愛情の形
* * * * *
兄に触れられ、レーヴが嬉しそうに黒い瞳を細めている。
そんなレーヴを兄も優しい目で見つめており、エーデルリーネは少し呆れてしまった。
……愛しいならそう言えばいいのに。
どうして兄もレーヴも、こんなに分かりやすいのに言葉にしないのだろうか。
「それで、レーヴはどうして性別を偽っていたの?」
エーデルリーネが声をかければ、兄の手がレーヴから離れる。
そうして、元は医官が座っていた椅子に兄が腰掛ける。
レーヴはこちらを見ると少し困ったように眉尻を下げた。
「面白い話ではありませんが──……」
と、前置きがあり、レーヴの口からこれまでのことが語られる。
元は子爵家の令嬢で婚約者もいたが、妻を失った父親が賭博に染まり、家や領地の金を使い込み、それでも足りずに娘──本当の名前はレヴァニアというらしい──を資産家に嫁がせる形で売ろうとした。
そのことを知った子爵令息である兄が父親を止めるために斬り殺し、親殺しという罪を背負い、自害した。
死んだ父親と兄を前に、呆然とするしかできなかったという。
……それはそうよ……。
父親に売られそうになったという事実も、一瞬で家族を全て失ったという事実も、十四歳の少女にはあまりにつらすぎる現実だった。
爵位も領地も返上したが、父親が作った借金だけが残る。
返済するために働こうとしたものの、領地では領民から嫌われており、何とか帝都に出て、給金の良い騎士になるために男として生きていくことを決めた。
十五歳で孤児院に入ってから五年、レーヴは男として過ごした。
「わたしが毎日鍛錬を欠かさないのは、女であり、筋肉がつきにくい体質なので、とにかく日々の積み重ねが必要でした。周りと同じ高さまで行くためには他人の倍以上、努力をしなければ同じ位置まで辿り着けなかったからです」
淡々と、まるで他人事のようにレーヴは話す。
その後、騎士団に入り、騎士となって兄に見出された。
「陛下はわたしの借金を全て支払ってくださいました。……もし借金を返さずに死ねば、叔父夫婦に取り立てが行くでしょう。父が残した借金だけがわたしの生きる理由でした」
エーデルリーネは唐突に理解した。
レーヴが兄を『生きる理由』と言ったことは、嘘ではないのだろう。
「ですから、現在は陛下に返済をしております」
「俺は要らんと言ったんだがな」
「そうなっては、それこそわたしの生きる理由がなくなってしまいます。陛下に借金とご恩返しをさせていただくことこそ、今のわたしの生きる理由なのです」
兄が呆れ顔をする。
「借金などなくても、お前は俺の守護騎士だ。守護騎士ならば俺のそばにいて、俺を守れ。……それ以外に生きる理由が必要か?」
兄の手が伸ばされる。
しかし、その手はレーヴには届かない。
「俺がお前の生きる理由だ」
レーヴの手も兄の手に伸びかけ、躊躇うように一瞬止まる。
その手を兄が掴み、しっかりと握った。
「だからもう返済など必要ない」
「……それとこれとは話が違います」
困ったような顔でレーヴが微笑んだ。
柔らかな表情をすると幼く見える。
兄はやはり、呆れ顔で言った。
「本当に、お前は妙なところで生真面目だな」
「陛下がおおらかすぎるのです。……借りたものは返すのが常識です」
「狂帝に常識を説くのはお前くらいだろう」
それにエーデルリーネは笑ってしまった。
今まで見たことがないほど、兄は穏やかな表情と雰囲気だった。
レーヴに心を許し、素の姿を見せて、話している。
そんな姿を見たのは久しぶりだ。
……ジークフリートお兄様がいた頃のようね。
あの頃の兄は今よりももっと素直で、穏やかで、明るくて、気安い他人であった。
けれども前皇帝を殺すことを決め、新たな皇帝となってからは人を寄せつけなくなった。
「お兄様もレーヴも仲がよろしいですわね」
二人がキョトンとした顔でエーデルリーネを見た。
「守護騎士だからな」
「守護騎士ですので」
二人の言葉が重なり、今度は二人が顔を見合わせる。
兄がおかしそうに小さく噴き出した。
「やはり、お前はいいな」
立ち上がった兄がレーヴの頭を撫でる。
レーヴが目を閉じて、気持ち良さそうにされるがままになっている。
兄がこちらに目線を寄越したので、エーデルリーネも立ち上がった。
