"狂帝"ヴォルフラム・ライナー=グライフェルド
* * * * *
「毒の影響であまり受け答えができない状態でして……面会は短時間でお願いいたします」
という医官の言葉にヴォルフラムは頷き返し、開けられた扉の中に入った。
サイドテーブルにランタンが置かれているが、室内は薄暗い。
二人用の小さなテーブルと二脚の椅子、机、衣装箪笥、そしてサイドテーブルとベッドがある。
本来は客室なのだろう部屋をレーヴに貸したようだ。
ベッドに歩み寄ると荒い息遣いが聞こえてくる。
痛みと熱、苦しみのせいか微かな呻き声もして、ヴォルフラムは一瞬、躊躇った。
それでも、そっと覗き込めばレーヴがうつ伏せになっていた。
枕だけでなく別のクッションも体の下に挟んでいるようだ。
うつ伏せのまま、顔をこちらに向けており、目は閉じられている。
「ぅ……」
眉根を寄せ、汗を掻いて、その表情からしてつらそうだ。
掻き毟るようにシーツを強く握り、荒い息を吐いて痛みと苦しみに耐える姿は普段よりもとても小さく、弱々しく感じられた。シーツを握る手が震えている。
……毒に対する抵抗力がない分、余計に苦しいのだろう。
シーツを握り締める手に触れれば、黒い瞳がぼんやりと開かれた。
こちらを認識するのにかなり時間がかかっている。
「…………へぃ、か……?」
「ああ、そうだ」
毒のせいか思考も鈍っているのだろう。
普段のレーヴなら、即座に飛び起きているはずだが、ぼうっとこちらを見ているだけだ。
ややあって問いかけられる。
「……ご無事……なのですね……」
「お前のおかげだ」
「……よかった……」
へにゃりと、レーヴらしくない、心底安堵したような笑みを浮かべる。
熱と苦しみ、痛みを感じているはずなのに。
「う……っ」とレーヴが呻き、シーツを握り締める。
浅く、苦しそうな呼吸だが、ヴォルフラムにしてやれることはない。
手を伸ばし、目元にかかった黒髪を耳にかけてやり、その頭に触れる。
「レーヴ、よくやった」
ヴォルフラムが頭を撫でれば、気持ち良さそうにレーヴが目を閉じる。
そして、どうやらそのまま寝入ってしまったらしい。
苦しそうだが寝息を立てるレーヴの寝顔を、ヴォルフラムはしばし見つめた。
……お前に言った言葉は嘘ではない。
レーヴが女であったなら、それを明かしたなら、本気で娶っても良いと考えていた。
後ろ盾もなく、家に力もなく、だが貴族の血筋であり、剣に長けて自衛もできる。
ヴォルフラムにとって、レーヴは条件に合った人物で、その生真面目な性格と騎士としての忠誠心は素晴らしいと思う。今回もレーヴはヴォルフラムを守った。守護騎士の責務を果たしてみせた。
これほどつらそうなのに、ヴォルフラムが無事で『良かった』と言う。
頭に触れた手を滑らせ、レーヴの唇に触れる。
少しかさついているが、柔らかく、今はとても熱い。
「……今はよく休め」
手を離し、ヴィルフラムは立ち上がった。
触れた手を握り、ヴィルフラムは部屋を後にした。
* * * * *
わたしは三日三晩、熱と全身の痛み、苦しさで寝込んだ。
相当強い毒が矢に使われていたらしく、解毒薬のおかげで寝込む程度で済んだものの、もし解毒薬がなければ死んでいただろうということだった。
熱に浮かされ、意識は曖昧だったが、皇帝陛下が見舞いに来てくれたのを覚えている。
普段よりも優しい声で「よくやった」と褒めてくれたことも、頭を撫でてくれたことも。
……陛下は人の頭を撫でるのがお好きなのだろうか。
少し落ち着かない気持ちになるものの、皇帝陛下に撫でられるのは嫌ではない。
