捨てた名前
流行りものではありませんので、サクッとお読みいただけますと幸いです。
全23Pで毎日朝夕2回の更新予定です!
舞踏の間の上座の席に腰掛けている皇帝、ヴォルフラム・ライナー=グライフェルドが愉快そうに笑った。
「お前のほうがまだ賢い。……無駄な時間を過ごしたな」
それにわたしはいつも通りの無表情で返す。
「皇帝陛下の婚約者選定パーティーは無駄ではなかったかと」
「ほう?」
「少なくとも『陛下のお眼鏡に適う者はいなかった』ということが判明したのですから」
わたしの言葉に皇帝陛下が「確かにな」と笑みを深める。
肘掛けに肘を置き、頬杖をつくと皇帝陛下が言う。
「俺はつまらない貴族の令嬢など要らん。……お前が女であればすぐにでも娶るんだがな」
「ご冗談が過ぎます、陛下」
他に聞こえていないとはいえ、冗談にしても度が過ぎる。
「わたしはあくまで、陛下の騎士でしかありません」
わたしは男として騎士となり、男だからこそ信頼を得ているのだから。
皇帝陛下が「分かっている」と小さく肩をすくめて笑う。
──……わたしはこの嘘を突き通さなければいけない。
そうでなければ、きっとこのお方に殺される。
* * * * *
わたし、レヴァニア・アルセリオは五年前までアルセリオ子爵家の令嬢であった。
子爵家の中では比較的、裕福な家で、両親と兄がいた。
しかし、わたしが十歳の時に母が病に倒れた。
母を治すために多くの医者に診てもらい、薬を試し、病に効くと聞けばどのようなことも実践した。
父にとって母は最愛の人で、誰よりも大切で、失いたくない人だったのだろう。
兄もわたしも母のためにできることはしたが、子供ができることなど限られていた。
わたしが十四歳の時、母は病により亡くなった。
それから父は変わってしまった。
母を失った現実から逃げるためか、寂しさを誤魔化すためか、賭け事にはまっていった。
これまで母の治療にあてていた金も、わたし達の生活費も、領地に必要な金すらも注ぎ込み、父は賭け事に狂った。ほぼ毎日のように王都の賭博場に通い、金を使い、また行くために金の工面をする。
だが、金が無限に湧くはずもなく、至る所で借金を作って父は賭博場に行った。
「父上、どうか目を覚ましてください! このままでは、我が家どころか領民達の生活すらままならなくなってしまいます! これ以上の重税をおやめください!」
いつもは穏やかで優しい兄が、厳しい表情で父に言う。
けれども父は兄の言葉に耳を傾けようとしなかった。
「うるさい! 領主が領民から税を取って何が悪い!?」
「税とは領地を治めるために必要なものであり、国に納める税も決まっております! 民から無理に取り立てれば反感を生むだけでなく、彼らの生命にも関わるのです!!」
「ええい、やかましい!!」
父が兄に持っていた書類を投げつける。
それを受け止め、内容を見た兄が父に顔を向けた。
「ち、父上……これは一体……っ?」
震える兄の表情は見えなかったが、その背が震えているのは分かった。
わたしは開きっぱなしの扉から、言い合う二人が心配でこっそり盗み見ていた。
振り返った父が叫ぶ。
「レヴァニアは高く売れる! その方に嫁がせれば、今後も金を支援してくれるそうだ!」
そう言った父の表情は狂気がにじんでおり、子供心に恐ろしかった。
……きっと、母を亡くした時点で父の心は壊れてしまったのだろう。
それに気付くには、わたしも兄も遅すぎたのだ。
「これでまた行ける! 問題ない! 今までの分など、勝てばすぐに取り戻せる!!」
兄に背を向け、父が楽しそうに笑った。
書類を落とし、踏みつけた兄が壁にかかっていた剣を掴んだ。
そして兄は無言で剣を抜き、父の背中に深々と突き刺した。
驚きに声も出せないわたしは呆然と出入り口に佇んでいた。
すぐに引き抜かれた剣。悲鳴の代わりに父の口からあふれる血。
がっくりと膝をつき、父が床に倒れ、血が広がっていく。
ゆっくりと振り返った兄は悲しそうな表情で微笑んだ。
「レヴァニア、すまない。……兄様はいつでも、君を愛してるよ」
そう言って、兄は即座に己の首に刃を滑らせた。
噴き出る血と倒れていく兄、更に広がる血溜まり。
使用人達が騒ぎに気付いて駆けつけるまで、わたしはそこに座り込むことしかできなかった。
その後、父が借金のためにわたしを豪商の男性に売りつけようとしていたことを知った。
