夜
「体調はどうだ?」
レジスと会った日の夜、皇帝陛下が来た。
皇帝陛下は二日か三日に一度はわたしの様子を見に来るので、実は心配性なのかもしれない。
……お忙しいだろうに……。
それでも、皇帝陛下の顔を見ると喜んでしまう自分もいる。
そのような気持ちを抱いてはいけないと、分かっているのに。
「特に問題はありません」
「いつもそればかりだな」
皇帝陛下が苦笑してわたしの頭に触れる。
……本当に頭を撫でるのが好きな方だ。
髪の感触を楽しむように、頭の形を確かめるように、大きな手が撫でていく。
満足したのか手が離れ、皇帝陛下が向かいの椅子に腰掛けた。
「陛下、レジスの面会をお許しいただき、ありがとうございました」
「ああ、お前に会いたいと一般騎士が毎日近衛騎士の宿舎に通い続けていてな」
「……他の近衛騎士の方々にはご迷惑をおかけしました」
守秘義務の多い近衛騎士としては、宿舎に一般騎士が何度も来るのは落ち着かないだろう。
皇帝陛下が笑って「それほどお前が心配だったのだろう」と言う。
レジスはわたしにとっては唯一の友人──……と言って良いのかもしれない。
レーヴとして生きるようになってから友人を作らずにいたが、ここまで心配してくれるレジスを無視することはできないと思った。
「レジス・エステハイムから話は聞いている」
皇帝陛下の言葉にハッと顔を上げれば、紅い瞳と目が合った。
「ノルディエン侯爵ならば、やりかねない」
それにわたしは思わず「やはり……」と呟いてしまった。
皇帝陛下が眉根を寄せて見返してくる。
「やはり、とはどういうことだ? 何かあったのか?」
「……妃選びの夜会の後に、ノルディエン侯爵令嬢に揺さぶりをかけられました」
わたしが女であることに気付いたノルディエン侯爵令嬢に声をかけられたこと。
脅されたようなものだったため、わたしも剣を抜いて脅し返したこと。
その後、ノルディエン侯爵令嬢からの接触がないこと。
「お前な……俺でもノルディエン侯爵家の扱いは慎重になるというのに……」
「もしもわたしの性別を広めたり、陛下に不利益を被るようなことをしたりした場合、わたしは命を賭けてノルディエン侯爵家に乗り込み、全員を殺してから自死するつもりですから。侯爵令嬢にもその旨を伝えました」
「侯爵令嬢は竦み上がっただろうな」
苦く笑う皇帝陛下に、わたしもさすがにあれはやり過ぎたと分かっている。
だが、あの時は捨て身になるほど、わたしも内心では焦っていたのだ。
「ですが、侯爵家が反乱軍と関係し、資金援助の可能性まであるとは……今更、陛下を廃したところで彼らにうまみがあるようには思えないのですが……」
「この帝国の皇族そのものを挿げ替えたいのかもしれないな。俺もエーデルリーネも、前皇帝の死に関わっている。側近だったノルディエン侯爵からすれば、どちらも敵と判断しても不思議はない」
そうだとしても、反乱軍がもしも現在の皇族を廃したとして、その後はどうするつもりなのか。
「……陛下」
「何を言いたいのか分かるが、俺がそれを許すと思うか?」
今からでもノルディエン侯爵家を潰してこようかと思うのだが、皇帝陛下が呆れた顔をする。
指で呼ばれたので立ち上がり、陛下のそばに片膝をついて跪く。
伸ばされた手でわしゃわしゃと頭を荒っぽく撫でられた。
「お前は俺のそばにいればいい」
最後にポンポンと二度、頭を叩かれ、手が離れていく。
「それよりも、お前に話さなければいけないことがある」
皇帝陛下の真面目な表情にわたしも立ち上がり、席に戻る。
改まって話さなければならないこととは何なのだろうか。
「一つは、お前の性別と名前を書き換えようと思う」
「公文書を書き換えられるのですか?」
「正確には、お前の書類だけ丸ごとすり替える。元貴族であること、性別、孤児院に身を寄せたことなど、お前のこれまでを明記する必要があるが……」
「それについては陛下の采配にお任せします」
元より、騎士になるために性別を偽る必要があり、出自を伏せていただけだ。
性別についてもわたしは『男』だと明言したことはない。
騎士の制服も男女共に同じものなので、何か言われることもないだろう。
孤児院の出ということも嘘ではない。
「性別は女で『レーヴ・リンド』のままでも問題はないが、名はどうする?」
