるだろう。
手の中の折りたたまれた紙を開く。
そこには【レヴァニア・アルセリオ、東のガゼボ】とだけ書かれていた。
即座に紙を握り潰し、ポケットに仕舞う。
上着とマントを着て、指示通り東の庭園に向かった。
……想定していなかったわけではない。
たとえ孤児院に入り、出身を偽ったとしても、この黒髪と黒い瞳は隠せない。
この色彩から簡単に出身地については想像がつく。東の国出身か、その国境沿いの生まれ。
そこから更に調査を進めれば、どこかで気付く者がいるであろうことも分かっていた。
……ただ、予想より早かった。
一般騎士であったなら誰も気にしなかったはずのわたしの過去を、掘り起こした誰かがいる。
だが、皇帝陛下の守護騎士となった時点でこうなる可能性は高いと理解していた。
だからこそ、この誘いにはあえて乗るべきだ。
わたしを探ったのが誰かを知らなければ、対処のしようがない。
そして、それが誰であったとしても、屈することもない。
東の庭園、その隅にあるガゼボに行けば、先客がいた。
鮮やかな赤髪に緑の瞳をした、色香のある美しい女性。
「お招きいただき、光栄です──……ノルディエン侯爵令嬢」
声をかければ、令嬢がニコリと微笑んだ。
ガゼボの外には護衛達がいる。数は三名、恐らく全員がかなりの手練れだ。
侯爵令嬢が「どうぞ、お掛けになって」と言う。
わたしはガゼボの入り口に立ったまま、動かなかった。
「わたくしとは話したくない、ということかしら」
「そう受け取っていただいても構いません」
「まあ、困ったわ」
眉尻を下げ、頬に手を当てて侯爵令嬢が困り顔で言う。
それがあまりにもわざとらしく、こちらの感情を乱そうとしているのが察せられる。
無言で見つめれば、すぐに侯爵令嬢が頬から手を離した。
「貴族の出でありながら、言葉遊びもなさらないのね」
「わたしは平民です」
たとえ元が貴族であったとしても、それを誇りに思うことはない。
……父の娘であったことも、誇れることではなかった。
唯一誇れるとすれば『兄の妹』という点だが、今はもう全て捨ててしまった。
「さすが、親殺しの妹……まるで氷のような冷たさね」
「何のことをおっしゃっておられるのか、理解しかねます」
「あら、わたくしにそのような態度を取っていいのかしら? あなたの秘密を皆様に伝えることもわたくしはできるのよ? 信頼が何よりも重視される騎士が主君や周囲を欺いているなんて、広まればどうなるか分かるでしょう?」
ふふふ、と侯爵令嬢が微笑む。
それにわたしは目を閉じた。
今一度、自分の心に問いかけたが、そこに浮かんだのはただ一人だった。
……それもそうか。
わたしにはもう、他に生きる理由はないのだから。
目を開ければ、侯爵令嬢がまだ微笑んでいた。
「あなたが誠意を見せてくださるなら、わたくしは黙っているわ」
伸ばされる細く、しなやかで色白の手。
それを取れば、わたしはきっと侯爵家に繋がれる。
普通の者であればこの手を取るしかないだろう。
足を踏み出し、下ろしていた手を上げる。
わたしの動きに侯爵令嬢の笑みが深まる。
「──……あなたは勘違いしている」
即座に剣の柄を掴み、引き抜き、侯爵令嬢の首に刃を添える。
護衛達が反応したものの、あまりに遅い。
刃に触れた赤い髪が数本、パラ……と落ちていった。
「わたしに『隠さなければならない秘密』などない」
間近にある緑の瞳が、驚愕に見開かれる。
「な……こ、こんなことをして、無事でいられると思っているのっ?」
「さあ、どうだか」
「さあ、って……」
唖然とした様子で見上げてくる侯爵令嬢に、わたしは笑った。
恐らく、これはわたしの本心からの笑みだ。
