雑音
しかし、リヴァヴース公爵令嬢を皮切りに他の令嬢達に話しかけられることが増えた。
訓練中も困るが、休憩時間や休みの自主訓練でも声をかけられ、時間が削られていく。
他の騎士達の訓練の邪魔にもなってしまう上に、妬みも向けられ、困った。
「レーヴよ。最近、令嬢達から人気らしいな?」
からかうような皇帝陛下の言葉に、わたしは小さく息を吐いた。
「全員、陛下狙いの方々です。誘いも全て断っております」
「本当にそうだろうか? 中には『皇帝に忠実な騎士』は結婚相手として優良だと考える者や、本気でお前を慕う令嬢もいるかもしれないだろう」
「わたしは全てを陛下に捧げました。お恥ずかしい話ですが、わたしは不器用なので他の方に目を向ける余裕はありません」
皇帝陛下が小さく笑う。
「お前のそういうところは好感が持てる」
「……融通が利かないところがですか?」
「違う。正直で嘘偽りがないことだ」
そう返され、ズキリと胸が痛んだ。
……わたしは陛下を騙し続けている。
それなのに『正直者』だと言われると罪悪感を覚える。
「わたしは陛下が考えておられるほど善良ではありません」
そして、続ける。
「何より、訓練の時間を削られるのが非常に不快です」
「お前でもそう感じることがあるのか」
何故か驚いた顔をされた。
「訓練の時間が減れば腕も鈍り、焦りが生じ、結果として精神面にも影響が出ます」
「そこで『利用するために近づかれるのが不快』ではないところがお前らしい」
「貴族のご令嬢がそれ以外の目的で孤児院出身のわたしに近づくとは到底思えません。結婚相手など、それこそ論外でしょう。家柄・血筋・功績・容姿、わたしはあまりに結婚条件が悪すぎます」
皇帝陛下がふと顔を上げ、わたしを指で呼んだ。
そばに行き、膝をつくと、手が伸ばされる。
その手がわたしの頭に触れた。
「そう己を卑下するな。お前は俺からすれば、最高の騎士だ」
じわりと、胸に喜びが広がりかけた。
それを押し込め、心を無にする。
「勿体なき御言葉でございます」
皇帝陛下の顔を見ることはできなかった。
「明日、剣の相手を頼む」
「御意」
皇帝陛下は毎日剣を振っているが、近衛騎士と剣を交えることが多い。
けれども、時々こうしてわたしを相手に指名する。
皇帝陛下との手合わせはとても勉強となる。
それに、皇帝陛下の強さはわたしの目標でもあった。
……ただ、最近は訓練を邪魔されることが多くて鈍っているかもしれない。
そのことが少し心配だった。
* * * * *
キィン、と剣同士のぶつかり合う音が響く。
衝撃が腕に伝わり、ヴォルフラムはレーヴの剣をそのまま弾き返す。
……少し支障が出ているようだな。
本人からも『訓練時間を削られて不愉快だ』と聞いていたが思いの外、深刻かもしれない。
剣の腕や筋力が衰えるというより、集中が少し切れやすくなっている。
恐らく普段通りに訓練ができないことへの苛立ちがあるのだろう。
数歩下がったレーヴが剣を下ろした。
「申し訳ありません、陛下……」
レーヴ自身もそれに気付いているようだ。
剣を下げ、目を伏せて床を見つめる姿は、道に迷った幼子のように心許ない。
いつもの無表情で感情をあまり感じさせないレーヴにしては珍しい。
ヴォルフラムも剣を下げ、鞘に戻す。
「いや……だが、このままでは困る。お前の訓練を邪魔せぬよう、皆に注意しよう」
「……お願いいたします」
剣を鞘に戻したレーヴは俯いたままだ。
気落ちしているというより、疲れたふうに見える。
ヴォルフラムは訓練場の隅にある長椅子に腰掛け、指でレーヴを呼んだ。
すぐにこちらに近づき、片膝をついて見上げてくる。
……まるで犬だな。
ヴォルフラムを主人と定め、それ以外には目もくれない。
それを不器用と言えばそうなのかもしれないが、少し、愛らしいと思う。
誰に対しても無感情で温度のない瞳が、ヴォルフラムに呼ばれた時だけは微かに光を宿す。