名前については正直、悩む。
レーヴという名前も慣れてきたし、レヴァニアの名を捨てる覚悟もした。
それでも、名前を捨てる必要がないとなれば変わってくる。
考え込んでいると皇帝陛下に名前を呼ばれた。
「レーヴ」
顔を上げれば、皇帝陛下が言う。
「悩むなら、本名をレヴァニアに戻し、普段はレーヴと名乗っていればいい」
「……よろしいのですか?」
「誰かから訊かれたら、俺に『レーヴと名乗れと言われた』とでも返しておけ」
……また『レヴァニア』の名前が戻ってくる。
父の借金以外は全てを捨てるしかないと思っていた。
だが、皇帝陛下は『レヴァニアに戻る道』を示してくれた。
「……ありがとうございます、陛下」
どんなに酷い父でも、母と共に考えてくれたわたしの名前だ。
名前とは、人生で最初に与えられる特別な贈り物である。
立ち上がった陛下がわたしのそばに来る。
そうして、ふわりと抱き締められた。
「……レヴァニア」
皇帝陛下に名前を呼ばれ、ドキリと心臓が跳ねた。
ここ何年も呼ばれることがなかったのもあって不思議な感覚だった。
「……はい」
「お前は『レヴァニア』でも『レーヴ』でもいいんだ。どちらもお前であり、俺の守護騎士だ」
後頭部を優しく撫でられ、皇帝陛下の体が離れていく。
それに少しばかり寂しさを感じてしまった。
……陛下は温かいから……。
抱き締められると、その体温が恋しくなってしまいそうだ。
「レーヴ?」
名前を呼ばれ、首を傾げそうになって気付く。
いつの間にかわたしの手は、皇帝陛下の服を掴んでいた。
「あ……申し訳ありません」
自分でも何故引き留めたのか分からなくて、戸惑った。
手を離すよりも先に皇帝陛下にもう一度、先ほどよりもしっかりと抱き締められる。
「いや、いい。……少しだけ、こうさせてくれ」
服越しでも皇帝陛下の逞しい体つきを感じる上に、わたしはシャツだけなので触れられる大きな手の温もりや優しい手つきも伝わってきて、体の力が抜けていく。
そっと皇帝陛下に手を回しても、嫌がられることはなかった。
「……はい、陛下」
目を閉じて、皇帝陛下の温もりに身を委ねる。
こうして誰かに抱き締められたのはいつ振りだろうか。
そう思い、記憶を辿ると出てきたのは兄だった。
……お兄様……。
しかし、その表情は最期に見た困ったような微笑みで──……兄のことは色々と覚えているのに、顔を思い出そうとするとあの時の表情がしか浮かばず、悲しくなる。
……申し訳ありません、お兄様……。
愛していると言ってくれたのに、わたしは『レヴァニア』を捨てた。
けれども、それを皇帝陛下はまた取り戻させてくれた。
頬に涙が伝うのを感じる。
「陛下、ありがとうございます」
「先ほども聞いたぞ」
「はい……それでも、お伝えしたいのです……」
ギュッと抱き締められ、皇帝陛下が小さく笑う。
「本当に、お前は真面目だな」
頭を撫でられ、目を閉じる。
わたしが泣いていることなど気付いているだろうに、触れずにいてくれる。
その優しさと気遣いが嬉しくて、くすぐったくて、切なくて。
……やはり、わたしの生きる理由はこのお方なのだろう。
これからは、ずっと、皇帝陛下のためだけに生きていく。
わたしの大切なものを取り戻してくれたお方のために、生きていく。
涙が落ち着き、袖で顔を拭いながら皇帝陛下から離れる。
「何か、陛下にご恩返しができれば良いのですが……」
「そのようなこと、気にせずとも──……」
と、陛下が言いかけて考えるように一瞬黙った。
「──……いや、一つお前にしてほしいことがある」
「わたしにできることであれば、どのようなことでもお申し付けください」
「そういう言葉は軽々しく使うものではない。……俺のような悪い男に対しては特にな」
ぽん、と頭を叩かれる。
見上げれば、皇帝陛下が微笑んでいた。
「名前で呼んでくれ」
「それはあまりに不敬では……」
「俺が良いと言っているんだ。それに、誰もが俺を『皇帝』と呼ぶ。名前で呼ばれることが少ないというのも寂しいものだ」
そこまで言われてしまえば、わたしが拒否する理由はない。
それでも、少し緊張する。
「……ヴォルフラム様」
「ああ」
皇帝陛下──……いや、ヴォルフラム様が嬉しそうに笑った。
