あれが過ぎると申します 焼
猫奴が見当たらない。
体が大きな雄の雉猫で、頰が膨らんだふてぶてしい面構えをしている。
この家のおじいさんにしか懐かず、子供なんぞが近付いても知らぬふりをするか、機嫌が悪ければ、爪を立てたり、噛みついたりする始末。
いつもは縁側の真ん中あたりに我が物顔で寝そべっているのだが、今日はどうしたことか、その姿が一向に見えない。
もっとも、今日、この家は朝からばたばたと忙しく、猫のことなんかに気を遣っているのは、喬しかいない。渠は、今年から高等科に通い始めた惣領息子である。上に年の離れた姉が一人いる他、妹と弟が一人ずつ。
姉はすでに隣の村に片付いているのだが、今日は昼過ぎに戻ってきて、炊事やら掃除やらの加勢をしている。
猫のことを誰かに相談しようにも、言い出すことさえ憚られる。
喬は、猫の行方を案じながら、笛方の稽古で耳にしたあれこれを思い出していた。
渠は、まだ見習いではあるものの、鎮守の囃子方の笛方に選ばれているのである。笛方の肝煎は紺屋の時治郎さんという人であった。年の頃は、三十になるかならぬかであろうか。
一昨年の夏越の祭りの前、笛の稽古に初めて呼ばれた宵のことである。
「喬さん、あんたぁところの、爺様は、まっこと剛毅の人じゃのう」
これまで、道などで顔を合わせても挨拶ぐらいしか交わしたことのなかった時治郎さんが、新入りが緊張気味の硬い頰でかしこまっている所に、親しげな笑顔を作って話しかけてきた。
喬のおじいさんは伯楽で、あちこちの土地を廻っていろいろな人との交渉事を重ねたその経験のゆえもあろう、見聞の広さと確かな分別に併せて、何事にも動じない肝の太さを兼ね備えていたため、村の人々に一目も二目も置かれていた。
もっとも、喬が物心をついた頃には息子――つまり、喬の父親に家督を譲り隠居をしていた。そのおじいさんについて、あの晩、時治郎さんはこのような話を聞かせたのである。
「あのな、爺様がまだ嫁も貰わぬ若い時分のことじゃったと言うわい。丹波だか、近江だか、どっか遠けの土地を廻ったときのことじゃったと聞くわな。暮れ方にどこぞの山の峠道に差し掛かったほうじゃの。ほしたらの、道を進んで行きおったら脇の方に開けた所があって、そこは何と焼き場じゃったと。今しも煙が上がっておったと言うわね…… 喬さんは、この話、聞いたことがあるろかいな?」
喬はびっくり目を丸くして首を横に振った。すると、時治郎さんは満足げに何度も頷いて先を続けた。
「煙は上がっておったれど、そこには焼かれとる屍人ばかりが居って、他には誰も居らん。家族縁者も居らねば、隠亡だに一人の姿も見えんかったと……」
しかも、煙が立つには立っていたが、火は随分と小さくなって、もはや消えかかっていたらしい。
一方、骸はと見れば、男か女か、若い者か年寄りなのか判別がつかぬほど真っ黒に焼け焦げてはいたものの、この分では到底骨になるのは難かろうと思われた。放っておけば、豺狼だか何だか、山のものが肉の焼けた臭いを嗅ぎつけてやって来るやも知れぬ。そうして無体にも仏を食い荒らすやも知れぬ。
それは何とも哀れなことと、おじいさんは考えたらしい。
日はすでに落ちて、辺りは刻々と暗くなってきていたが、たった一人でその場にとどまり、傍の方に積まれた薪をどんどん加えて、火を焼べ直したのだという。
「はあ、まあ、剛毅なる人じゃて。大方ならば、怖ろしうて、一人で夜の焼き場なんぞに居らるるものでもなかろ。ましてやどこぞの誰とも判らぬ人の、見るも怖ろしげなる焦げたる骸があるんじゃもの。それをな、爺様は棒で抓抉り抓抉りしながら、とうとう骨になるまで焼いてしもうたんじゃと。一人切りでな。はあ、偉い爺様がおりゃるもんじゃわいな。月も出ぬ真っ暗闇夜じゃったと言うわい……」
喬はその話を聞いて、おじいさんのことを立派な人だと思うよりも、何ともゆゆしく怖ろしいことだと思った。
もともと、体格が良くて威厳があり、あまり表情を変えぬおじいさんには、どうも近付きがたい気がしてはいたのだけれども、屍人を棒で抓抉り抓抉り――そう話す際に時治郎さんは、芝居じみた身振り手振りを交えていた――黒焦げの屍人が骨になるまで、闇夜の人気のない焼き場で、一心に火を焼べたというおじいさんの姿を頭に浮かべると、その様子が何とも不気味に思われてならなかった。
身内のことながら、いや、身内だからこそ余計に、どうにも穢らわしく忌まわしい所業のように思われた。
