後日談:夫婦の二人
式の後の夜会も終え、皇帝陛下の過ごす区画に今はいる。
この辺りは私室や蔵書室くらいしか立ち入ったことがないので、浴場がとても広くて驚いた。
何故か皇女宮の侍女達が待機しており、ヴォルフラム様と別れた後は浴場に連れて行かれて夜会の装いを脱がされ、全身をまた洗われた。
……日に二回も入浴することになるなんて。
今日は朝から入浴させられたというのに、終わった後もまた入浴である。
とても贅沢だが、今回は朝ほど磨かれるようなことはなく、体や髪を洗って湯船に浸かっている間は気持ち良かったものの、池かと思うほど広い浴場をずっと一人で使うのは落ち着かなかった。
さっさと上がるといつも通り化粧水やら何やらをつけられ、下着を渡された。
「……これを着るのですか?」
思わず、訊き返してしまった。
白地に青糸で繊細な刺繍が施された下着はわたしには少々、女性的すぎる。
しかし、侍女と共にいた女官長に頷き返された。
「わたしには似合わないと思うのですが……ヴォルフラム様に呆れられてしまうのでは?」
「そのようなことはございません。普段は男性的な装いや振る舞いの皇后様が、自分の前でだけは女性的な装いをするという、その差が良いのです。……皇帝陛下は特に『意外性』を好まれますから」
「それについては否定できませんね」
大勢いる美しい令嬢ではなく、男のようなわたしを選んだところからも何となく察せられる。
しかし、わたしは令嬢に比べれば筋肉質で、それほど胸も大きくない。
促されてとりあえず着てみたが、わたしからすると微妙なものだった。
何故か同じ白地に青いリボンの靴下も履かされる。
……いや、これは似合っていないのでは?
それなのに女官長も侍女も満足そうに頷くので、やはり何とも言えない気持ちになった。
その上からバスローブを着せられ、侍女達に囲まれて浴場からすぐ近くの寝室に移動する。
鎧どころか、これほど薄着でいることがなかったので非常に心許ない。
女官長が寝室の扉を叩き、中から入室を許可する声がして、扉が開かれる。
寝室に入れば背後ですぐに扉が閉められた。
薄暗い室内には大きな天蓋付きのベッドがあり、テーブルセットもあったが、ヴォルフラム様はベッドに腰掛けてそばにサイドテーブルを置いて酒を飲んでいるようだ。
わたしと同じくローブ姿に室内履きという姿のヴォルフラム様は何だか新鮮だ。
扉の前で立ったままというのも変なので、ゆっくり近づいていく。
「軽装のお前というのは不思議な感じがするな」
と、言われてわたしも頷いた。
「自分でもそう感じます」
「何というか……線が細い」
「……それはいつもと同じだと思うのですが」
ヴォルフラム様が横を叩いたので、わたしもベッドの縁に腰掛ける。
カラン……とヴォルフラム様のもう片手に持ったグラスの中で、氷が涼しげな音を立てた。
微かに漂ってくる酒気は木の香りがした。
何となくグラスを見つめていると、問われる。
「飲んでみるか?」
差し出されたグラスを受け取り、恐る恐る一口含む。
……なんだこれは。
まずいというわけではないが、口の中いっぱいに木の香りがする。
甘みはなく、飲み込むと喉が少し熱い。
口の中に含んだ時より、飲み込んだ後のほうが木の香りを強く感じるような……。
わたしが無言でグラスを返せば、ヴォルフラム様が小さく笑った。
「口に合わなかったようだな」
「……木片を口に入れたかのような、香りがします……」
「この酒はそういうものだ。樽の中で長年置いておくことで、香りがつく」
「わたしにはまだ、こういったものの良さは分からないようです」
「人ぞれぞれ好みというものがある。気にすることはない」
ヴォルフラム様はグラスに口をつけると飲む。
飲みながら、サイドテーブルに手を伸ばし、何かを摘むとわたしの口元に差し出してくる。
それを食べ、咀嚼して、口の中に燻製の香りが広がった。
……肉とナッツとチーズ?