その中にある感情が忠誠心なのか、尊敬なのか──……別の何かなのかも分からない。
ジッと見つめてくるレーヴに手を伸ばし、頭に触れる。
前回触れた時も嫌がる様子はなかった。
「お前は俺の守護騎士だ。誰であろうと、その任から解くことはできない」
夜のような漆黒の髪は傷んでいるが柔らかく、癖がない。
少し毛先が不揃いに感じるが、自分で切っているのだろうか。
あえてやや強めにわしゃわしゃと黒髪をかき回しても、目を閉じて受け入れている。
「そして、守護騎士たるお前の邪魔をする者は、俺の邪魔をしているも同義だ。今後、訓練を邪魔する令嬢がいたら無視しても構わん。お前の訓練は俺の警備にも関わることであり、それを妨害するなどあってはならぬ」
頭から手を離せば、レーヴが目を開ける。
黒い瞳に光が差し込み、瞬きと共に煌めいた。
「……はい」
嬉しそうにはにかむ表情に、ヴォルフラムは満足感を覚えた。
ブローチを渡した時に見た、嬉しそうな、柔らかで、どこか幼い純粋な微笑み。
本人は己の表情の変化に気付いていないらしいが、これも好ましい、とヴォルフラムは思う。
恐らく『レヴァニア・アルセリオ』のままであったなら、このように笑っていられたのだろう。
すぐにその表情は消えて、レーヴが手櫛で髪を整える。
目を伏せ、髪を手で直す姿はしなやかで、それでいて少し幼い仕草にも見えた。
……俺よりも七歳下、か。
二十歳のはずだが、それよりもいくらか若く感じる。
視線を上げたレーヴと目が合う。
「陛下」
皇帝と視線が合っているというのに、怯む様子がない。
「ありがとうございます」
レーヴの言葉にはいつも他意がない。
だからこそ、ヴォルフラムもそのままに受け入れられる。
「気にするな。俺の騎士に関することは、俺の問題でもある」
だからこそ、レーヴの周りの雑音は減らす必要がありそうだ。
黒髪の感触が残る手を軽く握り、ヴォルフラムは微笑んだ。
* * * * *
「なるほど、そういうことか」
ゲルハルト・ノルディエンは手元の書類を読み、微かに笑う。
その手の中にあるのは最近、皇帝の守護騎士となった『レーヴ・リンド』という騎士に関する情報だった。
守護騎士の情報の大半は皇帝の指示によってか規制されていたが、それでも、断片的なものは手に入る。
十五歳で孤児院に入った少年。
十六歳で騎士団に入って以降、訓練を欠かさず行なっており、それ故に騎士達の間では有名であったようだ。黒髪で線の細い、物静かな雰囲気を持つ騎士だ。
この国で黒髪は珍しい。
元々、東の隣国は黒髪が多く、そこと接する国境沿いにも黒髪の者が多い。
黒髪というだけでもその辺り出身だということが読み取れる。
そうして、平民──しかも孤児院の出──にしては立ち居振る舞いにどこか品を感じる。
しかし、高位貴族で黒髪の家はない。
国境沿いの貴族にはいるが、ほとんどは黒髪に髪とは異なる色合いの瞳をしている。
黒髪に黒目の家はただ一つ。
……数年前、爵位を返上したアルセリオ子爵家。
この家の当主は黒髪に黒目だったそうだ。
賭け事に狂い、息子に殺され、その息子も親殺しの責任を取って自死していた。
家は後継者がおらず、当主の弟が手続きを行い、爵位と領地が返上された。
けれども、アルセリオ子爵家には令嬢もいた。
令嬢の名前は『レヴァニア・アルセリオ』といい、黒髪に黒目であったという。
……これが偶然とは思えない。
全てを失った黒髪黒目の令嬢『レヴァニア』はその後、消息を絶った。
その少し後に王都に現れた黒髪黒目の『レーヴ』という少年。
子爵領から離れ、馬車を使い王都まで来たとすれば、孤児院に入った時期も辻褄が合う。
孤児院は基本的に十六歳までしかいられないのに、十五歳という中途半端な年齢で入ったこと。
十五歳なら孤児院に行かず、住み込みの働き先を探すこともできたはずだ。
だが、もし『孤児院に入らなければならない事情』があったとしたら?