まるで少年みたいな明るい、心底嬉しそうなその笑みに、またわたしの心臓が跳ねる。
……これはきっと、良くない予兆だ。
そう思っているのに感情が止められない。
「ありがとう、レヴァニア」
心臓をわし掴みにされたような気分だった。
そんなに嬉しそうに、優しい声でわたしを名前を呼ばないでほしい。
小さく深呼吸をして、ヴォルフラム様に声をかける。
「もう一つのお話とは何でしょうか?」
「ああ、そちらも重要だが……」
ジッと皇帝陛下に見つめられ、首を傾げつつ見上げた。
* * * * *
小首を傾げて見上げてくるレーヴの目元は少し赤くなっていた。
泣いたせいか、少し潤んだ瞳は吸い込まれそうだとヴォルフラムは思う。
手を伸ばして頬に触れても、警戒する様子はなく、無防備だ。
……これまでは男として過ごしていたからか。
それともヴォルフラムだから、警戒しないのだろうか。
そのようなことを考えてしまい、内心で苦笑する。
レーヴの人生を考えれば、借金の返済以外に何かを考える余裕などなかったはずだ。
男として性別を偽ってきたために異性と恋愛関係に進展することもない。
だからこそ、これほど無防備で純粋なのだ。
「『カイ・ヴァルムント』という名前を知っているな?」
そう問えば、予想外だったのかレーヴが目を丸くした。
キョトンとした顔をするとより幼く見える。
「はい、わたしの元婚約者ですが……?」
心底不思議そうな、戸惑っているような様子のレーヴは珍しい。
カイ・ヴァルムントはヴァルムンド伯爵家の次男であり、レーヴが『レヴァニア・アルセリオ』だった頃の婚約者でもあった。当時のレーヴが子爵令嬢で、何事もなければカイ・ヴァルムントに嫁ぎ、伯爵家を支える一員となっていただろう。
しかし、戸惑ってはいるものの、そこに懐旧の情は感じられない。
「反乱軍を最近まとめている者の名だ。伯爵家出身の貴族だが、身分を気にせず、誰に対しても分け隔てなく接するらしい。ノルディエン侯爵が支援をしていることもあり、反乱軍の中でも発言力を持っている」
「そうなのですね……」
目を伏せたレーヴの表情は少し複雑そうだった。
だが、すぐに顔を上げたレーヴが口を開く。
「元婚約者といえど、ヴォルフラム様に仇なす者ならばわたしの敵です」
そう告げたレーヴの表情は真剣なもので、まっすぐに黒い瞳が見つめてくる。
「もしも彼と剣を交えることになったとしても、わたしは躊躇いません」
「あちらに誘われるかもしれないぞ?」
「わたしが剣を捧げたのはヴォルフラム様であり、この国の皇帝陛下ではありません。……何があろうとも、あなたのおそばにおります。そう、決めてヴォルフラム様にお仕えしているのです」
……レーヴ。
その頭に触れる。もはや、最近はこれが癖になってしまった。
「お前は俺を喜ばせるのが上手い」
ぽんぽん、と軽く叩けば、レーヴが目を閉じて受ける。
これ以上の関係になりたいか、そうではないかと訊かれれば、確実に前者である。
けれども、レーヴがそれを望まないのであれば無理強いはしたくない。
「……反乱軍は武器や防具、資金を集めている。そのうち、反旗を翻すだろう」
ノルディエン侯爵家が裏で糸を引いているとしても、表向きは他の家々が動くはずだ。
宰相ゲルハルト・ノルディエンはしたたかで、自らを危険にさらすようなことはしない。
……それに、向こうも同じことを考えているだろう。
こちらがレジス・エステハイムを送り込むように、こちらの手の内を知るために宰相という地位ほど良いものはない。戦いが起こった時、会議に参加すべき立場なので作戦が筒抜けになるだろう。
その辺りについては手を打つ予定だが、レーヴにも協力してもらう必要がある。
レーヴが胸に手を当て、礼を執る。
「どこまでもお供いたします、ヴォルフラム様」
それにヴォルフラムは口角を引き上げた。
「それがあの世でもか?」
「お許しいただけるのであれば」
……まったく、本当に上手い奴だ。
「許す」
こうまで言われては、反乱軍になど負けるわけにはいかなくなった。
……お前があの世に行くにはまだ早い。
ヴォルフラムの治世が続く限り、レーヴを死なせるつもりはない。
「お前だけは何があろうとも、俺のそばにいろ」
* * * * *




