「今夜は、何もしないで帰ってあげますね」
まずは窓を開けてベランダに出るが、ここは本当に周りの人通りがなかった。玄関と逆方向になれば街灯すら少なく、もう終業時刻をとっくに終えた何かの事務所がぽつんと佇むのみだ。
部屋に戻り、引き出しを開けて通帳を確認する。預金残高はほとんどないに等しい。
桜庭の手を掴んでスマートフォンの指紋ロックを解除し、連絡先が職場関連のみであることを確認した。
壁に掛けてあった状差しを調べる。年賀状は職場関連からのみであり、未開封の封筒をドライヤーで熱して丁寧に開け、給与明細とクレジットカードの明細について確認し、再び糊付けして元に戻した。
自分の端末で桜庭の職場について調べたが、地元の警備会社の下請け業者だった。新人は募集されていない。
最後に、鏡台に備え付けの引き出しを確認する。
何年か前に流行った化粧道具と、ヘアアクセサリーが雑に放り込まれている中に、「退職願」と書かれた封筒を見つけた。封がされていないので中を見る。
日付だけが書かれていない状態で用意された、テンプレート通りの退職届が直筆で綴られていた。
――つまり桜庭は、いつでも仕事を辞める用意があるということだ。
ダイニングに置かれたクッキー缶の箱を開けると、中には処方薬が入っていた。睡眠薬、抗不安薬、胃酸抑制剤……。
一度、玄関から外に出る。
上の階まで行ってみたが入居者は一人だけで、それも不在のようだった。ポストからチラシや封筒がはみ出ていた。
アパートの外周を一周ぐるりと歩いて回る。
店舗はなく、防犯カメラはない。アパートの駐車場を確認した。ポイ捨てされたゴミが多く、土地の管理が雑だと分かった。
十分ほど歩いて国道へ出ると、やっと人通りや街灯、店舗の光が見えてくる。最寄から二番めに近いコンビニでおにぎりと水を買ってから、再び人通りのない道を歩いて桜庭のアパートに帰宅した。
眠る桜庭を横に転がして布団をかけ、再び瞼に触れる。
そして次に、首にも触れた。
とくん、とくん、と太い血管を走る脈拍の感触に背筋が粟立つ――。
手を放し、着ていたパーカーの裾を引っ張った。服の中で、ばしん、と肌を打つ音がした。袖をまくる。手首には幾筋もゴムで弾かれた赤い跡と、ヘアゴムが一本引っかかっている。そのヘアゴムをもう一度強く引っ張って、ぱしん、と肌を打つ。
その痛みに意識を集中させて、興奮を抑え、できるだけ息を細く長く吐いた。
「今夜は、何もしないで帰ってあげますね」
眠る無防備な女の耳元でささやいて、置手紙と頭痛薬のシートから2錠を切り離して、テーブルに置いて部屋を出た。
しばらく歩いて、人のいない公園まで歩いて公衆トイレへ入った。鏡に向かって、ウェーブがかったダークブラウンのウィッグをおもむろに取り去る。
自毛を手櫛で整えて、安斎小蓮はいつも通りのお団子頭をつくった。