けれども、そこに喜びや幸福といった感情はない。
「先ほども言ったが、あなたは勘違いをしている」
首筋に刃を添えたまま、顔を寄せる。
ほんの少し前には勝利を確信した強い光を宿していた緑の瞳が、今は驚愕と混乱に揺れていた。
「わたしには守りたいものがない。大切なものがない。それこそ己の誇りや命すら、どうでもいい」
そっと侯爵令嬢に囁く。自分でも、酷く淡々とした声だと感じた。
「だが、一つだけわたしを生かすものがある」
「生かす、もの……?」
侯爵令嬢が震える声で訊き返してくる。
それにわたしは笑みを深めた。
「『皇帝陛下の守護騎士という立場』」
皇帝陛下は残っていた借金を全て、支払ってくれた。
本来ならばわたしが十数年働いて返さなければいけないものであった。
借金を代わりに払うことで、わたしの未来を皇帝陛下は得た。
守護騎士の給金から返済しているが、それすら、皇帝は「律儀だな」と苦笑した。
『俺は、お前の才能とこれまでの努力に値すると感じたから払っただけだ』
あのブローチを授けられた日、わたしは心の底から思った。
……この無価値な人生を、価値あるものにしてくれたのは陛下だ。
「皇帝陛下のためならば、この身、この命、勝利も誇りも全て捧げられる。……汚名すら喜んで受けよう」
わたしが泥を被ることで皇帝陛下の名誉が、権威が守れるならば安いものだ。
「わたしについて広めたければ、広めるといい。どのような手段を使っても、わたしはノルディエン侯爵家の全員を殺し、皇帝陛下を欺いた罪を償うために命を差し出そう。どうせ消える命なら、陛下を邪魔する家の一つくらいは道連れにしても、死後の罪が増えるだけだ」
わたしが皇帝陛下を、皆を欺いているのは事実だ。
その罪を償う日がいつか来るのは当然だが、死ぬ時はせめて皇帝陛下の敵を道連れにしよう。
それ以外に、わたしは自分が皇帝陛下の役に立てるとは思えなかった。
侯爵令嬢の緑の瞳が更に見開かれ、紅を引いた美しい唇が戦慄いた。
「っ、く、狂ってる……っ」
その言葉にわたしは苦笑した。
「そうかもしれない」
兄が父を殺し、自害したあの瞬間から、もう狂っていたのだろう。
……陛下は運の悪いお方だ。
こんな頭のおかしい人間を守護騎士に選んでしまった。
忠誠というにはあまりに身勝手で、敬愛というには常軌を逸したもので、わたし自身もこの感情が何なのか分からないのに、それでも皇帝陛下に全てを捧げる。
わたしには他に何もない。
この空虚なわたしに皇帝陛下は守護騎士という価値を与えた。
……ああ、そうか。
人々が神を崇めるように、信じるように、敬愛するように。
「わたしは陛下を崇拝しているのだろう」
それ故に皇帝陛下の邪魔をする者を許しはしない。
この身、この命を使うことで邪魔者を排除できるのであれば喜んで差し出そう。
「だからわたしを脅して陛下に近づくことも、情報を得ることもできない」
侯爵令嬢の緑の瞳が恐怖に染まっている。
美しい色白の肌は血の気が失せて青白く、今にも気絶してしまいそうだった。
「わたしの情報を広めるなら好きにすればいい。……だが、対価はその首だ」
ごくり、と侯爵令嬢の喉が鳴る。
表情を消して、細い首から剣を離せば、侯爵令嬢の体がふらつく。
背もたれに何とか寄りかかったが、恐ろしいのかわたしから目を離せないようだ。
剣を鞘に戻して姿勢を正す。
「それでは侯爵令嬢、良い一日をお過ごしください」
そう言い残し、ガゼボから出た。
護衛達がわたしに殺気を向けたが、無視して東の庭園から離れる。
……本当に壊れてしまったんだろうな。
あのまま侯爵令嬢を殺し、ノルディエン侯爵家に乗り込むのも悪くないと、そう思ったのだから。
