皇女と守護騎士(2)
ふと、目を覚ます。視界は白一色で、一瞬、自分の状態が分からなかった。
体を動かしたことでうつ伏せにされていることに気付く。
同時に左肩に激痛を感じ、それによって気を失う前のことを思い出した。
「っ……」
……陛下は無事、王城に戻られただろうか。
上半身を起こそうとするとまた左肩に痛みが走る。
そこでようやく、右手にまだ剣を握ったままであることに気が付いた。
よほど強く握っていたようで掌が少し痛む。
剣の柄から手を離し、ゆっくりと体を起こせばベッドの上だと分かる。
暑い。それに全身が重く、鈍痛を感じる。
ギシ……とベッドが軋んだ。
何とか起き上がったところでギクリとした。
シャツの下、胸元に包帯が巻かれている。
普段自分が使っている、胸を潰すためのコルセットのようなものではなく、真っ白で清潔そうな質の良い包帯が何重にも巻かれており、普段よりも呼吸がしやすい。
……見られた……?
恐らく肩の怪我を治療する際に鎧と制服が脱がされたのだろう。
治療した者はわたしが女だと気付いたはずだ。
……皇帝陛下には、もう伝わってしまっただろうか。
そんな不安を感じ、すぐに自嘲が漏れた。
「伝わらないほうがおかしいか……」
ベッドの縁に座っていると部屋の扉が叩かれ、開かれた。
扉の向こうから入ってきたのは恐らく医官で、女性であった。
穏やかそうな顔立ちの四十代ほどのその医官は目が合うと、キッと眦をつり上げた。
「まあ、もう起きるなんて! 横になって!」
医官は近づいてくるとわたしを見下ろす。
「さあ、うつ伏せに! 仰向けと、左肩を下にするのもいけませんよ」
「あの、陛下は……」
「皇帝陛下は無事、城にお戻りになられました」
その言葉を聞いて、体から力が抜ける。
ふらついた体を医官に支えられた。
「守護騎士様が身を挺して陛下をお守りしたと聞き及んでおります。左肩の矢は抜きました。幸い矢尻も綺麗に抜けましたが、毒が塗ってありました。傷口に解毒薬も塗ってはあるものの、まだおつらいはずです」
……道理でぼんやりするはずだ。
額に触れれば、普段よりも明らかに体温が高い。
この気だるさや感じる吐き気、全身の鈍痛は毒のせいらしい。
医官に促されてベッドにうつ伏せになれば、口元に小さな吸い飲みが差し出された。
ティーポットのような形だが、それよりも平たく、口が細い。
「解毒薬と鎮痛剤が入っております」
口元につけられ、素直に薬を飲んだ。苦くてえぐみがあり、香りはほのかに甘い。
ティーカップ一杯分くらいは飲まされただろう。
吸い飲みが口から離れ、医官が言う。
「まだ傷が塞がったわけではありません。無理をすると開いてしまうので、できる限り動かないように」
「しかし、鍛錬をしないと体が鈍って──……」
「怪我が治るまで剣は保管させていただきます」
医官がベッドの上に転がっていた剣を持ち、サイドテーブルの上にあった鞘に仕舞う。
少し離れた棚には制服やマント、ブローチ、鎧などがまとめてある。
また、部屋の扉が叩かれた。
医官が剣をテーブルの上に置き、扉を開ける。
そうしてすぐに医官とは別の足音が聞こえてくる。
視界に金と紅が見え、皇女殿下がベッドのそばにある椅子に腰掛けた。
「レーヴ、大丈夫? ここはわたくしの離宮よ。怪我が治るまでは、ここで休んで」
心配そうに見つめられ、目礼をする。
「皇女殿下の前でこのような格好、申し訳ございません」
「気にすることではないわ。ヴォルフラムお兄様を守ってくれて、ありがとう」
皇女殿下の言葉には心からの感謝が込められていると思った。
いつもなら『騎士の職務を全うしただけです』と答えるのだけれど、今その対応は違う気がする。
「……身に余る光栄に存じます」
結局、当たり障りのない返答しかできなかった。
医官が皇女殿下のそばに来て、控えめに囁く。
「殿下、守護騎士様は毒の影響で体調が……」
「ええ、分かっているわ。手短に済ませるから」
それに医官が頷き、下がる。
皇女殿下がわたしを見る。
「レーヴ、あなた女性だったのね」
その言葉にわたしは「はい」と答えた。
否定しても意味はない。
「それをお兄様は知っているのかしら?」
「いいえ、ご存じないかと。……知っていたらそばには置かないでしょう」
皇帝陛下はわたしが『男だから』安心してそばに置いているのだろう。
近衛騎士には女性も多少はいるが、ほぼ男性で固められている。