「お兄様、そろそろお暇しましょう。まだレーヴは安静にしていないといけませんから」
「ああ。……では、またな」
兄がレーヴの頭から手を離すと、レーヴが目を開けた。
「また来てくださるのですか?」
不思議そうに問うレーヴに、兄が微笑む。
「他の誰でもないお前だから会いに来るんだ。無理せず、医官の指示に従って治せ」
「御意」
頷いたレーヴにお兄様が満足そうな顔をして、背を向ける。
その背をレーヴがジッと見つめる。
表情は相変わらずないが、兄から外れない視線が全てを物語っていた。
……レーヴには本当にお兄様が全てなのね。
そして、エーデルリーネも兄の後を追って部屋を出た。
近衛騎士達が静かに付き従う。
「お兄様、どうして娶らないのですか?」
前を行く兄が微かに笑った。
「様子を見れば分かるだろう?」
「お兄様にとても好意を持っているように感じましたが」
「ああ、だが、それは『恋愛』ではない。……以前『女であればお前を娶るのに』と言ったが、冗談だと流されてしまった。あれにとって俺は『飼い主』らしい」
「そうでしょうか? 押せばいけると思いますわ」
兄が立ち止まり、振り返る。
「いつになく、あれを推すな?」
「わたくし、これでもお兄様には幸せになってもらいたいと常々思っておりますのよ」
エーデルリーネは愛する人と添い遂げることは一生、叶わない。
元より叶うものではなかったが、今はもうそばにいることすらできない。
……ジークフリートお兄様……。
ずっと昔から、それこそ、気がついた時にはもう恋に落ちていた。
半分血の繋がった兄だと分かっているのに、愛する気持ちは抑えられなかった。
それでも愛する人を困らせたくなくて、ずっと仲の良い兄妹として過ごし、いつか将来、ジークフリートが結婚した時は祝福の言葉をかけて、その治世のために政略上の良い家に嫁ごうと考えていた。
だが、前皇帝に愛する人を殺されて全てが変わってしまった。
……ジークフリートお兄様のため以外で結婚なんてしたくない。
皇族としての責務を放棄するようなものだが、少なくとも前皇帝の利益になる結婚だけは絶対にしたくなくて、エーデルリーネはヴォルフラムに協力して前皇帝を殺す手助けをした。
その代わりに生涯、独身を貫く許しをもらった。
だからエーデルリーネは誰とも結婚せず、この離宮に引きこもっている。
「お兄様、愛の形や感じ方は人それぞれですわ」
たとえレーヴが今は兄に対して恋愛感情を持っていなかったとしても、時間の問題だ。
全てを捧げるという誓いと結婚の誓い。一体、何が違うというのだろう。
「あの子が全てを捧げるというのであれば、お兄様も何らかの形で応えれば良いではありませんか」
騎士として主君に一生を捧げるのも、妻となって兄と共に一生を過ごすのも。
エーデルリーネからすれば、大した違いがあるようには思えなかった。
兄が難しい顔でエーデルリーネを見る。
「簡単に言うな」
「ふふ、皇帝のお兄様でも難しいと思うことがございますのね」
「むしろ、難しくないことのほうが少ない」
背を向けた兄がまた歩き出し、エーデルリーネもついて行く。
不器用な二人の様子がもどかしくて、微笑ましくて、少しだけ羨ましかった。
* * * * *
ヴォルフラムは城の私室に戻った。
侍従や近衛騎士達を下がらせ、一人になり、ヴォルフラムはソファーの背もたれに体を預けた。
毒のせいで熱と痛み、苦しさで朦朧としていたレーヴであったが、今日は元気そうだった。
そのことに酷く安堵している己に、ヴォルフラムは小さく苦笑する。
……分かっている。
己がレーヴに抱く感情が親愛や友愛ではないことくらい、ヴォルフラムも理解していた。
だが、ここでヴォルフラムが『結婚しろ』と言えば、レーヴは命令として受け入れるだろう。
それは前皇帝と同じ振る舞いではないだろうか。
レーヴがヴォルフラムに感じているのは尊敬や忠誠心であって、恋愛感情ではない。
けれどもエーデルリーネに言われた時、一瞬、心が揺らいでしまった。
もしもこの先、己のそばにレーヴが『皇后』として立ってくれるならとても嬉しいが、それを今のレーヴは望んでいない。
自分が望んでいるからといって、それを相手に押しつけるのは違う。
利き手の掌を見つめる。
レーヴの頬は柔らかく、滑らかで、きめ細やかだった。