ナッツとチーズを塩気のある肉で包んだものだ。
燻製ものは普段、あまり口にしないが美味しいと思う。
口の中の木の香りが燻製の香りに変わり、少しホッとした。
「こちらは気に入ったようだな」
よく味わって食べていたからか、ヴォルフラム様がまた小さく笑う。
「燻製の香りがして美味しいです」
「エーデルリーネからは甘いものが好きだと聞いたが、塩気のあるものも平気か」
「食べ物に関して嫌いなものはありません」
「それは良いことだ」
もう一つ同じものを差し出されたので、それも食べる。
ヴォルフラム様はあまり甘味を好まないので、こういうものが好きなのだろう。
食べるわたしをヴォルフラム様が楽しそうな表情で眺める。
グラスを置き、手が頬に触れた。
顔が近づいてきたので目を閉じれば、唇が重なった。
「……酒の匂いがします」
離れたヴォルフラム様に言えば「ああ」と返された。
目を開ければ、ジッと見つめられる。
「酒の匂いは嫌か?」
「葉巻よりは良いと思います」
「そうか」
そして、もう一度口付けられる。
……やはり木の匂いがする。
しかし悪い気はしなかった。
「触れてもいいか?」
問われて、笑ってしまう。
「もう触れているではありませんか」
「そういう意味ではない。……分かっているだろう?」
更に訊かれて、頷き返した。
ゆっくりとベッドに寝かせられ、わたしのバスローブのリボンが解かれて前を開かれる。
そこで、ピタリとヴォルフラム様の手が止まった。
視線が体に向けられているのが分かり、気恥ずかしくて顔を背ける。
「……似合わないでしょう……?」
あまりに無言が続くので、顔を戻せば、真剣な表情のヴォルフラム様と目が合った。
「お前の趣味ではなさそうだな」
「はい、女官長と皇女殿下の侍女達に勧められまして──……っ」
急に温かな手が太ももに触れたので、ビクリと肩が跳ねた。
感触を確かめるように太ももを撫でられる。
「ヴォルフラム様……?」
明かりに背を向けているため、ヴォルフラム様の表情はあまり見えない。
だが、微かに笑う気配がした。
「本当に、お前は素直すぎる」
「……我ながら似合っていないという自覚はあります」
「そうではない。似合っているが……良すぎて、俺のほうが余裕がなくなりそうだ」
その言葉に思わず起き上がれば、やはり真剣な表情のヴォルフラム様と目が合った。
手を伸ばしてヴォルフラム様の胸元に添え、体を寄せる。
「身も心も、全てあなたのものです」
瞬間、強く抱き締められ、口付けられた。
これまでとは違う遠慮のないそれが、嬉しかった。
* * * * *
微かにベッドの揺れる感覚に、ヴォルフラムは目を覚ました。
横で眠っていたであろうレヴァニアが起き上がり、バスローブで前を隠しているが、こちらに向けられた真っ白で線の細い背中がよく見えている。
……制服や鎧を着ている時は男に見えるのにな。
こうして見ると腰も肩も薄く、筋肉はあるものの、全体的に細い。
伸ばした手で色白の背中を撫でれば「っ……!?」と驚いた様子でレヴァニアが振り返った。
こちらを見る顔は少し赤く、すぐに視線を逸らされた。
どうやら照れているらしい。
「こんな早朝から、俺を一人残すつもりか?」
そう問えば、レヴァニアが言う。
「朝の訓練の時間ですので……」
生真面目なレヴァニアらしい返答だった。
そういう真面目で職務に忠実で、少し他人と違うところが面白い。
ヴォルフラムを庇って矢傷を負った時も、とにかく『早く体を動かしたい』『体が鈍ってしまう』と気にしていたらしい。恐らく『騎士としての自分』以外を知らないのだ。
「訓練をするとして……立てるのか?」
ヴォルフラムの質問に、レヴァニアがキョトンと目を瞬かせる。
普段は無表情が多く大人びて見えるが、こういう表情をすると歳相応に感じられた。
レヴァニアも騎士として体を鍛えているものの、体力はヴォルフラムのほうがあり、昨夜はかなり無理をさせてしまった自覚もあった。
だが、あれは『レーヴ』であれば着ないものを着ていたせいだ。
いつもとの違いについ、火がついてしまった。
そのせいで自分でも若干引くくらい、レヴァニアを求めてしまった。
「何のことですか?」
と、不思議そうに言い、レヴァニアが立ち上がろうとする。
しかし、そのままストンと絨毯の上に座り込んでしまう。
「……え?」
予想外のことだったのか、レヴァニアが戸惑っているのが分かる。
ヴォルフラムも起き上がり、ベッドの縁から立つと、レヴァニアのそばに膝をついた。
「立てないだろう?」
「はい……腰が抜けてしまっています」
見上げてくるレヴァニアはやはり不思議そうだ。