わたしが女だと知れば、即座に守護騎士の任を解かれるはずだ。
「お兄様に伝えないほうがいいかしら?」
その言葉に驚いた。
当然、報告されるものだと思っていたので、それを問われたのは予想外だった。
「もしや、まだ陛下にお伝えしていないのですか?」
「ええ。だって、あなたの考えを聞いていないもの」
思わず、まじまじと皇女殿下を見てしまう。
そして、わたしは少し考えたものの言った。
「……どうぞ、ありのままの事実を皇帝陛下にお伝えください」
皇女殿下が目を丸くした。
「まあ、いいの?」
「生涯、隠し通す覚悟はしていました。しかし、わたしのわがままのせいで、陛下と皇女殿下の関係が揺らぐことはあってはならないと思います。陛下は皇女殿下を信用しておられます。……その信用を、わたしのような者のせいで失う必要はございません」
皇帝陛下が皇女殿下と話す時、声はいつもより穏やかだった。
きっとこの離宮では、皇女殿下の前では気を抜いて過ごせるのだろう。
皇女殿下がわたしの性別について秘匿するのは簡単だが、いつか、気付かれた時に皇帝陛下は皇女殿下が黙っていたことを知る。その時に皇帝陛下の中で皇女殿下への信頼はどうなるか。
「皇女殿下は、陛下にとって心穏やかに接せられるお方なのでしょう。どうか、お二方にはいつまでもそのような関係でいてほしいと……わたしは願います」
「伝えれば処分されるわ。それでもいいと?」
「はい。陛下を傷付けることになってしまいますが、元よりわたしは孤児院出身の大した人間ではありません。すぐに陛下はお忘れになるかと。わたしよりも守護騎士に相応しい者は多くおります」
……わたしがただ、生きる意味を失うだけだ。
むしろ、これまで皇帝陛下を騙してきた報いを受けるというのであれば当然のことだ。
どのような処罰を受けたとしても、わたしはそれを受け入れる。
皇女殿下が呆れた顔をした。
「そう……あなたについてはお兄様に伝えるわ」
「かしこまりました」
「……本当に止めないのね」
それにわたしは苦笑した。
「陛下に全てを捧げると誓いました」
皇帝陛下を騙していたことに気付かれ、斬り殺されたとしても構わない。
どうせ、生きる理由がなければ、この先の人生はただの惰性である。
……お兄様が残してくれた命だけれど……。
どうしてあの時『共に死のう』と言ってくれなかったのかと──……今でも思う。
あれから、わたしの人生は空虚で、寒くて、世界は色褪せてしまった。
「この命は、陛下のものです」
わたしにとって色があるのは皇帝陛下だけだった。
* * * * *
「エーデルリーネ、レーヴはどこだっ?」
バンッと派手な音を立てて居間の扉が開かれる。
昼間の件があり、兄ヴォルフラムのそばは普段よりも騎士の数が多い。
それでも部屋に立ち入らないのは守護騎士ではなく、近衛騎士だからか。
「今は休んでおりますわ。それよりもお兄様、扉を強く開けないでくださいませ」
「っ、ああ、すまない……」
珍しく動揺しながらソファーに座る兄の様子に、エーデルリーネは微笑んだ。
ベルを鳴らし、医官を呼び、レーヴの状態について説明をさせる。
「左肩の後ろ、腕の付け根のこの辺りに矢が刺さっておりました。毒が塗ってあり、すぐに矢尻を抜いて解毒薬を塗ったことで、大事には至りませんでした。ですが、傷は深く、今しばらくは安静にしていただく必要がございます」
「毒か……レーヴは孤児院出身だ。我々、王族のように毒に対する訓練を行っているわけではない」
「念の為に解毒薬と鎮痛剤も飲ませてあります。守護騎士様は現在、毒と戦っており、鎮痛剤の影響もあって意識が朦朧としている部分も……陛下とお会いしても、話せるかどうか……」
「そうか……」
兄が気落ちしたふうに肩を落とす。
守護騎士が主君を守り、怪我を負うことは名誉でもある。
こうして皇帝である兄を守り切ったのだから、兄はそれを褒めるべきだが、横顔を見る限りはレーヴと顔を合わせたところで褒めるかどうか……微妙な雰囲気だった。
それに兄とレーヴが顔を合わせる前に確認したいことがあった。
「お兄様」
「……何だ」
「レーヴが女性だと、お兄様は知っておられたのですか?」
エーデルリーネの問いに兄が眉尻を下げ、微笑んだ。
「……ああ、知っている」
ソファーの肘掛けに肘を置き、兄が掌で己の顔を覆う。
まるで表情を見られたくないというような仕草だった。