兄に投げつけられた書類はそれについて書かれたもので、既に婚約も決まっていたわたしを無理やり別の男性に嫁がせ、金銭的な支援を得ようとしていたらしい。
それを見た兄はわたしを守るため、父を止めるため、そして領民のために剣を取った。
けれども、この国で親族──特に親殺し──は重罪とされている。
兄はわたしに責が及ばないよう、父を殺した後に責任を取って自害した。
兄の代で功績が残せなければ爵位を返上しなければならなかったことと、領地での違法な課税が露呈し、アルセリオ子爵家はお取り潰しとなった。
父には弟がいたけれど、経済的にわたしを引き取るのは難しく、わたしは十五歳で孤児院に入った。
孤児院の規定は場所によるが、基本的に孤児が過ごせるのは十六歳までで、それ以降は住み込みの働きに出るか教会に入り神に身を捧げて一生慎ましく過ごすかしかない。
だが、わたしには父の借金が残されていた。
領地も、家族も、生活も、何もかもを失ったのに借金だけはある。
それを返済するには働くしかない。
これまで貴族令嬢として生きてきたわたしにできる仕事はそうないが、街の酒場の店員も、皿洗いも、他貴族の使用人も、全て断られた。
元より領内では『重税を課した挙句、親子同士で殺し合った』我が家の噂は広まっていた。
元領主家の娘であるわたしを憎みこそすれ、優しくしてくれるなどありえなかった。
そしてデビュタントすらできなかったわたしは家庭教師になることもできない。
唯一、経験があって少しばかり自信があったのは、剣を振ることだけだった。
兄に憧れ、淑女教育の傍らで剣を握り、領地の騎士達に教えてもらった。
父は嫌がっていたけれど、兄は「筋がいい」といつも褒めてくれた。
わたしは持っていた金を全て使って王都に出た。
領地では生きていくことはできない。
わたしをわたしだと知らない場所で生きるしかない。
旅の間に髪を切った。王都で服を売って、古着を買った。
王都の教会の戸を叩き、なんとか孤児として受け入れてもらった。
そうして十六歳の誕生日、わたしは王城で行われた騎士団の入団試験に挑んだ。
細くて、筋肉も体力も少なくて、それでももうここしかないと思って死ぬ気で挑んだ。
騎士見習いになるために試験には十二歳から十六歳の少年達が来ており、わたしもそれに紛れた。
わたしは『レヴァニア・アルセリオ』の名を捨てて『レーヴ・リンド』として生きる。
借金を踏み倒すこともできたのかもしれないが、そうはしたくなかった。
入団試験は散々だったが、それでも、ギリギリで入団することはできた。
『リンド』は王都にある孤児院の一つであり、わたしの名前は『リンド孤児院のレーヴ』という意味だ。
孤児院出身で試験を受けたのも、入団したのも、わたしだけだった。
女であることを隠すために寮に入っても気が抜けなかった。
毎日騎士見習いとして訓練を行った。
走り込み、腕立てや腹筋などの筋力をつける運動、素振り──……楽なことなど一つもない。
「おい、また孤児が一人で駆け回ってるぜ」
他の者達は訓練以外の時間も自発的に訓練をするわたしを嘲笑った。
それでも、わたしにはこの道しかなかった。
騎士になれば見習いでも給金が出て、少しずつ父の借金を返済できる。
制服もあるし、食事も寝る場所もある。訓練も仕事のうちだ。
女のわたしは男性に比べて筋肉がつきにくく、他人より体を鍛え、剣に慣れなければ追いつけない。
「おい、レーヴ……大丈夫か?」
同室で一つ年下のレジス・エステハイムによく、そう声をかけられた。
レジスは他の者のようにわたしを嘲笑うことはなく、心配してくれたが、当時は精神的な余裕もなかった。
「問題ありません。私は弱いので、その分、他人より多く訓練しなければ」
「いや、だからって……」
わたしは朝も夜も、それこそ休日もずっと訓練に時間を費やした。
そうすることしか考えられなかったし、考えたくなかった。
父と兄のことも、領地でのことも、何もかもを受け入れるのには時間がかかる。
三年、毎日訓練を積み重ねたわたしは幸い、本当に剣の素質があったらしい。
見習いから三年で正式な騎士に昇格した。
十九歳の夏、わたしは皇帝陛下に仕える騎士となった。
その頃になってようやく、わたしは少しずつ周囲に目を向ける余裕ができた。