昨夜も感じていたが、こういう知識はほとんどないらしい。
何故腰が抜けているのかも分からないといった様子で困惑していた。
「昨夜は少々、激しくしすぎた」
そう告げれば、ややあって理解したのかレヴァニアの顔が赤く染まった。
日に焼けていない色白の首や肩までほのかに色づいている。
「っ、ヴォルフラム様のせいですか……」
「ああ、だが、謝罪はしない。それくらい、お前が欲しかったということだ」
レヴァニアが前を隠していたバスローブを口元まで持ち上げ、少し俯く。
「……わたしも、嫌ではなかったので……謝罪は要りません……」
ヴォルフラムは手を伸ばし、レヴァニアを抱き上げた。
筋肉質で一般的な令嬢よりは重いだろうが、それが愛おしい。
レヴァニアをそのままベッドに戻し、押し倒す。
「え? ヴォルフラム様……?」
と、レヴァニアが見上げてくる。
「今のは、お前が悪い」
あまり可愛いことを言うな、と以前に忠告していたのだから。
* * * * *
……陛下、レーヴを猫可愛がりしてるよなあ。
レジス・エステハイムはそんなことを考えながら、近衛騎士として控えていた。
皇后レヴァニア・ライナー=グライフェルド──……レーヴの正式な近衛騎士に就任してから数日が経ったけれど、皇帝ヴォルフラム・ライナー=グライフェルドは妻を溺愛している。
政務室や謁見の間など他の者達の前では今まで通り、二人は主君と守護騎士として振る舞い、過ごしているが、休憩時間になるとべったりである。
それも主に皇帝陛下のほうがレーヴを構い倒す。
レーヴは特に嫌ではないらしく、されるがままだ。
「まったく、結婚したばかりだというのに側妃の話を持ってきおって……」
と、皇帝陛下がぼやいている。
休憩時間はソファーに移動し、横にレーヴが座っていた。
「俺にはレーヴだけで十分だ」
「ありがとうございます。ですが、政治的に必要な婚姻もあるでしょう」
「理解があるのはありがたいことだが、少し傷つくぞ」
不満そうに返す皇帝陛下の頭にレーヴが手を伸ばし、撫でる。
……陛下の頭を撫でるなんて、レーヴ以外にはできないな。
よしよしと不慣れな手つきで撫でられると、皇帝陛下の表情が少し和らいだ。
「あなたの最も近い位置にあるのがわたしだと分かっておりますので」
レーヴは皇帝陛下に対して好意も信頼も隠さない。
それが皇帝陛下は嬉しいようだ。
「それに、もしも裏切り者が出た場合はわたしが即座に斬り捨てます」
……最近気付いたけど、レーヴって陛下のこととなると過激だ。
自分のことはそれほど気にしないくせに、皇帝陛下に関することはとても神経質になる。
もしも側妃を娶ったとして、その者が他国と内通していたり不貞をしたりすれば、本当に言葉通りに容赦なく斬り捨てるだろう。
皇后となった今でも毎日訓練を行い、皇帝陛下と剣を交えて鍛え、守護騎士として働いている。
その一方で夜会や茶会にも出席し始めたが、若い令嬢からの人気が高い。
貴族は中性的な線の細い男が好まれる風潮があり、レーヴは好まれやすい容姿であった。
しかも男性のような見た目や仕草、言葉遣いでありながらも女性であり、夜会や茶会ではドレスではなく騎士の制服を思わせるような装いで終始紳士的な態度を取るため、若い令嬢達からは『レーヴ様』と呼ばれて熱い視線を向けられている。
恋愛感情というよりかは、劇の俳優に向けられるような、そんな雰囲気を感じる。
夜会でも令嬢達からダンスを求められ、男役として踊っていることも理由の一つだろう。
そんなレーヴを皇帝陛下はいつも愉快そうに眺めているだけで、止めることはない。
だが、男が近寄ると睨みを利かせるところを見る限り、心配はしているようだ。
それにレーヴを『レヴァニア』と呼ぶのは皇帝陛下だけだ。
「俺は狂帝と言われているが、お前は首輪が必要だな」
皇帝陛下が苦笑し、レーヴが微笑む。
「今更お気付きになられたのですか?」
「いや、前々から多少感じていた。……そういうところが面白いんだが」
そのように言える皇帝陛下もすごい。
少々行きすぎているレーヴの忠誠心や献身すら、皇帝陛下にとっては可愛らしく見えるらしい。
皇帝陛下が嬉しそうにレーヴの額に口付ける。
「俺のそばにいてくれるなら、自己保身も身に付けてくれると助かる」
それにレーヴが少し考えるふうに目を伏せた。
「……分かりました」
「良い子だ」
皇帝陛下はそう言ってレーヴに口付ける。
……やっぱり、陛下ってレーヴには甘いよなあ。
気持ち良さそうに頭を撫でられているレーヴに、皇帝陛下は優しい眼差しを向けていた。
* * * * *




