守護騎士
帝都の中央には大きな鐘を持つ大教会があり、日に八回、時間を告げる鐘が鳴る。
他の教会にも小さな鐘があり、大教会の鐘が鳴り出すと共に鳴らし、帝都全体に鐘の音が響く。
わたしは日が昇る少し前に起きて、軽く身支度を整えたら早朝の訓練を行いながら一の鐘を聞き、汗を流し、朝食を摂ってから登城。二の鐘が鳴る頃に蔵書室──城の書庫とは別の、王族や関係者のみが入れる場所だ──に出仕する。
いつも皇帝陛下は書庫で読書をしており、身支度もきちんと整えていて、朝食も済ませている。
わたしが二の鐘の頃に着くと丁度、読書を終える。
「おはようございます、陛下」
「ああ」
その後、王城の奥にある屋内の訓練場に移動し、皇帝陛下は体を動かし、剣の鍛錬を行う。
帝国随一という話に嘘偽りはなく、皇帝陛下は強い。
だが、だからといって鍛錬を怠ることはなく、毎日必ず剣を握った。
「レーヴ、今日は相手をしろ」
体が温まってきたのか、皇帝陛下に声をかけられる。
返事をして訓練場に入り、剣を抜く。
この二週間ほど、毎日皇帝陛下の鍛錬する姿を見てきたが、正直勝てる気がしない。
剣の振りに揺れがなく、体幹もあり、重さだけではなく速度も重視して筋肉をつけている。
服を着ているとそれほど体格が良いようには見えないが、薄着だと、しっかりと必要な筋肉がついて均整の取れた体躯をしていることが分かる。
「来い」
それは初めて剣を交えたあの日を思い起こさせる。
「陛下の胸をお借りいたします」
あの日をなぞらえるように言えば、気付いたのか皇帝陛下は微かに笑った。
剣を握り直し、ジリ……と僅かに足を動かす。そして駆け出した。
皇帝陛下のほうが力が上だ。いくら鍛錬を積んだとしても、どうしても性差で負ける。
……それなら、速度で勝負するしかない。
勝てるとは思っていないが、以前のような惨敗はさすがにもうできない。
剣を正面から振り下ろす。
キィンと受け止められた瞬間、即座に剣を振り戻し、下から斬り上げる。
しかし、ほんの僅かな差で皇帝陛下は身を引いてそれを避けた。
わたしは更に踏み出し、皇帝陛下に向かって剣を突き出した。
それも皇帝陛下が受け流し、刃同士が滑り、鍔迫り合う。
近くで見る紅い瞳は美しく、一瞬、脳裏にあの日の赤が浮かんだ。
瞬間、ズイと皇帝陛下が押し込んでくる。
「俺を目の前にして考えごとか?」
わたしも何とか押し返す。
「まさか」
弾き返し、数歩下がって体勢を立て直す。
「陛下の瞳が美しくて、見惚れていただけです」
「お前でも世辞を言うのだな」
剣を構え、もう一度駆け出した。
皇帝陛下のほうが恐らく力も体力もある。長期戦はわたしが不利だ。
二度、三度と剣を交えるけれど、まったく陛下は息が乱れない。
……この手はあまり他人に見せたくないが。
訓練場の端に近衛騎士達もいる。
守護騎士として、彼らの前で弱い姿を晒すのはよろしくない。
四度目の交差で皇帝陛下を押し、鍔迫り合いを行い、互いの剣をわざと弾かせる。
突きの体勢を取れば、皇帝陛下が受けの構えをする。
だが、わたしは剣を手放した。
驚いた表情をする皇帝陛下の視線が落ちていく剣を追いかける。
わたしは踏み込み、手を伸ばした。
刃がわたしの首元に当たるのと、皇帝陛下の首にわたしの手が触れるのはほぼ同時だった。
先ほどよりも近い距離で見つめ合う。
「陛下……!」
近衛騎士の呼びかけに皇帝陛下が手で制する。
わたしはすぐに身を引こうとしたが、腕を掴まれ、顔を覗き込まれる。
「何故、剣を手放した?」
単純な話だ。
「わたしは『騎士は剣で勝利するもの』とは思っておりません。襲撃者はどのような手段を使ってでも、陛下を亡き者にしようとするはずです。それに対し、剣での応戦に固執しても戦いの幅が減ります」
騎士達は強いが、剣の型が綺麗すぎる。
わたしが子爵家の騎士達から教わった剣はもっと、自由だった。
騎士でも短剣を好む者もいたし、剣よりも武術に優れた者もいて、戦い方は他人それぞれである。
実戦は綺麗な戦いではないと教わってきた。
勝って生きるか、負けて死ぬか。
「続けろ」