四日目にようやく熱が下がり、全身の痛みや息苦しさが和らいで起き上がれるようになった。
「まだ毒も残っていて、傷口もいつ開いても不思議はありません。無理に体を動かさないように。一週間は安静に過ごしてください」
「……分かりました」
……体が鈍りそうだな。
なんて考えていると、医官の女性にジッと見つめられる。
「軽い運動もいけませんよ」
「はい」
「騎士は体が大事です。無理をして体の機能に問題が残っては、その後に響きます」
「はい」
医官の様子からして以前に何かあったのだろう。
治療後に騎士が無理に体を動かし、障害が残ったのかもしれない。
体が鈍るより、怪我で体に問題が出るほうが困るので素直に頷いた。
そうして医官の話を聞いていると、医官の横にいた皇女殿下が小さく笑った。
「そんなにしつこく言わなくても、レーヴは分かっているわ」
「そうですね。では、毎食後の薬を忘れず飲んでください。日に一度、診察に来ますので、包帯の交換と塗り薬はその際に行わせていただきます」
「はい、ありがとうございます」
医官は一礼し、部屋を出ていった。
室内には皇女殿下の近衛である女性騎士が二名、控えている。
「レーヴ、ヴォルフラムお兄様を守ってくれて、ありがとう」
皇女殿下の言葉に浅く頭を下げる。
本当は深く下げたかったが、これ以上下げると左肩が強く痛む。
「それと、あなたの性別についてはお兄様に伝えたわ」
「そうですか……」
……陛下は『よくやった』とおっしゃったけれど。
怪我が治ったら守護騎士から外されるだろう。
だが、それは仕方のないことだ。騙していたのだから当然の結果である。
「お兄様の様子について訊かないのね」
「わたしは陛下のご判断に従うだけです」
「そう。……ねぇ、レーヴ」
皇女殿下が立ち上がるとベッドの縁に移動した。
ベッドの上でいるわたしの片手が取られ、皇女殿下のほっそりとした手に握られる。
「あなたはお兄様のことを、どう思っているのかしら?」
「素晴らしい主君です」
「まあ、即答ね」
ふふふ、と皇女殿下が笑った。
「わたくしは、お兄様のそばにずっとあなたがいてくれたら嬉しいわ。あなたはどう? お兄様の判断は別として、お兄様のそばにいられるなら、ずっといてくれるかしら?」
その問いにわたしは頷いた。
「わたしは陛下に全てを捧げました。その誓いに偽りはありません」
皇女殿下が少し考えるように目を伏せ、すぐにこちらを見る。
「どうしてお兄様が狂帝などと呼ばれているか、レーヴは知っていて?」
「……前皇帝陛下を手にかけた、という話を耳にしたことはございます」
「それは事実よ。でも、それだけではないの」
ギュッと手を握られる。
「あなたには本当のことを知ってほしい。……お兄様が何故、皇帝の地位に就いたのかも」
そうして、皇女殿下は七年前の出来事について語り出した。
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皇帝陛下がまだ皇子であった頃、この帝国は前皇帝が治めていた。
そして、前皇帝には三名の子がいた。
側妃の子である嫡男、ジークフリート・グライフェルド第一皇子殿下。
皇后の子である次男、ヴォルフラム・グライフェルド第二皇子殿下。
同じく皇后の子で長女、エーデルリーネ・グライフェルド皇女殿下。
貴族達は皇后の子であるヴォルフラム第二皇子殿下を、次代の皇帝として押し上げようとしていた。
だが、ヴォルフラム第二王子殿下と皇女殿下は『三人の中で最も優秀な兄、ジークフリート第一皇子殿下こそが相応しい』と考えており、当時の第二皇子殿下は兄を支えていきたいと思っていた。
