後日談:それぞれの愛情
皇后となってからも、わたしは毎日訓練を続けていた。
以前と変わらず近衛騎士用の訓練場で毎朝走り込み、素振りをして、体を鍛える。
休日は一日中そこで過ごすこともあるのだが、最近はまた令嬢達に遠巻きに見つめられるようになった。
……皇后になっても男みたいなわたしが珍しいのだろうか。
話しかけてくる者はいないため、そのまま放っておいているが。
近衛騎士の中にはいつも以上にやる気を出す者もいて、結果的には良いのかもしれない。
そのような話を皇女殿下にすると、おかしそうに笑われた。
「まあ、レーヴ。それはあなたが素敵だから見に来ているのよ」
などと言われても、まったく分からない。
「そうなのですか?」
「最近、若いご令嬢達の間はあなたの話題で持ちきりよ。平民に落ちても挫けず、騎士団に入り、皇帝陛下の目に留まって皇后にまでなったのに、それでも守護騎士を続けているってね」
「……周りからすれば、騎士を続けたがるわたしがおかしいのでしょうね」
わたしにとってはヴォルフラム様に捧げた剣と誓いは何よりも大事なものだ。
妻になったからといって、その気持ちが変わるわけではない。
「その逆よ。『皇帝陛下に仕え、愛と忠誠を誓う男装騎士』というのが、ご令嬢達にはとても美しく見えるの。美形なヴォルフラムお兄様のそばに中性的な顔立ちのあなたが立っているだけでも絵になるのに、あなたが実は女性だった、なんて知って色めき立ってるわ」
意味が分からず首を傾げてしまう。
「色めき立つ……?」
「もう、あなたって生真面目で素直だけど、他人の感情に鈍感なのは玉に瑕ね」
「申し訳ありません」
不満そうに言われ、つい謝った。
「つまり『美形の皇帝と男装の麗人騎士の美しい恋物語』に皆、夢中なのよ」
意外な言葉にわたしは目を瞬かせてしまった。
「美しくはないと思いますが……」
「あら、そうなの? 忠誠心厚い男装の麗人騎士に、狂帝と呼ばれながらも浮いた噂の一つもなかった美形な皇帝が想いを寄せて、騎士も実は主君を慕っていた──……なんて、御伽話のようでしょう?」
「……あまりに誇張されすぎでは?」
ヴォルフラム様はわたしを守護騎士にする際には調査を行い、わたしの性別を知っていた。
それでも気に入ったから守護騎士にしただけで、そこに恋愛感情があったかと問われたら、恐らくない。多分、あったとしても好奇心や関心といった類のものだ。
……そういえば、ヴォルフラム様はどの辺りから変わったのだろうか。
わたし自身もヴォルフラム様に恋愛感情を抱き始めたのがいつなのか分からない。
ただ、気付いたらわたしの中で一番大きな存在になっていた。
「そうかしら? わたくしから見れば、似たようなものに見えたわ」
「ヴォルフラム様がわたしに向ける思いと、わたしがヴォルフラム様に向ける感情はきっと違います」
ヴォルフラム様がわたしに向けてくれるのは愛情だ。
わたしを大切にしたい。慈しみたい。愛したい。そばにいたい。
そういう、優しくて温かくて幸福を感じられるものである。
「まあ。では、レーヴはお兄様にどのような感情を持っているの?」
そう問われて、少し考えた。
少し前に言われた言葉を思い出す。
「──……首輪で繋がれたい」
ピタリと皇女殿下が固まった。
「……ごめんなさい、もう一度お聞きしても?」
まるで何か重大な聞き間違いをしてしまったかのように言われ、繰り返す。
「ヴォルフラム様から、首輪をいただきたいと思います」
「……」
「……」
部屋の隅に控えていたレジスまで若干引いたような気配を感じる。
「一応訊くけれど、レーヴ、あなたにはそういう趣味があったのかしら……?」
「そういう、というのが何を指すのか分かりませんが、わたしの主君で特別な方はヴォルフラム様だけです。いつまでもおそばに置いていただきたく、目に見える形でその保証がほしいので『首輪なら分かりやすい』という結論で先ほどの表現をしました」
「ああ、そういうこと……」
皇女殿下がホッとした様子でティーカップをテーブルに戻した。
要は『ずっと騎士として仕え、そばにいられる証がほしい』だけだ。
別に証となるなら首輪でなくてもいい。
結婚指輪は贈られているものの、騎士の職務では邪魔になるためほとんど着けていない。
「わたしの感情は愛というより……そうですね、信仰に近いかもしれません」
「信仰?」