もっとも、次第次第に判ったことだが、時治郎さんは大人のくせに子供じみた、意地悪なような、いたずら好きのところがあり、考え無しの軽率さを見せることが度々あった。
夜の稽古の折には、喬など若い者たちに怖ろしげな話をいろいろと聞かせて、その怖がっているさまを楽しむというのが悪い癖であった。
「もう、ええ加減にしときや。ええ年になっとってからに!」
そんな風に、囃子方の大肝煎なる祐造さんに目玉を食らって、ばつが悪そうにおとなしくなることもしばしばであった。
したがって、あの宵に時治郎さんの語ったところには、大げさな誇張があちこちに施されていたには違いない。
ただ、焼き場の話を聞いて以降、喬の心には、一層お爺さんとの間に隔てが出来たように感じられた。かと言って、この忌まわしい話の真偽を、家族の誰かに打ち明けて確かめることも憚られた。
おじいさんもまた、恬淡たる人柄がどちらかと言えば素気無く見えることもあり、孫を猫可愛がりにするような風は全くなく、そういうところもあって、喬の心の隔てはだんだんと厚みを増していった。
時治郎さんから聞いた話で、後々まで喬の頭を去らない、厭な話がもう一つある。
それもまた、焼き場の話であった。
どこだかのある村に婆様が居ったという。爺様とはとうに死に別れ、息子夫婦の厄介になっていたが、その家に美しい三毛猫が居ったらしい。
婆様は三毛猫をわが孫のように可愛がり、三毛猫も大層懐いていたというが、寄る年波で、とうとう婆様が亡くなってしまった。
その夜伽に悔みを言いにやってきた婆様の従妹になる別の婆様が、
「ここの家には猫が居ったと思うがな、あれは、どうしたいな?」と訊いた。
そこで初めて家の者は三毛猫が見当たらぬことに気が付いた。すると、その婆様が怯えたように相好を歪めて、
「人が死んだらな、家の猫は臥籠にでも押し込めておいてな、ゆめゆめ寄せ付けんようにせにゃならんちゅうがな、昔から……」と呟いた。
婆様によれば、何でも猫には魔の性があり、万が一、猫が屍人を跨ぎでもしたら、その魂が屍人に這入って化けるのだそうな。
家の者は、開化前の古臭い因縁話じゃろうと半信半疑ながら、何やら気持ち悪くもあるので、そこいらを探し回ってみたが、どうしても見つからない。
三毛は行方知れずのまま、夜伽も弔いも一通り済んで、焼き場に仏を運ぶと、火の番は隠亡に任せ、皆はいったん戻ることになった。しばらく経って、もうそろそろじゃろうと骨を拾いに出かけたところ、隠亡の姿が見当たらぬ。隠亡どころか火を焚いて黒く焦げた跡には、骨の一欠片さえ見えぬ。
人々が不審げに辺りを見渡すと、焼き場の奥の藪の手前に、体のあちこちが焦げたように焼け燻った姿の婆様が、狗蹲に座っておったと言う。
「わしゃあ、まぁだ死んではおらんで」
何やら甲高い声でそう口にしたが、その声色にせよ、口調にせよ、これまでの婆様のものとは全く違っていたらしい。
これはしたり、あの三毛が憑いておるに相違あるまいと、息子が棒を拾って打ち据えようとしたが、婆様はひらりと軽やかに飛んで棒を躱した。それを追いかけ追いかけ、何度も棒を振り下ろしたが、そのたびに四つ足でぽーん、ぽーんと跳ねるように逃げ回り、あれよと言う間に藪の奥に姿を隠して、どこに行ったかも判らぬ始末になってしまった。
これから婆様を探そうにも、すでに暮れているのでどうすることも出来ぬ。何とも不吉で禍々しくも、情ない事になってしまったと、大いに嘆き大いに恐れながら、ともあれ家に戻ってきたところ、縁の下に、例の猫が倒れて死んでおったらしい。
それを見て、やはりあれは三毛の魂が婆様に乗移ったものじゃろうと皆が頷き合ったと言う。
ただ、時治郎さんの話はここで終わらない。
その翌日、焼け燻った姿の婆様が家に帰ってきて、飯を欲しがったのだと言う。
家の者は寺に相談したが、田舎の藪寺の坊様であったれば、何の智慧も思案も無い。猫が憑いた婆様はそのまま何年かを生きながらえたらしい。
この話を聞いて、喬は、いくら何でも嘘くさいと、ひそかに顔をしかめた。ことに婆様が戻ってきて更に数年生きたというくだりなんぞは、一層人を怖がらせてやろうと、時治郎さんが付け足したに相違ないとも思った。そう頭では冷静に判断しつつも、心持としては、何とも気味が悪く頗る厭な感じがした。焼け燻った婆様が狗蹲になっているさまが、まるで目に見えるように、頭の中にこびりついた。
肝の太いおじいさんとは反対に、喬はもともと人一倍怖がりの質であったが、笛の稽古に出るようになって、時治郎さんの語る妖しげな話にいよいよ脅かされるようになった。