「騎士の最も優先すべき点は『主君を守ること』でしょう。己の誇りを守ることではありません。主君を守るためならば、時にはどのような手段を用いても──……己の命を投げ打ってでも敵を倒す」
「主君を残して先に死ぬ気か?」
「陛下には多くの近衛や騎士がおります。彼らが駆けつけるまでの時間稼ぎができれば、たとえわたしが相討ちになったとしても問題はないかと。……敵わない相手だからと背を向ける者は騎士ではなく、ただの臆病者です」
ジッと見つめられ、見つめ返す。
ややあって、溜め息と共に手が離れる。
「……お前は思いの外、問題児のようだな」
……それは少し心外だ。
これでもまだ綺麗な戦い方をしているつもりなのだが。
騎士団に入ってから、子爵家で習った戦い方は一度もしていない。
「だが、面白い。お前の言葉には一理ある。卑怯な手段で襲ってくる者達相手に、綺麗な戦い方をする必要は確かにない。……お前は実戦向きの戦いがしたいのか」
「はい。陛下の御身を守護するためならば、矜持など必要ありません。陛下の騎士になると決めた瞬間から、わたしの全ては陛下のものです。わたしの剣も、命も、誇りも、陛下の御命の前では塵芥に過ぎません」
皇帝陛下が、ふっ、と困ったように微笑んだ。
「俺は、お前を肉壁にするために声をかけたわけではない」
皇帝陛下が剣を仕舞い、こちらに背を向ける。
これ以上の話は終わりだと感じ、わたしも落とした剣を拾う。
ハンカチで丁寧に拭いて汚れを落としてから鞘に戻した。
それ以降はこれまで通り、三の鐘の頃に政務室に行き、皇帝陛下は政務に励まれる。
その姿をわたしは邪魔にならない位置に控えて眺める。
大量の書類を確認し、判断を下し、時には文官を呼んで話し合う。
午前中はそれだけで終わる。
意外にも皇帝陛下は昼食は軽くしか摂らない。
「食べすぎると午後の集中力が切れる」
だそうで、軽食を摂った後に少し訓練場で剣を振ってから、謁見の間に移動する。
午後は謁見を望む貴族達と顔を合わせ、話し、政を進めていく。
それが終わるとまた政務室に戻り、書類の山と向き合う。
夕方、日が沈むまで仕事をこなしてようやく、皇帝陛下の仕事は終わる。
……だが、それも表向きだ。
秘密裏に文官や貴族を呼び出し、その後に話し込むこともある。
皇帝陛下が完全に仕事から離れるのは八つの鐘が鳴る頃で、私室まで皇帝陛下に付き従い、近衛騎士に警備を任せたらわたしの仕事もそこまでだ。
「レーヴ」
「はい」
政務室から私室に戻り、皇帝陛下が振り向く。
「一杯飲んでいくか? 良い酒があるんだが」
「わたしは酒を嗜んだことがありません」
「そうなのか?」
驚いた顔をする皇帝陛下の表情はどこか幼さが感じられた。
「それなら無理強いはできんな」
皇帝陛下は笑って軽く肩をすくめた。
……賭博にのめり込んでいた父は、酒も浴びるように飲んでいた。
そのせいか、わたしは酒を飲みたいと思ったことがない。
「引き留めてすまなかった。……今日はご苦労」
「失礼いたします」
一礼し、皇帝陛下の私室を後にする。
城を出て、寮までのそれほど遠くはない道を歩く。
月明かりのおかげで足元も見えており、顔を上げれば美しい満月が夜空に浮かんでいた。
……少しだけ遠回りをしよう。
何となく、今は月を眺めていたい気分だった。
* * * * *
扉が閉まり、レーヴ・リンドが出ていった。
他の近衛騎士よりも小柄なせいか、静かな足音が遠のいていく。
侍従に酒と肴を用意させ、ヴォルフラムは一人、息を吐いた。
……これまでとは毛色が違いすぎる。
ヴォルフラムが選んできた近衛騎士達も皆、忠義に厚く、真面目な者ばかりだ。
皇帝に即位した時、前皇帝の近衛を全て廃し、それ以降ヴォルフラムは近衛を全て己で選定してきた。
誰もが優秀で、忠誠心が高く、家柄や血筋も良い。
しかし、ヴォルフラムが望むのは『血筋や家柄の良し悪し』ではなく『能力と性格』だった。
忠誠を持ちながらも、皇帝であるヴォルフラムに意見を申せる者。
能力がありながらも、まだ目覚め切っていない者。
そして、身分が高くないほうが良かった。
皇帝となってからヴォルフラムは『能力』を重視し、たとえ貴族であったとしても、その能力に見合わない地位に就けることはしなかった。その改革のせいで潰れた家も少なくない。
