「わたし、おかしなこと言いました?」
貰い物の香水を教室でうっかり落とした己斐西は、心身ともに疲れ切っていたらしく、瓶の落ちるリノリウムの派手な音にすら気づいていないようだった。それを安斎が拾い上げて渡したときの絶望に満ちた表情――。
有名なブランドものの香水は、とても高校生の小遣いでは買えない代物だ。パトロンでもいるのだろうとすぐに分かった。そしてそれを悟られまいと、必死に己斐西は安斎に暴言を吐きかけた。
――何考えてるか分からない、不気味……。
己斐西の言葉はどれもすでに自覚済みのことだったから、全く安斎の心には響かなかった。
けれど己斐西のようなタイプは顔が広くて口が軽い。こうも悪意を向けられたままでは、いずれ根も葉もない噂を流されて面倒ごとの種になり得る。
だからあのとき彼女に歩み寄ったのを覚えている。
それに秘密の共有は、相手の心に大きなセキュリティホールを穿つから、やがて役に立つ日が来るはずだ。
「あんときはほんと悪かったって……ウチもビビったんだよ。まあ見つかったのがあんただってのは、不幸中の幸いだったけどさ」
同じように自分たちの出会いの場面を思い出したらしく、己斐西は気まずそうにそう話した。あの頃の敵意むき出しの態度を考えると、ずいぶんと気を許されたものだ。
安斎は立ち上がり、そっと歩み寄って、下から顔を覗き込んで頬に触れた。いきなりのことに己斐西が目を見開く。
「え、近っ何っ!?」
「あの時はここに、くっきりクマができてたんです。コンシーラーもストライキしちゃうくらいに目立つのがね。……夢を追いかけるのってすごいことです。わたしにはそういう情熱? みたいなものが分からないから、素直に尊敬してます。それを叶えるための手段はあなたが決めることだから、どんな手を使ってようとわたしは応援しますよ。だけど……」
身を引き離れようとする己斐西の手を、捕まえるように握って祈るように言い聞かせた。
「お願い、無理はしないで。疲れすぎはあなたの注意力を奪う。今度は秘密がばれるだけじゃなくて、体も心も壊れてしまうかも。これでもわたし、心配してるんです」
真っすぐ目を見つめる。
己斐西は化粧越しにも分かるほど、目の下まで真っ赤になって目をそらした。
一度は握られた手をはがそうとして、結局それをやめ、緩く安斎の手を握り返してきた。
「……っ…………ほんっとさ……よくそーいうこと平気で言えるよね……。マジ……恥ずかしくてキレそうなんだけど……」
「わたし、おかしなこと言いました?」
「だから……あー……もーいい。説明すんのも恥ずいわ……」
俯いて、ああ、と呻くような声を出して己斐西は顔を上げた。
赤い顔のままで握られた手を離し、その手で安斎の頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「大丈夫。もうあんたが心配するようなヘマはしないし、いつまでも続けるわけじゃないし。……ある程度の目途がついたら、しばらくは学業ってやつに専念するよ。学級委員長様として、内申点上げにまい進してやるわ」
「それでこそ己斐西さん。とてもしたたかで輝いてます」
「へへ、そりゃどーも! そんじゃウチ、そろそろ教室戻るわ。あんたも早めに切り上げて戻ってきなよ。遅刻なんかしたら吊るし上げてやんだから」
「そこはルーム長特権でこう……良い感じにごまかしてくれるのでは……」
「そー都合よくいくかっての!」
いたずらっぽくそう笑って、己斐西は教室へ戻っていった。