実際、夜中に何とも怖ろしく厭な夢を見ることが度々に及んでいる。
大概が決まって、焼き場の屍人を棒で抓抉っている夢か、焼け燻った婆様が狗蹲になっている夢か。
或いは、二つの話が合わさって、棒で屍人を抓抉りながら焼いていると、その屍人が急に狗蹲に起き上がって、
「まぁだ、死んじゃあおらんと言うに!」と跳びかかろうとするものもあった。
ぎょっとして目が覚めると、冬でも厭な汗をかいていることがしばしばある。夢だというに、人の肉の焼ける厭な臭いをありありと嗅いだようにも思われる。
己の臆病を甚く愧じつつも、一方では、肝煎ともあろう人の大人げない振舞を憎みもした。今度こそ囃子方を辞めさせてもらおうと思ったことも、二度や三度では利かぬ。
さて、そんなことをつらつら考えながら、喬は猫の行方を心配している。
今しも、おじいさんはこの座敷の布団の中に、白い布を顔にかけて横たわっている。
あんなに達者だったおじいさんが、今朝は布団から出てこず、そのまま冷たくなっていた。
まさかこんな急なことになるとは誰も思いもしなかったので、大騒ぎになった。喬の父親は遠方に仕事に出かけていて、電信を掛けて知らせてはみたものの、届いたものやらどうやら、いずれにしても、二、三日は戻って来られぬであろう。そうなれば、孫の惣領の荷が重くなる。
この辺りでは、当主或いはその隠居の夜伽を特に殯と呼び、嫡嗣の筋が寝ずの番をすることに決まっているが、父が不在となれば、その代りを喬が務めねばならない。守り刀を胸の上に置いたおじいさんの布団の横で、夜通し、燈明と線香とを絶やさぬように守り通さねばならない。
しかも、座敷にはたった一人で詰めて務めを果たすのが、昔ながらの仕来りである。電灯などという当世風の明りを点すことはもってのほか。殯の明りは蠟燭と燈明皿のみと決まっている――
そういう次第で、喬は今、死んだおじいさんと二人切りの晩を薄闇の中に過ごしている。殯の間、厠に行きたくならぬようにと、昼過ぎから茶も水も控えさせられた。
母を初め家の者は寝間にでも居るのだろうが、もう寝付いたのだろうか。物音一つだに聞こえてこない。しいんと鎮まり返ったところに、庭の虫の音だけが寂しげに響いてくる。
何とも言えぬ心持である。
悪いことは考えまいとしても、夢にまで見る怖ろしく厭な情景がありありと頭に浮かんできて、去ろうとしない。
黒焦げの屍人を棒で抓抉り抓抉りして焼いて骨にした人が、今度は自分が焼かれて骨になるのを待っている。
その事実が、何とも怖ろしく厭なものに感じられる。
そこに横たわっているおじいさんがどうにも怖くて仕方がない。
亡くなった身内をそのように思うなど、何とも罰当たりで申し訳ない。
ことに、おじいさんは村の誰もから、ひとかどの人物だと敬われるような立派な肉親であった。決して孫に甘い人ではなかったけれども、人間として、また祖父としての振舞に、非の打ち所は毫も無かった。
それなのに、打ち消しても、打ち消しても、ふつふつと湧いてくる、厭な怖ろしさをどうすることも出来ない。
自分は何という人でなしだろうかと芯から考えている。愧じている。猛烈に愧じている。情なくて、情なくて、どうしようもなく厭になる。
それでも、こうして二人きりで座敷に籠っている、この今の、この瞬間を、この上もなく怖ろしいと思う気持ちに抗う術はない。
あの猫奴はどこにいるのだろうか?
いやいや、考えまい、考えまい……
じっと座っていても、股の間から肚を通り胸に向って、何やらわくわくと突き上げてくるようで落ち着かない。
更に悪いことに、ほんの幽かながら尿意を催してきたようにも思われる。無論、決してこの場を離れるわけにはいかない。朝まで持つだろうか。
それにしても、猫奴はどこに行ったのだろうか?
まさかこの床の下にでも転がっておりはすまいか?――
そうだ……
よもや、そんな莫迦な話は到底あるまいが、万々が一、万々が一にも――
明日、焼き場から、焼け燻ったおじいさんが、ふらりと家に戻って来るようなことが――
そんな莫迦なことはある筈も無かろうが――万々が一にも、そんな、世にも怖ろしいことが起こったとしら……何としよう……
お父さんも居ないと言うに。お父さんには、まだ連絡すら取れぬと言うのに……
その折しも、どこからか猫の声が聞こえた気がした。
あれは?――
閉て切っている筈の座敷の裡に風が起こり、燈明が一斉に揺れ、消え入りそうに細く、小さく、昏くなる……
<了>