* * * * *
王城からの馬車の中、マティルダ・ノルディエンは震えていた。
「……一体、あれは何なの……っ?」
レーヴ・リンドという孤児院出身の、元貴族。
その性別は男ではなく女であり、周囲を欺いている。
そこを突けば簡単にこちらの手に転がり落ちるだろうと思っていたのだが、予想が外れた。
周囲からは『物静かで無口、実直な騎士』という評価を受けており、普段の生活からもそのような性格だと考えていた。だが、真面目な者ほど秘密や悩みを抱えやすいものだ。
しかし、実際に会って話したレーヴ・リンドは評価とは全く異なる性格だった。
実直なのではなく、融通が利かないだけ。物静かで無口なのではなく、他に関心がないだけ。
何より、レーヴ・リンドはどこかおかしい。
皇帝への忠誠心と呼ぶには、その傾倒ぶりはあまりに常軌を逸している。
本人が言う通り崇拝に近い。
性別のことで揺さぶりをかければ操れると思ったのが間違いであった。
レーヴ・リンドは名誉も地位も、己の命すら皇帝を守護するためなら、捨てても構わないという。
……どうかしているわ……!!
誰にだって弱みというものがあるはずなのだ。
それなのにレーヴ・リンドには弱みがない。
一見すると弱みになるはずの『性別の問題』はむしろ、触れれば攻撃される蜂の巣のようなものだと思い知らされた。無理に突けばこちらも無事では済まないだろう。
侯爵令嬢たるマティルダに何の躊躇いもなく、レーヴ・リンドは剣を抜いた。
恐らくレーヴ・リンドはあの場でマティルダを殺すこともできた。
ノルディエン侯爵家に乗り込み、全員を殺して自死するというのも冗談ではない。
温度を感じられない笑みを思い出し、ぶるりと体が震える。
間近で見た黒い瞳はまるで底の見えない深い谷底のようにどこまでも仄暗く、マティルダでは敵わないと実感させられた。あのまま殺されても不思議はなかった。
「お父様にも伝えなくちゃ……」
震える体を抱き締めれば、体温が下がっているのを感じた。
皇帝の前ですら、ここまで緊張することはなかったというのに。
レーヴ・リンドという存在があまりに理解不能で、恐怖心が消えない。
あれは人間の皮を被った他の生き物なのではとすら思う。
……あんな人間、騎士なんかじゃないわ……。
誇り高く、主君に仕え、正義のために剣を捧げる。そんな美しいものではない。
皇帝を神と崇め、崇拝し、そのために己の全てを捧げるなんて、普通じゃない。
馬車がノルディエン侯爵邸に着き、マティルダは馬車から降りると駆け出した。
令嬢が走ってはいけないとか、動揺を見せてはいけないとか、そんなことを気にする余裕はなかった。
廊下を駆け抜け、父親の書斎の扉を叩く。
中から、聞き慣れた穏やかな声がして、マティルダは扉を開けた。
「お父様……!!」
飛び込むように入室すれば、父親のゲルハルトが驚いた様子で立ち上がる。
「マティルダ? 一体、どうしたんだい?」
そのまま駆け寄り、父親に抱き着いた。
父親の温かな体温を感じ、ようやく、体から力が抜けていった。
ずるずると座り込んだマティルダに、ゲルハルトが心配そうな顔をする。
「大丈夫か? 何があったんだ?」
ゲルハルトの問いにマティルダは王城でのことを思い出し、また小さく震えた。
「お、お父様……あの騎士は、レーヴ・リンドは普通ではありません……! あれに迂闊に近づいては……触れてはいけません……っ。あれは人の皮を被った、別の何かですわ……!」
マティルダは何とか、父親にそう伝えた。
あの時、レーヴ・リンドはマティルダの首に剣を向けた。
お前達をいつでも殺せると、そう、言われたのだ。
* * * * *