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「だからって、君は殺しを容認するの?」

 石橋から奪ったペンを弄びながら彼女は語る。


「うふふ、安心して。このペン、わたしも同じものを持っているんですから。お揃いです。……ほら石橋君、わたしたちって共通点が多いんですよ。わたしね、あなたが人の弱みを握ってそれをお守りにしてること知ってるんです。最近あなたと仲良しの玖珠さんは、それをエンタメとして消費しているようですけど、彼女は正義や道徳を重視する人です。あなたのその、目的のためなら手段を選ばない、非人道的な側面とは相容れない性格でしょう。そうは思いませんでしたか?」

「……そうだね。自己嫌悪の種になる小狡いやり方しかやってこなかったから、玖珠さんの協力のおかげで、少し自己肯定感が増しかけてるところだよ」

「あら、それは素敵ですね。だけど無理は体に良くありません。わたしはね石橋君、道徳って苦手なんです。倫理や常識というのは、その人の中でのみ完結する宗教でしょう? わたしは誰とも宗派が違うのでお話になりません。だけどあなたとわたしなら、少しだけ、お話しが通じる気がする。少なくともわたしはあなたが河合君を殺したってそれを非難しないし、何ならお手伝いだってできる」

「…………ウサギを殺したのも、その非人道性が理由なの?」


 安斎が黙った。


 同じクラスになったときからずっと気になっていたのだ。

 飼育部のウサギ小屋に飾られてある、有毒性の高い植物。

 それを育てる園芸部の安斎。

 そして先日、そのウサギが殺されたというニュース。


 まるで確証のない、被害妄想めいた卑屈な自分の憶測だと思っていたが、石橋はもうそれを口にせざるを得なかった。

 安斎の抱える秘密はこれだ。

 我ながら核心を突いたつもりでそう訊ねた石橋に、当の安斎はきょとんとした顔をするだけで、やがてくすくすとかわいらしく笑い出した。――まさか、空振りか?


「石橋君、知っていましたか? あの白いふわふわのウサギを殺したのは、わたしじゃなくって河合君なんです」

「河合が……?」

「ええ、河合君ったら本当に酷い人なんです。イライラした様子で放課後にうろついていると思ったら、飼育小屋から飛び出してきたウサギにまとわりつかれて、可愛いなあ、なんて言いながらおもむろに蹴り始めたんです。酷い光景でした。踏んで、蹴とばして、唾を吐いて。わたしはあの仔がとてもかわいそうになったから、彼が去った後にあのウサギを楽にしてあげたんです。鈴蘭の成分がたっぷり溶け込んだ、花瓶の水を飲ませてね。……これ、殺したのは河合君でしょう? だって彼がそんなひどいことをしなければ、わたしはウサギに触ろうともしなかった」


 真っ先に思ったのは、玖珠なら何と返すだろう――そんな愚問だった。決まっている。彼女ならこう答えるはずだ。


 ───“見てねえで助けてやれよッ!”


 玖珠とは違う、自分の出す答えに石橋は言いながらうんざりした。


「……そう、だね……自分でもぞっとするけれど、僕には安斎さんを責めることはできないし、何なら僕だって同じことをしたかもしれない。だけど……だからって、君は殺しを容認するの? 僕も褒められた性格じゃないけど、君のは少し行き過ぎてる……」

「本当に? 本当にそう思いますか? じゃあどうしてこんな凶器を持っているんですか? 彼を殺したかったからではないのですか? 世界から排除して、あなたの人生を台無しにする腫瘍を切除して、クリーンな生活を送りたかったのでは?」

「もしかして僕に、河合を殺せって言ってる……?」

「さあ。あなたが解釈してください」


 話は終わりだと言わんばかりに、立ち上がって石橋を見下ろす安斎。カーディガンの裾から自分に向かって差し出された華奢な手を見つめ、少し迷った後、石橋はその手を握った。

 まるで友情が報われたような顔をして、安斎が一瞬だけ嬉しそうな顔をした。初めて目にする、彼女の屈託のない顔だった。

 しかし石橋がその手をずらして手首を掴み、逆の手でカーディガンの袖をまくってやると、その光景を見下ろす目は恐ろしく冷めたものになった。


 石橋がまくったカーディガンの袖の奥には、白く細い手首に無数の赤い筋が這っていたのだ。


 その筋を刻んだと思しきヘアゴムが一緒に引っかかっている。

 ――今までも何度か目にしたことがある、安斎がカーディガンの裾を引っ張る癖。その光景を思い出して確信した。


「……これ、コーピングって言うんだよね。ストレスや衝動を感じたら手首のゴムを引っ張って弾いて、痛みをトリガーに心を落ち着けようとする対処法。――こんな跡がつくまでさ、君、一体何を抱えてるの? 多分クラス――学年――いや学校でも、ここまでしてストイックに自制しようとするのは君くらいだよ、安斎さん」

「……我ながら、生きづらい性格をしているのでね。人より努力が必要なんですよ」


 興が削がれたと言いたげな冷めた口調で石橋の手を剥がし、石橋を置いて安斎は美術室の扉に手をかけた。

 出ようとして一度止まり、振り返って、石橋から没収したペンをスカートのポケットからチラリと覗かせて安斎はまた口元だけで笑った。


「どうか忘れないでくださいね。あなたが一線を越えたくなったら、わたしならそのお手伝いをしてあげられることを」


 その不気味なアルカイックスマイルと声音が、後ろ手に扉を閉められた後にも脳にこびりついて離れなかった。


「……クソ。何なんだあの女……今なら通報すりゃ銃刀法違反でしょっぴけるが……」


 凶器の一つを奪われたこと以上に、安斎に対して生理的な不快感を覚えて、石橋はひとり悪態をつく。


 安斎に底知れない恐ろしさを感じた。

 河合に感じるのは目に見えて触れられる恐怖だが、安斎のは底があるかもわからない暗い水の中で、手探りに何かが触れていることだけがわかる恐ろしさだった。


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