たとえ側妃の子であっても、優秀で民を思う者こそが皇位を継ぐべきだ。
第二皇子殿下と皇女殿下の意見はそう一致して、皇帝陛下も優秀な第一皇子殿下に目をかけていた。
しかし、前皇帝陛下はどうにも悪い癖があった。
美しい女性に弱く、これまで多くの女性を寝所に入れ、気に入れば妾にした。
互いに合意の上であるならばともかく、婚約者がいる者や既婚者を呼ぼうとすることも多々あり、それを第一皇子殿下は何度も止め、父皇帝を諌めていた。
皇后が存命中はそのようなことはなかったのだが、皇后が病で亡くなった後は箍が外れたように欲望に溺れていったらしい。元々皇后とは政略結婚で、嫉妬心の強い女性だったそうだ。
実際、側妃は第一皇子殿下の母君一人のみで、その側妃も、隣国から嫁いできた皇后の侍女であったらしい。侍女ならば信用が置けるからと許したものの、他には側妃を娶らせなかった。
それもあって、皇后亡き後の皇帝は色に溺れ、政も疎かになっていた。
代わりに第一皇子殿下が政務に入ったものの、当時から宰相だったゲルハルト・ノルディエン侯爵の力が強く、ほとんど宰相に従うしかできなかったそうだ。
それを変えるためにも、第一皇子殿下が帝位を継ぎ、政治改革を行う。
三兄妹でそのように考えていた。
「ヴォルフラムお兄様も、ジークフリートお兄様を尊敬していたわ。……ジークフリートお兄様は心から民を愛し、思い、国のために次代の皇帝となってその身を帝国に捧げる覚悟を持っていて、ヴォルフラムお兄様もわたくしも、その治世を支えられたらとずっと願っていたの」
そう言った皇女殿下の表情はとても寂しそうだった。
……そういえば、第一皇子殿下について聞いたことがない。
これまで第一皇子殿下の名前を耳にする機会はなく、そもそも、皇帝陛下が第二皇子であったこと初めて知った。
「でも、そうはならなかったわ……」
前皇帝は段々と第一皇子殿下の忠言を鬱陶しく感じていった。
しかも当時の国の上層部達は、己が甘い汁を吸うために、政に深く関わり続けるために、前皇帝に『第一皇子は実は帝位を簒奪しようと企んでいる』と囁いた。
それもあり、前皇帝と第一皇子殿下の仲は悪化していく。
そして七年前のある日、ついに前皇帝は過ちを犯してしまった。
忠義に厚い臣下の妻が美しく、その妻を己の寝所に侍らせるよう命じたのだ。
臣下は悩み、当然、第一皇子殿下は即座に前皇帝を止めようとした。
だが、前皇帝は第一皇子殿下に疑念を抱いていたことと、これまでの不満もあってか、そばにいた近衛騎士の剣を奪うと第一皇子殿下をそれで斬り殺してしまった。
しかもその近衛騎士に『第一皇子の暗殺』という汚名を被せた。
「前皇帝はわたしとヴォルフラムお兄様に情報が届かないように手を回したのよ。翌日、全てを知った時にはもう、何もかもが遅かったわ。汚名を着せられた近衛騎士は当日のうちに処刑され、ジークフリートお兄様の葬儀も『国の威信に関わるから』と行われず……わたくしもヴォルフラムお兄様も、最後に一目見ることも、別れの挨拶も許されないまま、ジークフリートお兄様の遺体は埋葬されてしまったの」
ツッ……と皇女殿下の頬に涙が伝う。
目を伏せるその顔には深い悲しみが浮かんでいた。
その後、第二皇子殿下と皇女殿下は密かに調査を進め、事実を突き止めた。
「わたくしは前皇帝を許せなかったわ。……たとえ父親であっても……わたくしが誰よりも愛していたジークフリートお兄様を殺した人間が許せなかったのよ」