レジスは変わらずわたしを気にかけてくれて友人となり、借金の返済に充てられる額も増え、剣を振ることにも楽しさを感じて騎士の生活にも慣れた。
そこでこのグライフェルド帝国についても改めて知ることとなった。
わたしが十四歳の時。今より五年前、この帝国の皇帝が代わった。
現皇帝が前皇帝──……つまり父親を殺し、その座に収まったという。
元よりどこの国でも継承権争いはあったし、父親を殺して子が王位や帝位を継ぐというのも珍しいことではないと貴族教育の中で学んでいたため、わたしは気にならなかった。
それに我が家のように何かしらの事情でそうなった可能性もある。
新たな皇帝は様々な政策を推し進め、貴族達の反発を押し切り、国の改革を行った。
そのせいで潰れたり領地を取り上げられたりした貴族もあったようだが、皇帝はどの貴族にも容赦がなく、父親殺しということもあって陰で『狂帝』と呼ばれている。
性格は気まぐれで、苛烈で、容赦がないそうだ。
……どのような主君でも構わない。
わたしはただ、騎士として仕えるだけだ。
正式な騎士となって更に一年後。入団試験を受けてから四年目。
皇帝陛下が騎士達の訓練の様子を見に来ることがあった。
「お前達の実力が見たい」
それは珍しいことではなく、皇帝陛下は時折こうして現れ、実力のある者を近衛騎士に引き抜く。
だからこそ誰もが皇帝陛下の前で奮起したが、わたしはいつも通り、訓練や剣の手合わせを行った。騎士でいれば借金の返済には困らないし、向上心はさほどなかった。
それなのに、どういうわけか皇帝陛下はわたしに声をかけた。
「そこの細いお前、手合わせの相手になれ」
……どうして?
他にも強い騎士はいるし、先輩騎士達もいる中で、何故わたしが声をかけられたのか。
皇帝陛下と新人騎士の手合わせという状態ではあったが、主君の命令に従った。
長い鮮やかな金髪に紅い瞳の皇帝陛下は間近で見ても美形で、細身に見えるが、その動きに無駄はなく、しっかりと体を鍛えているのだろうしなやかさを感じた。
皇帝陛下と向かい合い、剣を構えるなど、普通ではありえないことだ。
だが、わたしは剣を構えた。命令なのでそうするしかない。
「来い」
「……陛下の胸をお借りいたします」
一言で言えば、惨敗だった。
皇帝陛下は剣の腕も強く、国随一というのも嘘ではないのだと知った。
剣は重く、鋭く、それでいて動きが速い。
わたしは速さはあったものの、それだけだった。
たった数回しか剣を交えられず、あっという間に負けてしまった。
最後は剣を弾かれ、なす術もなく負けた。
「……なるほど、面白い」
皇帝は何故か愉快そうに笑った。
思えば、この頃から既に目をつけられていたのかもしれない。
「お前、名は?」
皇帝陛下に名前を問われるとは思わず驚いた。
「レーヴ・リンドと申します」
「リンド? 聞いたことのない家名だな」
「……私は孤児院の出ですので」
それに皇帝陛下は「そうか」と言った。
剣を収めた皇帝陛下にホッとしつつ、わたしも弾かれた剣を取りに行った。
弾かれた力が強く、わたしの手は僅かに震えていた。
戻りかけ、しかし皇帝陛下が振り返る。
「レーヴ・リンド。半年後の剣武祭に出場しろ」
「え?」
振り返った時には皇帝陛下はもう歩き出していた。
聞き間違いかと思ったが、数日後、剣武祭の出場許可が下りたことが先輩騎士から告げられた。
……本当に、どうしてわたしが……。
そう思ったが、皇帝陛下の命ならば従う他ない。
剣武祭までの半年、わたしは死ぬのではと思うほどまた体と剣を鍛えることとなった。
皇帝陛下推薦での出場というのは即座に広まり、貴族出身の騎士達から目をつけられて嫌がらせを受けたり、手合わせと称して挑まれたりすることも多かった。
なんとか全員を打ち負かしたものの、そのせいで余計に注目を浴びてしまったが。
何故、皇帝陛下がわたしを剣武祭に出場させたがったのか不思議であったが、それをレジスに漏らしたところ、彼はあっさりと教えてくれた。
「皇帝陛下と何度も剣を交えられたからだろ。陛下は帝国一の剣の腕前で、熟練の騎士でも二、三回打ち合えるかどうからしいって聞いたことがある」
「……そうなのですか?」
「ああ。レーヴは剣の才能があるって思ってたけど、陛下が声をかけるくらいすごいんだな」
そうしてわたしは翌年の春、二十歳で剣武祭に出場することとなったのだ。