「だが、最初に声をかけた時は線の細い男だと思っていた。……守護騎士に据える前に調査をして、そこで知った。……レーヴの本当の名前は『レヴァニア・アルセリオ』といって、没落した子爵家の令嬢だ」
「ご令嬢が何故、わざわざ性別や身分を偽って騎士に……?」
兄が一瞬、黙った。話して良いか思案しているようだった。
「……それについてはレーヴから聞いたほうがいい。他人が軽々しく話すようなことではない」
「分かりました」
喋らないと決めたのであれば、兄は絶対に口外しない。
それならレーヴから話を聞いたほうが早いだろう。
「俺は性別で判断しない。レーヴは能力も性格も申し分なく、守護騎士としての役割も果たした」
顔から手を離した兄が、その手を強く握る。
「お兄様、もしかして──……」
「言うな。……それ以上言わずとも、俺が一番分かっている」
はあ……と重い溜め息を兄が吐く。
「……俺はレーヴを好ましいと思っている。人間としても、異性としても……あれと比較すると他の令嬢達はあまりに弱く、皇帝を利用したがるばかりで俺を見ない」
恐らく、兄も最初は良い騎士がいると思っただろう。
その騎士が実は女性であっても、有能で性格に問題がなければ登用すると決めた。
しかし、共に過ごすうちに兄はレーヴに惹かれていったのだ。
……レーヴも、お兄様を少なからず慕っていると思うけれど……。
兄に全てを、命すらも捧げたと言ったレーヴの表情はどこか切なげだった。
皇帝と騎士。周囲から見れば男同士で主従関係である二人。
しかもレーヴは性別を偽っている負い目もあり、兄に想いを告げることはない。
「レーヴはまっすぐにわたくし達を見ますものね」
血のように紅いこの目は、華やかで時に威圧感のあるこの容姿は、他人からすれば近寄りがたい。
ほとんどの者は兄やエーデルリーネと長時間、目を合わせることはなかった。
だが、レーヴは最初に目が合った時も、挨拶の時も、まっすぐにエーデルリーネを見た。
それがエーデルリーネは嬉しくて……きっと、兄もそうだったのだろう。
「……ああ」
何かを思い出したのか、兄が目元を和ませた。
その表情は瞬きの間に消えてしまったが。
「……戻る前に、顔だけでも見れないか?」
兄が医官に問い、医官は「少しなら……」と言った。
先ほどエーデルリーネも様子を見に行ったが、毒による痛みと熱のせいで酷く苦しそうだった。
皇族はある程度の年齢になると、毒に対する抵抗力をつけるために微量ずつ毒を接種し、体を慣らす訓練を行う。高位貴族も行う家があり、毒殺されないためのものであった。
けれど、兄が言う通りレーヴはそのような訓練を行っていない。
毒の痛みと苦しさに、肩の怪我も相まって、見ているこちらがつらくなるほどだ。
「案内して差し上げて。……お兄様、レーヴに無理させないでくださいね」
「ああ、気を付けよう」
そして、医官と共に兄は部屋を出ていった。
遠のいていく複数の足音を聞きながら、エーデルリーネは冷めた紅茶を飲む。
……お兄様にも愛は必要よ。
大事で、大切で、誰よりも信頼して、愛おしいと思える相手。
皇帝という立場上、そういった者がいるのは弱みになるというのは理解できる。
それでも、長い人生の中で一人も愛する者がいないというのは、あまりに寂しすぎる。
エーデルリーネにも愛する人がいる。もう二度と会えなくても、この気持ちは変わらない。
たとえこの気持ちが正しくないものであったとしても関係ない。
ずっとこの愛を貫くと覚悟を決め、兄を手伝い、このまま独身でいる。
「……でも、お兄様はそうはいかないものね」
いつかは後継者が必要になる。
その時、政略で決めた誰かよりも、自分で決めた大切な相手との子のほうがいいのは当然だ。
……お兄様も不器用な人ね。
レーヴの秘密を知って、それでもそばに置き続けて。
どこかで『知っている』と伝えれば良かったのに、そうしなかったのは今の関係を崩したくなかったのか。それともレーヴが逃げてしまうと思っているのか。
……レーヴはきっと、お兄様から離れないわ。
兄はそれをまだよく理解していないのだろう。
もしかしたら、レーヴ自身も理解していないのかもしれないが。
あの二人がどうなるか、エーデルリーネは興味が湧いた。
「ふふっ、ジークフリートお兄様はどう思いますか?」
壁にかけられた肖像画を見て、そこに描かれた人物にエーデルリーネは微笑んだ。
* * * * *