そして第二皇子殿下も尊敬し、やがて仕えるはずだった兄を理不尽な理由で殺した前皇帝を許せず、このまま前皇帝の時代が続けば国が傾くと考えた。
結果として前皇帝が危惧していた『帝位の簒奪』が起こる。
第二皇子殿下と皇女殿下は手を結び、前皇帝を殺すことを決めた。
「前皇帝はわたくしには少し甘かったから、それを利用したの。一緒にお茶をして、前皇帝に毒を盛ったわ。その上でヴォルフラムお兄様が前皇帝を斬った。……前皇帝も剣の腕に優れていたから、こうでもしないと確実に殺せなかったでしょう」
前皇帝を殺し、帝位を簒奪した第二皇子殿下──……現皇帝ヴォルフラム・ライナー=グライフェルド陛下が即座に行ったことは国の上層部の粛清だった。
収賄や横領、前皇帝を唆した者、好き放題権力を使っていた者などを処刑した。
短期間のうちにあまりに多くの血が流れたことで恐れられた。
「ヴォルフラムお兄様を狂帝なんて呼び始めたのは、後ろ暗いことがある者達よ。それが広まってしまったけれど、お兄様はその呼び名を逆手に取って更に改革を推し進めていったわ」
皇女殿下が自分の頬を拭い、微笑んだ。
「お願いよ、レーヴ。……これからもヴォルフラムお兄様のそばにいてあげて」
そっと、皇女殿下の伸ばされた手がわたしの頬に触れる。
「お兄様はそういう事情があるから、なかなか心を許せる相手がいないの。これまで近衛騎士を選ぶことは何度もあったけれど、守護騎士を選んだのはあなたが初めて」
細く華奢な手に優しく頬を撫でられる。
……陛下とは違う手だ。
皇帝陛下の手はもっと大きくて、筋張っていて、剣だこがあって、温かい。
そこまで考えて、どうして皇帝陛下と比べてしまったのかと思う。
「……ですが、性別を偽っていたことで任を外されるでしょう」
わたしがどう思っていようとも、皇帝陛下の判断次第である。
皇女殿下が口を開こうとした瞬間、声がした。
「お前を手放すつもりはない」
それに全員が振り向けば、出入り口に皇帝陛下が立っていた。
「……陛下……」
思わず呟けば、皇帝陛下が大股でこちらに近づいてくる。
皇女殿下の手がわたしの頬から離れた。
「お兄様、お仕事はよろしいのですか?」
「急ぎのものは済ませてある」
そして、皇帝陛下がベッドのそばに立つ。
見下ろしてくる紅い瞳と視線が合い、こちらに手が伸ばされる。
たとえその手に叩かれたとしても、殴られたとしても、構わない。
わたしは伸びてくる手に目を閉じた。
しかし、衝撃はなく、頭の上にポンと手が乗せられる感触がした。
当たり前のように撫でられ、その感触が心地良くてされるがままになる。
目を開ければ、皇帝陛下が小さく笑った。
「もう一度言う、俺はお前を手放さない」
「……陛下を騙していたのに、ですか」
「残念だが、守護騎士にする段階で調査を行い、お前のこれまでについては知っている」
……そうだったのか……。
思わず俯けば、皇帝陛下の手がわたしの顎に触れ、顔を持ち上げられる。
「知った上で、お前を選んだ。……レーヴ」
「……はい」
視線を上げると思いの外、近くに皇帝陛下の顔があった。
「俺のそばにいろ。……何があろうとも、お前は俺の守護騎士だ」
虚ろな体に皇帝陛下の言葉が染みていく。
一度目を閉じ、そして開ける。顎に触れる皇帝陛下の手に、初めて自分から触れた。
その手を取り、甲に額を押し当てる。
「……陛下が望んでくださる限り、わたしの全ては陛下のものです」
「ああ、それを忘れるな。勝手に俺から離れることも、死ぬことも許さぬ」
皇帝陛下の手がわたしの頬に触れる。
「はい、陛下……」
この手が求めてくれる限り、わたしは皇帝陛下のものでいたい。