「ええ、ヴォルフラム様は神で、わたしはその神を信仰する敬虔な信者のようなものです。神がお命じになられるのであれば、喜んでこの身も命も捧げましょう。……だからこそ、これは愛などという美しいものではありません」
それくらいはわたしでも分かる。
ヴォルフラム様から向けられるものと、わたしがヴォルフラム様に向けるものとは違う。
だが、そのようなことはわたし達の関係にとっては些末な問題だろう。
「それでも、ヴォルフラム様がわたしを求め、わたしもヴォルフラム様を求めました。わたしにとって重要なことはそれだけで、皆様が考えているような美しい恋物語は存在しません」
「……なんだか、頭が痛くなってきたわ」
皇女殿下が椅子の背もたれに深く寄りかかる。
呆れとも、驚きとも、困惑のようにも見える表情にわたしは苦笑した。
「理解していただく必要はございません。ただ、わたしはヴォルフラム様に生涯を捧げ、ヴォルフラム様を裏切る気はないという、それだけの話なのです」
そう言えば、背後から声がした。
「随分と興味深い話をしているな?」
振り向けば、ヴォルフラム様が部屋の出入り口に寄りかかっている。
皇女殿下が呆れた顔で声をかけた。
「お兄様、淑女のお茶会を盗み聞きするのは無粋ですわ」
「声をかけようと思ったんだが、レーヴの熱い告白が聞こえてきたのでつい、な」
ヴォルフラム様が近づいてきて、わたしの肩に触れる。
もう片手がわたしの頬を包んだ。
「俺のことを愛してはいないのか?」
「愛しております。……この感情を愛と呼ぶなら、ですが」
「まあ、感情の名前などどうでもいい。お前が俺のそばにいて、離れないならそれで十分だ」
わたしが『愛』という言葉をあまり好まないことをヴォルフラム様は知っている。
兄が最期に残した言葉を、ヴォルフラム様に話したので、それ以降は『愛している』とあまり言わなくなった。代わりに『俺のそばにいろ』『お前は俺だけの騎士だ』と言ってくれて、そのほうが嬉しい。
「わたしはヴォルフラム様だけのものです」
愛情の形というのはきっと、人ぞれぞれ違うのだろう。
けれど、わたしなりにヴォルフラム様を想っているつもりだ。
ヴォルフラム様は自分と同じものを返せと言うことはない。
だからこそ、わたしはわたしなりの表現で想いを表したくて、守護騎士を続けている。
「ああ、知っている」
嬉しそうに笑うヴォルフラム様に、わたしも微笑み返した。
* * * * *
『──……そして、兄は最期に、わたしに『愛してる』と言って自害しました……』
夜、ベッドの上で寝物語を話すように、レヴァニアはそう言っていた。
それはレヴァニアが『愛』という言葉を好めない理由でもあるのだろう。
……何故、アルセリオ子爵令息は死を選んだのか。
たとえその道がつらく苦しいものであったとしても、本当に妹が大事であったなら、生きて子爵家を継ぎ、父親の借金を返済していくべきであった。
それとも、令息は父親を殺してしまった事実に耐えられなかったのか。
どちらにしても、十四歳の令嬢には目の前で父と兄が死んでいくのを眺めることしかできなかった。
それ故にレヴァニアは日々の鍛錬を怠らないのかもしれない。
手入れをするようになった頬は柔らかく、滑らかで、触り心地が良い。
ヴォルフラムはその頬を片手で包み、顔を寄せる。
「残念だが、首輪はやれないな」
そのまま、手を下げてレヴァニアの首を撫でる。
詰襟の縁を撫で、囁いた。
「お前の首に傷が残っては困る」
レヴァニアが残念そうに「そうですか……」と言う。
「代わりに、俺の剣の中から好きなものを一本やろう」
ヴォルフラムの言葉にレヴァニアが目を輝かせた。
「よろしいのですか?」
「ああ。……ただしこれはダメだ」
今、腰に下げている剣だけはレヴァニアに渡すことはできない。
「この剣は『親殺し』で、お前には似合わない。これの重みは俺が負うべきものだ」
それにレヴァニアが「かしこまりました」と小さく頷いた。
……こういうところは物分かりが良いのだが。
ヴォルフラムはそのまま、レヴァニアの額に口付けた。
「だが、どうしても首輪がほしいなら、二人きりの時にくれてやる」
目を開けたレヴァニアがキョトンとし、妹と近衛騎士はまるで聞こえていないかのように表情を変えず、その正反対な反応にヴォルフラムは小さく笑いが漏れた。
そっとレヴァニアの耳元で教えてやる。
「夜のご褒美になるがな」
それでやっと理解したのか、レヴァニアの顔がほのかに赤くなる。
そういう無防備な表情をされるとヴォルフラムは構い倒したくなってしまう。