ヴォルフラムが触れても逃げることはなく、まるで純粋な幼子のように黒い瞳がまっすぐに見つめてきた。あの黒い瞳がヴォルフラムしか映さないことを知っている。
気付けば、己の唇に触れていた。
……子供なのは俺のほうか。
これでは『初恋に浮かれる少年』同然だと、我ながら思う。
レーヴはヴォルフラムに全てを捧げると誓った。
その誓いをレーヴが守り続ける限り、ヴォルフラムのそばにいる。
その誓いをレーヴがしたことに喜び、柄にもなく浮かれている。
皇帝が特別を持つことは、危険と隣り合わせであるというのに『欲しい』と願ってしまう。
「レーヴ……」
早く傷を治し、またそばに控えていてほしい。
ヴォルフラムは背もたれからから体を起こし、考える。
あの日、ヴォルフラム達に矢を射った襲撃者は複数人いたが、騎士達が周辺を捜索した時には既に事切れていた。襲撃が失敗した段階で即座に自害したのだろう。
城内に引き入れたのは下位貴族だったが、それを認めることはなかった。
たとえ襲撃者が何を行うか知らなかったとしても、城内に手引きした事実に変わりはない。
即刻、その貴族と一族郎党を捕縛した。
現在が取り調べ中ではあるが、このまま全員が処刑されるだろう。
皇帝の暗殺未遂に関わったのだから当然だ。
……皮肉なものだ。
前皇帝を殺したヴォルフラムが狙われ、皇帝暗殺未遂で罰を与えるなど。
しかし、今回の件は厳しく罰さねばなるまい。
軽い刑で済ませれば、いずれまた同じことが繰り返される。
しかし、襲撃者達を処罰できなかったことは残念だとヴォルフラムは思った。
守護騎士は命をかけて主君を守るのが当たり前とはいえ、レーヴは矢を射られ、毒に苦しんだ。
ヴォルフラムにとってはお気に入りを深く傷つけられたのだ。それを面白く思えるはずがない。
襲撃者は皆、平民だった。下位貴族が己の従者として城に連れてきていた。
……恐らく、反乱軍か。
エーデルリーネが言う通り、動きが活発化してきている。
あれから反乱軍の動きも調べさせているが、確かに以前とは異なり大規模な集団となって密かに動き始めており、どこからか資金を得て武器や防具などを少しずつ揃えている。
その背後に貴族がいることは明白だ。
しかも一つや二つの家程度の話ではないだろう。
「そう遠くないうちに反乱が起きるか……」
ヴォルフラム自身、これまでの改革が性急すぎたことは分かっていた。
貴族達に不満が溜まり、いつ爆発しても不思議はない。
それでも改革を行わなければ、帝国は今頃、内側から腐り落ちてしまっただろう。
止めるためには帝国を変えるしかなかった。
そのようなことを考えていると微かな気配を感じた。
「……報告か」
ヴォルフラムが言えば、僅かに燭台の明かりが揺れ、少し離れた場所に影が降り立つ。
反乱軍について調べさせている影の者の一人だ。
そばに来るとテーブルの上に書類を置き、静かに下り、姿を消す。
影の者が声を発することは滅多にない。
テーブルの上に置かれた書類に手を伸ばし、ヴォルフラムはそれに目を通した。
そこには反乱軍のまとめ役となっている人物に関する情報が書かれていた。
伯爵家の令息で、歳若く、上手く平民と貴族を繋いでいるらしい。
家は皇族派だが、本人は『現皇帝の即位は正しくない』と考えているようだ。
確かにヴォルフラム自身も己が皇帝になったことを正しいとは思っていないし、今でも、本当ならば兄・ジークフリートが皇帝となっていれば……と想像することもある。
……この世は不条理ばかりだ。
全てが必ずしも『正しく進んでいる』わけではない。
それは物事においても、人においてもそうだ。
その人物の情報を読んでいる中で、覚えのある名前が出てきて、ヴォルフラムは手を止めた。
「……さて、どうしたものか」
これを伝えるべきか、否か。
しばし考えたものの、ヴォルフラムは書類を読み進めた。
……信頼には信頼で応えるべきだ。
それがたとえ、相手を苦しめるかもしれないことであったとしても、突然知るよりかは前もって知らされていたほうが気持ちも違うだろう。
「まったく、運命なのか……それとも誰かの企てか……」
どちらにしても悪趣味なことだと、ヴォルフラムは嘆息した。
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