没落貴族の、それも不祥事のあった家の者だと知られれば、受け入れてくれるところは少ない。
しかも女となれば、より受けられる仕事は減るだろう。
剣の心得があり、年齢も問題なく『性別と身分』さえ変えれば騎士の入団試験を受けられる。
そう考え、孤児院に入り、男のふりをして騎士となったとすれば。
手を回している以上、皇帝は守護騎士の性別や事情を知っているはずだ。
部屋の扉が外から叩かれる。
「入りなさい」
ゲルハルトが声をかければ、娘のマティルダが入室する。
「お呼びでしょうか、お父様」
妻に似て美しく成長した娘にゲルハルトは微笑んだ。
手招きをして、向かいのソファーに座らせる。
「ああ、実は面白い情報を手に入れてね」
ゲルハルトは持っていた書類を娘に渡した。
書類の内容を読み進めたマティルダが「まあ」と小さく声を漏らす。
顔を上げた娘にゲルハルトは笑みを深める。
「どうだい?」
「この情報が正しく、可能性として考えるのでしたら『元アルセリオ子爵令嬢』と『レーヴ・リンド守護騎士』は同一人物のように思えますわ」
「やはりお前もそう考えるか」
皇帝のそばに仕える守護騎士が性別を偽っている。
……もしかして、皇帝はこの守護騎士を妃に据えたがっているのだろうか?
だが、それならば騎士ではなく、どこかの貴族の養女にさせて娶ったほうが確実である。
わざわざ性別を偽ったまま、守護騎士に選ぶ理由が分からない。
ゲルハルトが思考の海に沈んでいると、マティルダが口を開いた。
「お父様、これで守護騎士レーヴ・リンドをこちらに引き込むことができるのではありませんか?」
「だが、皇帝が手を回しているということは、既に守護騎士の性別について知っている」
「ええ。ですが、周囲の者は違うでしょう? 性別を公表されれば、守護騎士は困るのですから」
確かに、守護騎士については性別を盾にすれば引き込めるかもしれない。
けれども守護騎士の性別を公表した時、皇帝と敵対することになってしまう。
……元より皇帝は私を警戒しているが……。
明確に皇帝の意思に反するのと、疑念のままとでは立場が変わる。
ゲルハルトは返された書類をもう一度読み返す。
「マティルダ、それとなく守護騎士に揺さぶりをかけてみなさい。それで難しいようなら、すぐに手を引くように。……性別の公表は簡単だが、敵対する意思を見せれば皇帝はすぐに我が家を潰しにかかるだろう」
「かしこまりました」
マティルダが頷き、立ち上がると「失礼します」と部屋を出ていく。
そうして、手の中の書類を見ている中で、覚えのある名前が目についた。
立ち上がり、部屋の壁に体を向ける。
飾られた絵の額縁に触れ、動かせば、横に滑るように持ち上がり、隠し金庫が現れる。
やや出っ張っている三つのつまみ部分の一つを持ち、回し、決められた四つの数字を合わせる。
それから、残り二つも同様に左右に回せば、カチリと小さく音がして金庫の扉が開く。
その中にある書類に手を伸ばし、目的のものを探した。
だいぶ前の書類であったため、少し探すのに時間はかかったが、目当てのものを見つける。
それは名簿だった。多くの名前が綴られているが、何の名簿かはその書類からは分からない。
しかし、ゲルハルトはこれが何の名簿であるか知っている。
並ぶ名前を見ていき、その中にあった一つの名前を見つける。
「……これは使えそうだ」
ゲルハルトはすぐに書類を金庫に仕舞い、鍵をかけて額縁を元に戻した。
たとえ守護騎士を揺さぶることができなくても、他にやりようはある。
常に次の一手を考えて動かなければ。
娘は守護騎士を引き込めるかもしれないと考えているようだが、ゲルハルトはそれが成功しない可能性のほうが高いと感じていた。
皇帝も愚かではない。信頼の置けぬ者を守護騎士に据えるとは考えにくい。
能力だけでなく忠誠心も考慮して選んだのだとすれば、揺さぶりをかけても反応しないか、任を辞することで皇帝に害がないように守護騎士は動くだろう。
前皇帝時代から宰相を続けるゲルハルトを、皇帝は警戒している。
現在は表面上、友好関係を保っているが、それもいつまで維持していられるか。
……もっと支援を増やし、早急に準備を進めなければ。
現在の皇帝が即位して七年。ゲルハルトはずっと耐え忍んできた。
前皇帝時代は政のほとんどをゲルハルトが掌握できていたというのに、今はどうか。
若き皇帝が国を動かし、ゲルハルトは一臣下となり、頭を垂れて従うしかない。
過去の栄光に縋っていると言われればそうなのだろう。
しかし、このままではいずれノルディエン侯爵家は国の中枢から弾き出されてしまう。
……それでは困るのだ。
家のため、己のため。そして娘の未来のためにも、栄光を取り戻さなければ。
「……カイ・ヴァルムント」
そのために使えるものは何でも利用する。
ゲルハルトは『レーヴ・リンド』に関する書類を机の引き出しに仕舞い、書斎を出る。
……手札が多いに越したことはない。
その手札を増やすために、ゲルハルトは少し出かけることにした。
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