「エーデルリーネ、そろそろレヴァニアを返してもらうぞ」
「仕方ありませんわね。……レーヴ、またいらしてね?」
「はい、皇女殿下」
頷くレヴァニアを立ち上がらせ、ヴィルフラムは手を取った。
掌に感じるのは籠手の硬い感触だが、それでもいいと思う。
部屋を出て、皇女宮の廊下を歩く。
「そういえば、エーデルリーネの呼び方を変えないのか?」
ヴォルフラムと結婚し、兄嫁となったのだから、エーデルリーネを名前で呼んでも許される立場になったはずなのに、レヴァニアは相変わらず『皇女殿下』と呼んでいた。
「皇女殿下の名前を呼ぶのは恐れ多いことです」
「よく分からんな」
「わたし自身もよく分かりません」
ふふ、と微かにレヴァニアが笑う。
出会った当初より、表情が増えたことでレヴァニアは人目を集めるようになった。
元より国内では珍しい黒髪に黒目という色彩で目立つのだが、これまでは無表情で近寄りがたい雰囲気のほうが強く、どこか冷たい印象があった。
それが最近では穏やかな表情を見せることが増え、若い令嬢達の人気が高まっているらしい。
……令嬢からの人気が高いというところが何とも言えんな。
男から声をかけられないよう目は光らせているが、女性となると、なかなか難しい。
夜会では令嬢達からダンスを申し込まれて、時々踊ることもある。
その付き合いも毎回ではなく『ヴォルフラム様の護衛がありますので』と踊っても二、三回程度だが、前回は誰が踊るかで揉めてレヴァニアが珍しく困っていたのは面白かった。
結局、ヴォルフラムが声をかけてレヴァニアを独占したのだが。
「皇女殿下からも言われていないので、何もなければこのままだと思います」
と、レヴァニアが言う。
エーデルリーネの性格上、呼び方は気にしないだろうから、恐らくこのままだろう。
「レヴァニア」
立ち止まって名前を呼べば、黒い瞳が見つめ返してくる。
「はい」
「お前は言葉遣いを崩さないのか?」
「崩しません」
「即答だな……」
繋がった手を緩く握れば、握り返される。
「わたしにとってはこれがもう普通ですので。それに、言葉を崩しても男性らしい口調なので、こちらのほうがまだ良いでしょう」
「男らしいレーヴというのも気になるところだがな」
レヴァニアが困ったように微笑んだ。
「ヴォルフラム様のほうが男前ですよ」
「そうか」
「そうです」
……お前は俺を喜ばせるのが上手い。
口角が自然と引き上った。歩き出せば、レヴァニアもついてくる。
それ以降は沈黙が続いたものの、不快ではない。
ヴォルフラムもレヴァニアも話すのが好きという質ではないため、こうして会話が途切れるのだが、レヴァニアは特に話すことを求めてはいないのでヴォルフラムも過ごしやすい。
離宮を出て、馬車に乗り込む。
扉が閉まり、ややあって走り出す。
「ヴォルフラム様。剣の話ですが、儀礼用のものを賜りたく存じます」
レヴァニアの言葉にヴォルフラムは首を傾げた。
「儀礼用を? 構わないが、役に立たんぞ?」
「はい、ヴォルフラム様からいただいた剣は使いません。欠けたり傷ついたりしてほしくないので、飾っておくための儀礼用のものであれば壊す心配もないでしょう」
「なるほど。お前がそれで良ければ、そうしよう」
儀礼用の剣も多くあるので、レヴァニアの好むものも一本くらいは見つかるだろう。
「その剣はどこに飾る?」
「私室に」
寝室にも剣を飾っているが、あれは実用性を求めてのものだ。
皇帝という立場は狙われやすく、寝室や浴室など、武器を持たない状態は特にそうだ。
そのため浴場にも騎士を配置しており、寝室の壁には剣がかけてある。
そこまで考えてふと気付く。
「レヴァニア、私室を使っているのか?」
いつもヴォルフラムのそばにいて、寝室は同じなので、ほとんど私室を使っていない気がする。
ヴォルフラムの問いにレヴァニアは頷いた。
「報告書を書く時や夜会用に身支度を整える時などは使わせていただいております」
「もう少し私室を使ってやれ」
「検討します」
それは大抵、考えるだけで変わらない時の返しだと、ヴォルフラムは苦笑した。
だが、レヴァニアがそばにいる時間が長いほうが嬉しいので、それ以上は言及しなかった。
……俺も相当、入れ込んでいる。
その自覚があるからこそ、自身の変化がヴォルフラムにとっては愉快だった。
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