だが、腐敗した部分は取り除かなければ、いつか帝国そのものが腐り落ちてしまう。
近衛騎士を選んでも、守護騎士がいなかったのはヴォルフラムの望む人物がいなかったからだ。
けれど、ついにその人物が現れた。
レーヴ・リンドという孤児院出身の平騎士。
確かに仕事に対する姿勢も誠実で、騒がしくなく、能力も申し分ない。
昼間の出来事を思い出し、ヴォルフラムは思わず己の首に触れた。
……まさか、触れられるとはな。
ヴィルフラム自身、剣の腕については他者よりも優れているという自覚があった。
だからこそ最後の瞬間、本気でレーヴ・リンドの首筋に剣を抜けた。
剣だこのある、やや筋張っているが細くしなやかな手が首に触れる感触をまだ覚えている。
敵意はなく、殺気もなく、それなのに確実に皇帝であるヴォルフラムの首を狙っていた。
レーヴ・リンドという騎士は感情をあまり表に出さない。
ブローチを着けてやった時は嬉しそうに微笑んでいたが、他は常に無表情だった。
愛想がないのが逆に清々しく、物静かで鬱陶しくなく、そばにいても煩わしさがない。
「……俺に触れたのはお前だけだ」
首に触れられたあの瞬間だけ、黒い瞳がヴォルフラムを確かに捉えた。
それまではどこか空虚で光のなかった瞳に己が映ったことに、束の間、喜んでしまった。
同時に『これ以上踏み込むのは危険だ』と本能が告げている。
レーヴ・リンドは少し、独特な感性──……いや、思考をしているらしい。
剣に生き、剣で戦い、剣に誇りを持つ一般的な騎士達とは根本的な考え方が異なる。
矜持も、誇りも、己の命さえもレーヴ・リンドにとっては無価値なものなのだろう。
己の責務のため。借金を返済したヴォルフラムを守護するという、それだけを完遂するため。
その目的のためならばどのような手段も厭わず、ただ、全てを差し出す。
……レーヴ・リンドはどこかおかしい。
あまりに盲目的で、あまりに自他に無関心で、それなのにそのおかしさに惹きつけられる。
「いや、それも当然か……」
レーヴ・リンドとなる前──……レヴィニア・アルセリオは、普通の令嬢が経験するにはあまりに過酷な人生を歩んだ。
それまでの人生が幸せで穏やかであればあるほど、絶望したことだろう。
愛していた父親に金欲しさに売り飛ばされそうになった事実。
兄が己を守るために父親を殺し、責任を取って自死した事実。
領民達の冷たい態度、失った居場所、孤独、誰も己の生を望まない状況。
正常な神経を保っていられるほうがどうかしている。
レヴァニア・アルセリオはその名と人生を捨て、父親の借金を背負い、レーヴ・リンドとなった。
普通の令嬢なら己の未来を悲観して死んでいただろう。
……だが、レーヴはその道を選ばなかった。
どのような思いを抱えているかは分からないが、騎士となって借金を返し続けている様子からして、死を望んでいるわけではない。同時に生きたいとも願ってはいないようだが。
「……とんでもない者を拾ってしまったかもしれんな」
だが、ヴォルフラムはレーヴ・リンドを守護騎士にすると決めた。
皇帝が孤児院出身の者を能力と性格で選び、守護騎士にしたと広まれば、より多くの才ある者達が帝国に集うだろう。
……レーヴの手綱を握るのは注意が必要そうだ。
あの様子ならば、ヴォルフラムの命令には絶対服従するだろう。
忠実な騎士は必要だが、人形をそばに置いておきたいわけではない。
もう少し、人間的な部分を思い出させなければ。
近衛騎士達との交流をさせようと考えていたが、考え直すべきか。
しばらくはそばに置いて様子を見よう。
あまりに空虚で、盲目的で、他の近衛騎士達に影響が出かねない。
そこまで考えたところで、テーブルの上のグラスから聞こえた、カラン……、という氷の崩れる音で我に返る。
皇帝となってから、ここまで特定の誰かについて思考を巡らせたことはなかった。
レーヴ・リンドはヴォルフラムがこれまで会ってきた、どの人間とも異なる。
違いすぎて、予測がつかなくて、面白い。
「……本当に、飽きさせない奴だ」
汗をかいたグラスを手に取り、ヴォルフラムはその中身を飲み干した。
* * * * *